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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

帰還パイロットのための自家用飛行機〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-10 | 航空機

今朝、アメリカの息子からスカイプが入りました。
大学では春休みに入り、国内の学生は地元に帰っているのですが、
今教員レベルに出回っている情報によると、国家発令の非常事態を受け、
国内海外を問わず、帰省している学生には

「大学に戻ってこないように」

という告知が出されるかもしれないと。

「授業はどうなるの」

「オンラインでするんだって」

今時のアメリカの大学なのでそのあたりは全く問題なさそうです。

ただ息子のルームメイトは西海岸出身なのですが、オンライン授業になると
時差があるので帰校禁止令が出ても帰ってくると言っているとか。

感覚として、このアメリカでの動きは、きっちり日本の2週間遅れ。
日本だけでなく世界を出先の見えない巨大な不安が
しだいに覆い尽くしていく様子を目の当たりにしている気がします。

 

 

さて、それではテーマに戻りましょう。

ニューヨーク州の北部、グレンヴィル、スケネクタディにある
エンパイア・ステート航空科学博物館。

アメリア・イアハートのロッキードから始まった展示室は、
航空黎明期の気球や空中自転車に始まり、第一次世界大戦の戦闘機
カーティス・プッシャーなど、そして女性飛行家たちの紹介でした。

部屋は隣のハンガーにつながっています。

最初にも触れましたが、この格納庫は1945年の夏頃から
GEがテスト滑走路にするために建造したものです。
ざっとその時から75年経過していますが、格納庫というのは
躯体さえしっかりしていればとりあえず古くても使用に差し支えないので
今日ではESAMのレストア中の航空機を仮置きしたり、
一部で展示するなどといった活用をしているというわけです。

見学者がなぜか翼に超接近しているこの真っ赤な飛行機は

Folland Gnat F.Mk 1 (フォーランド ナット)

イギリスのフォーランド・エアクラフト社が1955年、
制作した戦闘機・練習機のひとつがなぜかここにあります。

この戦闘機の名前があまり知られていないのは、本家のイギリス空軍が
8機だけ試作させておいて結局実戦機では採用しなかったからです。

フォーランドという名前もわたしは今回初めて知ったのですが、
のちにホーカー・シドレーになったと聞いて納得しました。

受注段階ではとにかく小型の戦闘機、というのが目標だったようで、
どれくらいかというと、極限まで軽さを追求した
日本海軍の零式艦上戦闘機が目的だったとかなんとか・・・(噂です)

実際に機体のサイズはほぼ零戦と同じらしいですね。

ちなみに零戦の全幅は後期型で11m、重量は54型で2,150kg、
こちらは翼幅: 6.73 m、重量: 2,175 kg ということなので
同じといってもそれでも少し大きいことになります。

零戦とは違ってジェット世代ですが、音速を超えることはできなかったようです。

現地の説明に書いてあったのですが、イギリス空軍では
重量が不足しすぎて練習機にしか採用しなかったこの機体は
他の国、ことにインド空軍に滅法気に入られ、
インド国内の「ヒンドゥスタン・エアロノティックス」という会社に
ライセンス生産までさせて調達したということです。

どうしてインド軍がやっきになってこれを取得したかというと、
ちょうどこの頃インドはパキスタンとの間で
第一次印パ戦争(1947−1949)に続く紛争、

中印戦争(1959ー1962)

に突入していたからです。

我々日本人にはピンときませんが、実は
インドとパキスタンというのはとにかく仲が悪いらしいですね。

隣り合った国同士で仲の良い例はない、といいますが、
両国はイギリスから分離独立した途端、カシミール地方の領有を巡り
武力衝突を繰り返しているのです。

で、この中国との戦争ですが、インドがソ連を支援しており、
印パ戦争では中共がパキスタンを支援したために起こりました。
まあ、いわばパキスタンの代理という感じです。

両者の緊張は全く解決の糸口を見せず、去年もパキスタン軍が
自国領内でインド空軍機2機を撃墜したりしています。


ところで、日本国内にあるインド料理店って、ほとんどが
パキスタン人がやっているって聞いたことがあります。
日本はインドとは大変有効な関係だと思うのですが、
日本国内でインド人とパキスタン人ってどうやって付き合ってるのかな。

ここにある赤いフォーランド・ナットは、おそらく練習機として
ホーカー・シドレーが制作、イギリス空軍が採用し、戦技チームである

「レッドアロー」

が13年使用していたバージョンではないかと思われます。

Folland Gnat

ちょっとノーズがT-4のドルフィンに似ている気がします。

 

モノプレーン(単葉)の飛行機です。
この由来についてはここESAMにこれがやってきたときの
航空マガジンの記事のようなものが現地にありました。

「The Huntington Chum」(ザ・ハンティントン・チャム)

と名付けられた飛行機は、1995年、ESAMに到着しました。
たった2機だけ制作されたうちの1機で、

なんでも1931年のある航空ダイジェストには、一面記事で
この飛行機が1750ドルで売られていたそうです。

このタイプの飛行機はすぐに市場から姿を消しましたが、
これだけは残って、1980年に持ち主が整備をして
49年ぶりに空を飛ぶことができたということですが、
その持ち主は、自分の死ぬ前に機体をESAMに寄付しました。

こちらも個人使用型の飛行機で、

Mooney M-18 Mite

"mite" というのはダニという意味もあるのですが、そちらではなく、
「小さい子供」とか「小さなもの」という意味だと思います。

格納式の三輪着陸装置を備えた、低翼の単葉機です。
製造会社は「ムーニー・エアクラフトカンパニー」、
デザイナーは同社オーナーのアル・ムーニー。
初飛行は1947年で、1954年まで283機生産されました。

生産が始まったのが第二次世界大戦終戦2年後からですが、
ムーニーは、戦地から帰ってきた戦闘機パイロットが乗るために
これを企画したといわれています。

同じ戦後でも日本との違いに改めてしみじみとしてしまうのですが、
敗戦した日本が、戦闘機に乗っていたという帰還兵に対して、
「特攻崩れ」とか死に損ないとか戦犯とか、とにかく負けた鬱憤を
戦争に行った人たちにぶつけていた頃、アメリカでは、
戦闘機に乗ってバリバリ戦って戦争が終わり生きて帰ってきて、
かつての空を飛ぶ快感を平和な世に味わってみたい、と懐かしむ人向けに
個人飛行機が販売されていたってんですからね。

そういう立場になったことがないので想像するだけですが、
自分が操縦して空を飛ぶという経験をしたもののほとんどは
そこから「足が洗えない」くらい魅入られてしまうようです。

もう一度軍に入る気はないが、空を飛んでみたい、自分の操縦で、
という一般人のために、コストはできるだけ押さえて販売されました。

この機体には「Holland Farms」とマークが入っていますが、
これはおそらくここのことじゃないかと思うんだ。

Histry of Holland Farms

操縦席の下に入っている

「ジョン・ピアスマ パイオニアパイロット
オリスカニー・ニューヨーク」

という名前を検索したところ、ホランドファームは彼の家業で、
飛行機のインストラクター、検査官でもあったそうです。

ちなみにHPをのぞいてみましたが、砂糖の塊のようなジェリーバンズ、
白黒のとにかく甘そうなクッキー、従業員全てが糖分とり過ぎ体型、
これぞアメリカのベーカリー!という感じでした。

ちなみに縦に吊られている青と黄色の飛行機は、

 Fisher FP-303

というカナダ製のキット飛行機(ホームビルト)。
1980年代に200機ほど生産されて民間に流通していました。

Kantor Strat M-21 (NX74106)カントー・ストラト

「ロシア生まれのエンジニア、ミーシャ・ストラトが設計制作した
モノプレーンで、1949年に初飛行をしました」

「彼がメッサーシュミットでの訓練の影響を受けたのは明らか」

とある見学者が書いているのですが「ストラトエアクラフト社」は
コネチカットのストラトフォードにあるからこの名前になったと考えられ、
さらにミーシャ何某の名前も出てきませんでした。

というか、ストラトフォードを通り過ぎたとき、航空会社を見ましたが
それは「シコルスキー」という名前だった記憶が・・・。

この情報で正しいのは名前と初飛行年月日だけかもしれません。

  Aeronca 65 TC

これを特定するのに結構時間がかかってしまったのですが、
もっとも似た機体があったので

アーロンカL-3 (Glasshopper )

の派生型の「Chief 」だと判断しました。
1941年ごろからアメリカ陸軍が連絡用として開発していたもので、
日米開戦後は、第一次世界大戦における観測気球の役割を負いました。

それにしてもこの独特なノーズの形。
「グラスホッパー(バッタ)」とはよく名付けたものだと思います。

軍での使用以外にも民間で練習機として大変人気があったそうです。

現在修復中でどこにも名前が見つからなかった機体。
小型旅客機のようですが、正体は分からず。

この上にある白いグライダーは、

Rensselear RP-1(レンセラー)

といいます。
レンセラー工科大学は日本では有名ではありませんが、ニューヨーク州にある
全米最古の工科大学で、アメリカ人にはRPIといえば通る名門です。

STEMに教育に特化しており、卒業生の企業への就職率の高さ、
またそこで得る卒業生の平均年収の高さでは全米でもトップ10に入るとか。

ここにあるのは低翼、一人乗りの足で起動するグライダーですが、
NASAが一部資金を提供し、同大学が制作したモデルです。

航空機の重量はわずか53キロ、着陸装置はメインのスキッド、
テールにあるスキッド(車が見える)によって構成されています。

 

近くに寄ってみることもできたようですが、

航空エンジンを展示しているコーナー。
手前のエンジンは、

Ranger 6-440 C-2

といいニューヨーク州のフェアチャイルドエンジン、
エアプレーンコーポレーションのレンジャーエアクラフトエンジン事業部
が生産した6気筒直列反転空冷航空エンジンです。


主に1930年代半ばにフェアチャイルドの訓練機向けに製造されました。

ハンガーの中はこんな状態。
手前にバリケードのようにものが積んであって、
その向こうには立ち入ることができないようにしてあります。

それにしても、この汚さにはびっくりです。
仮にも航空博物館と名乗って一部に人を入れているのに、
こんな恥ずかしい状態を人目に晒すというのは
どうも我々日本人には理解し難い感覚といえましょう。

掃除する人手もないのだと思いますが、それにしても・・・・。

あー、一番向こうにある飛行機、なんだろう。
近くまで行って見てみたい・・・。

 

続く。

 

 


気球からF-16まで・アメリカの女性飛行家たち〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-07 | 航空機

エンパイアステート航空科学博物館の展示をご紹介しています。

航空黎明期の気球の資料を案内するコーナーには
「コントロールイズエブリシング」(制御が全て)
としてこのような展示がありました。

まず一番左のロープについては「ドラッグロープ」(引綱)として
以下の説明があります。

引綱は初期において気球の自動操縦の一つの形態と見做されることがあります。
長時間の飛行で低空の場合、安全な高さをキープしていることを
確かめながらバラストやガスの排出が行われているか確かめるため、
航空士の訓練にしばしば長いロープが使用されていた時代がありました。

気球から垂らしたロープの一部が地面にあるときは普通にこのシステムは働き、
気球が浮きすぎても空中のロープの重量によりうまく沈んでくれます。

これはなかなか良いシステムで水上ではうまく機能しましたが、
陸上ではご想像の通りロープが何かしら物体に巻き込まれることもありました。

その右は「錨」(The Anchhor)です。

気球の着陸は飛行で最も危険な瞬間です。
無風、微風では難なく気球を着陸させることができましたが、
風速20mphもあると、気球と籠はその影響をもろに受けることになります。
着地の瞬間籠の前方への動きは一時的に停止しますが、
ガスバッグは放り出され続け、バルーンが収縮するまで引きずられます。

これを解決するにはどうしたらいいでしょうか。

前進を止めるには牽引したフックが引っかかればいいのですが、
その際フックは籠ではなくガスバッグを囲むネットに
結び付けられていると有効であるとされました。

そしてその横のゴンドラに乗ったロングスカートの女性です。

彼女の名はメアリー・ブリード・マイヤーズ(1849ー1932)
プロの気球乗りで、

「レディ・エアロノー・カルロッタ」

として知られていました。

気球そのものが珍しかった時代、女性の航空のパイオニアとして
気球で単独飛行を行い、多くの記録を樹立しました。

写真には彼女が当時のメディアに

「The Intrepid Lady 」(勇敢な淑女)

と讃えられたということが書かれています。

彼女は夫と共に旅客用の気球を製造販売するビジネスを営んでいました。
彼らは自社製品に搭載した空中ナビゲーションでいくつかの特許を取り、
各地で展示デモを行うことで宣伝を行っていたのです。

日本でもどこぞのホテルチェーンでは嫁が宣伝をして有名ですが、
実はこの「女流バルーニスト」はあの女社長のように、いわば
イメージガールの役割を演じていただけで、彼女の栄光のほとんどは、
この夫のカール・エドガー・マイヤース(1842−1925)
の実力のおかげといってもよかったようです。

ドイツ系のマイヤースは小さい頃から発明に没頭し、独学で
科学的原理を学び、趣味の発明でベンチャー企業家となりました。

配達代理店、請求書収集家、銀行員、大工、化学者、電気技師、
ガスフィッター、整備士、写真家、配管工、プリンター、電信士、
そして作家と、名乗った肩書は数知れず。

銀行で働いていた時には偽札に興味を持ち、研究して偽造技術を学び、
偽造貨幣の鑑定の専門家になったりしています(笑)
この鑑定方法は現在の鑑定手法の基礎になっていると言いますからすごいですね。

写真ギャラリーを経営していた25歳の時にメアリーと出会い、
結婚してから、彼は水素ガスと気球に俄然興味を持ち、
嫁を助手にして研究、製造そして販売を一気に開始しました。

気球に水素ガスを用いることを最初に実施したのは何を隠そう彼らです。
気球の布素材の研究、水素ガス製造装置の開発によって、
マイヤーズは

「フライング・ダッチマン」

というあだ名で呼ばれていたそうです。
彼はドイツ系でありダッチとは何の関係もなかったのですが。

そのうち彼は空中散歩のできる飛行船『スカイサイクル』を開発し、
それを嫁に操縦させて、一気に有名になりました。

嫁、空中散歩中。

彼女は操縦可能な飛行船に乗った最初の女性となり、
「カルロッタ」の名前で有名になりました。

ところで、当ブログとしてはマイヤースと軍の関係にも触れておこうと思います。

マイヤーズはヨーロッパの気球技術が米国よりもはるかに進んでいて、
欧州のいずれかの国がもしその気になれば、ニューヨーク、
または米国北東部の主要都市を全滅させることができると主張していました。

彼は次の戦争は空が舞台になると予言していたのです。
(予言は当たることになりますが、主役は気球ではありませんでした)

マイヤーズは、欧州の主要国が全て秘密裏に航空機器を
兵器に用いるために研究をしているとした上で、政府にこれを認識し、
この潜在的な脅威に対して適切に準備するよう奨励していました。 

そして、これを迎え撃つための発明に取り組んでいることを強調したのですが、
メディアは彼を「ジンゴイスト」(自国の国益を保護するためには
他国に対し高圧的・強圧的態度を採り脅迫や武力行使を行なうこと(=戦争)
も厭わないとする極端なナショナリスト)だと非難の論調だったということです。

1902年、彼は海軍の軍事演習のため11個の水素気球を作りました。
10個は偵察目的、 111番目の大型気球は乗員2名、観測機器を搭載し、
敵軍艦を監視する高高度観測プラットフォームとして信号隊によって使用されました。

この気球は、海軍船につながれて持ち運ばれ、これを用いて
敵の情報を収集し、これを陸軍に伝えることができました。 

のみならずマイヤーズは、敵艦隊、要塞、または軍隊を破壊するための
「戦争船」を作ることできると主張していました。
彼は、もし国家からその資金が提供されるなら、それが地球を支配すると予測しました。 

つまりこういうものですね。
飛行船が魚雷を投下しているの想像図。

マイヤーズの予想は、1903年にライト兄弟が発明した動力付きの
飛行機によって、空想のままに終わることになりました。

気球そのものを武器として敵の爆破を曲がりなりにも行ったのは
彼の国ではなく、東洋の敵国日本だったというのは
彼にとって何とも笑えない皮肉という気がしますが、
幸い彼も妻のカルロッタも、それを知らずに亡くなりました。

さて、次のコーナーにあったこの女性は、
映画脚本作家でもあった女性パイロット、

ハリエット・クインビー(Harriet Quimby)1875−1912

で、彼女はドーバー海峡を横断した最初の女性となりました。

ちょっとこの絵では彼女の魅力が伝わりにくいので(失礼)
写真を挙げておきますと、

おお、なかなかの別嬪さんでいらっしゃる。

彼女は企業のイメージガールをしたこともありますし、
サンフランシスコでジャーナリストをしていたり、
劇評家であり映画脚本も書くなどの才女でしたが、
その映画に自分も女優として出演しています。

