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ホルテン兄弟の夢ードイツ軍の全翼機〜スミソニアン航空宇宙博物館別館

2019-07-13 | 航空機

 スミソニアン航空宇宙博物館別館にある、

「第二次世界大戦中のドイツの軍用機」

別名勝ったアメリカが、戦後ドイツでで嬉々として集めまくった
戦利品シリーズの一角には、大変目を引くこのような飛行体の残骸、
とでもいうべきものが展示されています。

スミソニアンでこれを見たアメリカ人の多くは、
こんな時代からこんなものを研究しておったのかドイツは、と、
今更のように技術立国ドイツにそこはかとない畏怖を抱くことでしょう。
知らんけど。

特に下のこれなんかもすごいですよ。

リピッシュ Lipish DM1
アカフリーク・ダルムシュタット&アカフリーク・ミュンヘン

 

この、第二次世界大戦中にしては近未来的な飛翔体の話をする前に、
まず、ドイツのホルテン兄弟の話をしなくてはなりません。

ヴァルター・ホルテン(1913ー1998)ライマール・ホルテン(1915ー1994)
はドイツの航空エンジニアで、全翼機、無尾翼機を開発したことで知られています。

二人の名前には「ドクター」とありますが、どちらも正式な航空工学などの正式な
学問を修めたというわけではありません。
四人兄妹の二番目と三番目だったヴァルターとライマールは、ヒトラーユーゲントだった
少年期からグライダーや全翼機に興味をもち、10代から自分で設計をし
それを飛ばして競うグライダー競技会の常連優勝者でした。

非行少年ならぬ飛行少年だった頃のヴァルター。なかなか美少年です。

 

長兄のヴォルフラムと共にルフトヴァッフェに入隊した二人は、パイロット、
そして飛行教官として勤務しながら、当時無尾翼機の研究を行なっていた

アレクサンダー・リピッシュ博士

の指導を受け、全翼機の設計と製作を続けました。

リピッシュとという名前に聞き覚えがありませんか?
あのロケット推進ジェット機、

メッサーシュミットMe163、コメート

の原型をデザインした人です。

ルフトバッフェの肝いりで、十人の科学者を率いてメッサーシュミットに乗り込み、
画期的な機体を開発したリピッシュですが、ただし、このデザインを巡っては、
メッサーシュミットとの間に埋められない亀裂が生まれたということです。

メッサーシュミット自身はあまり認めていなかったってことなんですかね。

彼らの師匠のリピッシュ博士が作ったDM1は、グライダー実験機です。

グライダーと言いつつもラムジェットエンジンを動力とした
局地防衛戦闘機を目標としていました。

鋼管。合板。ベークライト含浸合板を機体に用いた機体は
母機に背負われるか、曳航された状態から射出する仕組みです。

1944年から制作が始まりましたが、作っている間に敗戦に。
現地に侵攻したアメリカ軍は、この工場を接収するやいなや、これが
アメリカ空軍に重大な利益をもたらすと確信し、その後も
現地の工場に建造を継続させ、完成させてからアメリカに移送しました。

ドイツでの製作中、チャールズ・リンドバーグが一度工場見学をしています。

戦後、コンベア社とアメリカ空軍は、この機構にアイデアを得て、
最初のジェット推進デルタ翼機、

コンベアXF-92AB-58 ハスラー

を開発しました。

ホルテン Horten H III H

さて、ホルテン兄弟は、リピッシュの薫陶を受けながら、
全翼機を精力的に生み出していきました。
HIから始まって、三番目に作ったのがこのH III Hです。

一人乗りのモーターグライダーで、実験では20回にわたる飛行で、
飛行総時間14時間17分を記録し、パイロットによればその操作性は
大変優れているというものでした。

 

ホルテン Horten Ho III f

二階のテラスからは、ほぼ完璧な形のホルテンHoIIIFが飛翔しているように
天井から吊られて展示されているのを見ることができます。

基本的な疑問なんですが、これ、着陸する時どうやって降りたんだろう。
と思ったら、動画が結構たくさん見つかりました。

Horten Ho-2 Flying Wing Test Flight 1935

Ho-2のものですが、まあだいたい同じような感じじゃないでしょうか。

リピッシュもそうですが、ホルテン兄弟は大学を出ていません。

 1933年、HIを作り始めた時、ヴァルターは20歳、ライマールは18歳で、
このH III Hのときには25歳と23歳です。

彼らは、グライダー競技会の成績を知った現地の司令官に引き立てられて、
航空機の設計に加わるようになったと言いますが、普通に考えて
なんの学問的ステイタスもないのに、研究現場に押し上げたドイツ空軍というのは
実に懐が深いというか、才能を育てるだけの鷹揚さがあったといえます。

 

うちのMKは現在アメリカの大学でエンジニアリングを専攻していますが、
高校時代と違って、自分のやりたいことに必要なことしかやっていないので、
大学では勉強が楽しくて仕方がない、といっています。

