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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

”対海軍 第15番目の法則 ”ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークス〜スミソニアン航空博物館

2020-07-24 | 航空機

スミソニアン博物館に展示されている初のプロトタイプジェット機、
XP-80「ルルベル」についてお話ししたわけですが、今日は、
そのプロジェクトを引き受けたケリー・ジョンソンと、彼の率いた
「スカンク・ワークス」についての話から始めたいと思います。

Kelly Johnson (engineer) - Wikipedia

"設計エンジニア、メカニック、そして生産者とは顔の見える関係でいたい”

クレランス・’ケリー’・レオナルド・ジョンソン
 Clarence Leonard 'Kelly' Jhonson 1910-1990

B.C(ビフォーコロナ)の現代であれば当たり前のちょっといい発言ですが、
とくにケリー・ジョンソンがこのように発言したということは、必ずしも
1940年代の航空機設計の現場ではそうでもなかったということでしょうか。

 

ところで、アメリカには 全米航空協会 (NAA)から

「アメリカの航空または宇宙飛行において、空気の性能、効率、
安全性の向上に関して最大​​の成果を上げた人、または
昨年度の実使用でその価値が徹底的に実証された航空機など」

に対して贈られるコリアー・トロフィーなる賞があります。

第一回受賞者の水上艇を開発したグレン・カーティス(1922)から 
2018年度の自動地上衝突回避システム (Auto-GCAS)を開発した
空軍研究所 、ロッキード・マーティン、 F-35合同プログラムオフィス、
NASAを含む開発チームまで、それこそ毎年、戦争を行っていた年をのぞき
毎年贈呈されてきた名誉賞ですが、史上一人だけ、コリアートロフィーを
二回受賞した人物、それがケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスです。

そのほかにも数え切れないほどの航空開発に関わる賞を受賞したジョンソンは、
まぎれもなく20世記の最も偉大な航空機設計者の一人でしょう。

彼の経歴は1930年代から始まり冷戦時代に至るまでの期間、
ロッキードエアクラフトに始まり宇宙開発における先端技術、
はてはステルス技術の導入にまで及びました。

彼の革新的で近未来的な設計思想が生み出したののは、

P-38ライトニング
P-80シューティングスター戦闘機

F-104スターファイター迎撃機
U-2
SR-71高高度偵察機
「ブラックバード」
F-117Aステルス戦闘爆撃機「ナイトホーク 」

など、その時代の先端を切り開く機体の数々でした。

 

ジョンソンの成功に鍵というものがあったとしたら、それはたとえば
「ルルベル」を創造する際に、ロッキード内に独立した部門を立ち上げる、
といった、独特のマネージメント法だったかもしれません。

その部門があの「スカンク・ワークス」です。

腕組みするスカンク

公的には「アドバンスド・デベロップメント・プロジェクト」
という名称となっていた、このスーパーシークレット、かつ
高度な機密に守られたチームは、軍用機のデザインとその製作を、
製図するところから実際に飛ばすところまで全部やってしまうのでした。

ジョンソンの合理化された組織は、一口で言うとシンプルであり、
軍事産業への協力や責任ある管理が強調されたものといえました。
そしてそれは当時急速に拡大し、さらにコントロールが難しい
航空宇宙産業で成功するための一つのモデルとなったのです。

ジョンソンが航空工学を学んだのはミシガン大学です。
卒業後23歳で彼はロッキードに入社しました。

ジョンソンという名前からは想像しにくいですが、 両親はスウェーデン人です。
(ヨハンソンとかいう現地読みをアメリカ風に発音していたのかも)
13歳のとき最初の航空機設計で賞を獲得し早熟ぶりを見せた彼は
ミシガン大学で航空工学の 学士号と修士号を取得しました。

彼の愛称「ケリー」についてはこんなストーリーがあります。
ミシガン州の小学校に通っていたとき、彼の「クラレンス」という名前が
からかいの種になり、一部の少年が彼を「クララ」と呼び始めました。

たとえば彼が席を立つと「クララが立った!」という風に。

というのは嘘ですが、ある朝、列に並んで教室に入るのを待つ間、
一人の少年が彼をいつものように
クララと呼んだため、
怒ったジョンソンは彼を躓かせ、骨折させました。

恐れ慄いた少年たちは彼を「クララ」をと呼ぶのをぴたりとやめ、
なぜかその代わりに「ケリー」と呼び始めました。

クレランス・レオナルドのどこにも「ケリー」の要素はありませんが、
当時たまたま

「ケリー・ウィズ・ザ・グリーン・ネクタイ」(緑のタイをしたケリー)

という曲が流行っており、彼が緑のタイをしていたとかいう理由でしょう。
以降、彼は常に「ケリー」ジョンソンとして知られるようになりました。

 

「スカンク・ワークス」の起源についてもくわしく書いておきましょう。

ロッキードの従業員が彼らの組織に与えたニックネームは、
1934年から1977年にかけて放送されたアル・カップの人気コミックストリップ、
「リル・アブナー」(Little Abner)の話に登場する「ビッグ・バーンスメル」が
キッカプー・ジュースなる怪しい飲み物を醸造していたスコンクワークス、
「Skonk Works」(スカンク=Skunkではない)からきています。

 

最初に彼らのオペレーションが始まったのは仮設の建物で、
しかも近所のプラスティック製造工場から漂ってくる匂いが酷かったため、
それに文句たらたらだったエンジニアの一人、アーブ・クルバーさんが、
ある日ロッキードからかかってきた電話をとって、

"SKONK WORKS!”

と応答を始めました。

漫画の中の固有名詞ですが、当時テレビで放映されていて人気だったため、
それを聞けばなんのことか誰でも知っていて、さらに
「臭い=スカンク」とかけていることがすぐにわかったのです。

もちろん真面目なケリー・ジョンソンはふざけるなと叱責したそうですが、
こういう集団にありがちな悪ふざけのノリで、ジョンソンがいなくなると
スタッフは全員が

「スコンクワークス!」

と返事をするようになり、ロッキードの社員もそのうち
彼らをスコンクワークス扱いするようになってきました。

しかしさすがは大企業ロッキード、名前が定着するや、
「著作権で保護された用語の使用に関する潜在的な法的問題を回避するために」
それを「Skunk Works」に変更するように、と命じました。

社命かよ。

そこで彼らのグループ名は本来の?意味である

「スカンク・ワークス SKUNK WORKS」

が正式名称になったというわけです。

P-38 ライトニング Lightning

それでは、ケリー・ジョンソンがその生涯に手掛けた
プロジェクトの成果を紹介していきましょう。

前回、Pー80シューティングスターの試験飛行で亡くなった
テストパイロットのリチャード・ボングがこれに乗って
太平洋戦線で日本機を撃墜し、エースとなりました。

スミソニアン博物館には、別館のスティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンター
このP-38が展示してあり、実際に見ることができます。

当時の日本軍にはP-38の3を「ろ」と呼んで「ぺろハチ」とあだ名され、
その駆動性は当時のベテラン揃いの搭乗員にも
「双胴の悪魔」と恐れられたと言います。

ライトニングは若きジョンソンと、彼のロッキードでの設計の上司だった
ハル・ヒッバード(Hall Hbbard)によって考案されたもので、
第二次世界大戦に登場した戦闘機の中でも最も多用途で、
かつ革命的な航空機だったといえるでしょう。

海軍甲事件、聯合艦隊司令長官山本五十六元帥の乗った
一式陸攻を撃墜したのは他ならぬこのP-38でした。

ロッキード U-2

ロッキードU-2は、作成後35年以上も秘密に包まれていましたが、
もともとは戦略的偵察機として設計されており、
冷戦の緊迫した時代に重要な役割を果たしていました。

ケリー・ジョンソンがスカンク・ワークスを率いて作ったU-2は、
これまで生産された中で最も成功した情報収集機の1つでした。

今は貸し出されていてないのですが、スミソニアンのU-2は、
1956年7月4日にソ連を巡る最初の作戦任務に投入された機体です。

冷戦中の1953年、米空軍はソ連と衛星国の軍事活動を監視するために、
1人乗り、長距離、高高度偵察機の調達要求を出しました。

この時までに、フィルムとカメラの技術の進歩によって
迎撃されにくい極端な高度から高解像度写真を撮ることができるようになり、
それに合わせた偵察機を導入することになったのです。

ロッキードは調達を受注し、スカンクワークスは非常に厳しいスケジュールの下、
わずか8か月後に新しいU-2を生産しました。

1955年8月6日初飛行が行われ、1年後にはCIAパイロットの訓練も終了、
ソビエト連邦上空への最初の飛行ミッションを完了しました。

高度な電子機器とカメラ機器が機首と大きな胴体ベイに収納され、
大型の燃料タンクにより、航空機は、2キロ近い高度で
約4,600mを6時間飛行することができました。

運用中のU-2Aは、定期的にソビエト連邦の広大な上空を飛び、
多くの重要なデータを収集し、たとえばいわゆる対ソにおける
「ミサイルギャップ」神話に過ぎないことを証明しました。

また、1962年8月、U-2はソビエトの中距離弾道ミサイルの存在を確認し、
それがキューバのミサイル危機につながりました。

U-2はまた、1964年7月以降、ベトナムに関する情報収集のため、
1975年のサイゴン陥落まで継続的に活動していました。

U-2の驚くべき高高度能力は、科学的研究のための価値あるツールにもなっています。

NASAはこれらの航空機2基を高高度ミッションブランチで運航しており、
成層圏のサンプリング、特に1980年の山岳噴火後の火山灰の収集を行い、
セントヘレンズ、そして自然災害と水と土地利用の評価に役立てています。

File:Lockheed F-104 Starfighter in Smithsonian.jpg

F-104スターファイター Starfighter

長くてまるで鉛筆のような胴体、Tシェイプの尾翼、
そして小さくて薄い翼。

F-104スターファイターは二回音速を超えた飛行機です。
注意していただきたいのは機体にNASAのロゴがはいっていることで、
これが宇宙飛行士の訓練用に開発された超音速宇宙訓練機だからです。

テストパイロットはあのチャック・イェーガー
といえば思い出しますね。映画「ライト・スタッフ」を。

いぜんこのブログで「ライト・スタッフ」について書いたときには
特に言及しなかったのですが、宇宙飛行士「マーキュリーセブン」の
「正しい資質(Right Stuff )について描いたあの映画で、傍論のように
登場するスターファイターのテスト飛行は、実はその目的が
宇宙飛行士の耐G訓練だったという深い意味があったというわけです。

映画「ライトスタッフ」世界最高のパイロット

この項で、戦闘機が達する高高度について実用的な意味がない、
などと簡単に評してしまってごめんなさい。

F-104はそれが目的の飛行機だったんですね。

映画でも描かれていた通り、チャック・イェーガーはテスト飛行で
スターファイターのテスト機を墜落させていますが、
不死身の彼はしれっと生還し、残りのテストを成功させています。
(映画によるとどちらも安い給料で)

設計したケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスは、このプロジェクトで
1958年のコリアー・トロフィーを受賞されました。

ちなみに、同映画で描かれた宇宙飛行士たち「マーキュリー・セブン」にも
4年後の1962年、同賞が授与されています。

U-2での高高度偵察が非常にうまくいったアメリカ空軍としては、
さらなる高性能の高高度偵察機を取得すべく、ケリーと彼のチームに
伝説の迎撃&爆撃&戦略偵察機、ブラックバードSR-71を発注しました。

わたしはスミソニアンにある実機、アメリカのキャッスル博物館の戸外展示と
実物を二機見ているのですが、さすがにスミソニアンは、
その異様なシェイプの機体を高い場所から眺められるので圧巻でした。

ケリー・ジョンソンとスカンク・ワークスはブラックバードの制作で
1963年(マーキュリーセブンの翌年)にコリアートロフィーを受賞されています。

尾翼にはスカンクくんが・・・。

ロッキード F-117A ナイトホーク(Niguhihawk) 

ケリー・ジョンソンは1975年に設計の一線を退きましたが、
彼の設計思想の継承者であるスカンク・ワークスは
世界初となるステルス戦闘機、ナイトホークを生みました。

 

さて、ケリー・ジョンソンのマネジメントがロールモデルになった、
という話を前半にしましたが、彼の提唱したマネジメント14の法則、
というのがありますので、これをお読みの経営者の方々向けに全部あげておきます。

1、スカンクワークスのマネージャーは、あらゆる面で
プログラムの実質的に完全な制御を委任されなければならない。
彼は部門の最高責任者以上に報告する必要があります。

2、強力で小規模なプロジェクトチームは軍と産業界の両方から提供されるのが望ましい。

3、プロジェクトに関わる人数は厳しく制限し、 少数の精鋭。
(いわゆる通常のシステムと比較して10%から25%)で。

4、のちに変更可能な柔軟性があって非常にシンプルな図面を作れ。

5、重要な作業は徹底的に記録。

6、プログラムの完了までに予測される費用を最初から相手に伝えよ。
 突然のオーバーランで顧客を驚かせないように。

7、下請け業者は正式な入札によって決められること。
 入札手続きは、軍事手続きよりもえてして非常に優れているものです。

8、空軍海軍承認による検査システムには問題がある。
より基本的な検査の責任を下請け業者とベンダーに押し付けることになるので
あまり多くの検査を何度も繰り返さない。

9、請負業者には、最終製品をテストする権限も委任されるのが望ましい。
 初期段階でテストができないと設計する能力が急速に失われます。

10、契約の前に十分に合意してハードウェアを選定する。
 当社では意図的に遵守されていない重要な軍事仕様項目と
その理由を明確に記載することを推奨しています。

11、請負業者が政府のプロジェクトのために銀行に出向く必要がないように、
プログラムへの資金提供は時宜を得たものでなければなりません。

12、軍事プロジェクト組織と請負業者の間には、日常的に非常に緊密な
 協力と連絡を取り合い、相互の信頼関係がなければなりません。
 これにより、誤解と対応が最小限に抑えられます。

13、部外者によるプロジェクトとその担当者へのアクセスは、
 適切なセキュリティ対策によって厳密に制御する必要があります。

14、エンジニアリングおよびその他のほとんどの作業に携わる人数は
 わずかであるため、監視対象の従業員数に基づいてではなく、
 給与によって優れたパフォーマンスに報いる方法を提供する必要があります。

 

なお、この続きには口頭でしか伝えられたことのない第15の規則がありました。

"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."

忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならないことがあります。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるでしょう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」

 

 

続く。


ロッキードXP-80 ルルベル〜スミソニアン航空博物館

2020-07-15 | 航空機

スミソニアン博物館の「ジェット機の歴史」コーナーには、
まず、こんなコーナーがあらわれます。

そしてドイツ・メッサーシュミットのMe262と仲良くならんで、

ロッキード XP-80 ルル-ベル(Lulu-Belle)

が」展示されています。

第二次世界大戦中はジェットエンジンの研究において、ドイツ、
そしてイギリスに大きく遅れを撮っていたアメリカは、
空中戦闘が可能な航空機の必要性を痛感しながらも、
独英が1939年の段階でジェットエンジン研究を終えていたのに対し、

新技術の開発と評価になかなか乗り出せない状況でした。

1941年、ロッキード・エアクラフト、イギリスのエンジン
「デハビランド ゴブリンH-1B」を搭載したジェット戦闘機を建造する、
という計画について打診されたばかりなのに対し、ドイツはその2年後である
1943年に、
すでにジェットエンジンを積んだ
ハインケルHe178を投入し実際に飛ばしていたという具合です。

 

そしてドイツが、1943年までにプロペラ迎撃機での対アメリカ戦略爆撃機の戦闘損失で
優位に立ったうえで、さらに強力なメッサーシュミットMe 262ジェット戦闘機
配備しようとしているという情報を得たアメリカ陸軍ハップ・アーノルド司令は、
1日も早く新しいより有能な戦闘ジェットを推進するように
大号令をかけました。


そしてロッキードの主任調査研究員だったクラレンス”ケリー”・ジョンソン
そして設計者と技術者28名の集団はこのプロジェクトに乗り出し、
ジェット航空機の製造をわずか143日という
驚くべき速さで完成させることになるのです。

ケリー・ジョンソンと設計チームは、1943年6月21日、
XP-80
「ルルベル」というニックネームのプロトタイプの制作を開始しました。

彼らの作業所は「ケリーのサーカス小屋」と呼ばれ、さらにチームは
自虐ギャグがもとになった「スカンクワークス」がニックネームになります。

「スカンクワークス」も元ネタはコミックですが、この「ルルベル」も、
アル・キャップの "Lil 'Abner"(リル・アブナー)に登場する、
「リトル・ルル」から取られているのです。

リトル・ルル

リトル・ルルそのままだと著作権の問題があったので
ちょっとアレンジしてフランス語の「綺麗な」「美人の」である
『ベル』をつけたんですね。

ルル・ベル、XP-80の初飛行は1944年1月8日と受注の4ヶ月半後でした。

そしてルルベルは時速800kmで飛行したアメリカ初のジェット飛行機となりました。
操縦したのはテストパイロットのマイロ・バーチャムです。

初飛行の後、バーチャムと握手するケリー・ジョンソン(右)
ジョンソンはこの後、

「素晴らしいデモンストレーションでした。
私たちの飛行機は成功しました。

ドイツが長年のジェット飛行機の開発で得た一時的な利点を
一気に克服したほどの完全な成功です」

とその成果を誇らしげに語りました。 

テストフライトでXP-80は最終的に6,240 mで時速808 km の最高速度に達し、
水平飛行で500 mphを超える初めてのターボジェット動力のアメリカの航空機となりました。

ルルベルの革新的な「取り外し可能な尾翼」は、ゴブリンH-1Bエンジン
簡単にアクセスすることを可能にしました。

ゴブリンエンジンは十分な台数が調達できたわけではなく、
しかも、その後のXP-80の進化形に搭載するには
決して十分なパワーがあったとはいえませんが、その後
戦闘機のほとんど全てがこの形となりました。

 

ちなみにプロジェクトは極秘で進められたため、制作をしていることは
ごく一部の人間にしか知られていませんでした。

ゴブリンエンジンを納入するためにやってきたイギリス人のエンジニアは、
ロッキード社に怪しまれ、警察に勾留されるという目に遭っています。

スミソニアン博物館では当時のままの機体のペイントを見ることができます。
この緑色のため、「ルルベル」は別名「グリーンホーネット」とも呼ばれていました。

スタッフに若い人が多く、当時の「コミック世代」だったってことですかね。

スミソニアンHPより。

第412戦闘機グループのパイロットは、ルルベルを叩き台にして
ジェット機の高度な戦闘戦術とプロペラ駆動機の新しい防御技術を開拓しました。

この写真は、現在スミソニアンにあるルルベルの最終的な状態と同じです。

XP-80の初めてのテストフライトは大成功でしたが、この後、XP-80が
F-80「シューティング・スター」となるまでの実験では
偉大なパイロットが失われるという悲劇的な事故が続いています。

2番目にテストされたXP-80Aと呼ばれるプロトタイプは、アメリカ製で
より大きなGeneral Electric I-40エンジン用に2機設計されたうちの一機でした。

 うち1機「シルバーゴースト」とあだ名された機体をテストした
「ルルベル」のテスト飛行のときのパイロット、マイロ・バーチャムは、

「(XP-80とくらべ)まるでこれは’犬になってしまった’ようだ」

と語りました。

つまりエンジンが大きくなって動きが鈍重になり、パイロットとしては
操作性という点で「面白くない」ということだったのかもしれません。

しかし、1944年10月に行われた3番目のYB-80Aは、テスト飛行の際、
主燃料ポンプの故障により離陸時にエンジンが失火し、
ターミナルの1マイル西で墜落し、操縦していたバーチャムは殉職しました。