彼女の飛行家としてのスタイルは、常に女性らしさを強調したもので、
そのため、大衆からは大変人気があったということです。

カナダのフランス系飛行家ジョン・モアザン(モアソン?)
親しくなったことから、彼の飛行クラブでライセンスを取り、
最初にパイロットライセンスを得たアメリカ女性となりました。

わたしは、過去このシリーズを当ブログで取り上げてきて、
『最初に免許を取ったアメリカ人女性』について何回も書いた気がするのですが、
免許を最初にとった女性は何人もいても(笑)
最初にドーバー海峡を横断したのは彼女だとはっきりしています。

ただ、彼女にとって不幸だったのは、
挑戦が
1912年の4月16日だったことでした。

その前日の4月15日、世界最大の客船タイタニック号が沈没したため、
彼女の快挙は誰にも顧みられることはなかったのです。

そして、そのわずか2ヶ月半後の7月1日、彼女はボストンで行われた
航空大会で
300m上空を飛行中、機体がピッチングを起こし、
240mの高さから同乗者と共に空中に投げ出され、死亡しています。

享年37歳。合掌。

この写真、見覚えありませんか?
そう、当ブログでも「お転婆令嬢」として紹介した

ブランシュ・スチュアート・スコット(1885-1970)

じゃーありませんか。
自分の記事を探し出して読んでみたら面白かったので、
これも再掲しておきます。

女流パイロット列伝〜空飛ぶトムボーイ

なんてこった、この人も当ブログで取り上げたことがありますよ。

おそらくその日この博物館を訪れた客で、彼女らの名前を知っていたのは
米人外国人含め、わたしだけだったんじゃないかって気がします。

エリノア・スミス(1911−2010)

展示ではまだ生きていることになっていますが、彼女は
99歳没と長生きだったので、同年代の彼女のライバル、

ボビ・トラウト(1906-2003 )

と、「まるでこの世の滞空時間を競っているようだ」
ということを締めに、彼女らの関係性を語ってみました。

ボビとエリノア「プレーンクレイジーとフライングフラッパー」

サンビームガールズ

このときにもお話しした、エリノア・スミスの

「ブルックリンブリッジ始めニューヨークの4つの橋の下を飛ぶ」

というチャレンジの絵が描かれていますね。

ノーマ・パーソンズ 州兵中佐

1956年8月1日、空軍第106戦術病院で看護師の資格を取った彼女は、
エア・ナショナルガードに加わりました。

ニューヨーク議会が、看護その他の医療分野で働く場合にのみ、
女性が士官として州兵軍に参加することを認める公法845を制定したのは
その二日前のことで、彼女は初めての女性州兵士官となったのです。

空軍に入隊する前、パーソンズ中佐は、中国-ビルマ-インドで
陸軍と空軍に勤務し、また朝鮮戦争が始まると、
韓国空軍の看護師として勤務していたということです。

で、どうして航空科学博物館でパイロットでもない彼女が
紹介されているのかといいますと、若干こじつけっぽいのですが、
空軍の看護師として、彼女の「飛行時間」が3,000時間を超えたからだとか。

彼女との関連でこれも航空博物館とは関係ありませんが、
1941年から終戦まで存在した

 United States Women's Army Corps 

のポスターが貼ってありました。
この行進は、USWAC創設3周年記念に、パリのシャンゼリゼで
1945年5月14日、無名兵士の墓に敬意を表して行われたものです。

「無名兵士の墓」は、第一次世界大戦で死んだ身元不明のひとりの兵士を
戦死した全ての兵士の象徴として凱旋門の直下に葬り、
祖国フランスのために命を捧げた人々の共通の記念碑としています。

その流れで、ここには「女流飛行家紹介コーナー」がありました。
言わずもがなのアメリア・イアハート、そして、
ここで何度もご紹介している

ジャクリーン・コクラン(1906-1980)

彼女の履歴は、ここにあるような上っ面だけのものではなく、
自分で言うのも何ですが、その出自から語った当ブログの方が
よくお分かりになると思います。

ジャクリーン・コクラン「レディ・マッハ・バスター」

 

3人とも当ブログで取上げ済みです。

キャサリン・チャン「Great Expectations」

ベッシー・コールマン「ブラック・ウィングス」

ルイーズ・セイデン「タイトル・コレクター」

こちらは宇宙飛行士の女性3人。

サリー・クリステン・ライド(1951−2012)

1983年女性としては初のスペースシャトル乗組員に、そして
テレシコワ、サビツカヤに次ぐ3人目の女性宇宙飛行士になりました。
米国人女性としても初の宇宙飛行士であります。

シャノン・マチルダ・ウェルズ・ルシッド (1943ー)

アメリカの生化学者であり、NASAの 宇宙飛行士。
アメリカ人だけでなく女性による宇宙での最長滞在期間の記録保持者です。

1996年のミール宇宙ステーションでの長期ミッションを含め、
彼女は5回宇宙飛行を行っています。
科学者としても実績を持ち、2002年、 Discover誌は
彼女を科学分野で最も重要な50人の女性の1人として認めました。 

ニコール・マーガレット・エリングウッド・マラホフスキ(1974ー)

 元アメリカ空軍将校であり、「サンダーバーズ」として知られている
USAF航空デモ隊のメンバーに選ばれた最初の女性パイロットです。

彼女のコールサインは「FiFi」
デビューは2006年、彼女はダイヤモンドフォーメーションの
第3ウィングを機を務めました。

CNN - Nicole Malachowski

航空自衛隊のブルー・インパルスに女性飛行士が加わる日は
来るのだろうか、とふと考えました。

オフィスの壁には第二次世界大戦時の「公債を書いましょう」
とか、戦意高揚ポスターが貼ってあります。

ここスケネクタディ空港が戦争中稼働していた頃、
男性が戦地に出てしまって、女性がかつての男性の仕事、
航空管制や見張りなどを行うようになりました。

 

この事務所の屋根から顔だけ出して見張りを行っていたようです。

 

続く。

 

 

 


帝国陸軍気球部隊〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-04 | 航空機

ニューヨーク北部グレンヴィルにあるスケネクタディ空港、
その一角にある航空博物館、
「エンパイアステート航空科学博物館」ESAMの展示物を
ご紹介しています。

まず冒頭の写真は、

Curtis Model D Curtis Pusher

通称カーティス・プッシャーと言われる初期の動力飛行機です。
この名前には当ブログ的にめっぽう聞き覚えがあるわけですが、
それもそのはず、

「最初に飛行機で甲板から飛び立ち、最初に甲板に降りた男」

として何度かここで紹介した、

ユージーン・バートン・イーリー(1886-1911)

はこのカーティス・プッシャーに乗っていたからです。
しかし、昔わたしが彼について書いたときには
日本語で彼について言及した資料が一切なく、
彼の名前「Ely」をどう読むのか(エリーかイーリーか)
あちこち調べなくてはいけなかったものですが、
あれから時がたち、いつのまにか日本語のwikiができていました。
いやめでたい。

当ブログでは、彼の海軍でのテスト飛行における栄光と死を

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始

として紹介しました。
しかし、こうやって実物を見ると、こんな布と竹で作った飛行機で
よくも甲板への離着艦などやろうと思ったものだと、
その無謀さにはつくづく感心してしまいます。

イーリーはこんなものを操縦して曲芸飛行もやっていたと言いますから、
怖いもの知らずというか文字通りの飛行馬鹿だったのでしょう。
もちろん、何人もの飛行馬鹿のおかげで、飛行機は
短期間に凄まじい発達を遂げ、今日の姿があるわけですが。

イーリーは民間人でしたが、海軍軍人として初めて空を飛び、
ついでにイーリーと同じく空で死んだ

”スパッズ”・セオドア・ゴードン・エリソン中尉

も、このカーティス・プッシャーに乗っていました。

天空に投錨せよ〜アメリカ海軍航空隊事始その2

もう一つついでに蘊蓄話を書き加えておきますと、
日本の航空史において最初に国内の航空機事故で亡くなった人も
このカーティス・プッシャーに乗っていました。

武石浩玻(たけいし・こうは)1884-1913

アメリカに渡り、職業を転々としながら放浪を続け、
イェール大学に入学するも中退。
現地で行われた国際飛行大会でフランスの飛行家
ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志しました。

グレン・カーチスが経営する飛行学校で操縦資格を得て
ここでもお話ししたことがある滋野清武近藤元久に次ぐ、
日本の民間人として三番目の飛行家となりました。

1913年(大正2年)現地で購入・改造した飛行機と共に日本に帰国し、
愛機で兵庫県の鳴尾競馬場から京都への都市間連絡飛行に挑み、
久邇宮邦彦王をはじめ数万人が注視する中で深草練兵場への着陸に失敗。

享年28。合掌。

ちなみに同門だった近藤元久はその前年度の1912年、
彼に先駆けてアメリカで航空事故死し、
「最初の航空事故で亡くなった日本人」
の称号を得ることになりました。

1910年の「パイオニア時代」の飛行機のモックアップには
なんと実際に腰掛けてみることができます。
往年の飛行機の操縦席を体験してもらうために、わざわざ
博物館が模型を作ったようですね。

このカラフルでポップな色使い、コロンとした可愛い機体、
遊園地の飛行機型ライドでしょうか。

と思ったら、これには

13 Link Trainer (リンク・トレーナー)

という立派な名前がついていました。
リンクというのは会社の名前で、トレーナー、つまり
これは飛行士養成用のフライトシュミレーターであると。

「ブルーボックス」"Blue box"とか「パイロットトレーナー」"Pilot Trainer"
とも呼ばれていたようで、開発したのはエドウィン・リンクという人。

1929年に技術が発明されてのち、このシミュレータは、
第二次世界大戦中のあらゆる参戦国のほぼ全てが
パイロットの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用しました。

リンクはもともとオルガンとジュークボックスを作っていた人です。
それらに必要なポンプ、バルブ、ふいごに関する知識を利用して、
パイロットの操縦に反応し、装着された計器を正確に読み取るという仕組みの
フライトシミュレータを思いついたというわけです。

50万人以上のアメリカ合衆国のパイロットがこれでで訓練を受け、
オーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリス、イスラエル、
そして日本、パキスタン、ソ連へとこの仕組みは伝播しました。

日本ではフライトシミュレータメーカーの東京航空計器(現TKK)
ライセンスを受けて製造を始め、最初の推定製造数は40 - 50機。

戦時中は陸軍、海軍に「地上演習機」として納入しました。
海軍予科練では「ハトポッポ」と可愛らしい名前で呼ばれていたようです。

戦後同社は1970年まで陸海空自衛隊、航空局、航空大学校に納入していました。

ちなみに御本家のリンク・フライトトレーナーはアメリカ機械工学会により
歴史的機械技術遺産(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に選定され、
現在はL-3 コミュニケーションズ社の一部となり、
宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

L-3って、リーマンブラザーズのことらしいんですが、リーマンが倒産しても
この名前は変えてないようですね。

ここで唐突に現れる南極観測隊シリーズ。
NYANG Ski-doo というスノーモービルの製造会社は
今でもバリバリのスノーモービルメーカーです。

なぜ航空科学博物館にこのようなコーナーがあるかというと、
何かのつてでこのスノーモービルが寄付されたからじゃないでしょうか。

氷を模した壁まで作って本格的です。
この人たちは今から家を作るんじゃないかな。

ここに、「知っていましたか?」としてこんな説明がありました。

●南極のドライバレーでは100年以上雪が降ったことがない

●南極の氷のマントルの大部分は水の下にあるが 
南極の氷と雪の大部分の下には土地がある

●大陸分裂前、緑豊かな植生と先史時代の動物が南極大陸に存在していた

●南極のマウント・エレバスは活火山である

●南極には海の魚を食べるペンギンを除き動物はいない

●氷河は氷が十分に厚ければこれを遡ることができる

●南極の氷は一年に30フィートずつ南アメリカの方向に動いていっている

●南極は隕石を発見するのに最適の場所である

●ペンギンは海の水を真水に変えることのできる臓器を眼の上部に持っている

すべてわたしの知らないことばかりでした。
なぜ航空科学博物館でこの展示を?という気もしますが、
この部分を持って「科学」のパートということにしているのかと。

 

アメリカの南極観測隊が滞在するのはマクマード基地です。

1956年にアメリカ海軍が設営したもので、現在は
アメリカ国立科学財団南極プログラム(USAP)が保有し、
レイセオン・ポーラー・サービス社によって運営されており、
南極点にあるアムンゼン・スコット基地への補給中継点となっています。

レイセオンというのは、もちろんあの武器会社の関連企業です。

さすがはアメリカの施設だけあって、マクマード基地の規模は南極でも最大。
建物は100以上あり、夏季1000人、冬季200人の駐在員を収容します。
海側にあって港を備えているほか、3本の滑走路があります。

中心となるのは鉱山技師たる科学者ですが、彼らをサポートするために
アメリカではあらゆる職種の駐在員が送り込まれています。
調理人はもちろん、床屋や掃除人、運転手も専門職ですし、
新聞記者やジャーナリストなどのメディアも駐在します。

写真のパラシュートは、上空から物資を調達するためのもののようです。

この一室には航空黎明時代、第一次世界大戦時の航空、
そしてアメリア・イアハートを中心とした女性飛行家、
そしてなぜか南極探検コーナーがあるわけですが、
その黎明期時代のジオラマがケースの中にありました。

説明の写真を撮るのを忘れたのですが、これは
気球にガスを注入している作業の様子を表しています。

南北戦争のときに気球隊を創立したタデウス・ロウは
軍事用気球のために携帯用の水素ガス発生器を開発させました。

馬で息せき切って駆けつけている人がいるのですが、
伝令が何か戦況をもたらしにきたのかもしれません。

こちらは陸軍の気球部隊。
そのころの格納庫というのは気球を安置するため、こんな縦長で、
しかも天井から吊り下げていたということを初めて知りました。

ヨーロッパでの気球航空部隊について書いたことがありますが、
日本にも「気球連隊」と言われる陸軍部隊があったそうです。

ほえええこんなかっこ悪いものを・・・。
しかし当時から日本の航空識別マークはこれだったんですな。

日本陸軍でも倉庫は呆れるほど背が高いですね。

日本で最初に軍用気球が飛ばされたのは、1877年(明治10年)、
西南戦争でのことで、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に投入するため
実験を行ったときのことですが、実戦には間に合いませんでした。


1904年(明治37年)、日露戦争の際には戦況偵察の目的で
旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に役立ったので、その後陸軍は
気球隊を創設したという流れです。

1937年(昭和12年)には南京攻略戦に参加。
その後タイ、仏印、シンガポール作戦にも使われましたが、
航空機にその存在意義を奪われていたところ、終戦間際に
アメリカ本土を攻撃するための風船爆弾の計画が持ちあがり、
気球聯隊を母体とした『ふ』号作戦気球部隊が編制されたのでした。

いわゆる風船爆弾です。

 

人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、
茨城、千葉、福島から1944年11月から半年の間に
約9300個の風船爆弾を太平洋に向けて放っています。

そのうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、
アメリカの記録では285発とされています。

戦果といっていいのか、ピクニックに来ていて、木にひっかかった
風船爆弾の不発弾に寄せばいいのに触れたため、爆死した
オレゴン州の民間人6人だけが、風船爆弾による被害者となりました。

ただし、日本軍の方も実質的な戦果を期待したものではなく、
目的は心理的な撹乱効果を起こし、パニックを起こすためであった、
というのが本当のところです。

アメリカ軍は日本側の意図を読み、パニックの伝播を恐れて
徹底した報道管制を布き、
被害を隠蔽したため、
この「戦果」が日本に伝わることもありませんでした。

風船爆弾のせいで起こった山火事や停電なども実際にはあったらしいのですが、
あまりにも厳重に秘匿されたため、日本はもちろんアメリカ人の間にも
その存在すら知られていなかったということです。

第一次世界大戦時、陸軍の気球隊の目的は偵察でした。
航空隊司令部の隷下にあったとはいえ、気球のサービスは
編成された企業によって運営されていたということです。

ここに登場する人々は全員が陸軍の軍人に見えるのですが、
ということは彼らは軍属のような立場だったのでしょうか。

それにしてもこの手前に立っている人が斜めなのが気になります(笑)

 

続く。

 

 


ニューポール17と第一次世界大戦〜エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-03 | 航空機

ニューヨークの超郊外、グレンヴィルというのは風光明媚な田舎です。
わたしたちはここに行ったとき、小さなモールに隣接した
それは立派な建物の一階にある良さそうなレストランに行ったのですが、
その建物は医療機関付きの高級老人ホームでした。