自分のやりたい勉強をするために大学に入るのに、嫌いな科目の点も
取れなければいけないというのが学制の辛いところでもありますが、

ホルテン兄弟の場合は一貫して、もうただただ少年時代から好きなことだけやって、
名を成し、それを突き詰めた幸せな人生だったと断言してもいいでしょう。

おそらく彼らは終戦まで、ナチスは自分たちの夢を叶えてくれる
物分かりのいいスポンサーであり、絶対的な庇護者と思っていただけで、
言い方は悪いですが、ドイツ軍にいながら象牙の塔の住人だったようなものです。

 

ただ、ヴァルターはパイロットとして若き日にはバトルオブブリテンに参戦、
7機撃墜の実績もあったということで、終戦後、ドイツ連邦空軍の将校となり、
ライマールはアルゼンチンに渡って生涯全翼・無尾翼機を創り続けました。 

ホルテン Horten Ho 229V3

ホルテン兄弟が開発した全翼機の中でもっとも先進的で、革命的だった
全翼機が、このホルテンHo229だったでしょう。

何が革命的だったといって、当時にしてジェットエンジン推進、しかも
塗料に炭素粉を使用するなどして世界初のステルス機だったのです。

兄のヴァルターが30歳、弟のライマールが28歳の脂の乗り切った時期、
(といっても彼らの場合は人よりだいぶ早いですが)防衛大臣だったゲーリングが

「時速1,000キロで
1,000kgの爆弾を搭載して
1,000km飛ぶ爆撃機」

を作るという「プロジェクト3×1000」(Projekt 3000) を提唱しました。
いかにも派手なことが好きなゲーリングらしいぶち上げ方ですが、
面白いのが、この計画をドイツ政府はコンペで決めようとしたところです。

早速ホルテン兄弟は、グライダー競技会のノリで(かどうか知りませんが)
「ホルテンIX計画」を作り上げ、コンペに応募し、見事採用されました。

Horten 229 worldwartwo.Filminspector.com

お偉方に229V3の説明をしているライマール。
ドイツ人としてもかなり長身だったようですね。

左に写っているのはゲーリングっぽいですが、わかりません。

The Horten Ho 229: Secret German Jet-Powered Flying Wing Aircraft of WWII

だいたい2分くらいから、3000キロ計画の説明があります。

ビデオ内では三つのクエスチョンが前半で問いかけられ、

1、H0229の機体にステルス性は本当にあったか?

2、B-2爆撃機はHo229の影響を受けていたか?

3、もしHo229が完成していたらドイツは戦争に勝てたか?

後半で答えがあります。
面白いのでぜひ最後まで見てみてください。
おそらくどの答えも皆さんの想像通りです(笑)

尾翼に鉤十字が描かれていますが、これは捕獲した時にはなかったそうです。
つまり、戦後にわざわざアメリカ側が描き込んだということで、そもそも
ホルテン兄弟の飛行機は鉤十字は「垂直尾翼に」描かれていたという

ってか垂直尾翼を持っていた全翼機ってあったっけ、って話ですが。

ゲーリングが構想した3000計画の飛行機の目的はそれではなんだったかというと、
ズバリアメリカ本土に原子爆弾を落とすことでした。

結局制作途中でドイツは敗戦したので、ビデオではありませんが、もしドイツが
Ho239を大量生産できたとして、まるで戦争末期の日本のように、アメリカが
市民が灯火統制を行い、防空壕を掘り、空襲警報に怯えることになったかどうかは
永遠の謎になってしまいました。

(ちなみにビデオではその可能性は明確に否定されています)

説明はありませんが、これ、ホルテン兄弟ですよね。

ノースロップN1M「ジープ」

ドイツ機と日本機の展示してある区画のすぐ近くに、
黄色いノースロップのグライダー的飛行体が展示してあります。

てっきり近年のものかと思ったら、実はこれ、ジャック・ノースロップが
1940年に作った全翼機だったのでした。
ホルテン兄弟が全翼機を作るようになってから7年経っていますが、
これがアメリカで初めて作られた全翼機で、偵察用として開発されました。

この初代全翼機そのものは、重量が重くパワー不足で、
ダッチロールを起こすこともあり、成功とは言えませんでしたが、
あのハップ・アーノルド准将は、歴史的に価値がある発明だと絶賛しました。

そして、N-1Mの思想は、その後

Northrop YB-35

YB-49

へと受け継がれていくことになります。

このノースロップN−1Mを制作する時、ジャック・ノースロップに
ホルテン兄弟の一連の全翼機を参考にする意図があったかどうかは
どこにも語られていませんが、わたしは先ほどのビデオ風に言えば、

"Yes, most likely. "

という答えを選択したいと思います。

 

 

続く。



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1 Comments

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大した事ないような (Unknown)
2019-07-13 21:20:22
>時速1,000キロで
>1,000kgの爆弾を搭載して
>1,000km飛ぶ爆撃機

って、ゴロはいいですが、大した事ないです。

時速1,000kmは当時としては大したものですが、爆弾搭載量は一式陸攻で4トン。B-29で9トンなので、1,000kg(1トン)は大した事ないと思います。とてもじゃないですが、原子爆弾は無理だったでしょう。航続距離1,000kmもゼロ戦でさえもっと飛べました。

B-29でさえ爆弾搭載量は9トンですが、F-15は12トン積めます。そういう風に見ると飛行機は進歩してますね。
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