Test & Research Pilots, Flight Test Engineers: Milo Burcham 1903-19441903-1944(-人-)RIP

そして、バーチャムが「犬のようだ」と表した「グレイゴースト」もまた、
翌年のテストフライトで墜落し失われましたが、このときのパイロット、
バーチャムの後任、トニー・ルヴィエは脱出に成功し、命は助かっています。

この墜落の原因は、飛行中エンジンのタービンブレードの1つが故障したもので、
航空機の尾部に構造的な障害が発生したために起こりました。

 機体はハードランディングし、ルヴィエは背中を骨折しましたが、
6か月の回復の後、テストプログラムに戻ることができました。

Richard Bong写真の肖像画の頭と肩.jpg

ところで、このブログをお読みになっている皆さんは、おそらく
リチャード・ボングという名前に覚えがあるのではないでしょうか。

リチャード”ディック”・アイラ・ボング少佐
Richard 'Dick' Ira Bong(1920−1945)

は、P-38戦闘機で太平洋地域、ことにポートモレスビーで名をあげました。
日本機を通算40機撃墜し、アメリカ航空隊のエースになった人です。

ラエ基地の日本機を4機撃墜したということもわかっており、
これはあの台南航空隊の所属機であったことは明らかです。

 

アメリカ軍は、多大な戦果をあげた搭乗員に対しては勲章を与え、
褒賞の意味で、後方基地で教官職につけるという待遇に処していたそうですが、
ボングもまた1945年、軍の計らいで一線を退き、
戦地から帰ってきて、
戦時国債のための広報活動を行うというような日々を送っていました。

当時婚約者だったマージ・バッテンダールと結婚しおそらく幸せの絶頂だったでしょう。
彼はホームカミングで出会った美人の婚約者が自慢でたまらず、臆面もなく
P-38のノーズに彼女の写真を貼り付け、機体を「マージ」と名付けていました。

Wisconsin's Richard Bong became Pacific aceでれでれっす

しかし残念ながら、彼は飛行機で死ぬ運命から逃れられませんでした。

1945年8月6日ーそれはアメリカが広島に原爆を落とした日ですがー
そのころ、ロッキードでテストパイロットをしていたボングは、
12回目となるP-80シューティングスターのテスト飛行を行いました。

このときすでに彼はジェット機で合計4時間15分の飛行時間を経験していました。

彼の操縦する機体が離陸したとき、主燃料ポンプに不具合が生じます。
しかしボングはなぜか
補助燃料ポンプに切り替えることをしなかったため、
機体はすぐさま失速を始めました。


これは、彼が切替えるのを忘れたか、何らかの理由で
切り替えられなかったと考えられています。

すぐさま彼は機体から脱出しましたが、パラシュートが開くには遅すぎ、
地上に落下して死亡し、25歳の生涯を閉じたのでした。

彼の死は全国の新聞のトップ記事で報じられました。
そのニュースはおりしも日本時間8月6日に落とされた
広島への原子爆弾投下の報道とと第一面を共有しました。

 

バーチャムの事故もボングのときも、故障したのは主燃料ポンプでした。

バーチャムのときには、緊急用燃料ポンプのバックアップシステムが
新しく設置されていたことを彼に説明していなかったため、
彼は対処のしようがなく墜落に至ったわけですが、ボングの場合は
本人がこのポンプの電源を入れるのを忘れていた可能性
があるそうです。

このことは、やはり8月6日に飛行した同僚のレイ・クロフォード大尉が
ボングが以前のフライトで

「I-16ポンプをオンにするのを忘れた」

と言っていたのを聞いていて、このときもそうだったのだろう、
とコメントしたことで裏付けられる結果になりました。

つまり、両者の事故死の直接の原因は機体の不具合ではなく、
どちらもヒューマンエラーであったことになるのですが、
特にボングの場合、手順をミスしただけでなく、事故が起こってから
慎重で冷静なパイロットであればあるいはできたはずの、
最悪の状態を回避するための対処も全く行わないまま死に至りました。

このことをもって撃墜王はテストパイロットの適性に欠けていたと思われる、
というのは亡くなった者に対し少々残酷な評価でしょうか。

スミソニアンでは、Me262に立ち向かうために計画されたXP-80の隣に、
その御本尊であるMe262が展示されています。

戦後、USAAFはP-80とMe 262 Aを比較し、

「総重量に900 kgの差はあるものの、Me 262とP-80は
加速、速度、おおよそ上昇のパフォーマンスは同じである。

Me262は、現在の陸軍空軍戦闘機よりも、抗力の観点から、
明らかに重要なマッハ数 を持っている」

と評価づけました。

結果的にMe262の優秀さを素直に認めたということになります。

 

続く。


凡庸で偉大なジェット戦闘機 グロスター・ミーティア〜スミソニアン航空博物館

2020-07-11 | 航空機

スミソニアン博物館プレゼンツ、ジェットエンジン開発の歴史、
各国の開発の歴史をご紹介してきましたが、いよいよ残るは
当時の最先端だったイギリスとアメリカのみとなりました。
というわけで今日は大英帝国とまいります。

イギリスの開発については先駆者であるサー・ウィットルの項で
かなり詳しくお話ししているので重複する部分もあります。

🇬🇧 イギリス

イギリスが連合国軍側で初めてジェット機を搭載して飛ばすのに成功した
量産試作型のグロスターミーティア F-1です。

Fは戦闘機のF、その1号機というわけでしょうか。

おもちゃじゃないよ

スミソニアンのHPを検索したらこんな手抜きっぽい模型が
無駄に高画質でアップされていました。

今日はこのミーティアの話を中心にお届けしたいと思います。

 

さて、スミソニアンのコーナー展示を紹介しながら、ジェットエンジンが生まれてから
それが航空機に搭載され始めた頃の各国の技術競争について紐解いているわけですが、
そもそもタービンを使った駆動のアイデアは、いつから実在していたのでしょうか。

歴史を遡ると、イギリスでは1791年に最初のガスタービンが
ジョン・バーバーなる発明家によってパテントを取得されています。

その意味でもイギリスはタービンを発明した国というわけですね。

バーバーはこれを治金作業を効率的に行うために作ったということで、
仕組みは、外部にあるボイラーで木材、石炭、油などを燃やして得られたガスを加熱し、
それを別の部分で冷却し、 シリンダーで圧縮され、燃焼室に送り込まれて
そこで点火され、高圧ガスを生成して機械を駆動するというものです。

燃焼によってジェット=噴流を発生させ、推進に利用するという意味では
仕組みはジェットエンジンと同じといえないこともありません。

ここで確認のためにジェットエンジンの種類を簡単に書いておきます。
まず、広義にはジェットエンジンとは次の二つに分けられます。

1、ターボジェットエンジン

タービンを回して圧縮機で空気を圧縮し、その燃焼によって得られる排気流

2、ターボファンエンジン

ファンのついたターボエンジン
空気をエンジンコアに送り込み、飛行速度と同じ速さで排出する


さらに、

ターボプロップエンジン

エネルギーの大部分をプロペラを回すために消費するエンジン

プロップファン

ターボプロップエンジンに後退角のついた二重反転プロペラをつけたもの

ターボシャフトエンジン

圧縮機を動かすタービンの他にフリータービンを持っている。
ヘリのローターに使用される。

ラムジェットエンジン


吸入した超音速気流をラム圧(ram)により圧縮し亜音速まで減速させ、
そこに燃料を噴射して燃焼した排気の反動で推進力を得る

パルスジェット

単純間欠燃焼型のジェットエンジン。
給湯器などに応用されている。
ミサイルや航空機の推進装置として実用化されたことも。

スクラムジェットエンジン

ラムジェットエンジンと違うのは超音速燃焼が行われるところ。

外部動力圧縮ジェットエンジンジン

圧縮機を外部動力(通常はレシプロエンジン)で駆動する形式のエンジン。
カプロニ・カンピーニ、桜花はこのタイプを搭載していた。

 

さて、それでは次に「ジェットエンジン発祥の地」イギリスにおける
エンジン開発者を続いて紹介していきましょう。

collectionimages.npg.org.uk/std/mw188958/Alan-A...「金属疲労」を最初に見つけた人

アラン・アーノルド・グリフィス 
Alan Arnold Griffith 1893−1963

1926年に彼は

「タービン設計の空力理論」

を発表しました。
彼の初期の設計はターボプロップエンジンの理論につながります。

この頃、前にもここで取り上げた サー・フランク・ウィットルが、
遠心圧縮機を使用した
タービンエンジンに関する論文を書いています。

そのとき彼の論文は計算間違いがあったため、航空省に無視されたと書きましたが、
この間違いを指摘し、その排気が推力を提供しないであろう、
ダメ出したのが、他ならぬこのグリフィスでした。

ウィットルは当然失望しましたが、空軍軍人だった彼のRAFの友人たちは
とにかくこのアイデアを彼が追求することを確信し、応援し続けました。

その声に励まされた彼は、1930年にはエンジンの特許を取得し、5年後には
会社を立ち上げて研究を開始したというのはお話しした通りです。

グリフィスは、航空省研究所RAEの所長を務めながら、ここで
逆流ガスタービンを発明しましたが、研究は理論上の不備で中止されました。

RAEのジュニアエンジニアでグリフィスの部下でもあった
ヘイン・コンスタント Hayne Constant  1904-1968 は、
グリフィスを励まし、研究を再開するように勧め、自分自身も
RAEでタービンエンジンの研究を続けました。

これって、友人の励ましで立ち直ったサー・ウィットルを
落ち込ませた
張本人もまた技術者として落ち込んでいたところを励まされた
ということになりますね。

Why Metrovicks? | Thrust Vector師弟愛?

 

そして落ち込んで励まされたグリフィスにダメ出しされたサー・ウィットルは、
その理論を実験によって押し進め、彼を落ち込ませた張本人グリフィスも
その成果を見て彼のスタンスを再評価することを余儀なくされました。

サー・ウィットルのエンジンは、 Me 262にかなり似たデザインになり、
パフォーマンスも向上しましたが、それにもかかわらず、
機構が複雑すぎると考えられ、生産されませんでした。

 

グリフィスは1939年にRAEの主任科学者の職を辞してロールスロイスに転職し、
同社初の軸流圧縮機を使用するターボジェットエンジン、

ロールスロイス・エイヴォン Rolls-Royce Avon

の基本設計を行いました。

Mk.23

グリフィスの研究の中でも最も歴史的に重要なのは、エアジェットを使用した
ホバー内の制御、つまり 垂直離着陸 (VTOL)技術でしょう。
航空機を水平姿勢で空中に維持させるために、グリフィスは小型でシンプルな
軽量ターボジェットのバッテリーを使用することを提案しました。

これが「フラットライザー」です。

 

他にイギリスでジェットエンジンの開発に足跡を残した一人に、
ウィットルやグリフィスとは別系統で

フランク・バーナード・ハルフォード少佐 1894−1955

がいます。

File:Triumph-1922-Ricardo-Frank-Halford.jpg - Wikimedia Commons

第一次世界大戦で王立空軍のパイロットだったハルフォードは、
その後エンジニアリング部門でエンジン設計を行い、バイクのレースに出たり
バイクの製造をしたりというマルチな人生を送っています。

レーシングカーに航空機、動くものならなんでも、という勢いで
ホイホイといろんなエンジンを設計しまくっているうち、
ジェットエンジンにも興味を持ち、デハビランド H-1「ゴブリン」
そしてあの名作、H-2「ゴースト」を生み出します。

「ゴブリン」も「ゴースト」も、デハビランド のジェット戦闘機、
DH100 「ヴァンパイア」に搭載されることになりました。

この機体はヴァンパイアの F.Mark1で、ゴブリンエンジンを二基、
1400kgの重量で推力を安定させるために搭載しています。

 

ちなみにこの「ヴァンパイア」ですが、富士重工が
航空自衛隊の練習機T-1の参考にするために輸入したため、
日の丸をつけた機体が一機だけ現在浜松で公開されています。

なんかすごい微妙なところに日の丸があるっていうか・・・(笑)

グロスター ミーティア Meteor F.1

ジェット試験機を設計するという仕事がグロスター社にきたのは、
歴史は古いものの、二流メーカーとみなされていた同社が
戦時にもかかわらず暇にしていたためだったそうですが、
たしか日本にもおなじような話がありませんでした?
あれはたしか震電の開発に指名された九州飛行機という・・。

面白いことに、これと同じパターンはアメリカにもあって、
初のジェット戦闘機「FHー1ファントム」開発を指名された時の
マクドネルも当時は新興で暇にしていたのだそうです。

戦中、リスクの多いジェット機の開発は生産ラインに影響を及ぼすので
大手の航空会社ではなく暇そうなところにやらせるというのが理由だったとか。

 

さてこのミーティア、搭載するエンジンでゴタゴタが起き、
ウィットルのW1を積むかどうか
さんざん揉めた結果、結局のところ
ハルフォードのH1「ゴブリン」に決まりましたが、
戦闘機としての評価は

「機体は革新性皆無の凡庸なもの」

「機動が±2Gに制限されていて対戦闘機戦闘は不可能」

「連合国初のジェット機という存在価値しかない」

と散々でした。(です?)

しかも、ジェットエンジンという先端技術を搭載していたため、
連合軍が機体を鹵獲されるのを恐れて連合国の上だけしか
飛ぶことを許してもらえなかったという・・・・。

 

結局ミーティアがこのエンジンでドイツ上空に出て作戦を行ったのは
ドイツが散々弱ってもうだめぽ、となった最後の数週間だけでした。

もともとミーティアはMe262との交戦を想定して作られましたが、
もしそうなっていたとしても、結果は見えていた気がしますね。

1942年に撮影されたミーティアの姿です。

そんな振るわないデビューだったミーティアちゃんですが、
究極のターボジェットエンジン、ロールスロイスのニーンが誕生すると、
すぐにこれを搭載して、パワーアップし、Me262に同等、あるいは
下手すれば勝つる、
というところまでこぎつけました。

しかし時すでにお寿司、ニーンを積んで行った初飛行は1945年5月。

はい、みなさん、ドイツが降伏したのはいつだったですか?
今まで散々性能を馬鹿にされたグロスター関係者は、きっと
このタイミングの悪さに涙を流して悔しがったことでしょう。

しかし、当初から凡庸で革新性のない機体と言われたことは、
逆にいうと潰しが効くというか、中を入れ替えて使いやすいということです。

ミーティアはその後練習機となったり新しく導入する機体の
繋ぎを務めたり、訓練機や連絡機として、そして
次世代エンジン開発のためのテスト機を務めたりと大忙し。
空母運用試験では艦上搭載機のテストのために離着艦を務めたりしています。

実験機としてこんな面妖な姿にされてしまった子もおりました。

グロスター・ミーティアF8「プローン・パイロット」

は、人間の耐Gの限界を解明するため、機種の部分に
伏臥位の姿勢で乗る
コクピットを備えていたという実験機です。

伏臥位で操縦したら、より大きなGに耐えられる可能性があるかも、
と仮説を立てたんですね。
それでこんなものを作ってしまったということらしいですが、結果は

後方視認性と射出の難しさは、より高い
「G」効果を維持する利点を上回っていることを証明した

直訳するとこうですが、簡単に言い換えると、

「後ろが見えないし、射出がうまくいかないので、
この問題を解決するくらいならGをなんとかする方が早い」

ってことですよね。
作る前にそれくらいわからなかったのかな。わからなかったんだろうな。

 

しかしミーティア、外国空軍からも「初めてのジェット機」として
大変需要が高く、イギリス連邦以外の多くの国に輸出されました。
ベルギーやオランダなどのようにライセンス生産した国もあります。

まさに凡庸さが使い勝手の良さを生んだという意味では
それなりに偉大な航空機だったといっていいでしょう。

 

 

続く。


スェーデン、ハンガリー、ソ連のジェットエンジン開発事情〜スミソニアン航空博物館

2020-07-09 | 航空機

 

スミソニアン航空化学宇宙博物館の展示から、
ジェットエンジンの発明とその開発についてお話ししています。

今日はまずこの飛行機から参ります。

🇸🇪 スウェーデン 

サーブ・トゥンナン SAAB-29 Tunnan 1948

サーブというと自動車のイメージが強いですが、航空機から出発した会社です。
SAABという名前も、スウェーデン語で「スウェーデン航空会社」を意味する

Svenska Aeroplan ABSaab

というくらいで、1937年に創立したのは、軍用機の生産のためでした。

「トゥンナン」というのはスウェーデン語で「樽」を意味し、
この機体の樽っぽい感じをそのまま表しているネーミングです。

王立スウェーデン空軍によってデザインされたSAAB-29
ヨーロッパで最初の後退翼を持った戦闘機となりました。

基本性能が良く、戦闘、攻撃、偵察のマルチロール機として
サイズの小さなスウェーデン空軍とオーストリア空軍で
1951年から20年間にわたって運用されていました。

翼に三つの王冠を描いた国章があしらわれていますが、
「トゥレー・クローノー」(三つの王冠)
スウェーデンそのものを指すこともあります。

昔スウェーデンを統治しにドイツからやってきた王様が、
スウェーデン、フィンランド、メクレンブルグを治めるという意味で
三つの王冠を国章にしたという話です。

スウェーデンでライセンス生産されたゴースト、RM 2

動力はイギリスのデハビランド社が製作した遠心圧縮機ターボジェット、

デハビランド ゴースト De Havilland Ghost

を搭載し、安定した排気が供給されていました。
最初の名称はフランク・ハルフォードが設計したH-1に合わせて
H-2となっていましたが、ハルフォードの会社はデハビランドに買収され、
同時に、

H-1→ゴブリン H-2→ゴースト

小鬼と幽霊となったというわけです。

🇭🇺 ハンガリー

György Jendrassik ジェルジ・イェンドラシック(1898−1954)

英語だとジョージ、ドイツ語はゲオルグ、フランスがジョルジュ、
ロシアだとグレゴリーが、ハンガリーではジェルジとなるわけですか。
 

イェンドラシックはブタペスト生まれのハンガリーの物理学者であり
機械工学者で、ベルリン大学ではアインシュタインの物理の講義を聞いています。
卒業後ディーゼルエンジンの開発を経てその道のエキスパートになりますが、
1937年に小さなガスタービンエンジンの研究開発に着手し成功しました。

その後、ガンツ社で軸流式ターボプロップエンジン、
CS-1のプロトタイプを完成させています。

なお研究は第二次世界大戦中でしたが、彼の仕事は
ある意味戦争の影響をほとんど受けませんでした。

イェンドラシシック CS1

1941年に完成したCS-1は1000馬力のパワーを持ち、
航空機用に作られた世界最初のターボプロップエンジンです。

タービンが毎分1万3500回転し、毎分1600回転で
減速装置を介してプロペラを回転させるという仕組みです。

第二次世界大戦が始まって、ヨーロッパでいろんな作業が
中断を余儀なくされたとき、CS-1はちょうどベンチテストに入っており、
試験飛行用に二基のユニットを取り付け、ツインエンジンにする計画中でした。

テスト飛行が1940年に行われ、世界初のターボプロップエンジンになったのですが、
肝心のハンガリー空軍が銃戦闘機としてメッサーシュミットMe210 を選んだので、
CS-1の開発はそこでいったん中止され、工場はしかたなく
Me210に載せるダイムラー・ベンツ DB 605を作っていました。