建物の一階には高級品を扱うちょっとしたブティックや販売店があり、
なんと驚くことに画廊が入っていたりするのです。

はたしてこのレストランに入ってみると、周りは老人と
彼らに会いにきたらしい家族ばかりでした。

「面会に来た家族と食事をするためのレストランなんだね」

わたしたちが客層を見てヒソヒソ話をしていたのですが、そのうち
隣のテーブルに座った中年男性が、その母親らしい女性に対し、
実にぶっきらぼうな態度、子供を叱るような口調なのに気がつきました。

男性はアメリカ人らしくショートパンツというラフな格好をしていましたが、
眼鏡をかけてみるからに高学歴な雰囲気を漂わせており、こんな高級施設に
親を預けるくらいですので多分富裕層でもあるのでしょう。

しかし、歳をとって不明瞭なことを喋る母親に対する苛立ちを隠そうともせず、
ぞんざいな態度で接しているのが外国人の我々にもわかりました。

わたしはまず、アメリカ人にも人前でこんな態度を見せる人がいるのに驚き、
自分の学歴や今日の地位、経済力なども、その目の前の母親が
一生懸命彼を育ててきたからこそ形成されたはずなのに、
そのことに対しては何の感謝もないかのように思える彼の態度に
他人事ながらうっすらと不快にすらなったものです。

こんな至れり尽くせりの施設に預け、自分一人だけでとはいえ、
週末に面会に来ているからには、彼なりに母親を愛しているのでしょうけど。

 

話がいきなり脱線しました。
ESAMの説明に戻りましょう。

イアハートのロッキードの向かいには、

Nieuport (ニューポール)17C.1 

があります。

ニューポール(Nieuport)はフランスの航空機会社で、
第一次世界大戦や戦間期の戦闘機を製造したことで知られています。


1902年にニューポール・デュプレ(Nieuport-Duplex)として
ニューポール兄弟により創設され、自動車用電装品の製造を始め、
その後航空機の分野にも乗り出しました。

ちなみにこのニューポール兄弟は、どちらも飛行機事故で亡くなっています。

のちに設計者となったギュスターヴ・ドラージュは「10」を製作し、
第一次世界大戦が始まると、これをフランス陸軍などに売り込みました。

その後、イギリス海軍航空隊が購入し、その有用性が証明されると、
フランス海軍やロシア帝国軍も納入を始めます。

詳しいスペックと歴史などが書かれたノートも置いてあります。
ニューポール社によって開発製作された、いわゆる一葉半タイプの複葉機で、
従来の11タイプよりもエンジンが強力で翼も大きくなっていました。

すごくリアルな搭乗員のマネキン。
翼の上に置いた地図を見て、作戦を確認しているようです。

1916年に配備が始まり、これまでフランス軍が配備していた
11型に置き換えられました。
イギリス戦闘機よりも優れていたため、イギリスの陸軍航空隊、
海軍航空隊からも発注を受けたということです。

この年、フランス航空部隊の戦闘機隊がすべて、
一斉にこの一種類の飛行機を使用していました。

また、敵側のドイツ軍も、鹵獲したニューポール17の機体を
国内の航空機製造会社(ジーメンス)にコピーさせたこともあります。
ただし、これは西部戦線に投入されることはありませんでした。

ところが、これだけヨーロッパ中に普及したニューポール17、
大変残念なことに、機体に設計上の問題がありました。

傑出した運動性と優れた上昇率を誇ったものの、一方
その「セスキプラン」と称する特徴的な一葉半の主翼の下翼は
単桁構造のため大変脆弱で、このためその機体はしばしば

飛行中に分解する

ことががあったというのです。

この壁に描かれた飛行機がどんな事情で落ちたかわかりませんが、
いずれにしてもこの頃の飛行機の安全性は大変低く、
搭乗員はほとんどが初陣で戦死するか、長生きしたとしても
せいぜい何週間かのうちに事故で亡くなったと言われています。

負傷したパイロットを女性の看護師が手当てしています。

第一次世界大戦の時には日本国内で志望者が募られ、その結果
実際に看護「婦」を派遣されたという記録が残っているそうです。
どんな活動をしたかが全く伝えられていないのは残念ですね。

 

また、壁画の手前の犬と一緒にいるライオンの絵をご覧ください。

映画「フライボーイズ」でも描かれていたように、
アメリカ陸軍航空隊から参戦したフランス系アメリカ人の、

ラオール・ラフベリー少佐(1885−1918)

が、ラファイエット航空隊でライオンをペットにしていたのは有名な話です。
ちなみにペットの名前は「ウィスキー」と「ソーダ」だったとか。

ペットを飼うと映画的にはフラグである、という法則の通り?
ラフベリー少佐は17機を撃墜したエースでしたが、1918年、
飛来したドイツ機をニューポール28で迎撃した際被弾し、
燃える機体から飛び降りて戦死しています。

翼にイギリス空軍の国籍マーク、ラウンデルが見えます。

国籍マークは国旗の色を使うところが多いですが、
イギリスは仲の悪い(笑)フランスと国旗の色が同じなので、
同じデザインで赤と青を入れ替えて使っています。

ちなみにドイツ軍は鉄十字を国籍マークとして使っています。
ナチスドイツ時代にもこのマークは普通に使われていたのですが、
どこかの国は、日本の旭日旗には文句をつけるのに、
こちらには一向に何も言わないのは不公平だと思います。

 

さて、ライト兄弟が初の動力飛行を成功させたのが1903年。
2時間以上の滞空飛行に成功したのが1908年。
同年、アメリカ陸軍が飛行機の導入を決め、1911年には
イタリアとオスマン帝国間の戦争で史上初めて
航空機が偵察=戦争に投入されました。

翌年1912年にはイギリス軍が航空機に機銃を積むことを考え出し、
翌年にはメキシコ革命軍が世界初の航空爆撃を行いました。

第一次世界大戦は、国と国との間の戦争で初めて
航空機による戦闘が行われることになったのですが、これは、

なんと人が動力飛行で空を飛び出してからわずか13年後なのです。

現在の13年は、テクノロジーの発達に十分すぎる時間ですが、
この頃はまだまだ人命の犠牲の上に技術の発達を負う側面が強く、
そのため、有名な飛行家の多くが栄光と引き換えに命を落としました。

そんな危険を承知で、人類が登場したばかりの航空機を
戦争に投入し始めたのが、ちょうどこの頃だったのです。

この頃のパイロットの平均寿命は17日と言う説もあれば、
イギリス空軍では配属後2週間で死亡は間違いなしと言われ、
経験の浅いパイロットのそれは11日とされていました。

 

ここに掲示していあるニューポールはイギリス空軍仕様であることから、
ニューポール17の翼の上に設置してあるのはルイス機銃だと思われます。

複葉機の銃はこのように翼の上に設置されて、操縦席から
操作することができるような仕様になっていました。

この架台は「フォスター銃架(マウンティング)」と呼ばれるもので、
イギリス陸軍航空隊のフォスター軍曹が1616年に考案しました。
写真に見られるケーブルは銃の発射を操作するものです。

しかし当時のパイロットというのは、空中で戦闘を行うために、
この超不安定でいつ空中分解してもおかしくない未開の機体を
制御した上で、手動で銃の狙いをつけて撃ち、それを当てた上、
自分は相手の攻撃を避けて初めて生き残っていられたんですね。

そりゃ平均寿命が11日でも無理ないですわ。
だいたい、ほとんどが実戦では初陣で戦死したそうですから。

 

そしてこの謎の槍(笑)

現場で見た時も帰ってきてからもこの正体がわからなかったのですが、
この先代ニューポール11を見て気がつきました。

翼の支柱に槍が・・・。
これは、

ル・プリエールロケット(Le Prieur crocket)

という空対空焼夷ロケット弾で、飛行船や気球を攻撃する武器です。

金属製の弾頭には黒色火薬200gが充填されており、
空気抵抗軽減のために先端部には三角錐のコーンが被せられていました。

パイロットが掴んで投げるのかと思ったのですが、もちろんそうではなく、
コクピットで点火スイッチを入れると発射される仕組みです。

弾道は不安定で有効射程は短く、命中させるのは難しかったそうですが、
一旦命中すれば、機関銃よりも気球や飛行船には効果的なダメージでした。

どんなことにも「名人」というのが現れてくるものですが、
このル・プリエールロケット攻撃が異様に得意な搭乗員がいました。

Willy Coppens

ご本人の回想です。

「想像していただきたいのですが
わたしは電気式のボタンを押して点火を行いバルーンを探して撃った」

みたいなことを言っているのが聞き取れます。

このバルーン攻撃が得意だった人はウイリー・コッペン(Willy Coppens)で、
32基の観測気球を撃墜しています。
動画には彼が撃墜したらしいバルーンが燃え落ちるのが映っています。

この技術に長けていた彼は「バルーン・エース」と呼ばれていました。

ニューポール17登場の頃にはこの攻撃は盛んではなくなっていましたが、
それでも稀にル・プリエールを搭載したタイプも存在したそうです。

「フライボーイズ」にもアメリカから操縦士として第一次世界大戦に
参加した青年たちの群像が描かれていましたが、このヘルメットと
ゴーグルの持ち主であった

ジョージ・オーガスタス・ヴォーン・ジュニア
(George Augusutus Vaughn Jr.)1897−1989

は、その一人であり、戦闘機のエースであり、
平均寿命2週間と言われた当時の空中戦を生き抜いて、
92歳で天寿を全うしたというスーパーヒーローでした。

検索するとebayでサイン入りの写真が出回っていたり(笑)

前回ご紹介したイアハートのライバル、ルース・ニコルズも、
名門ウェルズリーを出て医大を卒業していましたが、彼もまた
プリンストン大学を卒業して飛行士になったという経歴です。

第一次世界大戦時のアメリカのエースの経歴を見ると、

プリンストン(ランシング・ホールデンJr.、チャールズ・ビドル)

コロンビア(ゴーマン・ラーナー、チャールズ・グレイ)

イエール(ウィリアム・バダム、ウィリアム・タウ二世、
     ルイ・ベネットJr.、デイビッド・インガルス)

コーネル(ローレンス・キャラハン、ジョン・ドナルドソン)

ハーバード(デヴィッド・パトナム、ポール・イアカッチ)

など、(特にイエール大学卒業者多し)そうそうたる学歴の
いわゆるエリート層が競って航空隊に身を投じた様子が窺えます。

イギリス空軍第84中隊空軍に派遣された彼は、ここで
7機撃墜(空戦勝利)を記録しました。

1918年になると彼はアメリカ陸軍の航空部隊に参加し、
ソッピースキャメルを愛機として、さらに6勝を挙げています。

ヴォーンは、戦争で生き残ったアメリカで2番目のエースでした。
記録は4機ドイツ機撃墜、7機共同撃墜、気球撃墜1基、撃破1機。

第一次世界大戦時のアメリカ陸軍航空隊の軍服など。

ふと天井を見ると、なんだかお茶目な人が自転車を漕ぐように
空を飛んでいました。

ディピショフ (DePischoff)

1922年にフランスに搭乗した「空飛ぶ自転車」です。
1975年、地元の高校生が制作したレプリカなんだとか。

エンジンを積んでおり、翼幅は5m足らず。
飛べたのか?というとそうでもなかったような・・。

まあ、お遊びで作られた程度だったんではないでしょうか。

1923年には世界で初めて空中給油が行われました。
918 DH-4Bが同型機に対して行ったものです。

その世界初の瞬間がなぜか模型にされていました。

 

続く。

 


エンパイア・ステート航空科学博物館(ニューヨーク州スケネクタディ)見学

2020-03-01 | 航空機

やっとUSS「スレーター」のご紹介をおわったので、次に
同じニューヨーク郊外にあった航空博物館、

「エンパイアステート航空科学博物館」
Empire State Aerosciences  Museum

で見学したものについてシリーズでお話ししていくことにします。

ネットで軍事博物館を検索していて探し当てたのは、
ニューヨーク州といっても州都オルバニーをさらに
ハドソン川に沿って五大湖に向かって遡上していった、
グレンヴィルという街にある空港利用型の博物館でした。

1984年、ニューヨーク州の教育省によって企画された非営利の博物館で、
グレンヴィルに昔から存在した

スケネクタディ郡空港(Schenectady County Airport)

の一角にある土地にあります。
この「スケネクタディ」という地名ですが、最初に見たとき、

「なんて読むの?『すけ・ねくたでぃ』でいいのかな」

「変な名前」

などと言い合ったものです。
アメリカの変な地名あるあるとして、この名称もネイティブアメリカン、
つまりこの場合はモホーク族の言語です。

「松の木々の向こう側」

と言う意味なんだとか。

もともとモホーク族の土地だったところに、オランダ人が入植し、
その後原住民たちは、フランス軍と、フランス軍に協力した
他部族のネイティブアメリカンによって、
多くが殺害されたそうです。

高速道路を降りて長閑な風景を見ながらしばらく行くと、
エンパイアステート・エアロサイエンスミュージアム
通称ESAMが見えてきます。

なぜに名称が「エンパイアステート」なのかですが、博物館が
存在するのがグレンヴィル、空港はスケネクタディということで
どちらの地名も使うことができず、かといって
「ニューヨーク」という冠を被せるのはちょっと規模の割に畏れ多い、
ということでこのイメージ的な名称になったと想像します。

実際に訪問してみて、規模といい展示といい、
博物館として立派なものだと思われましたが、営業は毎日でなく
金土の10−16時、日曜は正午ー4時までのみ。

非営利ではないので、従業員の確保が難しいのかもしれません。

ちなみに画像の国旗が半旗になっていますが、これは
この年にジョン・マケイン議員が亡くなったからです。

ところでこのメインハンガーですが、現在はESAMの所有で、
かつてジェネラル・エレクトリック社がスケネクタディ空港から
貸与されていた土地に建てたものです。

素材の中心はコンクリート。
右側の写真は1946年に行われたエアショーの様子で、左下には
ウィルソン大統領、GGのお偉いさんと共に、あの
ドーリトル爆撃の指揮をとったジミー・ドーリトル准将が写っています。

当時の最新武器だったヘリコプター、シコルスキーR-5の姿もあります。

1943年にGE社レーダーと武器統制システムを研究する実験室を
ここで操業していました。
1945年には航空実験部隊がGE社の一環として創設されたため、
それにともないこのハンガーが建造されたのでした。

戦後1946年から1964年までは、

GEスケネクタディ・フライトテストセンター

として、30タイプの基本形から60タイプの派生系に上る
飛行機が40種類のプロジェクトによってここから生まれました。

テストされた機器は、ジェットエンジンからミサイル誘導システムまで、
テスト結果は世界中および世界中の他の現場にもたらされました。

ほとんどのプロジェクトは軍事用で、その目的は
ソ連との冷戦に投入されるためのものでした。

さて、それでは中に入ってみることにしましょう。
チケットは大人8ドル。
非営利型の博物館でも、維持費のために入場料は取ります。

入ると最初のバリアフリー型エントランスは、このように
まるで滑走路のような雰囲気を醸し出しています。

スケネクタディ空港初期、複葉機時代の資料、
そして気球などが最初の部屋に見えてきました。

フロアには第一次世界大戦時の戦闘機、天井にもたくさん展示機が。

最初の部屋でまず目に着いたのは、女流飛行家
アメリア・イアハートのマネキンと彼女の愛機ロッキードでした。

彼女が最後に挑戦した「世界一周」の航路が地図で示されています。

女性飛行家として数々の快挙を成し遂げたイアハートは、
1937年5月21日、赤道上世界一周飛行に飛立ちました。

ご存知の通り、それが彼女にとって最後の飛行となるのです。

わたしが昔見学したことのあるオークランドの飛行場から
(ここも航空博物館を持っていた)東回りに、マイアミから
南アメリカに飛び、アフリカ大陸、そしてインド洋沿岸を周り、
で囲んだ27番、ニューギニアに到着したのが6月30日。

2日後、彼らは「28」のハウランド島を目指して出発しましたが、
数時間後の無線通信を最後に連絡を断ち、永遠に姿を消しました。

彼らの乗っていた機体は残骸も見つからず、いまだに彼女の死は
航空史上の大いなる謎の一つとなっています。

1994年、ダイアン・キートン主演で

「最終飛行(ザ・ファイナル・フライト)」

というテレビドラマになっていました。
で、どうしてこのポスターがここにあるかといいますと・・、

ここにあるロッキード・エレクトラのモックアップは
上記の「ザ・ファイナル・フライト」の撮影に使われたものです。

カリフォルニア州からここスケネクタディまで空輸されてきたのだとか。
左の電話を耳に当てると解説が聞けたようです(が聞いてません)。

モックアップは前の部分だけ。

ナビゲーターのフレッド・ヌーナンが座っていた席。
テーブルの上には地図や製図器など、足元にはカバン。
「Western Electric」(ウェスタン・エレクトリック)の木箱は
通信機器が入っているという設定でしょう。