ここではたと気づいたのですが、第二次世界大戦時代、ハンガリーは
ドイツと防衛協定を結んでおり、一応枢軸国側だったんですね。

その少し前はながらくオーストリア=ハンガリー帝国だったわけですから、
ドイツと併合したオーストリアの右へ倣えするのは当然の成り行きです。

というわけで、ハンガリーにはドイツからの技術協力があったどころか、
いわばミニナチスみたいな、

「矢十字党」
Nyilaskeresztes Párt-Hungarista Mozgalom、NYKP

という極右政党があって、ハンガリー主義なる(ハングリー精神じゃないよ)
民族主義を謳い、ナチスの支援を得て1944年暮れから3ヶ月間だけとはいえ、
ハンガリーを統治したこともあり、しかもその短い間にナチスに倣い、
8万人ものユダヤ人を収容所に送ったりしているのです。

Flag of the Arrow Cross Party 1937 to 1942.svg矢十字

みなさんご存知でした?こんな旗の存在を。

ふっ切ってます

ドイツからはおそらくパシリ扱いされていたハンガリーなので、
ナチスがうちの戦闘機使え、うちのエンジン作れ、と言ってくれば
断るわけにいかなかったのかなという気がしますね。


その後、イェンドラシックはCS-1エンジンを搭載するために

 RMI-1 ヴァルガ Varga

ラズロ・ヴァルガに航空機を設計させました。

Boxart Varga RMI-1 X/H 4 IRMA

写真右がイェンドラシック、左がラスロ・ヴァルガ博士です。
Laszro Vargaという名前はハンガリーによくある名前らしく、
検索したらチェリスト始めたくさん出てきたのですが、
この設計者だけはどこを探しても出てきませんでした(´・ω・`)

Varga.svg

機体の下部にエンジンを抱くような形がユニークです。
個人的には頭にちょんまげ載っけているよりはいいかなと(笑)

ところで、どこを探してもこのヴァルガのRMI-1の写真がないので、
変だなと思ったら、1944年になってCS-1のエンジンではなく
ダイムラーベンツのエンジンを乗せて、試験走行を行い、
さあこれから試験飛行というときに、

連合国軍の爆撃に遭い、
破壊されてしまったのでした(-人-)RIP

まるで日本の橘花の開発経緯とその終焉を見るようです。
敗戦国の技術者というのは本当に気の毒な立場だと思いますね。

 

ソビエト連邦

今日最後はソビエト連邦です。

ボリス・セルゲイビッチ・ステキン Boris S. Stechkin 1891ー1969

は1929年にターボジェットについての論文を書き、
アーキップ・リュルカ(Arkhip M. Lyul'ka1908-1984)もまた、
結果は失敗ながら第二次世界大戦中にジェットエンジン研究を行っています。

しかしながら、初期のソ連が製作したジェットエンジンは、
所詮はドイツのコピーであり、イギリスの動力を使用したものでした。

 

ソ連の科学技術というのは、冷戦以降のアメリカとの宇宙戦争を知っていると
世界でも特に発展していたかのようなイメージがありますが、
ジェットエンジンの研究にも見られるように、第二次世界大戦中は、
(そして戦後も)後進国といってもいい遅れをとっていました。

たとえば、戦争が終わったとき、アメリカが「ペーパークリップ作戦」で
ドイツの技術者や技術、そして航空機や兵器を漁りまくったのを見て、
ソ連はあわててアメリカの真似をし、ドイツのめぼしいものを
手当たり次第集めてきたのですが、大変残念なことに
敗戦直前に作られたドイツの製品は、品質的に劣悪なものばかりでした。

ただしそれらは理論的技術的にあまりにも高度で、ソ連の当時の基礎技術では
それを取り入れ
自国のものにするということができなかったということです。

 

冷戦が本格化したのは1946年からですが、その直前、
ソ連に寛容だった当時のイギリス労働党政権が、

ロールロイスのニーンエンジン(Rolls-Royce RB.41 Nene)

を40基ほど売ってくれたので、ソ連はそれを叩き台にして
RD-45というエンジンを製作することに成功しています。

Rolls Royce Nene.jpg ロールスロイスNene

ちなみに、このとき、金属の組成を調べるために、ソ連技術陣は
「特別製の靴」を履いてロールスロイスの工場見学を行い、
靴の裏で集めた金属粉を分析するということまでやっています。

特別製の靴・・・・磁石でも仕込んでたのかな。

ロールスの人も、ソ連の見学者が、金属屑の散らかったところばかり
選んで進むのになんだか変だなとか思わなかったのでしょうか。

 

このときにコピーしたエンジンは1950年、ウラジーミル・クリーモフ
V. Klimov(1892-1962)によって「わずかに再設計」され(´・ω・`)
クリーモフVK-1としてMiG−15に搭載されることになります。

VK-1エンジン

これを搭載したMiG15は、当ブログでも最近ご紹介しましたね。

繰り返しますが、戦後、イギリスが政権をとっていたのは労働党政権でした。

あの「ゆりかごから墓場まで」で有名な左派政党です。
キャッチフレーズはともかく、共産社会主義が陥りがちな
優遇された労組の度重なるストライキで社会は疲弊し、
このあと政権をとった保守政党は「英国病」ともいわれる
経済政策の失敗による後遺症に苦しみました。

この時のイギリスも、どこかの国の民主党政権がそうだったように、
仮想敵でもあるはずの共産国家に友好的なところを見せようと、
航空エンジンなどという基幹産業の根幹でもある技術を
ホイホイと売り渡してしまったということになります。

皮肉なことにその結果生まれたMiG15は連合国に深刻な脅威を与え、
朝鮮戦争でMiGシリーズは連合国を散々苦しめることになるのです。

ミコヤン・アンド・グレヴィッチ MiG−17

エンパイアステート航空博物館の「MiG三兄弟」で
この17もご紹介しましたね。

Mig 17

MiG−17もクリーモフVK-1ターボジェットエンジンを搭載しています。
MiG15よりさらに翼が薄く、素晴らしい後退翼を持っていました。

ツポレフ Tuporev Tu-104

1955年に初飛行を行なった民間ジェット機です。
二基のミクリンAM-3ターボジェットユニットを持ち、
115名の乗客を搭載することができました。

NATOは「キャメル」というコードネーム で呼んでいたそうです。
ジェットエンジンを使った旅客機をアメリカより早く誕生させ、
フルシチョフがイギリス訪問の際使用し、西側諸国の知るところとなります。

案の定このツポレフ中距離爆撃機のTu-16を作り替えたもので、
旅客機としては居住性が極端に悪く燃費も悪かったうえ、
そもそもエンジンの取り付け方法からそて世界初のジェット旅客機、
イギリスの「コメット」の模倣というものでした。

しかし当時は「コメット」が構造欠陥のために運航停止しており、
まだボーイングもダグラスもジェット旅客機は開発段階であったため、
ソ連が世界で最初にジェット機を就航させていたことに
西側は一様にショックを受けたといわれています。


こうしてみると、ソ連というのは、模倣から入るものの、
その技術を昇華させ応用して追随できないものを作る能力が
特にMiGに関しては大変高かったという気がします。

その点、我が日本の技術発展の傾向と似ているかもしれない、
とわたしはふと思ったのですが、みなさんはどうお感じになりますか。

 

続く。

 


フランツとスティパ ドイツとイタリアのジェットエンジン開発〜スミソニアン航空博物館

2020-07-08 | 航空機

 

スミソニアン博物館プレゼンツ「ジェットエンジン機の歴史」シリーズ、
日本におけるジェットエンジン開発と橘花にかかわった技術者たちについて
ご紹介しましたので、次は枢軸国のよしみでドイツとまいります。

🇩🇪ドイツのジェットエンジン開発

ドイツのジェットエンジン開発は1936年から始まっていました。
前々回ご紹介したハンス・フォン・オハインが遠心力式のそれを搭載した
ハインケル178を設計したのは1939年のことです。

並行して、軸流式エンジンの開発は、ヘルベルト・ワグナー
マックス・アドルフ・ミュラーのもとで行われていましたが、
こちらは途中で中止となりました。

この期間で最も成功をみたタービンエンジンの開発は、
1941年、アンゼルム・フランツユンカー・エンジン社で行ったもので、
それがあのJUMO 004ターボジェットエンジンでした。

開発にあたってはゲッティンゲン大学のチームが助力し、
名機メッサーシュミットMe262に搭載されることになります。

Jumo 004アンゼルム・フランツ

ちなみにアンゼルム・フランツが戦後ペーパークリップ作戦で渡米し、
ライカミング社で開発したT53型は史上最も普及したエンジンの一つとして
UH-1ヒューイAH-1コブラに搭載されています。

そのライカミングのT53エンジンもスミソニアンに展示されています。

アメリカにとって初めてのガスタービン式エンジンで、
排気ガスによって駆動され、エンジンのドライブシャフトに連結するという設計です。
このアレンジにより、ヘリコプターの操作に有利な、
可変トルクにおける一定の回転数が可能になりました。

 

パルスジェットの開発は1931年、パウル・シュミットによって行われました。
パルスジェットはその後、第二次世界大戦中に使用された
フィーゼラーF1 103”バズボム”
を駆動するのに製造されました。

The Museum's Fieseler Fi 103 on display in the Great Gallery

シアトルの航空博物館に展示されているフィゼラーF1 103です。
HPを覗いてみたら、やはりここもクローズしていて再開の見込みは立っていません。

パルスジェットはこの写真でご覧のような筒の形状で、
アルグスAs 014という名称でした。

わかりやすいパルスジェットの仕組み。

こちらは第二次大戦中、鹵獲したMe262に搭載されていた
フランツのJUMO004ジェットエンジンを検分するカール・スパーズ元帥と、
ハロルド・ワトソン大佐ジョージ・マクドナルド元帥ら。

スパーズ元帥はアメリカ陸軍航空の生みの親のような人で、
ワトソン大佐はおそらくドゥーリトル空襲のメンバーの一人です。

彼が司令官として戦後ルフトバッフェの航空機を集めたチームは
「ワトソンの魔法使い」という渾名だったことを思い出してください。

ハインケルHe 280は、初めてジェットエンジンを搭載した戦闘機で、
1941年4月2日、初飛行に成功しました。
フォン・オハインが開発したHeS 8Aエンジンを翼に二基搭載しています。

He 178に埋め込まれたエンジンの取り付けに関する問題を解決しようとして、
最初初のツインジェット飛行機が生まれたというわけです。

ハインケルHe162 フォルクス-イェーガー

フォルクスイェーガー=国民の戦闘機という名前です。
(シュペーアとゲーリングが主導したという話を前にもしましたね)

橘花に搭載されたNE001エンジンを作る際参考にしたという
BMW003ターボジェットエンジンを搭載しています。

これも橘花の目的同様、大戦末期に、爆撃機迎撃目的で作られましたが、
危険な飛行特性により、それは結局採用されませんでした。

He 162A-1 120067号機 (1945年撮影)

機体は当時のドイツの国内事情を踏まえて、所々に木製部分があり、
熟練工でなくても制作できるようになっていました。
日本が石油不足で悩んだように、ドイツもアルミニウム不足だったのです。

それにしてもまるでちょんまげのように背中にジェットを積んでいるという
たいへんユニークな形ですが、前から見るとこんな・・・・。

スミソニアンではまだ鋭意準備中で展示はされていません。

ところでこの戦闘機の「危険な飛行特性」とはなんだったかというと、
一にも二にも、

「30分しか飛んでいられないこと」

そりゃ問題だわー。

時間切れで墜落し死亡するパイロットがいたばかりか、
10人中人の死亡原因が「機体の不具合による墜落」
だったといいますから、まるであのコメートのような
取り扱い危険兵器であったことがわかります。

ただしコメートはグライダー飛行で帰ってくることができましたが、
(その間敵に遭遇しなければですけど)

こちらはグライダーの飛行経験がある程度ではとても扱いきれない、
操縦の難しい飛行機でした。

戦争がすぐに終わったので被害はそう多くありませんでしたが、
もし正規に投入されていたら、たとえばヒトラーユーゲントのような
若いパイロットの命が多く失われていたに違いないと考えられています。

 

🇮🇹イタリアのジェットエンジン開発

CAPRONI- CAMPINI カプロニ・カンピニC.C.2 1940

カプロニ・カンピニ。

まるで料理かカンパリ酒の親戚みたいですが、

イタリア人技術者、スゴンド・カンピニによって設計されたものです。

mentiagenti.altervista.org/wp-content/uploads/2...目が怖い

ムッソリーニのファシスト政権は世界初のジェット機だと讃えましたが、
実は1年も前にハインケルのHe178が初飛行を極秘で成功させています。

機構はいわゆるハイブリッドで今でいうモータージェットと、
圧縮機を駆動するイソッタ・フラスキーニ製レシプロエンジン
どちらも搭載していました。

まずレシプロエンジン駆動された圧縮機によって吸入・圧縮された空気を
機体後部でガソリンと共に燃焼することによってジェット排気を得るという機構で、
カンピーニはこの構造のエンジンをサーモジェット(thermojet)と呼んでいました。

1941年11月30日には、シュナイダー・トロフィーレースで優勝した
第一次世界大戦時代の戦闘機&水上機パイロットのマリオ・デ・ベルナルディ
C.C.2をタリエドからグイドニアまで操縦することに成功させました。

Mario de Bernardi - Wikipediaマリオ・ベルナルディ

イタリア初の撃墜王」マリオ・デ・ベルナルディ ―水上機レーサーとして ...絶対自分のこと色男とか思ってるよね

スゴンド・カンピニと飛行前会話をするマリオ

 

1941年の飛行の際、彼は特別の丸い切手を貼った手紙を
到着地に届けたため、これが世界で初めてのジェット航空便となり、
イタリア国内はこの快挙に沸いたといわれています。

余談ですが、マリオ・デ・ベルナルディが亡くなったのは66歳。
そのころも元気に飛行機に乗っていたマリオは、ローマで
自分の飛行機を操縦してデモンストレーションを行っている途中、
心臓に異常を感じ、機体をすぐさま着陸させましたが、
着陸して数分後に心臓発作で亡くなりました。

愛機を墜落させることなくきっちり着陸し飛行機の上で死ぬ。
最後まであっぱれなイタリアンヒコーキ野郎ぶりではありませんか。
本人もこの最後は満足だったんじゃないかな。知らんけど。


また、イタリアには次のようなジェットエンジン研究者がいます。

コジモ・カノベッティ Cosimo Canovetti(1857−1932)

初期のイタリアにおけるパイオニア。(本人画像なし)
1905年にはタービンエンジンについての理論を打ち立て、
1906年に3馬力のモデルを製作しています。

都市計画や土木なども専門で、空気力学的抗力係数の決定でも
実績を残していますが、あるきっかけで土木工学を放棄し、
いきなり空力研究に情熱を傾け始めました。

20世紀の初めに、彼は軽くて操作がシンプル、そして振動がない
飛行船のエンジンを考案しました。
それはイタリアで、そしておそらく世界で最初のターボプロップエンジンでした。

彼の業績は、当時もかなり過小評価されてきましたが、今日でも、
その希少な有為性について知る人はあまりに少ないといわれています。

 

ルイジ・スティパ Luigi Stipa(1900−1992)

Luigi Stipa, un sogno lungo una vita - Editoriale Olimpia - 32,00 €

コールドジェットエンジンをデザインしたイタリアの技術者です。

1920年、スティパは彼の油圧工学の研究を応用して、
航空機が空中をより効率的に移動するための理論を開発しました。

通過する管の直径が減少するにつれて流体の速度が増加するという
ベルヌーイの定理を空気流に適用して、 航空機の働きを
より効率的にすることができると考えたのです。

スティパは何年にもわたってこのアイデアを数学的に研究し、最終的に、
ベンチュリ管の内部を翼のような形状にするという結論を証明するため、
実験的な単発プロトタイプ航空機の建造を行いました。

これを歓迎したのはファシスト政府です。
イタリアの技術の成果を世界にアピールするプロパガンダとして
この事業を承認し、1932年にプロトタイプを作成するのに成功します。

1932年、カプローニ・スティパ実験飛行機の正面図。
中空管の内部にプロペラとエンジンが取り付けられています。

スティパ・カプローニ

かわいい

1932年10月7日に飛行中の実験飛行機。
カプロニ社のテストパイロットドメニコ・アントニーニによって操縦されました。

飛行機の外観は著しく不快でしたが

プロペラがエンジン効率を高め、チューブの翼形も
スティパのコンセプトを証明しました。

同様のエンジン出力の航空機と比較して、上昇率が向上しており、
操縦特性が向上し、飛行中の安定性が高くなっています。

見かけ以外の大きな欠点(笑)は、プロペラの抵抗力が大きく、
設計上の利点のほとんどが打ち消されたことでした。

ただし、スティパはこれをを単なる「テストベッド」と見なしており、
問題にしていなかったようで、開発はすぐに終わりました。

彼はジェットエンジンを発明したわけではありませんが、この設計は
ヨーロッパ中のエンジン設計に影響を与えたと言われています。

 

フランスは、 夜間爆撃機にスティパの管内プロペラ案を、
ドイツでは、ルードヴィヒ・コルトが スティパの管付きプロペラに似た
ダクトファンを発明し、これは現在も使用されています。
また、ドイツのハインケルT戦闘機の設計は、スティパの概念に類似しています。 

イタリアでは、モータージェットを搭載したプロペラのアイデアから
カプローニカンピーニN.1が1940年に登場しました。

スティパは生涯、ジェットエンジンは自分が発明したと信じており、
自分が正当に評価されていなかったことに腹を立てていたと言われます。

しかし一部の航空史家はスティパに少なくとも部分的に同意しています。
なぜなら、現代のターボファンエンジンには、
彼の管内プロペラコンセプトの発展である部分が確かに存在するからです。

 

続く。

 


フォン・オハインとウィットル 二人のジェット機開発者〜スミソニアン航空宇宙科学博物館

2020-06-28 | 航空機

冒頭写真はスミソニアン博物館の初期のジェット戦闘機、
ファントム、Me262、ロッキードXP80ルル・ベルが展示されている
その反対の壁を飾っている壁画です。

初期のジェット戦闘機として我が帝国海軍の「橘花」が参加していますね。

その反対側がこうなっております。
どうも右に行けば行くほど時代も進んでいっているようです。
ジェット旅客機やファントムII、MiGも仲良く同じ方向を向いて飛んでいます。

というわけで今日はスミソニアン博物館の展示から、世界のジェット機史、
というパネル資料をご紹介していきたいと思います。

まずは導入部として、

「ジェット推進のパイオニアたち」

というこのようなケースが登場しました。

「HERO'S AEOLIPILE」

どう読むのかもわからないこの後半の単語ですが、
検索すると

「アイオロスの球」(またはヘロンの蒸気機関)

という人類史上最初に作られたジェット推進の理論による機器だそうです。

ドラムの中の水を熱することでノズルから蒸気が噴出し、
これをタービンとして回転する仕組みで、アイオロスとは
ギリシャ神話の風の神の名前です。

何か実用的なことに使われたわけではなく、
この真理によってそのうち何かうまれるのではないか、
という期待のもとに、見せ物になっていただけのようです。

ただ、アメリカ海軍のボイラーメーカーの技術徽章は
このアイオロスの球が象徴としてデザインされています。

 

さて、というのは歴史を紐解くにあたっての「つかみ」で、
ジェット推進システムの歴史は一挙に近代に飛びます。

 

ピストンエンジンによるプロペラ機構は、一度は
航空機推進のための究極にして最後の方法と考えられていましたが、
この動力に限界を感じる技術者たちもたくさんいました。

時代や存在する地域も様々で、互いの存在もその研究も全く知らない
技術者たちは、それぞれが独自の方法でその研究を推し進めました。

これらの創造的な個人がジェット推進の新技術に、それぞれが
多大な貢献をすることになり、推進の先駆者と呼ばれるに値します。

そしてその下には50人ほどの世界中の技術者の名前が推挙してありますが、
ここに 日本人の名前を見つけました。

「Osamu Nagano」永野治

そして

「Tokiyasu Tanegashima」種子島時休

海軍技術将校だったこの二人は、先ほどの絵にも描かれていた
日本初のジェット推進機「橘花」を
開発製作したのです。

そしてその人たちを指して、当博物館では

「これらのあまり知られていない技術者たちの中には、
大きな進歩に寄与した人々、間違った推論を探索して除外した人々、
努力そのものは報われずとも、その功績がジェット推進の分野に
さらなる関心を集めることに役立った人々が含まれます」

という言葉で称えています。

この二人と橘花については説明を後に譲るとして、
コーナーの中央で紹介されているこの二人、

ドクトル・ハンス・フォン・オハインとサー・フランク・ホイットル
そのパイオニアの中のパイオニア、つまり、世界で一番最初に
ジェット推進を形にした技術者を今日はご紹介します。

まず、右側の

サー・フランク・ウィットル(1907−1996)

はイギリス空軍士官の身分のまま、ケンブリッジ大学で
遠心式ターボジェットこそが次世代の推進機構として戦力化すべき、
という論文を発表した天才ですが、彼の論文は軍需省に認められず、
試作のための協力も得られないという目に遭います。

しかも彼の論文は普通の雑誌で公開されていたため、
目の利く各国の技術者が猛烈に後追いを始める結果になりました。

そんなころ、ゲッティンゲン大学を出たばかりのドイツ人、

「乾杯〜」(立ってる人)

ハンス・ヨアヒム・パブスト・フォン・オハイン(1911−1998)

は、ジェットエンジンを作り上げていました。

23歳のフォン・オハインは、大学時代「ぎこちなくて」スピードに限界のある
ピストンエンジンに代わるものとして、ジェット式推進に興味を持ちました。

真理は同じところに帰結するとでもいうのか、全くウィットル論文を読んでおらず、
その存在も知らないのに、彼の立てた理論は、細部こそ違っていましたが、

ウィットル考案の機構に非常に似たものだったそうです。

彼がデザインした世界初のターボジェットエンジンを、あの
エルンスト・ハインケル(左隣で乾杯している人物)に見せたところ、
即採用となり、ハインケル社で本格的な開発が始まりました。

ターボジェットを搭載したハインケルの飛行機はHeS 11で、
量産が始まったのは戦争が終わった1945年からのことです。

彼が持ち込んだデザインは史上初の試みながらクォリティが高く、
彼は名実ともに
ジェットエンジンを人類の歴史にもたらした人物となりました。

かたや、論文の粗探しをされて無視され放置されたウィットルは、
「栄光なき天才たち」のネタにされてもいいような不遇なスタートでしたが、
転んでもただで起きないタイプとみえて、空軍中尉の身分のまま
「パワージェット社」という会社を起業し、持論に基づく
遠心式ターボジェットエンジンの試作を猛烈に始め、結果的に

フォン・オハインとほとんど同時に

試作型を完成させることに成功しています。

しかし当時、ハインケル社はナチスとドイツ空軍に冷遇されていたため、
初のジェットエンジン搭載についても積極的な公開がされず、その結果当時は
ウィットルのジェットエンジンが世界初だと喧伝されていました。

これはオハインが開発したジェットエンジンを搭載して
初飛行に成功したハインケルHe178 V1です。

リベット溶接した単座式のコクピットで翼は木製、
尾輪タイプの引き込み式着陸装置がついています。
インテイクのダクトはシートのアルミニウムに取り付けられた部分にあり、
ジェット排気パイプは薄いクロームスチール製でした。

可変式排気ノズルは飛行中の推力制御用に設計されましたが、実際
固定ノズルは簡素化、時間、及びコストの点で選択されていました。

下はハインケルHe178V1のエンジン搭載概略図です。
ベンチテストのために取り付けた短い吸気口と翼にマウントした
ジェットパイプのため当初重量が450kgになりましたが、
これを長いダクトに取り替えながら、重量15%減となる
380kgにまで抑えることに成功しています。

左、ハインケル178V1     1939

右、グロスター 28/39 1941

グロスター E.28/39

ウィットルがフォン・オハインとほぼ同時に完成させた、
ウィットルW1、W1Xターボジェットエンジンは、
イギリスのグロスターに本拠地を持つ、グロスターエアクラフト社によって
イギリス初のジェット機に搭載されました。

ところでウィットルというひとが航空機の世界に進んだのは、
小さな時に父親が彼に与えたおもちゃの飛行機がきっかけだった、
とスミソニアンの説明には書かれています。

男の子なら小さい時に飛行機のおもちゃを与えられるのは普通ですが、
才能の花開くきっかけはどこにあるかわからないものです。
だから古今東西、世の中の親というものは、あらゆる可能性を少しでも多く
我が子に用意してやろうと思うのでしょう。
(ちなみにウィットルの父親は自動車整備工だった)

首席で空軍士官学校を卒業後、航空学校を経て戦闘機パイロットになった彼は、
若くして教官となり、のちに自分でテストパイロットも務めています。
その後やおらケンブリッジに進んでエンジンの論文を書き出すのですから、
まさに飛行機のことならなんでもやってみたい(そしてできた)人だったんですね。

しかし、彼の開発はフォン・オハインほどうまくいったわけではありません。

確かに、自社であるパワージェット社で完成させた最初のプロトタイプは
関係筋の関心を引き、契約にもなんとか漕ぎ着けましたが、

このころの絶え間ない開発の繰り返しとエンジンの問題によるストレスは、
ウィットルの精神に深刻な打撃を与えました。

彼の喫煙量は1日3パックに増加し、頻繁に激しい頭痛、消化不良、不眠症、
不安からくる皮膚湿疹、心臓の動悸などのさまざまなストレス関連の病気に苦しみ、
体重は激減しましたが、1日
 16時間仕事をするためにベンゼドリン(アンフェタミン)
を嗅ぎ、夜間は鎮静剤と睡眠薬を飲んで無理やり眠るという生活をしていました。

 この期間に彼は精神を蝕まれ、「爆発的な」気性は顕著になったといわれます。


人と協調できない偏狭な性格のせいでその後も軍需省と製作を請け負った
ローバーや他の業者
の技術陣とは最終的に対立してしまったほどでした。

The genius who invented planes without propellers | Express.co.uk空軍士官姿のウィットル

彼を評価したのはアメリカでした。

というか、ハインケルの情報をすでに得ていたはずのアメリカは、
ジェットエンジン研究を、同盟国のウィットル論文をお借りして枢軸国より早く
ものにする漁夫の利作戦にでたのです。(たぶんですけど)

1941年、アメリカ政府の要請により、ジェットエンジンW1Xは
ゼネラル・エレクトリック社に研究のために貸し出され、
GEの技術陣はあっという間にウィットルの設計をベースにして
ゼネラル・エレクトリックI-Aターボジェットエンジン
を完成させてしまいました。

ベル XP-59A

GEのエンジンを使って製作したアメリカ初のジェット航空機です。

二基のウィットルタイプ=GE IーAエンジンを搭載し、
1942年10月1日に初飛行を行いました。

テスト飛行を行ったのベル専属のテストパイロットロバート・M・スタンレー

Bob Stanley海軍時代のスタンレー

スタンレーは初めてジェット機を操縦したアメリカ人となりました。

余談ですが、彼もまた技術者で、のちにスタンレーという会社を起こし、
リバーシブルピッチプロペラやスタンレー式射出シートなどを開発しています。

1977年、家族でカリブに旅行に行った帰り、自家用ジェットが墜落し、
彼と妻、息子と孫、もう一人の息子とフィアンセ、盟友、
その全員が死亡するという悲劇的な事故で亡くなっています。

 

スタンレーが操縦したベルXp-59Aはテスト飛行で時速626kmを記録し、
高度は
およそ1万メーターに達しました。


さて、そのころになると、世界でジェットエンジンの研究開発が
日進月歩の熾烈な競争になっていたわけですが、ウィットルは
根本的問題のある持論に固執し、元々の性格もあって周囲と対立していました。

エンジン製作を請け負ったローバー社でも嫌われて次第に排除され、
いつの間にか開発の最前線から遠ざけられるようになっていたのです。

彼が作ったパワージェッツ社も、弱小で設備もろくにないまま、
王立航空研究所の1部門にいつのまにか吸収されてしまいました。

しかし、彼の人生の最後の日々は決して惨めだったというわけではありません。
 

まず1948年5月に、ホイットルは、ジェットエンジンに関する研究の功績により
英国王立委員会から賞金100,000ポンドを贈られ、
 大英帝国騎士団長(KBE)としてナイトに叙爵されました。

退役後の彼はBOACで航空機用ガスタービンのテクニカルアドバイザーとなり、
世界中を回ったり、自伝を書いたりの悠々自適な生活を楽しみ、

シェルで機械工学のスペシャリストとして新型パワードリルを開発、
そのあとはブリストルエアロエンジン社でまたしてもエンジン開発を試みています。

その間、アルバートメダル受賞始め、世界中の大学から名誉学位を授与されていますし、
国際航空宇宙殿堂入りも果たしていますし、いまだにイギリスでは
最も偉大なイギリス人のトップ50くらいにはつねに名を連ねています。

日本語のwikiではなぜか彼が閑職に甘んじ鬱々と過ごしたようなイメージで
惨めな老後だったような印象操作をしていますが、これは間違いでしょう。

 

69歳の時、彼はアメリカの海軍兵学校にNAVAIR研究教授として招聘されました。
そこで彼は境界層についての研究をし、
「 ガスタービンの空気熱力学:航空機の推進力に関する特別な参考資料」
というテキスト(おそらく兵学校用の)を残すなどしています。

 

そしてわたしが最後にぜひ書いておきたいのが、同時期にジェットエンジン研究をして、
たまたま同じ時期にそれを完成させたドクトル・ハンス・フォン・オハインと、
サー・ウィットルはアメリカのライトパターソン空軍基地で再会を果たしていることです。

Aerospaceweb.org | Ask Us - Jet Engine Development仲良しです

フォン・オハインも一足早く航空推進研究所に招かれ渡米していました。

ここで思うのがアメリカという国の、世界の頭脳を分け隔てなく取り入れ
自分のものにしていこうとする貪欲さと懐の広さですね。

二人の技術者としてのピークはすでに過去のものになっていたかもしれませんが、
アメリカはその実績に報いる意味で、後進の育成のために招聘したのでしょう。

ところで、ウィットルは最初フォン・オハインのエンジンがあまりに
自分の設計したものと似ていると思ったため、てっきり
自分のアイデアを盗用したのかと動揺したそうですが、すぐにそうではなく
全くオリジナルのものであると理解したそうです。
やはり、天才は天才を知るといったところでしょうか。

そして二人はしばしば一緒に講演旅行を行うほどの仲の良い友人になりました。

サー・ウィットルとの会話で、ドクトル・フォン・オハインは次のように述べています。

「もしあなたに十分な資金が与えられていたら、エンジンは
私たちよりおそらく6年は早く完成していたでしょう。

そしてヒトラーかゲーリングが、イギリスが時速500マイルで飛ぶ実験機を持ち、
それが実用化されていると聞いたら、第二次世界大戦は起こらなかったに違いありません」

 

これ、ブラピ(フォン・オハイン)とマット・デイモン(サー・ウィットル)
で映画化するっていう案はどうでしょうか(提案)

 

続く。

 

 


マクドネル FH-1ファントム ジェット機のマイルストーン〜スミソニアン航空宇宙科学博物館

2020-06-26 | 航空機

スミソニアン博物館には、ご覧の

マクドネル FHー1ファントム

を展示しているコーナーで、ジェット機の歴史を紹介しています。
まずはこの1945年に制作された、世界最初のジェット戦闘機について
展示の内容をご紹介していきたいと思います。

FH-1ファントムは、アメリカで生まれた史上初の純粋なジェット推進機で、
離陸と空母からの発艦が可能であり、最初に海軍と海兵隊に導入された
ジェット戦闘機です。

海軍の要望に応えてまだ若かったマクドネルエアクラフト社が1943年、
XFD-1として開発し、1945年の1月には初飛行を行っています。

1946年には、アメリカ海軍のジェームズ・デイビッドソン少佐
XFD-1を海上のUSS「フランクリン・D・ルーズベルト」から発艦させ、
着艦にも成功しました

■史上初の空母離着艦実験

デイヴィッド少佐の操縦するXFD-1。
フックが降りているのでこれから着艦でしょう。
ちなみに冒頭写真はファントムを後ろ下から見上げているので、
画面上方にこの着艦フックがあるのが確認できます。

ファントムの前のデイビッド少佐(右二人は中将ズ)

ファントムは60FH-1sだけが製造タイプになりました。
運用上のキャリアこそ、より優れたパフォーマンスを備えた
新しいジェット戦闘機の出現によって制限されることになりましたが、
汎用性、耐久性、そして戦闘における効果は、
その後の航空機設計の成功への道を開いたといえます。

XFD-1の初発艦の準備をする「ルーズベルト」の乗員たち。
前年の1945年12月に、イギリス海軍がジェットエンジン搭載の

ハビランド・ヴァンパイア

の空母離着艦実験に世界で最初に成功していたため、
こちらはアメリカ最初の実験となりました。

ファントムの配備が始まったのは実験成功の翌年1947年7月からです。
最初に受領した部隊はVF-17A、彼らはU.S.S「サイパン」
艦載機搭載部隊としての選抜試験をうけ、訓練してきたメンバーであり、
1948年から正式に部隊運用を開始しました。

彼らはこれで世界で初めてジェット戦闘機を艦上で運用した部隊となりました。

VF-17Aのパイロットは176回にわたる離着艦を繰り返し、
戦闘行動をシミュレートしましたが、ファントムはそのすべての要求に
完璧に応え、空母ベースのジェット機の運用に多ける基本的なコンセプトの
健全性を証明し、ここに海軍航空の新しい時代が幕を開けたのです。

FH-1ファントムを最初に運用した海兵隊ユニットはノースカロライナの
チェリーポイントにあった海兵戦闘機隊122です。

MF-122は、「フライング・レザーネック」という曲技飛行チームを結成し、
この機体を使って高い評価を受けました。

「レザーネック」は海兵隊の別称で、昔は革製だった立ち襟からきています。

アレスティングケーブルを超える機体を息を飲んで見つめる「FDR」乗員たち。

デイヴィッドソン少佐の空母「FDルーズベルト」からの発艦試験は
それまでのピストンエンジン搭載戦闘機時代の終了と、
ジェット時代の始まりを表していました。

ターボジェットによる機体の急激な加速力と減速力が
発艦と着艦に適しているかについては懸念もありましたが、
ファントムはそのテストにパスし、それらを証明したのです。

■艦隊におけるファントム運用

File:FH-1 Phantom of VF-17A on catapult of USS Saipan (CVL-48) on 6 May 1948.jpg

USS「サイパン」のカタパルトから射出される寸前のFH-1。
矢印が何のためについているのかはわかりません。
ここに立っているジェット後流で危ないという意味かな?

ファントムは空母から発艦するのに122mあれば十分でしたが、
カタパルトがジェット時代のスタンダードになったわけは、
それだけ甲板のスペースを駐機に使えるという理由によるものです。

LSO(着艦信号士、ランディング・シグナル・オフィサー)が、
アプローチしてくるファントムのパイロットに、正しい高さとスピード、
角度を機体が保っているかの信号を送っています。

シグナルパドル(わたし着艦うちわと勝手に呼んでました)は
1950年代まで着艦の補助に用いられましたが、高度の高い位置から
アプローチしてくる新しい飛行機のために、そのうち
フレネルレンズ式着艦装置に置き換えられていきます。

このシステムは、着艦デッキの中心線に並行のビームを投影し、
適切な機位を教えるものですが、近づいてくるパイロットには
黄色い楕円が見え、彼らはこれを「ミートボール」と呼びました。

初着艦で、着艦フックを最初のアレスティングケーブルにかけるXFD-1。
ファントムは安定した時速153kmでのアプローチを行いました。

■ ファントムの遺産

時速966kmのF2H-1 バンシー(Bansheeスコットランドに伝わる妖精の名前)
はFH-1の発展型で形はほとんど同じというくらいそっくりでしたが、
より大きなエンジンと燃料タンクを持ち、翼と尾翼はより薄く、しかしながら
翼の面積は大きく改良してありました。

空母「ルーズベルト」での実験の結果から、その性能に感銘を受けた海軍が
注文したのがこのバージョンです。

およそ900機がH-1からH-2に移行するまでに生産され、その中には
夜間戦闘機、写真偵察機、戦闘爆撃機などのバージョンを含みます。

ファントム1のサウンドデザインコンセプトはバンシーによって発展し、
それはF-101 ブードゥーに引き継がれ、最終的には
F4H-1 ファントムII で結実したといってもいいでしょう。

マクドネル F2-H2 バンシー

編隊飛行を行うバンシー。

F2H-1からこのF2-H2に変更された点は、翼の先に増槽を付け、
航続距離が1・5倍も伸びたことです。
ウェスティングハウスの強力なエンジン二基が取り付けられ、
高度1万5千mでの任務にも耐えました。

マクドネル F2H-4 バンシー

これがバンシーの最終形となったバージョンです。
空中給油ができるプローブを備え、航続距離が伸びたことで
核兵器の輸送任務も可能になりました。

ノーズに探索レーダーを搭載し、4基の20ミリ銃を搭載したタイプは
1959年まで部隊に配備されていました。

マクドネル F-101A ブードゥー

ニューヨークのエンパイアステート航空科学博物館で展示されていた
F-101ブードゥーをご紹介したばかりです。

バンシーをさらに進化させたのがこのブードゥーです。
(そうだったのか)

長距離護衛戦闘機としてデザインされ、空軍が運用していました。
航続距離、高高度での使用に抜群の安定感を誇り、
1954年時点ではアメリカで最も強力な戦闘機とされていたほどです。

 

カナダ空軍では1980年までサービスを行なっていました。

スミソニアンに展示してあるファントムはどこから撮っても
広角レンズでもない限り機体が全部画面に収まりません。

スミソニアン航空宇宙博物館のFH-1は、先ほどご紹介した
海兵隊のMarine Fighter Squadoron 122(VMF-122)
が運用していたもので、1954年4月、418時間の飛行を終え、
1959年、米軍によって寄付されたものです。

次回からは他の国のジェット機開発について引き続きスミソニアンの展示からご紹介します。

 

続く。


アメリカ海軍の航空機・水上機と偵察機〜スミソニアン航空博物館

2020-06-12 | 航空機

航空黎明期からの海軍航空についてお話ししてきましたが、
今日はスミソニアン博物館の海軍航空コーナーから
海軍の航空機についてご紹介していきます。

海軍航空コーナーはこのような一角にまとめられています。
それではフライング・ボート、水上機から参りましょう。

■ 水上機

カーチス Curtiss H-16  1918

グレン・カーチスのフライングボートの開発は、
第一次世界大戦中のアメリカ軍用航空史における
いくつかのハイライトの一つです。

H-16は最初の双発によるアメリカ製の飛行機を改良したもので、
1914年の大西洋横断計画に合わせて作られました。

カーチスのHボートと呼ばれる型では最後のもので、
海軍とカーチスのコラボによってプロデュースされ、
1928年まで哨戒爆撃機として任務を行いました。

ホール・アルミナム Hall Aluminum PH-2,1931

これなど実に我が海軍の二式大艇に似ていますね。

 海軍航空機工廠PNで開発された双発複葉機です。
その血統を遡れば第一次世界大戦のイギリスの フェリクストウの飛行船に辿り着きます。

フェリクストウF.5は日本でもライセンス生産されています。

1919年(大正8年)海軍は本機を爆撃用飛行艇として採用することを決め、
完成機を計12機購入したうえでイギリスから技術者を招聘して
製作技術を取り入れ、F-5号飛行艇として横須賀航空工廠、
呉の広廠、愛知航空機で62機が生産されています。