メリカにかつて存在した電機機器開発・製造企業で、
1881年から1995年まで、AT&Tの製造部門でした。

現在はノキアが事業を後継しています。

壁に女性3人の飛行士の写真がありますが、一番左がイアハート、
そして真ん中は、彼女の同時代のライバルだったルース・ニコルズです。

ニューヨークの名家に生まれ、ウェルズリー大学を卒業後は
メディカルスクール(医学部)も出ているのに、空への夢捨て難く、
水上機の免許を取得した世界最初の女性となった人です。

お嬢様だったため、あだ名は「空飛ぶデビュタント」

2度にわたる航空事故でその度重傷を負いながらも飛び続け、
57歳の死の2年前、TF-102Aデルタダガーに同乗し、
時速1600km、高度15,545mという新記録を樹立しています。

翌年、つまり死の前年になりますが、彼女はNASAのマーキュリー計画の
宇宙飛行士テスト、遠心分離、無重力試験を受け、パスはしませんでしたが
女性の宇宙飛行士への適合性については期待を裏切らない結果を出しました。

しかし、その翌年、彼女は極度の鬱に苦しみ、バルビツール酸の過剰摂取で
亡くなり、法律上彼女は自殺をしたことになっています。

ロッキードL-10エレクトラ全金属レシプロ双発機。

「エレクトラ」とはプレアデス星団にある星の名前から取られています。
イアハートが乗ったのはそのうちの10Eで、15機製造されたうちの1機でした。

ロッキード社に保存されていたらしい航空機の
所有証明書(エアクラフト・レジストレーション)。

これによるとシリアルナンバーは1055、
エンジンモデルはWasp S3 H1
取得日は1936年の7月24日。

最後の「最終機位」についての文章を訳しておきます。

「ナビゲーターのフレッド・ヌーナンを同行し、37年7月2日、
アメリア・イアハートは、ニューギニアのラエを、ハウランド島に向け
午前10時に2550マイルの航路を出発した。
携行したのは1100ガロンの燃料、75ガロンのオイル。
消費燃費は1時間に約53ガロン。
ハウランド島までの到着予定時間は20時間16分であった。

操縦者は「残り燃料30分」という通信を最後に消息を絶った。
航路を見失い、海に墜落したものと考えられている。」

 

彼女は消息を経ったあと、日本軍に捕らえられて処刑されたらしい、
というまことしやかな噂はいろんなところから出てきていましたが、
ひどかったのは、最近、ヒストリーチャンネルが、入手した一枚の写真の
どこかの埠頭に写っている男女をイアハートとヌーナンだと決めつけ、
なぜかそれを日本軍が彼らを拉致した証拠とした事件です。

連行された彼らを遠くから撮ったもの、という結論ありきの推理でした。

これが全くのデマであることは、一人の日本人が国立図書館で
観光案内として掲載されていた全く同じ写真を見つけ、
その本の発行がイアハート事件より10年も前だったことで証明されました。

この方には同じ日本人として心からお礼を申し上げたいですね。

捏造といえば、イアハートのいとことかいう人物も、

「日本軍に捕らえられ、ヌーナンは斬首されてアメリアは獄死した」

と何の根拠もないのに言っていたそうですが、それにしてもその時期、
日本軍が民間飛行人をこっそり処刑する理由がどこにあるんだか。

 

手回し式ジェネレーター(発電機)

プロペラモーターと赤灯用だそうです。
ここにあるクランクを回せば、後ろの小さなプロペラが回り、
右側のライトが点灯するのでしょう。

当ブログでも紹介したことがある映画。
ヒラリー・スワンクがアメリア・イアハートを、
干される前のリチャード・ギアがイアハートの夫を演じました。

映画「アメリア 永遠の翼」ラストフライト

人気絶頂で彼女をコマーシャルに使った企業の製品は
「アメリア・イアハート効果」と言われるほど売り上げが上がりました。

最後に、 ニュース映像を混えた彼女の「ラストフライト」について
映像を上げておきましょう。

Amelia Earhart's Final Flight

おや、この人物は、あの

チャールズ・リンドバーグ(1902−1974)

ではありませんか。

「リンドバーグがやった!パリまで33時間で、1000マイル、
雪とみぞれの中、フランス人は飛行場で彼に歓声を送る」

というニューヨークタイムズの新聞記事ヘッドラインがあります。

なぜ彼らに言及しているかというと、これらの飛行家たちが
一度はここスケネクタディ空港に着陸したことがあったからです。

まず、1929年に、アメリア・イアハートは、「史上初の女性の乗客」として
リチャード・バード機長の操縦する飛行機でここに降り立ち、
歴史的快挙を成し遂げたのち、ラジオ放送を行いました。

また、リンドバーグはこの2年前の1927年、82都市をめぐる
ツァーの一環としてここに着陸を行っています。

「ラッキー・リンディ」を一眼見ようと、そのときスケネクタディには
2万5千を超えるファンが詰めかけたのでした。

 

ところで、当航空博物館では、日曜日の朝食を用意して、
楽しく皆で食事をした後に元パイロットや航空機についての識者、
歴史家、航空ジャーナリストと言った人々の話を聞き、

そのあとはヘリコプターに乗ったり、館内ツァーをしたりする
名物イベントが長きにわたって開催されているそうです。

楽しみにしている地域の常連もたくさんいそうですね。

 

続く。

 

 


ノーメン・エスト・オーメン(コブラは体を表す)〜ハンガー7@ザルツブルグ

2019-08-21 | 航空機

 

ザルツブルグ空港近くにある、レッドブルオーナーの航空機、レースカー、
バイクなどを展示するハンガー7で見たものをご紹介しています。

水上機仕様のセスナの上部を見ていただくと、面白いイラストがあります。
ここはアートの発表の場としても注目されているのです。


 ビーチT3「メンター」

その名前とトレーニングのTからも、練習機であることがわかります。

レッドブルの「フリート」(航空隊)、「フライング・ブルズ」に加わった
最新の航空機が、この「メンター」です。
航空自衛隊の戦技研究班「ブルー・インパルス」の使用機体が、
T-4という練習機であることからもわかるように、一般的に練習機は
大変操縦性が良く、特にこのメンターは練習機のヒット作品で
二十カ国以上の国の空軍で使用されてきたというレジェンドですから、
フライング・ブルズでもパイロットたちはメンターを使って曲技を行います。

アメリカ空軍がメンターの運用を停止し、フライング・ブルズが取得したとき、
ここで要求される高い操作性を満たすため、エンジンとプロペラを交換し、
さらに細心の注意を払って修復が行われています。

練習機だった時代にはおそらくなかったであろうセクシーなノーズペイント。
アメリカ各地の航空博物館であらゆるノーズペイントを見てきたわたしに言わせると、
このレベルのペイントは現場ではありえないので、おそらく、レッドブルが獲得してから
ザルツブルグのアーティストによってアメリカ風に描かれたものだと思われます。

どの機体もペイントは基本元の所属に敬意を払い、変更は行なっていません。

HPに解説がなかったので検索してみると、時計会社のハミルトンと
レッドブルの航空機がカンヌのエアレースに出場し、

「次は日本の千葉県で会いましょう!」

と投稿しているインスタが見つかりました。
さらに調べてみると、2003年に始まり、以後毎年行われてきた

「レッドブルエアレース」

は、その他のレッドブルの催しほど注目を集めることができなかった、
という理由で、千葉大会を最後にもう行われないことがわかりました。

ちなみに、開催日は9月7、8日。
会場は幕張で、砂浜での立ち見席なら8,000円、リクライニングチェア付きなら
二日通しで三万円というお値段でチケットが絶賛発売中でございます。

フェアチャイルドPT-19

米陸軍航空隊の主要練習機として開発されました。
1939年の提案入札で17社の競合他社に勝ったフェアチャイルドの練習機は
当時主に木材と布地から構成されていました。

木製の翼が鋼管のフレームで構築された胴体に取り付けられており、
着陸が容易になる工夫がなされていて、訓練パイロットにとって
キャリアの習得がし易く、操縦者から高い評価を受けています。

PT-19は、1943年にデビューし、6.141ドルで米軍に売却されました。
1952年、軍から買い取った個人がスポーツ用に所有していましたが、
その後イギリスに渡り、 2007年、フライングブルズが買い取りました。

この写真を撮ったとき、誰かがコクピットに座っていましたが、この人が
関係者なのか、特別に座らせてもらった見学客なのかはわかりません。

とにかくこれを見てもお分かりのように、キャノピーがないため、
現在でもPT-19は「コンバーチブル」として空を飛んでいます。

こんな古い飛行機でも飛ばしてしまうあたりがものすごい執念ですが、
この時代の航空機のスペアパーツは現存していないので、
保存し続けるのには並大抵でない苦労があります。

AS 350 B3 + "ÉCUREUIL"(エキュルイユ)

エキュルイユというのは英語でスクウィレル、リスのことです。
余談ですが、今ピッツバーグで住んでいる街はスクウィレル・ヒルといって、
日本語風にいうと「リスヶ丘」ということになろうかと思います。
街の入り口の看板にはリスの絵が描いてあって大変和みます。

それはともかく、これはエアバスヘリコプターという種類のもので、
期待に描かれた等高線のような模様はハンガー7を取り巻く
オーストリアのシュタイネスメーア山脈に似ているのだそうです。

レッドブルは自分たちのテレビ局を所有していますが、このヘリは
そのカメラクルーが撮影飛行を行うのにこれまで使われてきました。

ユーロコプターEC-135

このヘリのフライングブルでの役目はレースの中継カメラを載せることです。
カメラはヘリコプターの機首にあり、低空で、カーチェイスを撮影します。
2006年のワールドカップで、王者フランツ・ベッケンバウアーが1つのステージから
別のステージへ移動する姿を捉えたのはこのユーロコプターでした。

 

ユーロコプターEC135は、最先端の多目的機です。
2つの異なるエンジンを搭載しており、そのうち1つは、カナダの製造業者である
プラット&ホイットニーが製造したターボエンジンです。

EC135のようなテールローターをシュラウド式と言いますが、この
シュラウドの1つの利点は、事故のリスクが低いことです。

最先端の航空電子機器も最先端のものを搭載し、さらに、すべてのフライト、
エンジン、ナビゲーション、およびラジオの情報が最新の多目的画面に表示されます。

ユーロコプターの1,000以上のモデルがEADS(欧州防衛宇宙会社)を始め。
58か国に出荷されました。

ADAC Air Rescue、ドイツ国境警察、ドイツ軍、
オーストリアのÖAMTCAir Rescue、フランスのSAMU Air Rescue、
および米国の多くの企業で使用されています。

常に改良され、新しい分野で新しい目的に使用される最先端のヘリだといえましょう。

ブリストル BRISTOL 171 SYCAMORE(シカモア)

シカモアの名前は、かえでの一種に由来しています。
なぜでしょうか?
このヘリコプターがゆっくりと回転しながら舞い降りる様子が
落ちるセイヨウカジカエデの種子の動きに似ていたからです。

第二次世界大戦の終わりごろ、イギリスのブリストル社は
革新的なタイプのヘリコプターの開発を始めました。

Mk 1プロトタイプは1947年に初飛行で離陸しました。
これはイギリスにとって最初のヘリコプターとなりました。

メインローターは、ブレードを片側、つまりリアブームに向かって
折りたたむことができるように設計されていますが、これは、
海軍艦艇に搭載するにおいて貴重なスペースを節約するための工夫です。

この機体は1957年に建造され、1969年までドイツ空軍が運用していました。

しかし、フライング・ブルズの前のオーナーとなったワイン畑の所有者が
かつてロイヤルエアフォースのパイロットだったことで、機体には
いまだに敬意を評してRAFのエンブレムが描かれています。

ワイン畑のオーナーの切なる願いは、シカモアがその滞空性を維持することでした。
彼は、フライングブルズにシカモアを移譲する際、自分が集めた
膨大なシカモアのスペアパーツを、機体と一緒に渡したと言います。

ブルの専属パイロット、ブラッキー・ブラックは、この尊敬すべき機体に
我が身が乗ることに有頂天になっていましたが、それにしても
木製のローターを持つヘリの信頼性というのはどんなものだったのでしょうか。

グラーツ工大で行われた興味深い飛行試験の結果は驚くべきものでした。
残されている部分全てが「新品同様!」だったのです。

パイロットはこのヘリに乗る気満々だそうですが、何かと難しいヘリなので、
今の所、計画があるという時点に止まっているのだそうです。

ベル コブラ BELL COBRA TAH-1F

日本人のわたしには馴染み深いヘリです。

サクッと分けると、ヘリコプターには商用モデルと軍用がありますが、
AH-1コブラは史上初の

Full Bladed (生粋の・血気盛んな)

戦闘ヘリコプターとして設計されました。
「コブラ」という愛称は、その攻撃的な外観にぴったりです。
この名前はパイロットやエンジニアの間で人気で、すぐに公式名称になりました。

ラテン語の「Nomen est Omen」=「名前は象徴」は、
まさにコブラのためにあるようなことわざですね。

コブラのタンデムコクピットもまた、完全に前例のない機能です。
パイロットと銃撃手が互いの仕事を引き継ぐことができるように、
パイロットの座席はわずかに高くなっています。

現在、後発のヘリの多くは、コブラの特徴であるエッジの効いた
薄いデザインの影響を受けています。

しかしデビュー当初、誰もコブラがどれほど成功するかを予測できませんでした。

1962年、ベル社は米軍にモックアップモデルを導入しましたが、
当初それは関係者を納得させることはできませんでした。

しかしベル社は自作のヘリを完成させるべく粛々と開発を続け、
3年後の1965年、初飛行の準備にこぎつけたのです。

しかし、コブラの成功はその技術的な卓越性のみならず、偶然にも、
ロッキードによって開始されたAH-56(シャイアン)と競合することになり、
その結果シャイアンの問題点が明らかになることでこれに打ち勝ち、
採用されるという「運」にも恵まれていたようです。

コブラの評価は、ベトナム戦争でトラックの空中護衛として使用された
1960年代後半と70年代前半にピークに達しました。

かさばるだけでなく火力が弱かった、ロシアのMi-28NおよびKa-52とは
対照的に、
コブラはより高速で機敏です。

フライングブルズ所有のコブラはもちろん非武装化されており、
GEのタービンエンジンにより通常300km / h、最高350km / h以上の速度がでます。

ただし、Power is moneyという英語のことわざ通りで、コブラのエンジンは
1時間あたり400リットルの燃料を飲み込む「金食い虫」。

本物の女王様は決して慎ましくなどあらせられないのです。

このレーシングカー、なんだか変わった模様だなあと思ったら・・・。

写真がいっぱい貼り付けてありました。

サイドカー付きのバイクというとついナチスを思い出しますが、これは違う?