F5号艇

これが日本海軍における最初の制式飛行艇であり、さらには
日本で本格的に製造された初めての飛行艇であったことは特筆すべきでしょう。

PHは米国海軍と沿岸警備隊によって少数購入されました。
1944年まで沿岸警備隊によって対潜水艦や捜索救難任務に使用されました。

コンソリデーテッド Consolidated P2Y-1 1932

長く細長い機体にユニークな翼。
卓越したアレンジのP2Yーフライングボートは1941年まで
部隊配置されて活躍しました。

エンジンが翼の上部に設置されるという形は以降のバージョンに継承されました。

この写真は、パトロール中隊10のP2Yのテイクオフの準備が整ったところで、
後ろに第一次世界大戦のビンテージである「フォースタッカー」
=fourstacker(4本煙突の)駆逐艦が映り込んでいます。

 

バーリナー・ジョイス Berliner Joyce OJ-2 1933

コーネル大学とMITで航空工学を学んだヘンリー・バーリナーが創設した
バーリナー・ジョイス社が作ったアメリカ海軍初期の偵察機です。

モデルは当時の水上機用カタパルトに設置されている状態です。

OJは、陸軍での運用にも容易に対応し、400馬力のエンジンと、
オープン、あるいは密閉型の
2種類のコクピットを備えていました。

機体は全て金属で構成され、それをファブリックでカバーしていましたが、
翼のパネルだけは木製でできていました。

OJの総生産量は39機で、2機が巡洋艦「オマハ」に装備される形で
1933年から1935年までの2年間だけ運用されていました。

 

Berliner-Joyce OJ-2 of VS-5.jpgタイプ「サンディエゴ」

タイプは全部で三作られ、事故で喪失したのは4機だけ、
さらに事故によって失われた人命はゼロという珍しい飛行機です。

 

 

コンソリデーテッド Consolidated XPB2Y-1
コロナド Coronad 1937

コロナドという名前はサンディエゴの海軍基地から取られたのだと
そこに行ったことがあるとすぐに気がついてしまいますね。(自慢気)

 

巨大な4基エンジンを積んだコロナドは、1930年台半ばにできた
小型のP2Yとその後継のPBYカタリナ飛行艇から大幅な設計変更をしています。

それは引き込み式になった翼端のフロート、深い船体(機体)、そして
双発エンジンの先行モデルの2倍の総重量を特徴としていました。

砲塔その他の改良を加えられたPB2Yシリーズは、第二次世界大戦中
輸送用航空機として使用されました。

「ミッドウェイ」始め海軍を描いた戦争映画では必ずと言っていいほど
その姿を見ることができる水上機の代表選手です。

今でも現役で飛んでいる機体もあるくらいなので、映画の撮影に
楽勝で借りることができたいうのがその原因でしょう。

コンソリデーテッド Consolidated PBY-5A
カタリナ Catalina    1940

カタリナは第二次世界大戦中運用された軍用水上機のうち、
最も成功した機体であったといっても過言ではありません。

Isaac Machlin Laddon (4728516487).jpg設計はアイザック・ラドン

ユニークな引き込み式、上に折り畳まれて飛行中翼端となるフロートという
超画期的な卓越したデザイン。

最大対気速度、高度は圧倒的というほどではありませんが、その射程、
耐久爆弾負荷、頑丈さ、そして第二次世界大戦中米国海軍及び
その他の連合国の主要な哨戒爆撃任務を広範囲に実行する能力がありました。

3000機以上のカタリナがアメリカ、カナダ、そしてソ連で生産されています。

ちなみに、日本海軍の水上艇、二式大艇航空隊の司令官だった日辻常雄少佐は、
PBYに乗艇した経験を持ち、

「二式大艇と比べ飛行性能は圧倒的に劣るものの、ポーポイズ現象が無く
離水も簡単で機内はガソリン漏れの心配が無い」

と評価したそうです。
これって二式は機内でガソリンが漏れることがあったってことですかい。

それにしても「圧倒的に二式の性能が上」ってすごいですね。
戦後二式(コードネーム『 エミリー』)を接収して飛行実験した米軍も
その性能には驚愕したという話がありました。

米搭乗員の中では「フォーミダブル・エミリー」と呼ばれていたとか・・。

 

■ 偵察機

ヴォート Vought 02U コルセア Corsair 1926

複葉機のコルセアが存在するとは知りませんでした。
この名前を最初に使用したのは02Uで、地上から、あるいは
水上艦からオペレーションするために車輪がついているか、
あるいは水上艦搭載専門でこの写真のようにフロートを付けていました。

このコルセアはちょうどターンテーブル式カタパルトから発進したばかりで、
USS「ウェストバージニア」から哨戒任務に出かけるところです。

カーティス Curtiss 0C-2 ファルコン Falcon 1927

「ファルコン」という名前の複葉機もあったとは・・・。

偵察機ファルコンシリーズは偵察任務の他に戦闘機、爆撃機としても
1920年代に海兵隊で使用されていました。

F8Cとして知られている海軍と海兵隊のファルコンは、
空冷式ラジアルエンジンを換装したものです。

Curtiss A-3 Falcon (SN 27-243).jpgファルコン

グラマン Grumman J2F-2 Duck 1937

ダックってもしかしたらあひるちゃんですか。
しかし変わった名前をつけるもんだ。
と思いつつ機体を見ると・・・これはアヒルとしか言いようなし。

というか前も同じことを書いた記憶があります。


フロートの形がなんともアヒルのくちばしチックな趣き。

ダックはグローバー・ローニング(Grover Loening)社の
水陸両用機とルロイ・グラマンFFー1戦闘機の「幸せなマリアージュ」
の結果生まれた水上艇でした

Grover Loening (4729167240).jpgローニング

ローニングはドイツ生まれのアメリカ人で、コロンビア大学を卒業し
オーヴィル・ライトの会社で設計技師を務めた後、
独立して航空製造会社を興しました。

ルロイ・グラマンにとっても最初の水陸両用機JF-1は1934年に
ローニング OL シリーズに置き換えられています。

Leroy Grumman.jpgグラマン(結構悪人顔)

古典的な手法で作られたダックは実用性に優れ、ロジスティクス、
(物流)空海救助の役割を大いに果たしました。

胴体下部とフロートが繋がっている構造だったため、フロート内の空間に
燃料や貨物の他、並列のシートに2名まで人員を乗せて輸送が可能でした。

また、尾部には着艦フックを装備しており、空母への着艦も可能だったとか。

カーティス Curtiss 02C-1 ヘルダイバー 
Helldiver 1929

第二次大戦時の軍用機の名前の多くは、その初代が
すでに複葉機として存在していたってことみたいですね。

カーティスのヘルダイバーはその名の通りダイビング・ボマー、爆撃機です。
(ただしヘルダイバーは地獄の降下者ではなくカイツブリという意味だったりする)
ファルコンでの成功はこの最初の有名なヘルダイバーにつながりました。

ファルコンを進化させたものがこの02Cであり、海兵隊の偵察機に採用されます。

冒頭写真はヘルダイバーのSBC-3で、1935年製作されたものです。

後半では初期のアメリカ海軍の攻撃機と戦闘機をご紹介します。
続く。

 

 


海軍航空の黄金時代〜水上艇と飛行船 スミソニアン航空宇宙博物館

2020-06-01 | 航空機

今日は、ワシントンD.Cのスミソニアン博物館の展示から、
海軍航空のちょっとした歴史のパネル展示をご紹介します。

黄金時代の海軍航空

米海軍航空の歴史において、1920年代は、航空兵器が技術的に進歩し、
それらを海軍での使用に適応させる努力が実を結んだ時期として際立っています。

一方、1930年代は海軍の軍事力縮小と大恐慌により静かに始まりましたが、
後半にはより多くの航空機、艦船、航空基地の資金が支出されるようになります。

しかしどちらの10年間も、鋼体飛行船と巨大な巡視飛行機に乗って
海に乗り出すという作戦によって特徴付けられるものです。

という解説から始まる海軍航空の歴史、始まり始まり〜。

■ Pボート〜第一次世界大戦のレガシー

NC-1の搭乗員 ベリンジャー、ミッチャー、バーリン

NC-1というのは、1919年に大西洋を横断に成功した飛行艇です。

この三人はその搭乗員で、左から隊長のパトリック・ベリンジャー少佐
パイロットのマーク・ミッチャー少佐(中)、そして副機長のバーリン大尉

第一次世界大戦が終わった1919年、海軍の大西洋横断飛行遠征が企画され、
ベリンジャーは総指揮官としてカーチスNC-1に搭乗することになりました。

ベリンジャー中将(最終)

ベリンジャーはNC-3、NC-4とともに出発しましたが、
濃霧のため着水を余儀なくされ、貨物船に救出されました。
この頃の「横断」は、ノンストップではなく、島伝いにいくので、
出発から到着まで19日かかりましたが、とりあえずNC-4の一機だけが
リスボンに到着して大西洋横断作戦を成功させました。

ベリンジャーは成功こそしませんでしたが、リーダーシップを評価されて
海軍十字賞を授与されています。

ちなみに彼は真珠湾攻撃の時に

「Air raid. Pearl Harbor - this is no drill.」

と緊急放送した人物としても知られています。

海軍航空工廠製作(NAF)PN-9、1929

第一次世界大戦では海軍のF-5L水上艇が普及され、PN-9が
1925年9月、サンフランシスコからハワイまでの太平洋横断に成功するという
歴史的な飛行を行いました。

ジョン・ロジャース少佐とクルーはこのとき最後の964キロで
海に着水することを余儀なくされた後、帆走でゴールしたにもかかわらず、
この記録は水上艇の最長距離記録にレコードされました。

最長耐空記録じゃないからいいんだよ!ってか?

出発するところと、最後にガソリンが足りなくなって
ズルしているところ
(3:00〜)がバッチリ写っています。

 

■ 艦隊の哨戒機

1918年の終わりまでに、アメリカが保持していた唯一の戦艦
U.S.S「テキサス」です。
「テキサス」は支援なしで発艦でき、地上に着陸も可能な
ソッピース・キャメルのような偵察機のために
木のプラットフォームを備えていました。

7隻の他の戦艦は最終的にターレット・プラットフォームを装備し、
キャメル、ニューポート、ハンライオットHD-1ヴォートVE-7が運用されました。

ターンテーブル・カタパルト

第一次世界大戦以前に使われていた圧縮空気を用いるタイプは
戦艦や巡洋艦のターンテーブルにインストールされました。
1924年、推進力が火薬が空気に置き換えられ、1927年、カタパルト
戦艦の砲塔の上部に装備されるようになります。

ターンテーブル式カタパルトは1920年代の終わりに主流となり、
戦艦と巡洋艦クラスには哨戒艇の搭載が常態化しました。

■ 空母・キャピタルシップとその将来

アメリカ海軍は1919年、議会が石炭船の取得について議論を始め、
同時に空母を取得する本格的な段階に入りました。
海軍のリベラルにとって、それは海軍の空軍力の増強のための
もう一つの論理的なステップとされましたが、保守派にとって
大鑑巨砲があくまでも海軍力の核である考えられていました。

 U.S.S「ラングレー」=”カバード・ワゴン”

アメリカ海軍初の空母「ラングレー」は、石炭輸送船を改装したもので、
排水量はわずか11,050トン、全長は165mでした。
しかし、艦内にはマシーンショップや格納庫のための広大なスペースがありました。

U.S.S「サラトガ」とU.S.S「レキシントン」ー第二世代

1922年のワシントン軍縮条約により、第2世代の空母、
戦闘巡洋艦から改造された33000トンのサラトガとレキシントンが生まれました。

U.S.S「ホーネット」

1941年10月20日に就役した「ホーネット」は、真珠湾攻撃以前に
任務についた最後の空母でした。
アメリカは第二次世界大戦開始当時空母を7隻所持していましたが、
1945年の対日戦勝利の日、VJデイの段階で就役していた空母は99隻です。

 

米海兵隊航空団

 

1920年代、海兵隊の航空隊はドミニカ共和国、ハイチ、グアム、
そして中国における作戦に展開しました。
急降下爆撃、空中給油、救難救急脱出、そして近接航空支援などが
すでにこの頃から採用されています。

1933年には、海兵隊艦隊(the Fleet Marine Force =FMF)が創設され、
戦時における海上任務のを果たす使命の基礎が築かれました。
MFMはの後海軍艦隊組織の不可欠なパートとなります。

海兵隊初の飛行家

アルフレッド・A・カニンガム大尉がアナポリスで
航空過程を終了した1922年5月22日は、同時に

海兵隊航空団の誕生した日

とされています。
カニンガム大尉は史上初の航空隊司令として
第一次世界大戦でフランス戦線に加わりました。

Marine Corps Museum on Twitter:

戦後彼は最初の海兵隊航空団のトップとなっています。

ちなみに、急降下爆撃というものを開発したのは実は海兵隊航空団で、
この技術はドイツに取り入れられ、ドイツ空軍の名機Ju87を生みました。

リクルートポスター

海の上のFMF

海兵隊航空団部隊は空母艦載機に置き換えられることもありました。
最初の海兵航空隊は「海兵哨戒部隊14」(VS-14M)として
1931年に空母「サラトガ」に搭載されました。

10年後、海兵隊航空部隊はグラマンF3F2-S(写真)など
全てのタイプ計251機の航空機を有する13の部隊を有することになります。

 

■ 海軍の哨戒用リギッド・エアシップ(硬式飛行船)

硬式飛行船というのは妙な名称ですが、rigid airship を直訳したものです。

「ツェッペリン」と呼ばれるヒンデンブルグ号がこれにあたり、
定義としては、

 「エンベロープ内の揚力ガスの圧力によって形状が保持されるのではなく、
内部フレームワークによって形状を維持するタイプの飛行船=半剛体飛行船 」

ということになろうかと思います。

二つの世界大戦のはざまの20年間、アメリカ海軍は、わずかの間
この飛行船を哨戒用に採用してそれをエンジョイしていましたが、
ある日訪れた悲劇によってそれは短期間で終わりを告げました。

 

これは、アメリカ海軍が初めて取得し、機嫌よく運用していた

ZR-1, U.S.S 「シェナンドー」

が1923年9月4日、初飛行を行っている勇姿を撮ったものです。
「シェナンドー」は艦隊行動に偵察機として投入されました。

 

アメリカ海軍が保有した4隻の硬式飛行船のうち最初のもので、
レイクハースト海軍航空基地で1922年から1923年にかけて建造されました。

「シェナンドー」と一緒に写っているのは

給油艦パトカ(AO-9)

海軍最初の飛行船母艦です。

パトカには水面から38 mの高さの試験的な係留塔が立てられ、
「シェナンドー」の乗組員と地上支援要員のための居住設備を持ちました。

ヘリウム、ガソリンその他の必需品のための設備も造られ、
3機の水上機の収容・取扱設備も設けられるという充実ぶりです。

「シェナンドー」は給油艦パトカのマストに係留されての曳航も経験しています。

曳航中(船の人も怖かったかも)

飛行船による最初の北アメリカ大陸横断も成し遂げた「シェナンドー」ですが、
1925年、57回目の飛行の際、オハイオ州上空において暴風雨に遭遇し、
2つに裂けて墜落し、指揮官以下14名が死亡しました。

残りの29名は機体を気球のように操作することによって助かっています。

墜落現場

The Wrecked Shenandoah (1925)

残骸の処理を行っている映像が残されています。
なんかあきらかに一般人の野次馬とか子供が、
機体の周りをうろうろしているんですけど・・・・。

この頃は立ち入り禁止とかにしなかったんでしょうか。
持って帰ろうと思えば誰でも破片が手に入ったかもしれません。

墜落したのは初飛行からきっちり2年後の1925年9月3日でした。

そして冒頭写真ですが、「シェナンドー」型の3番機、

ZR-3 U.S.S「ロスアンジェルス」

は、海洋超えを目的とした2隻の大型飛行船の一つです。
米国海軍のために2つの硬い飛行船が海外で建造されました。

まず、ZR-2となるはずのR.38はイギリスに発注されたのですが、
アメリカに届けられる前ににイギリスでの試験飛行で墜落しました。

ドイツで建造されたZR-3は、1924年10月15日にニュージャージー州の
レイクハーストへの8143キロの配達飛行を無事完了し、これが
「ロスアンジェルス」と命名されることになりました。

空母「レキシントン」と一緒に写っているこの飛行船は、
8年4292時間に及ぶ、驚くべき、目を見張るほどのキャリアを得て
1932年6月30日、ご予算の関係で廃止されるまで飛び続けました。

USS Shenandoah (ZR-1) - Wikipedia

係留されている状態の硬式飛行船。シュールです。

File:ZR3 USS Los Angeles upright.jpg - Wikimedia Commons

風の状態によってはこんなことにも・・・。
乗り込むときこんなになってたらどうするんだろう。

 

黎明期の海軍航空シリーズ、続きます。

 

 


シミターとコンコルド〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-04-09 | 航空機

ニューヨーク州のエンパイアステート航空科学博物館展示シリーズ、
最終回です。

ご覧の通り、この日の博物館には見学者は皆無ではありませんが、
少なくとも露天にある航空機展示を見ていたのはわたしたちだけ。
つまり何をしても見られることすらないという状態です。

基本航空機はお触りし放題ということになっていますが、
作業中の区域はご覧のように立ち入り禁止になっています。

博物館は夏季期間中は月曜定休ですが、冬場
(レイバーデイからファーザーズデイまでの期間)
は金曜から日曜までの週三日しか営業していません。

おそらくこの地域も冬場は降雪で人があまり来ないのでしょう。

おそらく現役で使われているトラックだと思いますが、
形が古いのでここがGEの実験飛行場だった頃のものかもしれません。

スーパーマリーン シミター(Supermarine Scimitar)

駐機場でも一際目立っていたのはロイヤルネイビーの
艦上戦闘攻撃機、シミターでした。
もちろんアメリカでこの機体を見るのは初めてです。

偶然だと思いますが、前回紹介したMiG三兄弟も、このシミターも
後退翼を持っており、その採用は、戦後になって流出した
ナチスドイツの後退翼に関する研究結果から取り入れたものでした。

ここでは基本艦載機は翼をたたんだ状態で展示されており、
それが一眼でわかるようになっています。

艦攻なので機体は大型ですが、単座です。
迎撃機、地上攻撃機、そして偵察と多機能にわたるミッションをこなす
マルチロールとして設計され、初飛行は1954年のことでした。

スーパーマリーンというのは艦船に詳しければご存知の、
あのヴィッカース社の航空機部門で、第二次世界大戦中の
伝説の名機、スピットファイアを作った会社でもあります。
シミターを開発したのを最後にヴィッカーズに吸収されました。

1958年に運用が始まった当時、シミターは、
同時代の航空機の中でも時代の先をいく先端でした。

イギリス海軍機史上、最初に後退翼単座を取り入れ、
これも史上初となる、核兵器搭載能力を有した爆撃機でもあります。

2つのロールスロイスエイボンターボジェットを搭載した
シミターの最大速度は1174km/hで、航続距離は2250km以上。

空母搭載型戦闘機としては実際見てもわかるように比較的大きく、
最大離陸重量は17トンという力持ちでした。

シミターの離陸の仕組みは非常にユニークでした。

カタパルトでブライドルを取り付けられると、(現場の説明のスペルが
なぜか” braidal"になっていた)テールスキッドに載せられると、
前輪がデッキから完全に離れたとたん、
より高い迎え角になりました。

 

シミターはパイロットに人気のある非常に有能な打撃戦闘機でしたが、
滅多にないはずの事故での高い損失率に苦しめられています。


その理由はこの大型でパワフルな機体を、比較的小型の空母しか持たない
ロイヤルネイビーの艦隊で運用することの相性の悪さにつきました。

その結果、生産された76機のうち39機、つまり50%以上が、
空母への着艦事故で失われることになりました。

まさにそのときのニュース映像が見つかったので貼っておきます。

A Supermarine Scimitar aircraft falls into the Atlantic Ocean while landing aboar...HD Stock Footage

1958年から、シミターの空対空迎撃の任務は、デハビランド社
シーヴィクセン(Sea Vixen)に置き換えられ始めました。

2009年の航空ショーで飛行するシービクセンFAW.2

「海の女狐」シーヴィクセン、これはまるでペロハチいやなんでもない。

その後まもなく、ブラックバーン・バッカニア
艦隊航空部隊の主要爆撃機として登場しています。

武装は、内部に30 mm砲を装備していました。
対空戦闘のために、アメリカ製AIM-9サイドワインダーミサイルを
4基、翼の下のパイロンに搭載することができ、
地上攻撃には4000kg爆弾か無誘導ミサイルを搭載することができました。

ESAMのシミターは、世界に現存する3機のうちの貴重な一つです。

グラマンF-14トムキャット

「後退翼はドイツの技術をアメリカが戦後没収して開発された」

と何度も書いてきましたが、F-14トムキャットを特徴づけたのは
後退翼をさらに可動式にした可変後退翼で、その技術は、元々
ドイツが「メッサーシュミット P1101」のために研究していたものです。

 

1945年4月29日、ちょうどヒトラーが自決する1日前のこと、
アメリカ軍歩兵部隊がババリアン地方の

「オーバーアマーガウ」の施設群を発見しました。

「メッサーシュミット P1101」の画像検索結果

放置された研究機は連合軍の皆さんの撮影スポットに(笑)

可変翼の研究はじめ、関係文書が接収されましたが、肝心な部分は
処分されたり、
マイクロフィルムに撮影されてフランスに渡ってしまったため、
機体そのものをアメリカに送り、ベル・エアクラフト社が
あのベルX-5を作ったのです。

当博物館のエアパーク配置図は、航空機のシルエットで
展示位置を示していますが、F-14のシルエットはこの、
もう一つの可変翼である主翼付け根のグローブベーンを展開開いた
デルタ形をしています。

上から見られないのでなんとも言えませんが、この状態は
デルタ形に翼を広げているのではないでしょうか。

グローブペーンとはこれはマッハ1.4以上になると
主翼付け根前縁から展開される小さな翼です。

超音速飛行で揚力中心が後退するのを打ち消すためのものでしたが、
その後飛行特性にほとんど影響を与えないことがわかり、
廃止されています。(前にも書きましたね)

 

トムキャットの命名は、当初グラマンとしてはF-14に
「シーキャット」(ナマズ)と付けようとしていたそうですが、
この採用を推していたトム・コノリー大将に敬意を表して

トムの猫(Tom's cat)→トムキャット

となったというのが正しいところのようです。

トムキャットの一部。(さてどこでしょう)

A-7Eコルセア(Corsair )

コルセアについてはこれまで何度も書いているので、
ここには「いた」と言うことだけご報告します。

というか、せっかくここ独自の説明があるのに
赤いテープで近づけないようになっていました。

まあ誰もいなかったので写真を撮るためだけに
入っても差し支えなかったとは思いますが、
そこはそれ、日本人としてはそれがどうしてもできません。

初めて見るただものでない黒い機体、これは

ノースロップ F-5E タイガー(Tiger)

1950年代の後半に普及したシンプルで安価な戦闘機で、
海外の空軍にも輸出されました。

初飛行は1959年、F-5は世界の航空史でも最も多く、
広く世界30か国に向けて4000機が生産されています。

操縦が安易で整備が簡単でシンプル、そして安い、多用途。
F-5は実に25年間にわたって生産され続け、
いろんなシーンで活躍し続けました。

オリジナルのF-5は実に「ノーマルな」音速機で、
単純なアビオニクス、ジェネラル・エレクトリックのJ-85
ツインターボジェットエンジンを搭載し、余計なものはなく、
あっさりマッハ1.6の速度を出すことができました。

ここにあるEは1972年にデビューした最も発展したタイプで、
武装は20ミリ砲2基とAIMー9サイドワインダー空対空ミサイル、
そして対地攻撃のために7,000lbs爆弾をパイロンに5基積むことができました。

F-5は、小型で優れた操縦性を備えているため、
空対空戦闘の攻撃側練習機としても理想的でした。

米海軍での位置付けは決して対空戦闘機ではありませんでしたが、
海軍はあまりの操作性の良さに、F-5Eの小さな戦闘機隊を作っています。

アメリカ海軍の多くのパイロットが、より重く、より複雑な
F-4およびF-14、
そして今はF / A-18の操縦訓練において
Fー5先生を相手に
ドッグファイティングスキルを磨いたのです。

ESAMのF-5は1974年に建造され、2007年に就役し、
米海軍の攻撃中隊第13飛行隊の航空機として
ファロンネバダ海軍航空基地で勤務しました。

ところで、伝説の航空機であることに加えて、このF-5は
映画「トップガン」で、ソビエト軍のMiGに扮して
スクリーン上でもその伝説を残しています。

同じ黒でも、こちらは打って変わってずんぐりとした、

ダグラス F-3D スカイナイト(Skyknight)

しかしこう見えても「F」とついているだけあって、
双座で双発の、立派な戦闘機です。

1952年から運用が始まり、当初海兵隊の陸上基地用でしたが
海軍で空母運用されることになりました。

 

第二次世界大戦中およびその後は、
航空機のの設計、推進、および航空電子工学が
急速に拡大していた期間でした

最初の空中捜索レーダーの1つを装備したスカイナイトは、
APQ-35火器管制レーダーで夜間も敵機を迎撃できたため、
その乗組員とともに「ナイトファイター」と呼ばれていました。

第二次世界大戦中に導入されたこれらの初期のレーダーは大きく、
そのためより大きな戦闘機を必要とすることになります。

 

製造されたのは237機のみでしたが、F-3Dは朝鮮戦争中に
夜間戦闘機としてある程度の成功を収め、北朝鮮の標的への夜間襲撃で
米国B-29爆撃機の護衛として頻繁に使用され、MiG-15とも交戦しています。

そして1952年11月2日夕刻、北朝鮮上空で、スカイナイトの乗組員は
ソビエトが建造した最初の夜間戦闘機と交戦し、勝利を達成しました。

F-3Dは1960年代初頭まで運用され、ベトナム戦争中には
電子戦機としての任務も果たしています。

ただし2基のウェスティングハウス J34ターボジェット
ややパワー不足と見なされ、最高速度は965km/hでした。

武装に関しては、スカイナイトは機首の下に
4つの20mm大砲を装備していました。

ESAMのスカイナイトは、伝説のグラマンF-14トムキャット戦闘機用に
開発された空中レーダーのテストに使用され、実際に
ゼネラルエレクトリック・フライトテストセンター(現在のESAM)
のスケネクタディ空港から実際に飛行されたことがあります。

ところで、「タイガー」のコクピットを撮るために
上がった階段からこんな景色が見下ろせます。
いつになるのかわからないとはいえ、展示のために
ボランティアが作業を続けているのだと思われますが・・・。

これが何かは、そこから離れたところに転がっている
ノーズを見てわかりました。
なんとこの針のようなノーズはコンコルドじゃありませんか!

コンコルドの特徴であるデルタウィングは影も形もありません。
もしかしたらこれもその一部なのかもしれませんが、
まったくどこの部分か想像もつきませぬ。

おそらくコンコルドのパーツが散乱しているんだと思います。
その向こうに、車輪のない状態で展示されているのは・・・

ジェネラルダイナミクスFー102 デルタ ダガー

冷戦が始まり、アメリカは、ソ連の核武装爆撃機要撃の目的で、
新型迎撃機の検討に着手しました。

ペーパークリップ作戦で引き抜いてきたドイツ人技術者、
リピッシュのコンセプトをとりいれたデルタ翼の戦闘機です。

固定機銃はなく、AIM-4 ファルコン空対空ミサイルを搭載し、
空対空ロケット弾24発を発射機に搭載することが可能でした。

デルタ翼機の特徴として燃料搭載量が大きく、超音速機としては
空中給油の援助なしでも滞空時間が長く哨戒任務には適しましたが、
加速性・上昇力に劣り、ドッグファイトは厳に禁じられていたそうです。

空戦ができない戦闘機なんて。
水平飛行で音速を突破できない戦闘機なんて。
空軍は失望しました。(そらそうだ)
そのため改良も行いましたが、結果は思わしくなく・・・。

結局当初の目論みである実用戦闘機との兼務は放棄され、
単座型と同じアビオニクスは搭載せず、慣熟飛行の訓練用になりました。

そんな感じだったので、後継のF-106が配備されるようになると、
早々に同盟国に供与されるようになりましたが、ただ1か国、
トルコ空軍のF-102は1974年のキプロス島侵攻作戦中に起きた
ギリシャ空軍との戦闘で、2機のF-5戦闘機を撃墜する戦果をあげた、
ということになっているそうです。

ただし、ギリシャ空軍側にはF-5の損失記録は無いそうです。

まあ空戦の世界には古今東西よくある話ですね。

その後アメリカ空軍に残っていたF-102は、200機以上が
PQM-102A無人標的機として次々と撃ち落とされ、
消費されて完全に姿を消しました(-人-)

 

 

というわけで、ESAMの全ての展示機の紹介を終わりました。

ニューヨークから3時間の場所ながら、ちゃんとした展示がされ、
ボランティアによるイベント活動なども細々とながら
着実に続いているというこの地方博物館に敬意を表しつつ、
シリーズを終わります。

コンコルドが展示されるころ、もう一度見に行ってみようかな。

 

 


MiG三兄弟〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-04-07 | 航空機

ニューヨーク州スケネクタディ空港に併設されている
航空博物館、ESAM展示の航空機についてお話ししています。

かつてはGEの航空実験場であった滑走路やエプロンなどを
現在はこのように航空機展示に利用しています。

基本アメリカの航空博物館は置きっぱなしになっていて
柵を設けて機体に触れないようになっているところは少なく、
ごらんのようにステップにのぼって上から覗き込んだり、
その気になれば触り放題。

アメリカの、こういう地方の航空博物館は
基本おおらかで放任主義、日本よりずっと
「性善説」に基づいているといつも思います。

アメリカには案外たくさんのMiGが存在しています。
今まで何度も見る機会がありましたが、ここにも・・・!

Mikoyan -Grevich MiG -15


MiG−15は、ソ連の名作ジェット戦闘機です。
MiGという名前は、もちろんのこと製造したのが

「ミコヤンとグレビッチ・ デザインビューロー」

Stamp of Armenia h331.jpg

アルテム・イヴァノヴィッチ・ミコヤン(1906-1970 )

と、

「ミハイール・イォーシフォヴィチ・グリェーヴィチ」の画像検索結果

ミハイール・イォーシフォヴィチ・グリェーヴィチ(1893-1976)

ミコヤンとグレビッチ、二人合わせて「ミ・グ」というわけです。

 

MiG-15は単発エンジン単座の戦闘機で、最初の任務は
アメリカの戦略爆撃機を迎撃することでした。

当時にしてこのデザインは大変先進的なものであり、
特にこの後退翼のデザインは、第二次世界大戦中の
ドイツの研究結果からアイデアを得たといわれています。

これはアメリカさんから言わせると(ここの説明に書いてあった)

「現代史上最悪の軍事過失の1つからも恩恵を受けた」

ということらしいです。
ドイツの研究は軍事過失ですかそうですか。

ドイツ人科学者を血眼になって探して根こそぎ引っ張ってきて、
なだめて脅して宇宙計画に協力させたアメリカさんがなにをいうやら。

ところで前にも書いたことがありますが、このときイギリスは
ロールスロイスのエンジンを提供し、ソ連はそれを元に
クリモフVK-1ターボジェットエンジンを作りました。

このことについても現地の説明は「驚くほど喜んで提供した」などと
微妙に感情を挟んできていますが、これは邪推すれば
アメリカがMiGに結構苦しめられたことの恨みかもしれません。

MiG−15のオペレーションが始まったのは1949年のことです。
こちらは1万2千機異常がソ連で生産され、6,000機が
いくつかの国でライセンス生産されています。

デビューしてすぐ、MiG−15は朝鮮戦争に参加しました。
戦争が始まったのが1950年、ソ連の同盟国軍は、おそらく
時代遅れの ’rag-tag’(ぼろぼろの)コレクションで構成された
北朝鮮空軍に対する優位性をおおいに楽しんだことでしょう。

MiG-15の戦争への突然の参加は衝撃的でした。
最初に運用したのは中国空軍で、それは世界を驚かせました。

それは同時代の名だたる戦闘機、ピストンエンジンP-51 ムスタング、
ジェットエンジンのロッキードFー80シューティングスター、
リパブリックF-84サンダージェット、そしてイギリスの
グロスター・ミーティア、それらのどれよりも、
優れていることを実戦で証明したのですから。

MiGは特に迎撃の機能に優れていて、多くのB-29 が餌食になったため、
B-29はMiGが出没しない夜間にしか運用できなかったくらいです。

しかし、栄枯盛衰、驕る平家は久しからず。
MiG−15が空の王者だった期間はわずかでした。

ノースアメリカンの傑作亜音速戦闘機、
F-86セイバー
が極東に登場したのです。

ちなみにこのセイバーの後退翼のアイデアも、
ナチスドイツの膨大な実験データをもとにしています。
さっきの言い方で言うと「最悪の軍事的過失から得た成果」
ということになりますが、まさにお前が言うなですね。

朝鮮戦争で当初「金日成のラグタグコレクション」相手に
余裕こいていたアメリカ軍は、MiG登場によって危機に瀕し、
眼には目を、後退翼には後退翼をちうわけでセイバーを投入。

それまでMiGは、高い場所から戦闘を行うかどうか、そして
いつ行うかを決定するだけの余裕を持っていましたが、
MiGより視界がよいキャノピーを持ち意思決定力の速さで勝る
セイバーが登場すると、俄然旗色が悪くなります。

F-86セイバーの対MiGのキルレシオ(撃墜被撃墜率)は
10:1と圧倒的な優位性を誇りました。

MiGの2発の強力な23 mm砲と37mm砲は、
非機動爆撃機の攻撃には非常に効果的ではあったものの、
発射速度が比較的遅く、対戦闘機には理想的とはいえず、
この点F-86の6つの50口径機関銃の方が優れていたのです。

 

ただし、F-86のMiGに対する優位性は、アメリカの戦闘機が
常に遠隔地から飛行し極限を飛んでいたことを考えると、
あまり意味があったとはいえません。

一方、MiGは米軍機を発見すると、中国の鴨緑江の
すぐ西にある保護基地から離陸することができました。

翼には中国軍の認識マークがつけられていました。
この機体のカラーがなんとなくチャイナ風だなと思ったり(笑)

 

Mikoyan-Gurevich MiG -17  フレスコ(Fresco)

この機体の「フレスコ」もいわゆるNATOコードです。

朝鮮戦争時代のMiG-15の直系の子孫であり、歴史上最も
プロファイリングされて広く輸出された戦闘機の1つになりました。

1952年からソビエト人民空軍に導入されるようになってから、
なんと1万機以上のMiG−17が生産され、30か国に輸出されました。

1950年代、そして60年代は、いわゆるワルシャワ協定国では
基準の戦闘となり、ソ連国内と同じくらいの台数が
ポーランドと中国で生産され、冷戦時代の象徴となりました。

当博物館では今塗装をやり直しているらしく、
このような途中経過の作業工程が見られました。

なんと翼に縦のスポイラー(っていうのかな)が!
こんな仕様の戦闘機は始めて見ます。

戦闘機としてそれは厳密には短距離インターセプターであり、
アビオニクスや全天候型の機能はほとんどありませんでした。

 ほとんどのソ連の戦闘機がそうであるように、MiG−17もまた
大変丈夫に作られており、簡単に製造できて、操縦も
非常に単純であったといわれます。

単座の戦闘機で、極端な後退翼を持ち、動力は
クリモフVKー1ターボジェットエンジン
最高速度は696mph、そして、通常の武装は、
二基の23ミリ、そして一つの37ミリ砲でした。

1950年代後半に超音速戦闘機が登場し始めると、
MiG 17は時代遅れになり、最前線で
ソビエト空軍のミグ19とMiG21に置き換えられ始めました。

しかしながら、その陳腐化にもかかわらず、MiG17は
北ベトナム空軍にも配備されて広範な任務に就き、
ベトナム戦争中のはるかに洗練された、より高性能の
アメリカの戦闘機に対して決して引けをとりませんでした。

低い翼装甲と銃装甲により、近距離の空中戦でも
機敏な敵であり続けたということです。

しかし最後に出撃した中東戦争(エジプト、シリア、および
イラクの空軍がイスラエルと戦った)になると、さすがに

イスラエル空軍のファントムIIには力及ばなかったようです。

当博物館のMiG−17は、ポーランド空軍が運用していたものです。

展示には階段がつけられていて、どうも体験デーには
このコクピットに座らせてもらえるようでした。

MiGのコクピットに座れるチャンスがあるなら行ってみたい。

Mikoyan -Gurevich MiG 21 フィッシュベッド( Fishbed)

 なんとこの博物館には、15、17、21と、三代にわたる
MiG三兄弟が全て展示されていることになります。

NATOコードで「フィッシュベッド」と名付けられたMiG-21は、
古今東西最も成功した戦闘機の一つと評価されています。

第二次世界大戦以来最も生産性の高い戦闘機として1万台以上
製造されたという記録を保持していますが、この理由の一つは
21型の後継機であるMiG-23が、どういうわけか、なかなか
MiG-21を超えることができなかったということもあるそうです。

実際、MiG-19譲りのMiG-21の格闘性能は非常に高く、
これを全面的に凌ぐ機体はアメリカのF-16ファイティングファルコン
そしてMiG-29フルクラムの登場を待たねばなりませんでした。

フルクラムMiG−29
なんだかツヤのあるファルコンって感じですね。

MiG−21は1959年に初めてソビエト空軍でのサービスに導入され、
その後、優秀な機動性が評価されて、最終的には
50か国もの外国空軍に供給されています。

機体性能としては特に推力対重量比に優れ、
高い上昇率とマッハ2に近い最高速度を誇りました。

ベトナム戦争では、にベトナム北部で広く使用され、
より重量に勝り、より洗練されたF-4ファントムに対しても、
ある程度の成功を収めることができました。

このMiG−21とは、

ヒットエンドランの短距離インターセプター」

いうなれば、

ロングレンジのレーダーと高度なアビオニクスがないファントム

というのが当時の評価でした。

とはいえ、当時のファントムと比べると、より機動性があり、
近距離のドッグファイトで有利であったことは否めません。

MiG -21はまた無理やり投入された17とは違い、
中東紛争において、
かなり活躍をしたようです。

ソビエト空軍では、時が経つにつれて、徐々に高度な
MiG-23 FloggerとMiG-29 Fulcrumに置き換えられましたが、
その後近代化改修が段階的に加えられて長期間使用されました。

この理由は、なんといってもMiG-21は、超音速戦闘機としては
他に類を見ないほど構造が簡単で維持しやすかったということがあります。

ちなみにこれが「鞭打ち役人」(笑)という名前をつけられた
MiG−21フロッガー
こちらはなんとなくファントム風味・・・・?