セバスチャン・ベッテルがこれでグランプリに優勝したというアストンマーチン。
さりげにホンダのマークも見えますね。

巨大なプレデターをかたどったオブジェ。
向こうに見えているのはイカロスというレストランです。

いろんなメカのパーツで作った「レッドブル」。
売店もあって、子供用のレーシングスーツやパーカーが売っていました。

ドーム内があまりに暑く、わたしも写真を撮るのが精一杯、
TOなどはカフェから売店に行っただけで全く見学せず、
ハンガー7を後にしました。

ところが、車に乗って柵越しにわたしは信じられないものを見たのです。

「これ・・コルセアじゃない!」

二人はぼーっとしていましたが、わたしは大興奮。
なんと、ハンガー7ではコルセアを所有し、今でもこれを飛行させているのです。

CHANCE VOUGHT F4U-4 "CORSAIR"

なんどもここで書いていますが、コルセアはチャンス・ヴォート社の傑作です。
コレクターアイテムとしては非常に珍しく、当然高価です。

しかも、この機体の完全性を再現するには、メカニックの精度が重要で、
材料には惜しげも無く投資するしかありません。

優れた軍用機の歴史はコルセア無くしては語れません。
現在、チャンス・ヴォート社によって製造された4機だけが
ヨーロッパの空を舞い、世界中合わせて15機現存しています。

コルセアは最小限の空気抵抗で最高速度に達するように開発されました。
すべてのスタッドは面一に取り付けられ、トランジションは空力的に完璧であり、
すべての脚とハンドルはボディのアルミニウムスキンに溶け込みます。


プロトタイプは1938年に開発されました。
このモデルはPratt&Whitneyの18気筒ダブルラジアルエンジンから
約2000 HPを供給することを目的としていました。

プロペラの直径を4mと大きくしたため、翼をガルウィングにして、
比較的短い軽量の脚を取り付けることができる設計です。

最初のモデルは670 km / hに達することができましたが、
1952年までに最高速度は700 km / hに達しました。
コルセアの信じられないほどのパフォーマンスは、プロペラと
エンジンの内部冷却を担当する水噴射装置の改善から生まれました。

コルセアは、空母の限られたスペース用に設計されました。

しかし高トルクとプロペラの大きさから、空母への着陸と離陸は非常に困難で、
パイロットはコルセアの離陸速度を慎重に決定する必要がありました。
速度が速すぎると、プロペラに機体が振り回され、遅いと離陸できません。

米海兵隊と米海軍は、主に第二次世界対戦中太平洋でF4Uを使用しましたが、
爆撃のためにはコンパートメントを新たに追加しました。

爆弾を投下した後も、戦闘機そのものが重かったわけですが、
特に速度があったため、コルセアを負かすことは大変困難と言われました。

これが、コルセアが機動性のある日本の三菱戦闘機「零式」に挑むことができた理由です。

そして50年代初頭の朝鮮戦争でもこのモデルはまだ使用されていました。

今日、シングルシートのこの歴史的傑作機は、フライングブルズのチームによって
ヨーロッパ中のさまざまな航空ショーで曲技飛行を行なっています。

 

さて、超近代的なハンガー7を後にし、ホテルのある旧市街に戻っていくと、
岩を掘られたトンネルが現れます。

このトンネル、穴を掘るついでに石門風の彫刻もしているという。
手前のオベリスクも岩から切り出したものでしょうか。

「なんかこれすごくない?」

「彫刻も岩から掘り出したんだろうか?」

これは帰りに撮ったもので、つまり旧市街に入って行くときに
通り抜ける「ジークムントスター」というトンネルです。
18世紀に建てられ、オーストリアに現存する最も古いトンネルだそうです。

昔は路面電車が中を通過していたそうですが、今もトロリーバスが通ります。

交通の便を良くするため、ザルツブルグでは崖に穴を開けて
通路を作る計画が持ち上がり、1765年工事が始まりました。

トンネルの高さは135m、幅5.5m、高さ7m。

彫刻を施したのはヴォルフガングとヨハン・アゲナウアー。
聖ジギスムント像の下部にアゲナウアーの名前が刻まれていて、
この一連の謎の暗号を解読すると、

「Johann(Baptist)Hagenauerが(石から) 作り出し 、完成した」

となるそうです。

 

このトンネルは、わたしにとって、中世の世界と、最新の設備と考えうる限りの
近代的なセンスをほこるハンガー7をつなぐタイムトンネルのようでした。

 

 

 


ボーイング B-29 スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-06 | 航空機

はてなブログに移転しました 



ルフトバッフェの敗北 ドイツ軍航空機史〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-08-02 | 航空機

さて、前回に続き、第二次世界大戦から終戦までのドイツ航空機史を
軍事分野に限って解説するシリーズ、続きです。

ミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの
キュレーターによる解説を翻訳したものを中心にお送りしています。

 

ロシア戦線にあるAユンカースJu52輸送

スターリングラードでドイツ陸軍がソビエト軍に包囲されたとき、
ゲーリングはヒトラーにルフトバッフェが人員輸送することで
戦線が維持できると断言した。

三ヶ月の間千単位の種類の輸送機と爆撃機がスターリングラードに飛び、
陸軍に物資の輸送を行い続けた。

しかしながら、天候や事故、そしてソ連の戦闘機の銃撃などで
(おそらく女性を含む狙撃兵の攻撃も)兵力は磨耗し、
1943年2月2日にはそれも限界に達した。

およそ10万人の生き残った兵士たちがソ連軍に囲まれることになったのだ。

 

メッサーシュミットBf109の生産ライン

帝国防衛 (Defending The Reich)

1944年の初頭までにルフトバッフェは連合国空軍からの防衛にかかりきりでした。
米英の爆撃機隊にはかなりの喪失がもたらされましたが、
アメリカに新たに導入された長距離エスコートファイター(護衛戦闘機)は、
逆にドイツ側に大打撃を与えました。

(このエスコートファイターとは、時期的にいうと、
ロッキードP-38ライトニングではないかと思われます)

その年の春までには連合国軍はヨーロロッパ全土の制空権を確立し、
このことがノルマンディ上陸作戦の成功の決定的な要因となりました。

Dデイの後の数ヶ月で、前線のルフトバッフェの戦闘機隊は事実上壊滅しました。

イギリス海峡沿いのレーダーサイトはロイヤルフォースの戦闘機に指示を与え、
そのためドイツの夜間戦闘機は効果を上げることができませんでしたし、
連合国軍は燃料工場を重点的に狙ってきました。

たちまち燃料不足はルフトバッフェのオペレーションに困難をきたし、
次世代のパイロットを訓練する余裕すらなくなってきたのです。

連合国軍の爆撃にが激しくなり、ドイツの航空産業は戦闘機の製造を
減らすしかなくなり、外国人労働者を一部採用して費用を安く上げるなどしました。

ジェット機や他の先進的な武器は地下や窪地などで工場を移し、
しまいには強制収用所の囚人を労働者として使うしかなくなっていたのです。

 

Gun Camera Footage Luftwaffe FW 190 & Bf109 / Me109 Fighters Shot Down WW2 GSAP Newsreel

 

左はここSFUHセンターに世界で唯一の機体が展示されている、
アラドのAr 234 Ar 234 ブリッツ、ジェット爆撃機。

右はこれも日本の「橘花」と並べてお話ししたメッサーシュミットの
Me262ジェットファイターです。

そして、Me163コメート、ロケット推進戦闘機です。(≧∇≦)
30ミリ砲を搭載しており、相手が低速の爆撃機だったりした場合には
大変有効だったということです。

右側の写真は、航空機製造に従事させらていた「スレイブレイバー」(奴隷労働者)
製造中の機体を守るため地下に置かれていた製造工場の様子。

閉所&暗所恐怖症の人にはおすすめしません。

フォッケウルフ Ta152 H 高高度偵察機

当時にして世界最速のプロペラ推進高高度爆撃機。

こんな状況でも単体としてみれば画期的だったり革新的だったり、
超高速だったりする飛行機をどんどん開発できるんですから、
ドイツ人が自国の技術力に過信していたとしても仕方ありますまい。

ハインケルHe162 ”人民の戦闘機”Volksjäger

戦闘機のことをドイツ語で「イエーガー」(jäger)というらしいのですが、
そういえば同じ名前の伝説のパイロットがアメリカにいましたよね。

チャック・イエーガーは若き日にイギリスに派遣され、それこそ
ドイツ軍の「イエーガー」とどんぱちやりあっております。

彼は音速を破る前に、戦闘機パイロットとしてドイツ機を11機と半分撃墜した
エースでもあり、
メッサーシュミットのMeBf109を1日に5機撃墜しているほか、
Me262シュワルベの初撃墜という記録も持っています。

この写真のフォルクスイエーガーは見るからに変なものを背負っていますが、
なんとこれ、単発ジェットエンジン(BMW製)です。

連合国の止まらない攻撃を少しでも食い止めるため、
ゲーリングとシュペーアのコンビが「国民の戦闘機」を計画し、
試験段階では905km/hというとんでもない速度を記録しました。

実戦にも配備され、何機かを撃墜したという記録もあるのですが、
配備された46機のうち13機が瞬く間に墜落したり撃墜されて、しかも
30分しか飛行できないという特性のため、時間切れで二人が帰還できず死亡、
という結構大変な飛行機だったようです。

が「フォルクス」とつけただけあって、ドイツはこれを急造し、
600機くらいを配備する予定だったようです。

もしこれが実際に配備されていたら、確かに連合国は苦労したでしょうが、
ドイツ側にも未熟なパイロットの犠牲がかなり出たであろうと予想されています。

まあ、こういう武器に頼るしかなかったというのが、ドイツがもう
いろんな意味で敗戦に直面する時期に来ていたという証拠でしょう。

特攻に頼るしかない状況だった敗戦直前の日本を思わせるものがあります。

 

 

敗北

1944年の終わりには、連合国の爆撃は事実上ドイツの燃料工場を壊滅させ、
交通網を完全に麻痺させてしまっていました。

航空機製造のための設備はそれでも建造を続けていましたが、
燃料の絶望的な不足と、ルフトバッフェにはもうまともな搭乗員は残っておらず、
それは連合国の攻撃以上に深刻な問題だったのです。

ドイツ戦闘機部隊は1945年の1月1日、最後の大掛かりな攻撃を西部で行いました。
それによって200機もの航空機が失われましたが、効果は僅少でした。

ドイツ軍の前線での崩壊に伴って、生き残ったルフトバッフェの部隊は
混乱のまま再配備され、彼らの航空基地になだれ込んでくる連合国を
劣勢の中迎え討たねばならなかったのです。

まだドイツの支配下にある地域に避難できなかった航空機は、
破壊または放棄されました。

そして、ドイツが降伏したのは1945年5月8日。

かつては最強と言われたドイツ空軍の残党は、すでに
ドイツ全土に散り散りになってしまっていました。

壊され放置された ユンカース Ju88

地上航空員は連合国軍に囲まれたと知ると、侵攻してくる前に
とくに最新式だった航空機を破壊し、飛べないようにしてしまいました。

破壊されたユンカースのJu88Gは、時速630kmを誇り、終戦まで
夜間戦闘機としては無敵といわれていました。

Me262戦闘機の野外組み立て場

工場が爆撃の対象になり、メッサーシュミットの最終的なMe262の組み立ては
こんなところで行われていました。

飛行機はできるとここからアウトバーンをタキシングして部隊に配備していたのです。
これはアメリカ軍の侵攻部隊が1945年4月に撮った写真です。

アメリカに向かうドイツ航空機

以前ここでもお話ししたことがある「ワトソンの魔法使い」こと
ワトソン大佐とそのチームが集めたルフトバッフェの飛行機は
1945年7月、HMS「リーパー」に載せられ、ニューアークに向かいました。

そのうち7機が海軍の飛行テストを受けるためにフェニックスリバーに、
残りは陸軍の評価を受けるためライトフィールドに分配されています。

 捕獲したMe262とドヤ顔で写真を撮るワトソン大佐

アメリカ軍に任命され、アメリカに持ち帰るドイツ機を集める仕事をした
テストパイロットでもあるハロルド・ワトソン大佐。

彼のチームは「ワトソンの魔法使い」と呼ばれ、多くのドイツ製
戦闘機を操縦してシェルブールに集め、そこから本国に送りました。

きっとテストパイロット的には楽しい仕事だったろうと思います。

スミソニアン博物館の倉庫@パークリッジ

各地で評価を受けテストされたあと、ドイツの捕獲機は、スミソニアンが
希望を出した機体のみの倉庫まで輸送されてやってきました。

かつてダグラスの工場があったオヘアフィールドのパークリッジに
格納されたドイツ機の写真です。

それらはメリーランドへの倉庫移転を経て、今ではその全てが
ここスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターで展示されています。


 


 

 

終わり。

 

 

最強のルフトバッフェ〜ドイツ軍航空機史・スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-30 | 航空機

ここからは、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンタープレゼンツ、

「World War II German Aviation」

というパネルのご紹介をしていこうと思います。
これでわたしも第二次世界大戦時のドイツ空軍について詳しくなれるはず。


それでは、現地展示パネルの翻訳から参りましょう。


1939年の9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった。
ルフトバッフェは戦争が始まった頃の航空攻撃の主導を握り、それによって
翌年まではドイツの「ブリッツクリーグ」(電撃戦、機甲部隊を使った攻撃)は
西ヨーロッパのほとんどを征服するに至った。

これら初期の成功は、ルフトバッフェを含むドイツ製造の武器兵器の優秀さに
負うところが多く、ほぼ無敵といっても良い状態であった。

 

うーん・・・日本もね。最初は強かったんですよね。

日本の場合は兵器の技術力というよりも、人間、特に
下士官兵がとにかく優秀だったって説もありますよね。

「世界最強の軍隊とは」

なんてお題でも、

アメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官兵で構成された軍隊

逆に世界最弱の軍隊は、

中国人の将軍、日本人の将校、イタリア人の下士官兵

なんて民族ジョークになっているくらいなので。

 

しかしながら、6年も経たぬうちに特別に開発された航空機や武器をもってしても、
ドイツは総合的に負けを喫し、空軍も敗色が濃くなってきた。

ルフトバッフェの勃興と凋落のストーリーは決して航空力を効果的に用いたり、
工業力による生産が困難な状況だっただけでなく、軍の戦略の失敗、
航空機調達のプログラムの管理に失敗したことによって決定づけられた。

それはまた、圧倒的な連合国の数と物量の優位性に直面しても

高度な技術が敗北を防ぐことができるというドイツの信念の敗北

でもあった。

 

まあ、敵だったアメリカの言うことなので話10分の9くらいで聞くとしても、
ドイツが後半から敗北の坂を転げ落ちたのは、自国の技術力への過信だった、
そういう解析は非常に正しいのではないかと思われます。

三国同盟を締結した頃、一般の日本国民は、技術国を標榜するドイツと
いかにも精強そうなナチスドイツ軍が実に頼もしく見え、
これで日本は絶対に勝てる、くらいに思っていたといいますが、冷静に考えると
同じドイツはその少し前、第一次世界大戦でぼろ負けしていたわけですから、
(しかも日本は対独戦争での戦勝国という位置付けだった)
もう少し疑ってかかってもよかったかもですね。

日本もドイツと同じく「国民総過信」のせいで負けが込んでも軌道修正できなかった、
とはよく言われることですが、ドイツが過信していたのが「技術」と言うのに対し、
日本の場合これが
「軍人精神」とか「神風」と言った精神論だったのが少し辛いところです。

ドイッチュ・ルフトポストって、「空飛ぶ郵便局」みたいな煽りでしょうか。

1930年代には、ルフトバッフェは大きな航空的進歩の変革を行いました。
複葉機に乗っていたパイロットはすぐさまそれらを捨てて最新の飛行機、
例えばメッサーシュミットBf109などに乗り換えました。

ドイツエアメールサービスが制作したこのポスターでは、ヘインケルHe IIIが
高速郵便物運搬を行なっているように描いているばかりか、
機体がまるで中型の爆撃機であるかのような表現をしています。

もちろん、戦時体制に協力する郵政省のイメージポスターだと思うのですが、
本当にこんなもので郵便物を運んでいたのならすみません<(_ _)>

「ルフトバッフェの創立」

1933年に政権を握ったアドルフ・ヒトラーの優先事項は、
ドイツが空軍を持つことを禁じる
ヴェルサイユ条約の規定を回避することでした。

そして、彼の主任補佐官、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの元で、
軍用機の開発と生産、パイロット訓練、
および航空研究の秘密のプログラムが開始されます。

1935年にルフトバッフェの存在が明らかにされるまでに、
ドイツは技術的に進歩した空軍の基礎を拡大し、また、
ナチスドイツ軍の教義を発展させ始めました。

1930年代後半に起こったスペイン南北戦争へのルフトバッフェの関与は、
独空軍が第二次大戦の前夜に前例のない攻撃能力を開発するのを助け、
豊富な運用体験を得る絶好の機会となったのです。

写真はルフトバッフェの創成に寄与したヘルマン・ゲーリングとヒトラー。

ゲーリングは戦争期を通じて指令を行い、ドイツの航空産業に
航空大臣命令の順守を強要し、また、ユンカースやアラドのような会社を
国の管理下に置くよう強制しました。

この「強要」「強制」は、スミソニアンの解説によるものですが、
どうもアメリカ側から見た感情論みたいなものが混入しているようです。

戦時体制に入れば企業、特に航空機製造業などは国の管理下に入ることは
なにもドイツに限ったことではないし、ことさら企業側が
意思に反して政府に協力させられた、と強調することはないと思うのですが。


スペイン市民戦争で戦闘を行うルフトバッフェ、コンドル軍団の
ヘインケルHe 111
この戦争はルフトバッフェの搭乗員たちに貴重な空戦の経験を与えました。

バトル・オブ・ブリテンで墜落したA JUA JU88爆撃機

ユンカースJUA JU88は中型双発爆撃機で、第二次世界大戦中のドイツにおける主力爆撃機です。

ところで、ちょっと気になったのですが、次の解説を読んでいただけます?

グレート・ブリテンの侵略の前に、英空軍打倒を任務としたドイツ戦闘機は、
500以上の防御航空機を撃墜したものの、航空優位性を確立することはできなかった。

ドイツの爆撃機は航空基地を攻撃し、それから
ロンドンや都市部の日中攻撃へとシフトしていったのである。

莫大な被害がヒトラーに突きつけられ、侵攻を諦めざるを得なくなっても、
イギリス市街地への爆撃は夜も続けられた。

「ブリッツ」部隊はロンドンの市街を破壊し、5万人もの市民に被害が出たが、
イギリス人の「モラル」までを破壊することはできなかった。

ちょっといいですかー?