ここESAMのMiG-21はポーランド空軍で運用していたもので、
型番はフィッシュベッドEであり、胴体の背中に沿って
アビオニクスベイを備え、限定的な全天候型機能を有しています。

 

前にも書きましたが、MiG、とくにこの21は生産台数が多く、
そのためアメリカだけでなくヨーロッパでも、兵器類を取り外して
払い下げられた機体や練習型など非武装タイプの機材を個人が所有し、
娯楽目的で飛行させているケースがあるそうです。

「趣味のMiG」を楽しむ人たちが世界中にいるってことなんですね。

こういうところにもシンプルで操作性がいいという
原点回帰のような作りが、影響を及ぼしているというわけです。

 

続く。

 


アメリカの"レジェンド"〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-31 | 航空機

ESAM、ニューヨーク州の北部にある小さな空港、
スケネクタディ空港に併設された航空科学博物館の
外庭に展示されている軍用機をご紹介しています。

グラマン S-2トラッカー(Tracker)

現地にある説明を読んで一番驚いたことが、
このトラッカーを導入したことのある国のなかに
我がじゃぱ〜んが入っていたことでございます。

そうなんだっけ、と日本での運用の歴史を見てみると、
日本では「あおたか」と呼ばれていたあれですってね。

それならわたしは鹿屋で実物を見たことがあるんだったわ。
全くアメリカで見ているのと結びつかなかったけど。

S-2は海上自衛隊に米海軍から軍事無償援により60機、
昭和32年から供与されていたそうです。

その前に海自は訓練を受けるための派遣隊を編成し、
対潜空母「プリンストン (CV-37)」で発着艦とや整備作業の研修を行い、
到着したノースアイランド海軍航空基地において訓練を受けています。

受領した航空機はアラメダから最終的に鹿屋航空基地に届き、
まず鹿屋基地に航空隊が編成されました。 

米国に派遣されたパイロットには、空母への離着艦の訓練も行われました。
これは、艦載機の訓練のマニュアル上そうなっているから、
アメリカ海軍としてもその通りに実施しただけだと思われますが、
このため、海自の中の人たちは

「S-2と一緒に空母が供与されるかも?」(((o(*゚▽゚*)o))ワクワク

と期待半分で噂していたそうです。
今にして思えばありえない話だったんですけどね。

というかいくらなんでも空母をおまけにくれるほど
アメリカさんだって気前良くないだろうて。

このトラッカー、アメリカではあちこちで見てきましたが、
いつ見てもこの翼の畳み方が無理やりだなあと感じます。
もう少し翼がなんとかきれいにたためなかったんですかね。

歴史的なS-2トラッカーの位置付けとしては、これが
最初に生まれた対潜戦の機能を持つ軍用機だったということです。

トラッカー以前の「ハンターキラー」=対潜水艦掃討作戦といえば、
それはグラマンの「ガーディアン」とか「アベンジャー」の役でした。

トラッカーは冷戦における対ソ連潜水艦戦のアイコンとなったのです。

そのためにソノブイと捜索のためのブーム、サーチライトを持っており、
サーチアンドデストロイ のための魚雷と爆、ミサイルを搭載していました。

その中には時節柄原子力のものも含みます。

ロッキードがジェット機S-3「バイキング」を開発後、
置き換えられて引退していきましたが、2008年になって
カリフォルニアで大規模な火災が発生した時、なんと
まだ動ける何機かのトラッカーが、老骨に鞭打って800ガロンの水と
化学消化剤を運ぶという活躍をしています。

ここにあるトラッカーを横から撮ってみて気がつきました。
「イントレピッド」と書いてあります。

 

この機体は最後の頃練習機になっていたそうですが、
ニューヨークの博物館「イントレピッド」に展示されるために
名前が入っているのだそうです。
おそらくイントレピッド航空博物館から借りているのでしょう。

ダグラス A-4 スカイホーク(Skyhawk)

皆さんは「brainchild」という英語表現をご存知ですか。

頭脳の子供=人の頭から生み出されたもの

という言い回しで、新機軸だったり新発明だったり、
とにかく頭抜けた才能の持ち主によって生み出された、
というものをあらわす時にこの言葉が使われます。

This variation of rice omelet was the brainchild of
Juzo ITAMI and was developed by Taimeiken,
the old establishment of yoshokuya
(restaurants serving Western food) in Nihonbashi, Tokyo.

などという文章に使われたりする言葉ですね。
(しかしあの、ナイフでカットして卵を広げるオムライスが
伊丹十三のアイデアだったとはしらなんだ)

とにかく、何が言いたかったかというと、このスカイホークは
鬼才エド・ハイネマンの「ブレインチャイルド」といわれていた、
ということです。

いうまでもなくハイネマンはアメリカの航空デザインの世界で
最も有名で最も成功した設計者でした。

「スクーター」というあだ名もあったというこのA-4は、
種別記号はAでありながら、爆撃機よりも戦闘機に似ています。

おそらくこの小さな入れ物に、これだけ盛り沢山に
機能を詰め込んだ攻撃機はかつて存在しなかったでしょう。

まずその堅牢な構造により、戦闘ダメージを吸収する能力。
これはまさにレジェンド級といわれました。

A-4のオペレーションは1956年に開始され、生産は
1979年まで、生産台数は約3,000機、派生型は
17種類に及び、アメリカ海軍、海兵隊、そして
いくつかの外国海軍に配備されました。

もっとも活躍したのがベトナム戦争時代です。

戦争中は全天候型機として飛び、海軍が1970年になって
レンジが大きく、より重量の爆弾をロードでき、さらに
洗練されたアビオニクスを搭載したA-7コルセアに
次第に置き換えて行ったのですが、特に海兵隊は最後まで
この「スクーター」を気に入ってギリギリまで使い続け、
そんなこんなで一番最後のA-4が引退したのは2003年でした。

A-3は亜音速で、最高速度670 mphを達成することができましたが、
爆弾を搭載し、低空で密な待機状態で飛行している場合、
まるで止まっているかのように見えました。

典型的な搭載武器は5000発の爆弾で、あとは内蔵された
2基の20 mm砲と、1つか2つの外部燃料タンクがありました。

ESAMにあるスカイホークは、海軍所有だったもので、
ベトナム戦争時にはUSS「ハンコック」の艦載機でした。

最後の配置はバージニア州の海軍基地で、
アグレッサー(敵の役)をしていたのだそうです。

A-4は非常に駆動性に優れた機体であるため、
ブルーエンジェルスに採用されていたことがありますし、
F-14戦闘機は空戦の技術を軽快なスカイホークに学びました。

ノースアメリカン RAー5C ビジランティ(Vigilante)

「ミッドウェイ」のハンガーデッキ展示でも見ることができるので、
このビジランティについては以前もお話ししたことがあります。

1958年に初飛行を行った、当時の戦略爆撃機で、最初は
核爆弾を積んで飛び回っていた、というあれですね。

当時ヴィジランティは超先進的な技術をこれでもかと取り入れた
イノヴェーティブな近未来の代名詞のような存在でした。

揚力コントロール機能として、たとえばエルロンの代わりに
ウィングスポイラーを搭載するとか、ヒンジ付きの方向舵の代わりに
一体成型の垂直尾翼が使用されているとか言った具合です。

「ミッドウェイ」艦上で実際に見た時も、その平べったく
うっすーい機体はただものでないといったたたずまいでしたが、
高度なパフォーマンス能力を持つその滑らかでかつ壮大な機体。
ヴィジランティは、空母艦載機として史上最大の大きさでした。

しかし、こうやって真正面から見ると後退翼のせいで
いうほど大きく見えません。

動力はGEのJ-79を搭載し、トップスピードはマッハ2.1です。

1963年のことです。

アメリカ海軍は突然航空機での核爆弾の運用を取りやめました。
このことによって、その日から

A-5は仕事がなくなってしまいました。

しかし捨てる神あれば拾う神あり、折しも当時
ベトナム戦争が激化していたため、戦況に必要とされていたのが
空母艦載型のハイパフォーマンス型偵察機です。

結果として、すでに配備されていたA-5と、48機の
新しく作っられたばかりのA-5は、急遽偵察機使用に改装され、
その名前もRA-5Cと変えました。

可変的なスピード、そして長い航続距離、最先端のレーダー。
もともと持っていたこれらの強みが、RA-5Cを
偵察機として比類のない存在に変えたのです。

いやー、こういうのを「至る処青山あり」というんでしょうか。
ちょっと違うかな。

爆弾を搭載するためにあった胴体下のカヌーと呼ばれるポッドには
横向き空中レーダー(SLAR)、赤外線センサー、そして
カメラが搭載されることになりました。

写真は「カヌー」の一部、カメラ搭載部分だったところ。

 

これはカヌーの下に潜り込んで後脚を撮ったもの。
なぜこんなところにベンチがある(笑)

ベトナム戦争の間、RA-5Cは、爆弾の効果を評価するミッションを
行っていましたが、 そのうち対空防御が専門になりました。

生産された130機のビジランティのうち18機は
全てそのときの任務遂行中に喪失しています。

ESAMの偵察型RA-5Cは海軍の偵察部隊第5偵察隊のもので、
USS「レンジャー」艦載部隊としてトンキン湾の
「ヤンキーステーション」にいたことがあります。

その後退役して「イントレピッド」航空博物館が所蔵していました。

リパブリック F-105G サンダーチーフ(Thunderchief)

「サンダー」(雷)の「チーフ」なので、雷の親玉。
そんな名前がついたサンダーチーフ先輩。

アメリカ人の作成した説明は、どうもなんでもかんでも
「レジェンド」にしてしまう傾向があるわけですが、
このサンダーチーフパイセンも、

「ベトナム戦争の最も伝説的(レジェンダリー)な飛行機」

と高らかに称賛されております。

ここにあるサンダーチーフは滑らかな機体にシャークマウスの
マーキングを施された印象的な一つの見本です。

 

アメリカ空軍が運用していた単発エンジンの軍用機の中で
最も大きな機体をもち、また最もパワフルでした。

小さな翼のエリアに強力プラットアンドホイットニーJ-75
ターボジェットエンジンを内蔵し、低空でのミッションにも
最適化されただけでなく、会場でマッハ1、
3万フィート上空ではマッハ2を出すことができました。

F-105 は1958年に運用が開始され、わずか6年後の
1964年には800機を製造し空軍に配備して生産終了します。

機種指定としては「F」がついていますが、デザインは
どちらかというと爆撃機よりで、特に原子力ミサイルを搭載し、
対ソ戦略でヨーロッパの基地から音速で飛ぶことを目的としていました。

ベトナム戦争が起こると、それらは急いで従来の爆弾を
搭載できるようにモディファイされ、タイの基地に配備されました。

F-105は北ベトナムにおいて非常に危険なミッションの
ほとんど矢面に立っていたため、生産された400機のうち
およそ半数が戦没しています。

ESAMのF-105は1964年に空軍に配備され、長い間
その任務を全うしていたラッキーな機体の一つです。

ベトナム戦争の時には第355戦闘機群の一員として
嘉手納基地をベースに飛び、戦争が終わってからは
ジョージア州のエアーナショナルガードに所属していました。

 

 

続きます。

 

 


不死身のイボイノシシ(A-10)〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-29 | 航空機

個人的な事情で少し更新が滞ってしまったことをお許しください。
しかも、前回の冒頭写真に本題に出てこないF-101を挙げてしまったのは
全くのミステイクで、F-101についての記述は今日になります。
お節介船屋さんが見事名前をお当てになったのは本当に驚きました。

さて、ニューヨークの通称ESAM、エンパイアステート航空科学博物館の
アグネタ・エアパークに展示してある軍用機をご紹介しています。

入り口からずっと艦載機が続いています。

リパブリック F-84F サンダーストリーク( Thunderstreak)

たしかこれもサンフランシスコの「ホーネット」博物館で
見た覚えがあるのですが、F-84は直線翼のバージョンもあり、
これが「サンダージェット」、偵察型は「サンダーフラッシュ」といいます。

アメリカ海軍はこの研究をなんと1944年から始めていたそうですが、
戦争中なのに(戦争中だから?)次世代のジェットエンジン搭載機の計画を
着々と進めていたなんて、つくづくとてつもない国力ですよね。

 

ともあれ、この「サンダー」シリーズは、アメリカの最初のジェット機で、
空軍に次配備された丈夫で多彩な機能を持つ戦闘機です。

 直線翼の「サンダージェット」のデビューは戦後の1947年でした。
リパブリック社は、1949年に後退翼機の開発に乗り出し、
ノースアメリカンのF-86セイバーに匹敵するような
ハイパフォーマンスの戦闘機を産み出そうとしたのですが、それが
このF-84Fサンダーストリークだったと言うわけです。

1950年の完成を目的とされましたが、デザインそのものをはじめ
エンジン、生産ツールとあちらこちらに問題が続出し、
早々に配備は1955年からと先延ばしされることになりました。

そうこうしているうちに1960年代になって、もうそのころには
次世代の超音速機が次々と現れ、置き換わられることに(涙)

というわけでアメリカでは空軍が200機ほど運用したにとどまりましたが、
決して性能が悪い飛行機ではなかったらしく、製造された
2,711機のサンダースリークは、アメリカ以外、ベルギー、フランス、
デンマーク、ギリシャ、イタリアなど13か国に普及することになりました。

ここにあるサンダーストリークは最初空軍に配備され、
最終的にはオハイオのナショナルガードで引退したものです。

マクドネル F-101B/F  ヴードゥー(Voodoo)

この名前は知りませんでした。
ヴードゥーったら中米とかアメリカ南部で信仰されていた
呪術のあのヴードゥー教ですよね。

同時代の戦闘機としては最も大きな機体をもつF-101は、
小さな翼と排気量の大きなエンジンを搭載し、
一発の銃弾を撃つことがなかったにもかかわらず、
その名前は対ソ戦でアメリカをソ連の爆撃機から防衛し、
冷戦の象徴ともなった戦闘機です。

当初は、1940年代後半に、戦略的な空軍司令部爆撃機用の
単座 護衛戦闘機として考案されました。

このミッションが実現することはありませんでしたが、
F-101の最終生産バージョンである2人乗りの「B2」は、
アメリカ空軍の防空司令部(ADC)で長寿命を享受し、
北米の空域を守る任務を負うことになったのです。

1959年から62年まで、ヴードゥーは最も数多く普及した
戦闘機で、70もの航空隊が編成されたといわれます。

ヴードゥーは速力に優れ、トップスピードはマッハ1.8。
最大速度1,825 km/h になり、4基の空対空ミサイル、
AIR-2ジニー(Genie)ミサイルなどを搭載することができました。

このジニーミサイルは核弾頭付き無誘導空対空ロケット弾で、
北米空域に侵入しようとするソ連の爆撃機を破壊する
背水の陣というか、最後の手段として開発配備されたものです。

しかし、ヴードゥー将、要撃機として大変重用されていながら、
実他の戦闘機と効果的に交戦できるタイプではありませんでした。

後退翼で機体が重く、マニューバリングに優れているわけではなく、
操作そのものもメインテナンスも大変気難しいため
操縦をパイロットの操作性に頼る部分が多く、上手い人でないと
乗りこなせない的な機体で有名になってしまったとか。

そのせいで、普及したのはアメリカとロイヤルカナダ空軍だけでした。

このF-101は1959年にアメリカ空軍に配備され、
ナイアガラフォールズ空港にある、
ニューヨークエアナショナルガード・第107戦闘要撃グループ
最終の奉公先として引退したものだということです。

さて次は、と行手を眺めやると、そこには迷彩の機が。
せっかく真横から全体像をみることができる展示がしてあるので、
近づいていく前にちゃんと撮っておきます。

というか、超馴染みがあるんですがこの機体。

マクドネル-ダグラス F-4 ファントム(Phantom)

なんだー、日本ではつい最近までバリバリ現役だった
ファントムさんではありませんか。

しかし、ここにある説明をみると軽く驚きます。

「F-4ファントムは海軍の空母で運用する要撃機として
1950年台に設計が行われた」

これが70年近く前のことだったという事実もさながら、
元々の目的は艦載機だったというのですから。

ファントムは第二次世界大戦当時からのアメリカの戦闘機の中で
もっともたくさん生産され、改良を重ねられてきた機体で、
海軍のみならず空軍、そして海兵隊でも運用されていました。

F-4が最初に海軍のサービスを始めたのは1961年で、
翌年には空軍も導入を行いました。
そして生産が終了したのは1979年。

この間5,000機が生まれ、アメリカのみならず、
10か国もの外国の軍隊で採用されました。

エンジンはジェネラルエレクトリック社製の
J-79ターボジェット

このおかげでF-4は当時最もパワフルで、かつ
重量の大きな戦闘機として、

AIMー7スパローミサイル

AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル

を各4基搭載することができ、地上攻撃任務には
1万5千ポンドの爆弾を運ぶこともできました。

ほとんどのF-4は内部に銃は装備されていませんでした。
近接でのドッグファイトの際不利になるからです。

F-4は、その運用経歴中、ベトナム戦争と密接に関連しており、
「Jack-of -All Trades」戦闘機として、制空権奪取、
地上攻撃、敵防空網制圧、および偵察任務を遂行しました。

この「ジャック・オブ・オール・トレード」というのは、おそらく
「なんでもやる奴」という言い方の俗語なんだと思います。

アメリカでは1996年になって、F-15 イーグルF-16
ファイティングファルコンに置き換えられる形で引退が始まりました。

空軍では何機かが空軍で無人機仕様にされています。

我が日本では最終的に引退は2019年となったわけですが、
当博物館の説明には

「ドイツ空軍はこの偉大なる戦闘機の最後のユーザー国の一つ」

つまりまだ使っていると書いてあります。
同盟国なんだから、うちらの名前も書いて欲しかった。

こちらにあるF-4は、”D"タイプで、最初に空軍に配備されたものです。
ベトナム戦争時はニューメキシコの空軍基地に展開しており、
1972年からは、スティーブン・ケイン大尉の愛機となりますが、
このケイン大尉は、退役してからESAMのボランティアとなって、
展示の際のF-4の修復作業に多大なる協力を惜しまなかったということです。

これは今まで行ったことのあるアメリカの博物館の
どこでも見おぼえのない機体です。

フェアチャイルド・リパブリック A-10 サンダーボルトII

機体種別番号がAということは攻撃機だと思うのですが、
それにしても明らかにグラマンとかマクドネルと違う、
異様な機体のラインをしております。

この形状から、人をしてウォートホッグ(イボいのしし)とか
簡単にホッグ(ブタ)とか呼ばせていたというんですが、
それも納得の独特なずんぐり感がありますね。

というわけでこのイボイノシシさんは、ベトナム戦争の後、
近航空支援 close air support role (火力支援目的の作戦)に
必要とされて生まれたということになっております。

この任務は、友軍にごく近接して地上の標的を攻撃することを含み、
ジェット戦闘機によって行われてほんの少し成功を見ました。

戦闘機には速度という強みはあるものの、戦場での耐久力の欠如、
地対空攻撃に対する脆弱性、および重弾薬の負荷に耐えないことは
弱みと言ってもいいでしょう。

したがって、1976年、A-10は米国で運用サービスを開始しました。
空軍が近接航空支援任務のために特別に開発された唯一の飛行機です。

見かけの通りA-10は高速でも流線型でもありませんが、
非常に機動性があり、任務を確実に遂行する能力はもはや伝説的です。

1990年になると、スピードもないA-10は、そろそろ引退?
みたいな雰囲気になっていたのですが、そこに湾岸戦争が起こります。

A−10はさいごにブリリアントすぎる活躍で一花咲かせるのですが、
そこで新しい「やりがい」を得たイボイノシシさんたちは、
空軍の歴史においても最も価値のある遺産を遺すことになりました。

生産された800機のうち350機現役および予備部隊で
未来に向けてサービスを継続を決定されたのです。

近くによってみましょう。
この機体の特徴はノーズに咥えたように突き刺さっている
30mmGAU-8 ガトリング砲です。

とにかく頑丈でタフな機体を持ち、湾岸戦争においては
参加機のうち半数にあたる約70機が被弾しながら、被撃墜は6機。
喪失率は10%という驚異の生還率を誇りました。

「384箇所の破孔を生じながら生還、
数日後には修理を完了し任務に復帰」

とか、

「イラク戦争でSAMによって右エンジンカウルを
吹き飛ばされながら生還」

など、それどこの舩坂弘、みたいな不死身伝説をもっているのです。

湾岸戦争におけるアメリカ空軍のパイロットの死者は約120人でしたが、
その多くはF-16搭乗者であり、A-10パイロットはわずか1名でした。

しかもその死因は食中毒だった

という(とほほ)

湾岸戦争ではこのいかにも凶悪そうな30mmガトリング砲で
イラク軍Mi-17ヘリコプターの撃墜も記録しているのですが、
これはたまたまそういう機会があったというだけらしく、
基本的にAー10には近接戦闘は求められていませんでした。

 

 

続きます。

 

 

 


アメリカ軍機の略称規則〜エンパイアステート航空科学博物館

2020-03-26 | 航空機

ニューヨーク州グレンヴィルのスケネクタディにある
エンパイアステート航空科学博物館は、二棟からなる展示室、
公開されているハンガー、そしてエアフィールドの航空機展示から成ります。

本館の外に軍用機が展示されているところは
アグネタ・エアパークと名前が付けられています。

看板が掲げられたこの構造物は、昔監視タワーか何かで、
上を切り取ってしまったものではないかと思われます。

上って行けないように階段に板が貼り付けてあります。

それでは、何回かに分けて展示機をご紹介していきます。

ベルエアクラフト UH-1 イロコイ Iroquois (Huey) 

日本でもこのタイプのヘリのあだ名は同じく「ヒューイ」です。
アメリカで運用された初期の偉大なヘリコプターで、
最初に陸軍に導入されたのは1959年のことでした。

生産は1976年に終了しましたが、それまでの間、
アメリカでは陸軍、海兵隊、空軍、海軍で採用され、
生産された1万6千機は、他国のエアフォースでも使われています。

多用途ヘリとしてありとあらゆる任務に投入され、
それだけに多種の使用目的に応じたバージョンが生まれました。

搭載エンジンはライカミングT53ターボエンジン
これは歴史的にも最初に製造されたターボエンジンの一つです。

ヒューイといえば、そのイメージは「ベトナム戦争」です。

ニュース映像や数知れないくらい多くの映画の画面、そして写真。
ベトナム戦争を描いたものでヒューイの姿を見ないことはなく、
それは名実ともに一つのベトナム戦争のアイコンになったと言えるでしょう。

戦争中、ヒューイは輸送機として(あだ名は”Slick”。巧みとかいう意味)、
攻撃ヘリとして(あだなは”Hog”、豚という意味)、そして
救難機として(あだ名は”Dustoff”負傷兵搬送というそのものの意味)
フルに活躍し、投入されたうち2,500機が戦闘や事故で失われました。

1980年代になってより大型で速くパワーのあるシコルスキーの
UH-60ブラックホークが現れるまで、UH-1は
真に航空機のレジェンドとして第一線で活躍を続けました。

アメリカでは近年(2008年)になって、残っていたバージョンのヒューイが、

空軍宇宙軍団 Air Force Space Command:AFSPC

で採用されることになってファンを喜ばせたそうです。
AFSPCは軍用機として戦闘機の類は保有せず、人員輸送のためだけに
ヘリを運用しているので、復活が実現したのでしょう。

窓の外からコクピットを撮っておきました。
シートは破れて中身が露出しています。

後部には一人用の小さな椅子がありました。

そうそう、宇宙軍団といえば、我が空自が

航空宇宙自衛隊

に名前を変えるとかなんとか、先日ニュースで見ましたが、
なんだかワクワクしますね。

ここにあるUH-1は、Hモデルで、1964年に生産され、
ベトナム戦争にも陸軍機として参加したものです。

「ミッドウェイ」の飛行甲板に展示されていた同機について、
「イントルーダーのツノ」としてその給油プローブについて
熱く語ってみた(熱く語るな)ところの、

グラマンA-6E イントルーダー

基本的に艦載機は翼を畳んだ状態で展示されています。
イントルーダーは当時最も効果的な攻撃ヘリとして、長期にわたり
海軍で使用されてきた名機です。

1950年代の甲板からA-1スカイライダーと置き換えられる形で普及しました。

ツインエンジン、二人乗りで艦上爆撃機として海軍と海兵隊が
空母で運用するのに多用されています。

イントルーダーを最も特徴付けるのは、重量の大きな爆弾を搭載でき、
かつ航続距離が大変長いうえ、夜間もオッケーで全天候型、という
使い勝手の良さだったといえましょう。

製作はロングアイランドにあったグラマンの「アイアンワークス」が行い、
700機が1963年から海兵隊に配備され始めました。

船舶用語で、船の造波抵抗を打ち消すために、喫水線下の船首に
設けた球状の突起のことを

「バルバス・バウ」

という、という話を以前ここでもしたことがありますが、
このイントルーダーのインテイクを備えたノーズのようなのも、

「バルバス・ノーズ」

といい、この場合は空気抵抗を打ち消すためのものです。

タフなだけでなく、トラッキングレーダーと、レーダー高度計、
ナビケーション内蔵、ジャミング装置と盛り沢山に搭載し、
A-6は当時運用されていた航空機の中で最も高価だったといわれます。

機体は改良を重ねられ、1970年にグラマンが導入したA-6Eになると、
その信頼性は一層増し、整備にかかる時間も縮小されるようになりました。

 

ところで、この空の色と雲を見ていただければおわかりでしょうが、
この日のスケネクタディはとにかく猛烈に暑かったです。
日差しが強いというわけではなかったのですが、
外で写真を撮って歩く時間はまるで我慢大会さながらでした。

見学者もいないわけではありませんでしたが、少なくとも
わたしたちが外にいる時間、他の人は一人も見ていません。

 

A-6は誕生するなりベトナム戦争に導入され、戦争中ずっと
特に北ベトナムでは夜間の要所攻撃に出撃しました。
1968年にF-111が登場するまで、世界唯一の全天候型攻撃機、
という地位にあったのです。

最後の頃は1991年から始まった湾岸戦争にも参加しています。

プラットアンドホイットニーのJ52ターボジェットという
パワフルな動力を備えたA-6は、典型的な攻撃ミッションでは
二つの増槽をフルにして、さらに6,000ー12,000lbsの楽団を搭載し、
何度となく空母艦上から空対地爆撃に出撃するのがデフォでした。

やっとのことで引退したのは1997年。
F/A−18ホーネットの誕生で後を譲ることになったのです。

このA-6hは1967年製造、Eタイプのスタンダードバージョンで、
92年に退役するまでずっと空母勤務を「エンジョイして」いました。

その空母とはUSS「アメリカ」「ニミッツ」「サラトガ」、そして
あの火災で有名な「フォレスタル」だそうです。

機体のマークは、最後のサービスを行った「フォレスタル」の
第176攻撃中隊のものがそのまま残されています。

あと、給油プローブに鳥が止まらないように、
これでもかと針が仕込んであるのには個人的にウケました。

ノースアメリカンT-2 バックアイ(Buckeye )

当たり前の話なんですが、航空機の名称で最初に「T」がついていれば
それは「トレーニング」なので、当然練習機です。

航空機に詳しい方なら当たり前の知識ですが、当ブログは
そうでない人に向けてお話しすることも重視しているので
(何しろブログ主の知識があやふやなことが多いため)
ここでアメリカ軍用機の記号規則の表をあげておきます。

AAttack - 攻撃

CCargo - 輸送

DDirector - 指揮(無人航空機管制)

E:Special Electronic Installation - 特殊電子装備

FFighter - 戦闘

H:Search and Rescue/Medevac - 捜索・救難 / MEDEVAC
       Help aircraft

K:Tanker - 空中給油

L:Cold Weather - 寒冷地仕様

MMultimission - 多用途

OObservation - 観測

PPatrol - 哨戒

Q:Drone - ドローン(無人)

RReconnaissance - 偵察

S:Antisubmarine - 対潜 Surface warfare

TTrainer - 練習

UUtility - 汎用

VVIP transport - 要人輸送

WWeather - 気象観測

タンカーがKなのは、Tが練習機と重なるので、
Tanker のKなのだと思われます。

バックアイは中間ー高等練習機で、ジェット機の操縦訓練、
とくに艦載機として航空母艦の離発艦の練習に使われました。

航空自衛隊の練習機T-4はその機体の丸みから
「ドルフィン」というあだ名がありますが、シェイプから言うと
こちらのバックアイの方が丸っこくてイルカ感満載です。

 

 

続きます。

 


幻の垂直離着陸機・ XV-5A~エンパイア・ステート航空科学博物館

2020-03-12 | 航空機

 ESAMの名物といえば「飛行機といっしょに朝ごはん」=
”ESAM Fly In Breakfast ”という企画ですが、
昔から堅実に続けられて地元の人たちの楽しみになっているようです。

月一回、日曜日の8時半にこの航空博物館を訪れると、
コーヒーとマフィンといったいわゆるアメリカンな朝食が用意されており、
それを楽しんだ後はその日の企画に参加し、見学を行うという趣向。

たとえば2月15日の企画は、戦史に詳しいDonna Espositoさんを囲んで
「第二次世界大戦時のアメリカ海軍の秘密のドローン」とか
「大戦前の名前のない飛行機たち」とか、
「南太平洋で対日戦に投入する予定だったドローン秘密部隊」とか、
(これ聴いてみたい)「海軍士官の家族にドッグタグを返した話」とか、
「戦闘で失われた3人のパイロットに共通する三つの偶然のミステリー」
などという話を聞かせてもらうそうです。

第二次大戦に投入されそうになっていたドローンの話、聞いてみたいですね。

で、このエスポジートさんが何者かというと、どうも
「航空&戦史マニア」で本も1冊書いたというアマチュアのようです。

さて、ギャラリー1の展示とそれに併設されたハンガーの中を
見学し終わると、次はギャラリー2の展示です。

ここはかつてGEのエンジンなどのテストを行うための設備を持っていました。
ギャラリー2の入り口には、ここで実験されたプロジェクトなどの写真と
その歴史がパネルにされて展示してあります。

真ん中の写真は、1953-1954 の「プロジェクト・サーチ・アロー」
付属レーダーを使用して戦闘機のレーダーの捜索範囲の
可能性を広げるために行われた空軍のプロジェクトです。

下左は1955-1963のアトラスICBM誘導装置」の実験。
CGM/HGM-16 アトラス (Atlas) は、アメリカ空軍で開発され、
ジェネラル・ダイナミクス社のコンベア部門で生産された
大陸間弾道ミサイル (ICBM) のことです。

アメリカ合衆国で初めて開発に成功したICBMであり、
1959年から1968年にかけて冷戦中実戦配備されました。

左側の写真はアトラス計画中滑走路を移動するコンベアC-131

一番上の写真は1956ー1963のT58エンジンのテストプログラムです。
先ほど内部見学してきたハンガーが写っていますが、ここで
シコルスキーのHSS-2ヘリに標準的なラジアルエンジンから
T58デュアルエンジンを付け替えるという作業ののち、ここで
フライトテストが行われました。

中左:F106超音速インターセプターに新型コントロールシステム、
GESACが搭載されたとき。1960年。

中右:1951−1958行われていた初期の自動操縦のテストです。

 

当時GEは、民間航空機製品の事業から外れて(外されて?)いました。
会社としても軍需の仕事を航空機のためにも確保したかったのですが、
結果としてそれは成功せず、このシステムは最終的に
一般に販売されることになりました。

下:ボーイングKC135改装。1961-1963。

上段はジェットエンジンの航空機、中段電子関係、
下段はミサイル関係の製品とジャンル分けされています。

下段左、1957年から行われたのは、デコイミサイルの実験でした。

ここからはXV-5Aプロジェクトのコーナーです。

当時、多くの国が様々な構想で垂直離着陸機を実験していましたが、
この幻の機体XV-5Aもその一つでした。
GのジェットエンジンをTF39を搭載していました。

同機は、15名のテストパイロット(通称『XV-5Aファンクラブ』)
によって試験飛行が行われましたが、まず1965年4月27日、
初試験飛行で墜落し、テストパイロットルー・ライアンが殉職します。

彼は機体からの射出を試みましたが、システムが故障しており、
パラシュートがテールに引っかかり、機体とともに地面に激突したものです。

墜落の原因は、パイロットがリフトジェットのドアを開ける際
高度がありすぎたことだったといわれていますが、
続く2番目の試験飛行でも墜落を起こし、今回もイジェクトシートが
地面に激突後に作動したため、この時のテストパイロット、
デイビッド・ティトル少佐は重傷を負いその後助かりませんでした。

このときは救難機としての実験のため、マネキンを負傷者に見立て、
スリングで吊り上げるという操作をしていたのですが、
そのスリングがファンに巻き込まれてしまったのです。

F 2032 Ryan XV-5A Vertifan VTOL Accident/Crash Footage Pilot Bob Tittle

 

XV-5A実験の際に起こった事故の映像が見つかりました。

着陸と同時に機体から何かが放出されていますが、
不思議なことに駆け寄った人たちがそちらに見向きもしていません。

さらに、この事故のパイロットはボブ・ライアンだと記載されているので、
上記の2件以外にも事故が起こっていたということになります。

写真のモニターで喋っている男性は、おそらく当時
『ファンクラブ』のメンバーだった元テストパイロットでしょう。
諦めずにライアン社が次に作ったのがXV-5Bだったわけですが、
陸軍にも空軍にも相手にされず?結局買い手がつかなかったため、
この垂直離着陸機は幻のままで終わったのです。

右上に、

「チームメンバーはハリアーを競争相手としてみていた」

と書いてありますが、その後アメリカ海軍と海兵隊は、
ホーカーシドレーとともにそのハリアーを完成させ、
海兵隊用に導入を行いました。

 

MALTA TEST STATION 

と書かれた看板。

あの地中海のかと思ったら、ニューヨークのマルタでした。

1945年に設立された旧米軍の燃料および爆発物のテスト施設で、
米国陸軍の「 プロジェクトヘルメス 」用ロケットエンジン
燃料、爆発物のテスト、原子力研究にも使用されています。 

 GEがここで実験を行っていたのは1972年までのことになります。

GEが制作したらしい1955年のカレンダー。
この博物館でまだ使われているハンガーの中です。
かつてフライトテストセンターとしてGEが使用していた頃で、
絵のタイトルは

「空の実験室」(Laboratories in the sky)

となっています。

X-405エンジン、ショックレスノズル搭載

ヴァンガード・ロケットの一段目の動力に使用されたロケットエンジンです。

このロケットが最初のアメリカの人工衛星の打上げに選択された時、
マーティン社が主契約社として契約を結んだのですが、
最初に提案したタイプは必要な水準の推力が不十分と判断され、
GEの提案の方がリスクが少ない選択であると考えられたため、
マーティンはGEと推力構造体、ジンバルリング、エンジン部品、
エンジン始動器具を含む自己完結型のX-405エンジンの契約を交わしました。

この結果、12基のX-405が生産され、そのうち11基が
ヴァンガードに搭載されて飛行したとあるので、ここにあるのは残る1基?

ここからはいきなり第二次世界大戦の航空機についての展示になります。
スミソニアン博物館にも展示されていた、カーティスのウォーホークですね。

第二次大戦に参加したこの地元出身のパイロットたち。

左上の人相の悪い人は、(すみませんなんていうもんかい)

ジャック・ニューカーク  ”Scarsdale Jack" Newkirk
(1913-1942)

「スカースデール(彼の出身地)ジャック」とあだ名された
フライング・タイガースのリーダーです。

彼は、前回ご紹介したニューヨークのレンセラー工科大学に、
航空工学を学ぶため入学するも、恐慌のため学費が払えず退学。
しかし、その期間に飛ぶことを学び、苦労して海軍搭乗員になります。

ウォーホークP-40は彼がフライング・タイガースで乗っていた愛機で、
彼のフライング・タイガース入隊は、

「日本人の中国人に対する残虐行為への怒り」

が動機だったということになっております。
まあ、そういうことでいいですけどね(なげやり)

彼の写真の下にある旭日旗から推察するに、
彼は日本機を7機撃墜したようですが、彼の最後は
ビルマで間違って木に激突し、投げ出されたというものでした。

しかし、アメリカのメディアはいち早く彼を英雄として祀り揚げ、
ディズニーがフライングタイガースの徽章をデザインするなどして、
大いに戦意高揚に彼の死は利用されたようです。

ちなみに彼の遺体は、日本人によって埋葬されたということです。

その下は、バトル・オブ・ブリテンでアメリカ人として
RAFに参加し、(じつはそれ、非合法だったわけですが)
ホーカー・ハリケーンでルフトバッフェの戦闘機と交戦、
戦死した、

ビリー・フィスク ’Billy ' Fiske 1911-1940

彼は撃墜王とかではなく、冬季オリンピックにも出場した
ボブスレーの選手でした。

Funeral Of Fiske (1940)

イギリス軍が行った彼の葬儀の様子が映像に残っています。
棺はアメリカ国旗で包まれています。

左上はミッドウェイー海戦のヒーローとして

クラレンス・ウェード・マクラスキー・ジュニア
(Clarence Wade McClusky,Jr.,)1902-1976

「エンタープライズ」の艦載機パイロットだったマクラスキーは、
ミッドウェイ海戦の際、このとき参加した日本海軍の空母のうち
「赤城」「加賀」「蒼龍」の攻撃を指揮し、結果的に沈没せしめたため、
この功績に対し海軍十字賞を与えられています。

左:P38の偵察型で偵察中行方不明になり戦死認定された
ジョン・マンチーニさん。

右:最初にニューヨーク出身で第二次大戦の戦闘機パイロットになった
ジョン・オニールさんは、ニューギアナで日本機を6機撃墜しました。

左:「ポップコーンが弾ける音を聞くたび、機銃に狙われたことを思い出す」
と語るのは以前ESAMでボランティアをしていたというパイロット。
「遠すぎた橋」で描かれたマーケットガーデン作戦に参加したそうです。

右:空戦で乗っていたB-17からベイルアウトしたという人。
「空中に投げ出されたときには、ドイツ人の履いている靴に
触れるかと思ったよ」
彼はフランス軍に救出されて生き延びました。

ここに書かれているところによると、勝利は油の生産と
「パイロット」(の質量)によるところが多いそうです。

「ドイツと日本はアメリカや同盟国と比べて
航空機の生産と燃料、そして搭乗員の育成の点で劣っていた」

はい、その通りです。
どっちもお金がなかったのでね。

航空機動隊の輪切りには旭日マーク(つまり撃墜数)が5つ。

これはB-25に搭載されていた機銃のターレットです。
ここに貼られている旭日旗のデカールは、実際にも
もしガナーが敵機を5機以上撃墜した場合には、このように
ターレットの部分にマークを貼ることが許されました。

爆撃機の機銃手も「エース」が名乗れたのです。

こちらは同じくB-25の爆撃手が狙いをつけるために覗き込むサイト。
爆撃機のノーズにあって、爆撃手は腹這うように覗き込みます。

このコーナーにはまるで実際の航空機の座席にいるような
振動を味わえるシミュレーターがあって、ボランティアのおじさんが
「ヘイ、乗って行かないかいキッド」とかいいつつ誘っていたのですが、
この子供にはつれなく断られていました。ドンマイ

 

続く。