まるでドイツ軍だけが都市攻撃をしたみたいな言い方ですね。
そして特に最後の一節、これ何が言いたいのでしょうか。

連合国が壊滅させたドレスデンと、アメリカ軍が広範囲を焼き払った
東京の人々がモラルの破壊以前にどんな目にあったか知っているか、
とこれを書いたアメリカ人にぜひ聞いてみたいです。

 

シュトゥーカ乗員たち

Ju 87シュトゥーカは、ユンカース社が建造した急降下爆撃機です。
隊長を囲んでたくさんの搭乗員達の姿がありますが、爆撃機は二人乗りなので、
おそらく電撃戦で編隊飛行に出撃する前のブリーフィングかと思われます。 

愛称の「シュトゥーカ」は、なんとなく女子っぽくて可愛らしいですが、実は
急降下爆撃を意味する 

「Sturz KampfFlugzeug」(シュトゥルツ カンプ フルクツォイク)

を縮めたもので、日本では「スツーカ」と呼ぶ人もいるようです。

急降下爆撃を行うシュトゥーカの翼が立てる音がまるでサイレンのように響き、

「悪魔のサイレン」

などと恐れられると、彼らは調子こいて本当に機体にサイレンを取り付け、

「ジェリコのラッパ」

と自称して文字通りブイブイ言わせ、敵を怖がらせて喜んでいました。 

そして、ドイツ軍はロシアとウクライナに侵攻する際、1,000機以上の
ルフトバッフェの航空機を投入して圧倒的な勝利を収めたのです。

 

この時、彼らは事実上、無防備なソ連空軍を全滅させたといっても過言ではありません。
あらゆる意味でこの時がルフトバッフェ最強の頂点でした。

  

 

続く。

 


ハインケルHe219「ウーフー」とルッサーの法則〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-21 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター。
この世界最高峰の航空博物館展示から、第二次世界大戦時のドイツ機について
お話ししてきましたが、最終回です。 

 


ハインケル He 219 A ウーフー(Uhu )

ウーフーって可愛いですが、ワシミミズクのことなんだそうです。
夜間戦闘機だったため、こんなあだ名がつけられたというわけですね。

わたしが訪れた時には、まだ組み立て前で、バラバラにした状態で置いてありました。

設計したロベルト・ルッサーは自身もパイロットで、第二次世界大戦中
ハインケル、そしてメッサーシュミットで数種類の名作戦闘機を生み出しました。

 
「robert Lusser」の画像検索結果
 
ルッサーは最初ハインケル社に入社、メッサーシュミットに移り、
またハインケルにはいんける、といった具合に航空製造会社を
行ったり来たりしています。
 
He219は先進的な夜間戦闘機でしたが、あまりにも革新的な機構なので
量産は難しいという理由で、また、He280はメッサーシュミットMe262と
競合して負けたため、どちらもドイツ空軍省からは却下されてしまいました。
 
エルンスト・ハインケルはこのためルッサーをすぐさまクビにしてしまい、
彼はその足でフィーぜラー社にいって、無人飛行機Fi103を設計しています。

戦後は多くのドイツ人科学者とともにアメリカに渡り、アメリカ海軍の
ジェット推進研究所で6年間働きました。
 
その間に得た経験から、

各部品段階での信頼性の向上はシステム全体の信頼性の向上に寄与する

ということに着目した信頼性に関する法則を数式化し、これは現在
 
 
として知られています。

 
さて、「機構がややこしすぎて量産できない」と言われたHe219ですが、
夜間戦闘機なので、追尾レーダーを二基、射出のためのイジェクトシートも
搭載していたとか、武器の搭載が凝っていたとか、そんな感じです(適当)
 
機体は例の「ワトソンの魔法使いたち」が行なった「ラスティ作戦」により
ドイツ国内で接収され、アメリカに運ばれてテストを受け、その後
SFUHセンターに展示されて今日に至ります。
 
ドイツでは大変信頼が高かったそうですが、アメリカ軍の試験では
エンジンの出力不足が指摘されあまり高評価ではなかったとされます。
当初の設計に対し色々後からお道具を積みすぎたといったところでしょうか。
 
ちなみに「ラスティ作戦」のラスティですが、わたしは昔、
サイパンだったのホテルで、出稼ぎに来ていたフィリピン人のホテルマンと
雑談をしていて、ガールフレンド関係の話になり、彼が
 
「僕この間あなたはラスティね、って女の子に言われたんですよ(´・ω・`)」
 
と言ったのが唯一耳にした機会で、その言い方から、
あまりいい意味じゃないんだなと思っていたわけで、この作戦名を
とりあえず無理やり「元気作戦?」と訳して書いておいたのですが、
今回この機体のことを調べていて、LUSTYが
 
 LUftwaffe Secret TechnologY(ルフトバッフェ秘密の技術)
 
の略であることがわかりました。
多分「Lu」を頭につけることを前提に単語を考え、
こじつけでこんな作戦名にしたんだろうと思います。
 
 
 
 
どうもこの展示は組み立て途中というのではなく、これが完成形のようです。
ダイムラー・ベンツDB603の二基のエンジンを見せるための。
 
現地の説明を翻訳しておきます。
 
8基の砲という重武装とそれを誘導するレーダーを持つ
ハインケルHe 219「ウーフー」(イーグルオウル)は、ルフトバッフェの
最強の夜間戦闘機でした。
 
ドイツの航空機としては最初にノーズホイールを搭載した機体で、
イジェクトシートを備えていたという意味でも画期的です。
 
最初のミッションは1943年、一機のH219が、少なくとも
5機のロイヤルエアフォースの爆撃機を撃墜したといわれます。
 
博物館に展示されている機体は正確にはそのA-2型で、
1944年の後半に作られた現存する唯一のタイプです。
 
戦争中の運用に関しては現在もあまり知られていません。
 
1945年5月イギリス軍がデンマークでこの機体を捕獲し、
ワトソン大佐のチームを通じてアメリカに渡りテストを受けました。
 
機体について分かっていることは、スミソニアンに来るまでに
飛行時間は13時間にも満たないということだけです。
 
 

第二次世界大戦中のドイツ機コーナーの隅にこんな小さな飛行機を見つけました。
まだ展示前なので(天井から吊るつもりかな)説明も何もなく、
模型か実機かもわかりませんでした。


ということで、第二次世界大戦時のドイツの航空機についてお話ししてきましたが、
初戦では相手を圧倒し、有利かに思われた戦況が、時を経るに従い、
物量のアメリカと作戦立案の巧妙なイギリスにじわじわと押されて敗戦、
という経過が、ある意味日本の敗戦までに酷似していることに改めて驚きました。

もちろん、後年ドイツの敗因としていわれるところの

「技術力を過信しすぎて負けた」

と同じかというと、日本の技術はまだまだで、過信したものがあったとすれば
それは精神的なものだった、という決定的な違いはありますが。

この点、もし「ヘタリア」や「ポーランドボール」ならば、両国は

「だからもしお金があったら絶対負けてなかった」

などいうセリフを言わされるところで、ある程度それは正しいかもしれません。
 
もっとも、お金があればどちらも戦争なんて始めてないんですけどね(笑)
 

スミソニアン博物館のドイツ航空機については、このあともう少し、
ルフトバッフェの栄枯盛衰について展示をご紹介するつもりです。


続く。
 
 



ホルテン兄弟の夢ードイツ軍の全翼機〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-13 | 航空機

 スミソニアン航空宇宙博物館別館にある、

「第二次世界大戦中のドイツの軍用機」

別名勝ったアメリカが、戦後ドイツでで嬉々として集めまくった
戦利品シリーズの一角には、大変目を引くこのような飛行体の残骸、
とでもいうべきものが展示されています。

スミソニアンでこれを見たアメリカ人の多くは、
こんな時代からこんなものを研究しておったのかドイツは、と、
今更のように技術立国ドイツにそこはかとない畏怖を抱くことでしょう。
知らんけど。

特に下のこれなんかもすごいですよ。

リピッシュ Lipish DM1
アカフリーク・ダルムシュタット&アカフリーク・ミュンヘン

 

この、第二次世界大戦中にしては近未来的な飛翔体の話をする前に、
まず、ドイツのホルテン兄弟の話をしなくてはなりません。

ヴァルター・ホルテン(1913ー1998)ライマール・ホルテン(1915ー1994)
はドイツの航空エンジニアで、全翼機、無尾翼機を開発したことで知られています。

二人の名前には「ドクター」とありますが、どちらも正式な航空工学などの正式な
学問を修めたというわけではありません。
四人兄妹の二番目と三番目だったヴァルターとライマールは、ヒトラーユーゲントだった
少年期からグライダーや全翼機に興味をもち、10代から自分で設計をし
それを飛ばして競うグライダー競技会の常連優勝者でした。

非行少年ならぬ飛行少年だった頃のヴァルター。なかなか美少年です。

 

長兄のヴォルフラムと共にルフトヴァッフェに入隊した二人は、パイロット、
そして飛行教官として勤務しながら、当時無尾翼機の研究を行なっていた

アレクサンダー・リピッシュ博士

の指導を受け、全翼機の設計と製作を続けました。

リピッシュとという名前に聞き覚えがありませんか?
あのロケット推進ジェット機、

メッサーシュミットMe163、コメート

の原型をデザインした人です。

ルフトバッフェの肝いりで、十人の科学者を率いてメッサーシュミットに乗り込み、
画期的な機体を開発したリピッシュですが、ただし、このデザインを巡っては、
メッサーシュミットとの間に埋められない亀裂が生まれたということです。

メッサーシュミット自身はあまり認めていなかったってことなんですかね。

彼らの師匠のリピッシュ博士が作ったDM1は、グライダー実験機です。

グライダーと言いつつもラムジェットエンジンを動力とした
局地防衛戦闘機を目標としていました。

鋼管。合板。ベークライト含浸合板を機体に用いた機体は
母機に背負われるか、曳航された状態から射出する仕組みです。

1944年から制作が始まりましたが、作っている間に敗戦に。
現地に侵攻したアメリカ軍は、この工場を接収するやいなや、これが
アメリカ空軍に重大な利益をもたらすと確信し、その後も
現地の工場に建造を継続させ、完成させてからアメリカに移送しました。

ドイツでの製作中、チャールズ・リンドバーグが一度工場見学をしています。

戦後、コンベア社とアメリカ空軍は、この機構にアイデアを得て、
最初のジェット推進デルタ翼機、

コンベアXF-92AB-58 ハスラー

を開発しました。

ホルテン Horten H III H

さて、ホルテン兄弟は、リピッシュの薫陶を受けながら、
全翼機を精力的に生み出していきました。
HIから始まって、三番目に作ったのがこのH III Hです。

一人乗りのモーターグライダーで、実験では20回にわたる飛行で、
飛行総時間14時間17分を記録し、パイロットによればその操作性は
大変優れているというものでした。

 

ホルテン Horten Ho III f

二階のテラスからは、ほぼ完璧な形のホルテンHoIIIFが飛翔しているように
天井から吊られて展示されているのを見ることができます。

基本的な疑問なんですが、これ、着陸する時どうやって降りたんだろう。
と思ったら、動画が結構たくさん見つかりました。

Horten Ho-2 Flying Wing Test Flight 1935

Ho-2のものですが、まあだいたい同じような感じじゃないでしょうか。

リピッシュもそうですが、ホルテン兄弟は大学を出ていません。

 1933年、HIを作り始めた時、ヴァルターは20歳、ライマールは18歳で、
このH III Hのときには25歳と23歳です。

彼らは、グライダー競技会の成績を知った現地の司令官に引き立てられて、
航空機の設計に加わるようになったと言いますが、普通に考えて
なんの学問的ステイタスもないのに、研究現場に押し上げたドイツ空軍というのは
実に懐が深いというか、才能を育てるだけの鷹揚さがあったといえます。

 

うちのMKは現在アメリカの大学でエンジニアリングを専攻していますが、
高校時代と違って、自分のやりたいことに必要なことしかやっていないので、
大学では勉強が楽しくて仕方がない、といっています。

自分のやりたい勉強をするために大学に入るのに、嫌いな科目の点も
取れなければいけないというのが学制の辛いところでもありますが、

ホルテン兄弟の場合は一貫して、もうただただ少年時代から好きなことだけやって、
名を成し、それを突き詰めた幸せな人生だったと断言してもいいでしょう。

おそらく彼らは終戦まで、ナチスは自分たちの夢を叶えてくれる
物分かりのいいスポンサーであり、絶対的な庇護者と思っていただけで、
言い方は悪いですが、ドイツ軍にいながら象牙の塔の住人だったようなものです。

 

ただ、ヴァルターはパイロットとして若き日にはバトルオブブリテンに参戦、
7機撃墜の実績もあったということで、終戦後、ドイツ連邦空軍の将校となり、
ライマールはアルゼンチンに渡って生涯全翼・無尾翼機を創り続けました。 

ホルテン Horten Ho 229V3

ホルテン兄弟が開発した全翼機の中でもっとも先進的で、革命的だった
全翼機が、このホルテンHo229だったでしょう。

何が革命的だったといって、当時にしてジェットエンジン推進、しかも
塗料に炭素粉を使用するなどして世界初のステルス機だったのです。

兄のヴァルターが30歳、弟のライマールが28歳の脂の乗り切った時期、
(といっても彼らの場合は人よりだいぶ早いですが)防衛大臣だったゲーリングが

「時速1,000キロで
1,000kgの爆弾を搭載して
1,000km飛ぶ爆撃機」

を作るという「プロジェクト3×1000」(Projekt 3000) を提唱しました。
いかにも派手なことが好きなゲーリングらしいぶち上げ方ですが、
面白いのが、この計画をドイツ政府はコンペで決めようとしたところです。

早速ホルテン兄弟は、グライダー競技会のノリで(かどうか知りませんが)
「ホルテンIX計画」を作り上げ、コンペに応募し、見事採用されました。

Horten 229 worldwartwo.Filminspector.com

お偉方に229V3の説明をしているライマール。
ドイツ人としてもかなり長身だったようですね。

左に写っているのはゲーリングっぽいですが、わかりません。

The Horten Ho 229: Secret German Jet-Powered Flying Wing Aircraft of WWII

だいたい2分くらいから、3000キロ計画の説明があります。

ビデオ内では三つのクエスチョンが前半で問いかけられ、

1、H0229の機体にステルス性は本当にあったか?

2、B-2爆撃機はHo229の影響を受けていたか?

3、もしHo229が完成していたらドイツは戦争に勝てたか?

後半で答えがあります。
面白いのでぜひ最後まで見てみてください。
おそらくどの答えも皆さんの想像通りです(笑)

尾翼に鉤十字が描かれていますが、これは捕獲した時にはなかったそうです。
つまり、戦後にわざわざアメリカ側が描き込んだということで、そもそも
ホルテン兄弟の飛行機は鉤十字は「垂直尾翼に」描かれていたという

ってか垂直尾翼を持っていた全翼機ってあったっけ、って話ですが。

ゲーリングが構想した3000計画の飛行機の目的はそれではなんだったかというと、
ズバリアメリカ本土に原子爆弾を落とすことでした。

結局制作途中でドイツは敗戦したので、ビデオではありませんが、もしドイツが
Ho239を大量生産できたとして、まるで戦争末期の日本のように、アメリカが
市民が灯火統制を行い、防空壕を掘り、空襲警報に怯えることになったかどうかは
永遠の謎になってしまいました。

(ちなみにビデオではその可能性は明確に否定されています)

説明はありませんが、これ、ホルテン兄弟ですよね。

ノースロップN1M「ジープ」

ドイツ機と日本機の展示してある区画のすぐ近くに、
黄色いノースロップのグライダー的飛行体が展示してあります。

てっきり近年のものかと思ったら、実はこれ、ジャック・ノースロップが
1940年に作った全翼機だったのでした。
ホルテン兄弟が全翼機を作るようになってから7年経っていますが、
これがアメリカで初めて作られた全翼機で、偵察用として開発されました。

この初代全翼機そのものは、重量が重くパワー不足で、
ダッチロールを起こすこともあり、成功とは言えませんでしたが、
あのハップ・アーノルド准将は、歴史的に価値がある発明だと絶賛しました。

そして、N-1Mの思想は、その後

Northrop YB-35

YB-49

へと受け継がれていくことになります。

このノースロップN−1Mを制作する時、ジャック・ノースロップに
ホルテン兄弟の一連の全翼機を参考にする意図があったかどうかは
どこにも語られていませんが、わたしは先ほどのビデオ風に言えば、

"Yes, most likely. "

という答えを選択したいと思います。

 

 

続く。


残念兵器ドルニエ ・プファイルとバッハ・シュテルツェ〜スミソニアン博物館

2019-07-12 | 航空機

ドルニエDo335A-0プファイル(Dornier Do Pfeil)

今日タイトルの「残念兵器」というのは、「アラド」のように、機体は
優秀な部類だったが、時期的に残念な存在だった、ということではなく、
失礼ながら性能その他も残念だったし、製造時期も残念だった、という
文字通りの意味です。


さて、残念兵器その1、ドルニエDo335はその速さから
「プファイル=矢」という愛称を与えられました。

レシプロエンジン機としては、時速770kmを誇る「最速のプロペラ機」でした。

これができた頃のプロペラ機の最高時速は755kmでしたが、プフィルは
水平飛行で846km/hを記録した、といわれています。

「アマイゼンベア」(オオアリクイ)という別のあだ名が表すこのユニークな機体は、
コクピットを挟んで前後にエンジンを積むという機構を持っていました。

設計者のクラウディアス・ドルニエはこの画期的なレイアウトで特許を取っています。
採用されたのはダイムラー・ベンツ社のシリンダーエンジンで、二つのうち
どちらかが動かなくなっても、一つだけで航行が可能でした。

当時超ハイテク技術だった脱出用のイジェクトシートが装備されたのは、
後ろにあるエンジンのプロペラに搭乗員が巻き込まれる可能性があったからです。

着陸用の三輪車を最初から装備しているという形です。
冒頭の写真を見ていただいてもわかりますが、脚は大変長く、その下を
ドイツ人男性が頭をかがめずに歩いて通り抜けられるほどでした。
車輪も大きく、脚はいかにも頑丈そうですが、折りたたむことができます。

当時、ドイツの要求していたのは制空権のないところに高速で侵入して
爆撃する機体でしたが、「高速性能」に加えて運動性能が良かったので、
設計を変えないまま多用途重戦闘機にジョブチェンジしています。

「重」と付いているのは機体が大きく、重量があったからです。

 

プファイルは、確かに高速でしたが、実験してみたら案外欠点が多く、
その重量のせいで、飛んでいるときはともかく、着陸に頻繁に失敗しました。
こんなに丈夫な脚をつけていても、耐えられないくらい重かったってことです。

加えて、後ろ側のエンジンがなぜかしょっちゅう加熱したことも不安材料でした。

しかしジリ貧のドイツにとっては高速爆撃機は頼みの綱的存在だったらしく、
最重要量産機の指定を受けて大量発注され、がっつり量産体制に入ったところ、
連合国の爆撃で生産していた工場が壊滅し、生産は中断を余儀なくされました。

青息吐息で工場再建し、なんとか35機を生産した時点で終戦に(-人-)

終戦間際に、ロイヤル・エアフォースの飛行隊が、プファイルが飛んでいるのを
目撃した、という記録がありますが、それがそのうちの一機だったのでしょう。

 

戦後、連合国は二機のDo335を取得しています。
どちらも3年間にわたって飛行試験を受けたあと、そのうち一機は
飛行機の保存と補修を行っていたドイツのドルニエ工場に戻されました。

工場で働いていた人々のほとんどが、戦中からの労働者でしたが、
彼らはDo335プファイルの尾翼と後部プロペラに、パイロット脱出時に
爆破によってそれらを吹き飛ばす爆発性のボルトがまだ付いているのに
驚いた、とスミソニアンのHPには書いてあります。

爆発物をつけたままにしてその技術に敬意を払うアメリカに
ドイツ人びっくり、みたいな話ってことでOK?

これらはパイロットが後部プロペラと尾翼にぶつかることを避けるため、
イジェクトの時にキャノピーが外れるのと同時に作動する仕組みでした。

このため、ドルニエはプファイルをレストアして2年後のエアーショーで
空を飛ばせてお披露目をしてから、ミュンヘンの博物館に展示されたそうです。


それでは、最後にもう一つのドイツ「残念兵器」を紹介しましょう。 

フォッケ・アハゲリス Focke-Achgelis FA 330A
バッハ・シュテルツェ(Bachstelze)

後ろの航空機ではなく、手前のカゲロウちっくな飛翔体に注目してください。
これはヘリコプターの前身ともいうべき回転翼凧で、
フォッケ・アハゲリス社が開発したバッハシュテルツェ(セキレイの尾)、
というあだ名がついており、Uボートの艦載偵察機として使用されていました。


昔、海上すれすれを潜望鏡を出して航行する潜水艦の悩みは洋上での視界の狭さでした。

見つかったが最後、爆弾を落としてくる駆逐艦に出会わないためには、
向こうより先に相手を確認して対処する必要があったのです。

これを解決するために組み立て式の飛行機を載せてしまったのが帝国海軍ですが、
ドイツ海軍はそこまで変態ではなかったので、偵察用の小さな飛翔体を開発しました。

帝国海軍が潜水艦に積んでいた水上機をその場で組み立てていたように、
こちらも、甲板で二人掛かりでその都度組み立てて使っていました。
帝国海軍の元潜水艦乗りは、「ネジ一本無くしてもおおごとだった」
その組み立て作業に極度の緊張を強いられたことをのちに述懐していますが、
こんな細かい作業を潜水艦の上でやろうなどと考えるのは、世界広しといえど
日本人とドイツ人しかいなかったということでもありますね。

だいたい不器用なアメリカ人や大雑把なラテン系の国なら、まず
そんなことをしようなどとハナっから考えたりしません(断言)

 

ところで、そもそもこれはどんな風に使用されていたと思います?

Uボートの甲板で組み立てが終わったところのようですが、
これ、実は「凧」だったと先ほど言ったのを思い出してください。

そう、バッハシュテルツェは150mのケーブルでUボートに係留され、
Uボートが航走すると、ローターが回転して空を飛ぶ凧だったのです。

German submarine launched Autogyro Fa330 

凧には一人だけ操縦員兼偵察員が乗っていて、偵察を行います。
偵察員は、牽引ケーブルに沿わせた電線で潜水艦と通信を行い状況報告しました。

約120mの上空からなので、かなりの視界が確保でき、ナイスアイデアでしたが、
かわいそうに、もし敵に見つかったあかつきには、艦長判断で
索は躊躇なく切られ、偵察員は機体とともに見捨てられることになっていました。

その後、ちゃんと敵の船が捕虜として海から助け上げてくれればいいですが、
おそらくはそのほとんどのケースが海上に残され、時間の問題で沈んでいく運命です。

せっかくUボートの乗員になったのに、何が悲しくてこんなものに乗って
海に置き去りにされ、艦長を恨みながら海のもずくとならねばならないのか。

きっとくじ引きで負けた操縦員兼偵察員は苦悩したことでしょう。知らんけど。



さて、我が帝国海軍の伊号に搭載された水上機は、立派に敵地攻撃をしていますが、
それでは盟友ドイツのバッハシュテルツェの戦果はどんなものだったでしょうか。

悲しいことに、1943年8月6日、U-177に搭載されていたFa330がギリシャの蒸気船
「エイサリア マリ」を発見し、撃沈した、というただ一回の戦果があるのみです。

民間船でしかも蒸気の船というあたりがもの悲しいですね。

 

これ、なんでだと思います?ほとんど戦果がなかった理由。

wikiは「その優位性にも関わらず」とすっとぼけておりますが、理由は歴然としています。
まず、揚収に時間がかかりすぎたんですよ。

組み立ては4人がかりなら3分くらいでできたらしいのですが、
使い終わった後の収容・分解・収納には急いでも20分はかかったといいます。

これ、その間、確実に海の上に浮いていなければならないってことですよね。

こんなのなら、多少早く敵を見つけたとしても、それから駆けつけることになり、
20分も経てば潜水艦では追いつけないところに行ってしまってませんか?

本来の目的であった天敵駆逐艦を上空からいち早く発見するということに成功しても、
凧を揚収しているこの20分間に向こうに存在を察知されれば、
つまりお片づけの時間で相殺されて全く意味がなかったんじゃ?

とつい真顔でツッコミを入れてしまいたくなります。

スミソニアンの説明によると、これを使っている間は他の潜水艦を
(レーダーでも、視覚的にも)見つけることができないという理由から、
Uボートの艦長たちもこの兵器を嫌っていた、とあります。

水上の敵を探していて敵潜水艦が真下にいてもわからなかった、じゃ
シャレにならんのです。戦場はそんなに甘くないのです。

思うに、バッハシュテルツェの戦果がほぼ皆無だった一番大きな原因は、
実戦でこれを使おうとしたUボートの艦長がいなかったから
なんじゃないでしょうか。

 

 

続く。

 

 


できる子フォッケウルフと残念兵器アラド〜スミソニアン博物館

2019-07-10 | 航空機

ワシントン・ダレス空港近くにあるスミソニアン博物館別館、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの航空機展示で、
おそらく多くのアメリカ人は、第二次世界大戦中の帝国日本軍と、
ナチスドイツの軍用機に大いに興味を持つことと思われます。

ドイツ軍機は、通路を挟んで日本軍機と並べて展示されています。

スミソニアンを訪れる日本人は、誰しも大なり小なり、ここに来て
自国には現存していない自分の国のかつての軍機を生まれて初めて見ることに
非常に複雑な思いを抱くものだと思うのですが、ドイツ人はどうなのでしょう。

そんなことを考えながら、ここからはドイツ軍の航空機を紹介していきます。

フォッケウルフ190Focke-Wulf Fw 190 F-8/R1

テストパイロットでもあった設計者クルト・タンクによってデザインされた、
ビュルガーWürger(百舌)と呼ばれるFw 190は1941年に就役し、
第二次世界大戦中はスピットファイアや米軍機を実戦で圧倒する名機でした。

 

ラジアルエンジンを搭載したドイツで唯一のシングルシート戦闘機で、
電動ランディングギアとフラップを装備していたことでも唯一です。
低高度で高性能を発揮することができ、さらには機体が頑丈だったため、
爆撃任務に向かうとき同機の掩護につけられたF型、G型フォッケウルフの搭乗員は

「あっちのが性能いいし掩護の意味なくね?」

とぼやいていたとかなんとか。

連合国側の戦後の調査による評価も、

「第二次世界大戦時におけるドイツ最良の戦闘機」

とべた褒めというようなものでした。
イギリス空軍では、このとてつもなく強い戦闘機の秘密解明のため、
「オペレーション・エアシーフ(空の泥棒作戦)」を計画、なんとかして
190を盗みだしたる!とまで思いつめていたのですが、なんたる棚ボタ、
飛んで火に入る夏の虫。

ある日、ルフトバッフェのファーベル大尉という、ドイツ人にしては緊張感のない
パイロットが(個人の印象です)間違えて英空軍基地に降りてしまいました。
ご丁寧に、ピカピカの出来立てほやほや工場直送の機体で。

喜び勇んで鹵獲した190を操縦したロイヤルエアフォース、驚いたね。

内部が広く、コクピットの配列はドイツ人らしく機能的で完璧、
上昇性能、効果性能、速度、横転速度、全てにおいてスピットファイアに勝り、
特に速度と上昇性能は連合国の戦闘機で勝てるものなし。

当時においてすでに、パイロット脱出の際にキャノピーを火薬で爆発させ
脱落させるという仕組みを搭載していたと言いますから凄い。

クルト・タンクがもし「トップガン」を観ていたら、グースの死に方に
激しくツッコミを入れていたことだろうと思われます。

「1940年代ですでに我がドイツ軍ではこんな事故は起こり得なかった!」

ってね。

さて、盗んででもフォッケウルフFw190が欲しい!と思いつめた英空軍に対し、
日本では、同盟国のよしみで普通にこの機体を輸入して、
あの黒江保彦少佐
テスト飛行を行なっています。

ただし、旋回性能はあまり良くなかったため、「飛燕」「疾風」と
旋回戦を行なったところ、その点だけでは「勝負にならなかった」とか。

現地の説明によると、Fw 190は連合国の日中爆撃に対する防御で
最もよく知られている、とあります。

B-17やB-24を迎え撃つために設立されたのが、Fw190の

突撃飛行隊(Sturmgruppen・シュトルムグルッペン)

でした。
彼らは可能な限り敵編隊に肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに
敵重爆撃機を撃墜することを宣誓させられていましたが、強制ではなく、
多分に士気高揚のための儀式的な面もあったようです。

体当たりも、日本のような自死を伴うものではなく、
大きな爆撃機の主翼に軟着陸して翼を切断したり、尾翼にプロペラやエンジンを
衝突させるというもので、丈夫なFw190でこれを行なった場合、
搭乗員はパラシュートで脱出することは十分可能でした。

技量的に優れた搭乗員も多く、「大空のサムライ」ではありませんが、
一航過で12機を屠った部隊もあったと報告されています。

このFw 190 F-8はもともとFw 190 A-7戦闘機として製造されました。

ドイツの降伏後、インディアナ州フリーマンフィールドに出荷され、
その後1949年にスミソニアンに移送されました。 。
1944年にSG 2で部隊で任務を行っていたときと全く同じ仕様です。

アラド ARADO Ar 234B2 Blitz(ブリッツ・雷)

アラドなどという名前は生まれて初めて知りました。

ジェット推進戦闘機の開発は他でもありましたが、こちらは
世界初のジェット推進爆撃機です。
本当にこのころのドイツというのは技術立国だったんですね。
もちろん今でもそうですが。

搭載していたのは2基のユンカースJumo004ターボジェットエンジン
最高速度は時速780km、そのスピードのおかげで、ブリッツは
同盟国の戦闘機の攻撃から容易に逃れることができました。

同時代のメッサーシュミットの名声のせいで目立ちませんでしたが、
ブリッツは特に偵察機として優れた働きを提供したということです。

ちょっと奇妙な写真ですが、360度パノラマで撮ったコクピットです。

1 爆撃照準器 2床の銃 3酸素システム 

4 角度コントロール 5爆弾投下ボタン 

6 自動操縦設定ノブ 7非常消火ポンプ 8爆撃スコープ

アラド・ブリッツは偵察機として大変高い能力を備えていました。
敵地上空に難なく入り込み写真偵察を行い、敵戦闘機からは悠々と逃れて生還し、
ドイツ軍に貴重な情報を幾度かもたらしたのですが、ここで皆さんに
大変残念なお知らせがあります。

ブリッツがいくら頑張って敵をやっつけることができる情報を取ってきても、
その頃のドイツには、それを活用するだけの戦力は
残されていなかったのです。

こういうのをなんていうのかしら。絵に描いた餅?猫に小判?違うな。
骨折り損のくたびれもうけ?

タイトルの「残念兵器」というのは、アラド・ブリッツの名誉のためにいうと、
機体そのものが残念だったのではなく、せっかく優秀だったのに残念だったね、
という意味です。念の為。

ここにあるブリッツは、世界で現存する同型機の唯一の機体です。

ノルウェーでイギリス軍が鹵獲したもので、戦後はアメリカに運ばれ、
オハイオのライトフィールドで試験飛行を行っています。

機体の修復はスミソニアンに到着した1984年に始まり、1989年2月に完了。

スミソニアンへの航空機の移送の前にドイツ軍仕様の塗装は全て取り除かれたので、
修復の専門家は8./KG 76の典型的な航空機のマーキングを再現し
ました。

KG76とはブリッツが所属していた最初の爆撃機ユニットです。 
1993年にダウンタウンのスミソニアン博物館で、

「Wonder Weapon?The Arado Ar 234」

という展示が行われた時にはそちらにありましたが、 現在は、
ウドバーヘイジーセンターで展示されています。

 

 

続く。

 

 


「トップ・ガン」コーナー(presented by Cubic)〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-08 | 航空機

「ミッドウェイ」の搭乗員控え室、レディルームを利用した展示を
三部屋観たあと、こんなコーナーに出てきました。

トップガンコーナーです。
字の下にあるのが何かはこれを見終わったらわかることになっています。

1968年、ベトナム戦争で、海軍航空隊の搭乗員は、空戦記録において
キル・トゥ・ロス・レシオ(キルレシオ、撃墜対被撃墜比率)
2:1という数字しかあげられませんでした。

朝鮮戦争で12:1だった圧倒的な数字がここまで落ち込んだ理由は
空戦となった時、ミサイル万能論の時流に乗って機関砲を搭載していない
アメリカ海軍の航空機が、旧式のMiG17の機関砲にやられたことにありました。

この結果を重く見た海軍は、ミサイルのあり方を見直すとともに、
CNO(チーフ・オブ・ネイバル・オペレーション)は、
フランク・オルト大佐に報告書を提出させました。

世に言う「オルト・レポート」です。

オルト・レポート。

 

レポートの主眼は、空対空ミサイルの能力についての研究でした。

  1. 仕様通りに設計および製造された高品質の製品が提供されているか
  2. 海上および陸上の航空隊の戦闘機ミサイルは最適の状態で稼働しているか
  3. 戦闘員はミサイルシステムの能力を完全に理解し活用しているか 
  4. 空対空ミサイルシステムの修理は万全であるか

このレポートから浮かび上がってきた問題点の解決策として、海軍は

ネイビー・ファイター・ウェポンズ・スクール

つまり「トップガン」を設立することを決定したのです。

当時F-4ファントムIIの訓練を行なっていたVF-121を「たたき台」にして
カリフォルニアのミラマー基地にトップガンが誕生したのは、
1969年3月3日、奇しくも日本ではひな祭りの日でした。関係ないか。

 トップガンの生みの親、オルト大尉。

英語で調べても、彼の経歴は「トップガンを創設した」と言うことしか触れられておらず、
つまり特にこの人が軍人として秀でていたというわけではなさそうです。

たまたまその配置にいて、命じられた仕事を真面目にやり(オルトレポート)
その結果から対処法を考えたところ、(トップガン創設)それが大当たりしたと。

そんな気がします。

右側のを愚直に翻訳しておくと、

-レーダーで互いにコンタクトを取る

-角度 待ち伏せ

-太陽を利用する

-相互協力

-コミニュケーション

-素早く一人の敵(ボギー)をやる(KILL)

その他

-合流後#2を見失う

-#1がエネルギーを放出する

-タイマンでの空戦

-#1のむき出しのテイルパイプを攻撃

-燃料の状態

後半がどうもよくわからないんですが、おそらく
戦闘機パイロットならわかってしまうのでしょう。

トップガンの目的は空戦のマニューバや戦法そのテクニックなどを
ごく限られた優秀な搭乗員に教え、それを全体に広めることでした。
そのためトップガンはソ連軍のMiG -17や21のペイントをした
戦闘機を使って、空戦の訓練を行なっていました。

トップガンは、航空隊で最も優秀とされる搭乗員が選ばれました。
厳しい訓練を終え、卒業して元の部隊に戻ると、彼らは自らが教官となり、
自分の得た技術を部隊に伝え、全体の技術の向上をはかったのです。

これを聞いて、わたしは途端に思い出したことがあります。

自衛隊音楽まつりにおける、自衛太鼓の練習方法です(笑)

各部隊から一人、代表を太鼓の総本山である北海道の駐屯地に送り、
彼が学んできたことは彼が教官となって自分の部隊に伝授し、
そして全員がその技術を自分のものにしていく。

そうか・・・自衛太鼓は「トップガン方式」だったんだ・・・。

空戦における操縦の範囲とは、として、
通信やトラッキングなどの設備との関係を図で示しています。

 

最初の頃(1970年初頭)のトップガンのみなさんです。
後列真ん中のツナギを着た無帽の人物がオルトだと思われます。

前の四人はいかにもできそうな雰囲気の人ばかり。
右から二番目がマーベリック、一番左がアイスマンってとこですかね。

ちなみに当ブログでもちょっと煽ってみた「トップガン2」は、
なんとマーベリックが乗るのが今更のF-15だったため、

「なんでF35じゃないんだよ!」

と主にアメリカ海軍と空軍(と海兵隊)の間で騒然となってるらしい(笑)

ベトナム戦争時代のトップガンは、時代を感じさせるヒゲと長いもみ上げスタイル。
MiGを撃墜したトップガン、ヴィック・コワルスキ大尉(左)とジム・ワイズ中尉。

クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」で、イーストウッドは、
ベトナム帰還兵だったコワルスキーを演じましたが、この名前など
彼からとったのではないかとふと思いました。

こちらヒゲのないコワルスキとワイズ。
どちらが撃墜直後の写真かはわかりません。
二人がMiGを撃墜したのは、1973年1月12日のことでした。

1990年代にミラマーからネバダのファロン基地に移るまで使われていた
訓練支援用のコンソール。
このディスプレイを見ながら模擬空戦にあれこれとご指導するわけです。

今表示されているのは1980年代のある日レコーディングされた訓練です。

2005年にキュービックディフェンスアプリケーション社が寄付し、
それをきっかけにこの「トップガンコーナー」が作られたということのようです。

一番右は実際のコンソール使用中。
真ん中はブリーフィング中。
左の壁には敵機のシルエットが脳髄に刻まれるように描かれています。

1990年代にミラマーから移転したネバダ・ファロンのトップガン講義中。

これがファロンの海軍戦闘機兵器学校、トップガンのエントランスです。

アドバーサリー(敵役)F-18ホーネットを務めるトップガン。

 

キュービック社が提供したコーナーですので、でかでかと宣伝を。
モニターにはトップガンの歴史ビデオを放映していました。

 

ジョン・リーマンは共和党の議員で、レーガン政権下の海軍省長官でした。

老いたる「ミッドウェイ」を生き返らせて現場復帰させるという

「600艦隊構想」

を推し進めたのは実はこの人です。
ちなみに潜水艦建造の不具合を記載した書類を偽装したという件で、
あのハイマン・リッコーヴァーに引導を渡したのもこの人です。

海軍省長官としては異例の若さ(当時39歳)だったリーマン、
おそらくこの時にはトップガンの視察にミラマーに訪れたのでしょう。

もみ上げから見て(笑)ベトナム戦争時代の「ミッドウェイ」艦上戦闘機で
MiGを撃墜したとかそういうパイロットだと思います。

「ポッド」の中身がわかるように展示されています。
ポッドとは、飛行機に搭載する様々な目的の計器を収める入れ物で、

デジタル・プロセッサー・ユニット(DPU)

デジタル・インターフェース・ユニット(DIU)

パワーサプライ・ユニット(PSU)

トランスポンダー・ユニット

エア・データ・センサー(ADS)

などの種類があります。(説明略)

ポッドを調整製作する拠点はユマの海兵隊基地内にありました。

ポッドもキュービック社の寄贈したもののようです。

右の説明には、ミラマーからファロンに移転した理由が書いてあります。
新しいコマンド「ストライクU」と呼ばれる海軍航空機開発システムがトップガン、
そして「TOPDOME」空母早期警戒武器学校と同居することになったからとかなんとか。

トップガンが去った後のミラマーは海兵隊航空基地となりました。

近年、キュービック社のICADSというソフトウェアによって、
戦闘訓練計画を作成しアップロードすると同時に結果を示すことができます。
ビデオスクリーンから双方のラップトップで、情報を共有することができるのです。

部屋の大きさほどのコンソールが必要だった時代からIT化時代を経て、

もはやポッドはジェット戦闘機の翼の下から姿を消しました。

ステルス性のあるF-35のような最新の航空機の武器は全て内蔵され、
昔ポッドを翼に搭載していた姿は完璧に過去のものになりました。

もっとも先端の航空機用情報システムは小さなモジュールユニットとなり、
いとも簡単に航空機の内部に装備することができるようになっています。

 

 

 

アメリカ軍の軍事技術の発展とともに変わっていく訓練の姿。
キュービックディフェンスアプリケーションは、これからも
戦闘機パイロットがそのミッションに必要とする製品の供給と、
皆様が無事におうちに帰れるよう、粉骨砕身努力いたします。

 

最後はキュービック社のあからさまな会社宣伝でした(笑)

 


ライトアタック・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-07 | 航空機

 空母「ミッドウェイ」、フライトデッキの一階下にある、
搭乗員の控え室展示、三番目のドアにやってきました。

AD/A1 スカイレイダー

A-4 スカイホーク

A-7 コルセアII

とその搭乗員に関する展示室ですが、わたしは

NAVY/MARINE LIGHT ATTACK

という表示に気がつきました。
はて、「ライトアタック」=軽攻撃とは?

調べてみると文字通り軽い飛行機での攻撃のことですが、
(それでは「重い攻撃」はあるのかな?)英語のwikiを検索してみると、
Light Attackは「武装偵察」=Armed Reconnaissanceと並べて

LAAR(軽航空機での武装偵察)

と四文字の言葉で表すことがわかりました。


ところでみなさん、コルセアIIのデビューについてですが、
アメリカ軍で
スカイホークの後継機を選定する段階で浮上した

「VAL 計画」 Heavier-than-air, Attack, Light competition

がそのきっかけになっていることをぜひ覚えてください。

「ヘヴィアーザンエアー」とは空気より比重が重いという意味ですが、
これは

「空気より少し重いけどとにかく軽い飛行機」

という意味で、コンペティションとついていることからもお分かりのように
このときアメリカ軍は次世代軽飛行機選定に先駆けてコンペを行なったのです。

しかしてこのときのアメリカ軍の要求条件はとは次のようなものでした。

「スカイホークの二倍の武器を搭載でき、
かつ艦載機として空母から発進することができること、
沿岸から最大で520~610kmの内陸部まで進出でき、
地上部隊を支援することができる」

その結果、各社からは以下の通り、

LTV(ヴォート)F-8 クルセイダーの胴体短縮型V-461A-6 

ダグラス A-4の発展型A4D-6

ノースアメリカン FJ-4 フューリーの発展型

グラマン イントルーダー艦上攻撃機の簡略化型

といった既存の機体の軽量化した案が出てきましたが、
最終的に採用されたのがLTV社案で、クルセイダーの短縮型。
これがのちの

A-7 コルセアII 

となったというわけです。

ですからこのライトアタックという称号は、コルセアII以前の
スカイレイダーとスカイホークには当てはまらないということになりますが、
いずれも軽量であったことからこのように括っているのでしょう。

スカイホークはあのエド・ハイネマンが、

「軽量、小型、空力的洗練を追求すれば自ずと高性能が得られる」
とのコンセプトに基づき、海軍側の見込んだ機体重量14tの
半分に満たない6.7tという小型かつ軽量な機体に仕上げた(wiki)

ことから、典型的な「ライトアタック」と呼んで差し支えないでしょうしね。

さて、それではドアの中に入っていきましょう。
長い廊下が搭乗員控え室に繋がっています。

かつてスカイレイダーの航空隊が「ミッドウェイ」艦上から展開していた
1958年8月から1959年3月までのメンバーの名前が書かれています。

10年ほど前、かつての乗員からなる協会が制作して寄付しました。

スカイホーク協会も展示に協力しました。 

廊下を少し行くと。搭乗員のロッカールームが現れました。
フル装備のパイロットがスタンバイ(冒頭写真)しています。

昔、岩国の海兵隊基地で、わたしはホーネットドライバーのブラッドに
まさにこんな感じの搭乗員控え室に入らせてもらったことがあります。
息子はほんものの耐圧スーツとヘルメットを付けてもらい、興奮気味でした。

無理かもしれませんが、自衛隊がもしここまですれば、
青少年の志願者が少しは増えるのではないかという気もします。

この部屋は「レディルーム3」と名付けられています。
かつて実際に使われていたレディルームの椅子を、これまた
海軍航空隊に実在したパイロットの名前入りの椅子を設えました。

椅子にはメンバーの名前が背中に、タックネームが背もたれの上部に、
大きくパッチされています。

中央に見えている「マイク・エストシン」は1967年4月26日、
空母「タイコンデロガ」から発進して火力発電所の攻撃に向かう途中、
地対空ミサイルの攻撃を受けて乗っていたスカイホークが撃墜されました。

当初彼のウィングマンの撃墜報告に基づいて戦死扱いになっていたところ、
ハノイから実は彼は捕虜になっている、という報告が上げられました。

しかしその後24年も経った1993年になって、やはりそれは間違いで、
彼が撃墜されていたということがようやく明らかになったのです。

気の毒だったのは被撃墜を認定した列機のジョン・ニコルスでした。
彼は実に四半世紀の間というもの、自分が撃墜認定を誤って、救助任務を行わず、
そのためエストシンを見殺しにしたと思い込んで
罪悪感に苛まれていたそうです。

エストシンは死後大尉に昇進し、ネイビークロスやフライングクロス、
パープルハートなどの各種勲章を授与されています。

ニコルスにとってわずかによかったことがあるとすれば、生きているうちに
自分があの時エストシンを見殺しにしたのではなかったと知ったことでしょう。


彼の左席の緑のカバーには名前とともに例の「POW MIA」という字が見えます。
エストシンは違いましたが、これは捕虜になった(POW )あるいは
ミッシングインアクション(MIA)未帰還となったパイロットのことです。

当時のアメリカはまだ公の場で喫煙することが許されており、
「ミッドウェイ」でもハンガーデッキ、フライトデッキ、そして
廊下以外では基本どこでも喫煙することができたので、
ブリーフィングルームのチェアにも灰皿が付いていたりします。

Fighting red cocks というのは現在はF/A-18Fスーパーホーネットの戦隊で、
ベトナム戦争時代はスカイホークとコルセアIIに乗っていました。

トレードマークはロードアイランドの戦う赤い雄鶏で、コールサインは
「ビーフ」と「ビーフ・イーター」を交互に繰り返すというものだそうです(笑)


デザイン的にはイケてませんが、艦上で目立つためのテープが貼られた
この派手なつなぎが着艦誘導係の基本スタイルです。

わたしは勝手に「うちわマン」と呼んでいるのですが、
(多分ラインマンとかいうのだと思う)着艦の際に目で見る誘導を行う係です。

かつての艦載機部隊パイロットの私物が記念として展示されています。
ヘルメットなどはおそらくアメリカ軍でも返却することになっているのだと思います

ヘルメット左の「サバイバルラジオ」は防水仕様になっています。
紙バインダーに挟まれているのは通信記号の色々。時代ですね。

A-4のコクピットにあったガンサイト。
これだけ単独で作られています。

これらの所有者であるかつてのA-4乗りオーウェン・ウィッテン氏が
2008年に亡くなったとき、家族がここに寄付した遺品のようです。

写真上段は現役時代のウィッテン氏。

 

コルセアII、スカイレイダー、スカイホーク「ライトアタック戦隊」の
スコードロンが使用していたオリジナルカップ。
真ん中のコーヒーサーバーは彼らにとって懐かしいものに違いありません。

このケースは海兵隊戦闘機隊の展示です。
説明ではいきなり、

「海兵隊航空隊は(海軍とは)違う!」

として、彼らの任務は

陸海の攻撃隊をサポートするためにそこにいること」

一言で言うと「クローズ・エア・サポート」です。
帆船時代に船に乗り込み警備を行っていた頃から海兵隊の存在意義は変わっていません。

スコット・マクゴーの「USSミッドウェイ アメリカの盾」の付記には、
「ミッドウェイ」就役から退役までの亡くなった乗員名簿がありますが、
ここにあるのは海軍と海兵隊の軽戦闘機パイロットの殉職者名簿です。

付記にはMIA(ミッシングインアクション)とされている死亡理由が、
ここではさらに細かくこんな記号で表されています。

AAA=Antai-Aircraht Artillery 敵機の銃撃

SAM=Surface- To-Air Missle 対空ミサイル

MiG=Enemy Aircraft MiGに撃墜された

A/C=Aircraft 航空機

DAP=Died As Pow 捕虜になり死亡

その他、事故などの原因を列記していきます。

Own Ordnance  搭載武器の自爆でしょうか。

Collosion 衝突

Fall / Deck Fall デッキから、またはデッキへの転落事故

Sea Inpact 海に墜落

Catapurt Mishap カタパルト事故

Landing Mishap 着艦時の事故

Terrain わかりません。機位を失い帰還できなかったか?

Malfunction 機体不具合

Unknown 実はこれが非常に多い

先ほどのスコット・マクゴーの名簿には、パイロットだけでなく
死亡乗員の名前とその死因が掲載されています。

死亡原因ではないですが、日本滞在中に病気で亡くなったらしく
「横須賀海軍病院」と書かれた人もいます。

切ないのは、ほんの時々「溺死」とか「オートアクシデント」があること。
艦上の車の事故とは、すなわち牽引車によるものではないのでしょうか。


ところで、湾岸戦争に参加した1990年代の殉職者理由には、

Flying Squad Fire

というのがありますが、もしかしてスカッドミサイルにやられた?

聖書の一節が書かれた写真盾は、「ミッドウェイ」乗員だった
アムサー・エドガー・セス・ムーア・ジュニアさんの家族が、
「ロスト・アト・シー」つまり海に落ちて行方不明になった際、おそらく
捜索に当たった第56戦隊に、彼の死後10年を記念し贈られたものです。

 

殉職パイロット名簿の下段にはこんな言葉が書かれています。

主よ、偉大な空の高みを飛んだ男たちを守り給え

嵐の闇の夜も、朝の光さす時もともに座し給え

嗚呼、我らの祈りを空に消えていった男たちに聞かせ給え

続く。