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飛行家列伝「バロン滋野」~As Japonais (ア・ジャポネ)

2015-06-26 | 飛行家列伝

エース・パイロット(Flying Ace)とは、空中戦で多数の敵機(現在は5機以上)
を撃墜したパイロットに与えられる称号です。
ドイツ語ではFliegerass、フリーガーアス、そしてフランス語では As、アー、
フランス語の語尾は無音なので「ア」だけという(wikiのアスは間違い)省エネ発音。 

第一次世界大戦で初めて人類は飛行機による戦闘を経験しました。
フランスでは10機撃墜した者にエース(ア)の称号を与え、敵の独英もそれに倣いましたが、
これは当時の飛行機が言い方は悪いけど落としやすかったということでしょうか。

第二次世界大戦が始まると、連合国、枢軸国共に「5機撃墜」がその基準になります。

日本では海軍だけが昭和18年後半に軍令部によって記録そのものを止めたため、
戦後になって彼我の戦果報告と被害状況を照合して客観的な数字を検証する活動が
ようやく1990年代以降になって行われてきたというのが実情です。

ところで、Wikipediaの「エース・パイロット」の項を見ていただくと、
第一次世界大戦のエースパイロットのリストに日本人の名前があるのをご存知でしょうか。
滋野清武(しげのきよたけ)男爵。
これが今日お話しする「日本人初のエース」、バロン滋野です。

ライト兄弟が1910年、グライダーで初めて滑空飛行に成功したとき、

19歳の男爵、滋野清武は広島陸軍幼年学校の生徒でした。

14歳の時に陸軍中将だった父が50歳で病没したため、家督を継いだ清武は、
そのときには自分がのちに飛行機に乗るとは夢にも思っていませんでした。

幼年学校の厳しい世界にに全く馴染めなかった清武はすぐに退学し、
有り余る財産ゆえ何もせずにぶらぶらしていたところ、
母が三人の妹のために頼んだ英語の家庭教師と同年代ゆえ懇意になります。

山田耕筰という名の東京音楽学校のこの学生は、清武に音楽学校への受験を勧め、
予科に入学した清武は、本科でコルネットを専攻するようになりました。
本科2年生であった25歳の時、妹の友達であった公爵令嬢清岡和香子に一目惚れ、
すぐさまプロポーズをして学生結婚で結ばれました。

全てにおいて話が早すぎるという気がしますが、男爵なので別に働かなくても
食べていけるわけですから、学生結婚でもなんの支障もなかったようです。
ただ、和香子の母親には「下賎な楽隊屋」ではなく、「お父様のような軍人」
でないと娘をやりたくない、と当初反対されたのを押し切っての結婚でした。

娘も生まれ、幸せの絶頂だった清武を絶望の深淵に叩き落としたのは若妻の死です。
和香子は出産後すぐに、身体中を蝕んでいた結核のために亡くなってしまったのでした。
毎日谷中の墓地で墓にすがって泣き続けた清武を救ったのはある人物の

「本気で自殺を考えるならば飛行機にでも乗るが良い。
日本はまだ無理だから、ヨーロッパにでも行って飛行家になれば死への最短距離だ」


という言葉でした。
そしてこの言葉は彼の人生をも変えます。

飛行機で空高く飛べたら、和香子の近くに近づいていけるのではないか・・・。
たとえそれで死んでもその時は本当に妻の元に行けるのだから。


フランスに行った清武は、そこで自分でも意外なくらい立ち直りました。

おそらくフランス語やフランスそのものと相性が良かったのでしょう。
そこで当時難しいとされていた自動車の運転免許を取り、ロンドンまでドライブしたり、
オペラやコンサートに興じながら飛行学校に通い、飛行技術を学びます。

飛ぶ練習と並行して飛行機の設計も始め、その試作1号「わか鳥号」(和香子に因んだ)は、
パリの飛行機制作者シャルル・ルーが万博に出品するほどの出来だったそうです。

長身で(フランス人は総じて小柄である)さっそうとした東洋の貴公子が、
数少ない自動車を乗り回し、飛行機の操縦を練習しながら設計もしてしまう。

この出品は清武自身のエキゾチックな魅力も相まって大変話題になりました。
フランスでは無口だった日本の時とは別人のように社交的であった清武は、
しかしこの地でも全く女性と関わろうとしませんでした。

その薬指の結婚指輪に、喪章である黒いビロードリボンが付けられていることを
パリの人々は好意的に眺めては、
彼の悲しみに想いを寄せるのでした。



飛行学校を卒業した清武は帰国し、「わか鳥号」を陸軍の協力で飛ばそうとしますが、

ここにライバルが現れます。
陸軍軍人で、華族である徳川好敏でした。 

今日、徳川は日本で初めて飛行機で空を飛んだということで名前を歴史に刻んでいますが、
この二人はソリが合わないというのか、お互いに黎明期の飛行家であり、
利害関係が一致していることが多く、かなり険悪な仲であったようです。

政治力に長け、さらに陸軍という「後ろ盾」によって航空界の第一人者となった徳川ですが、
実際はフランスに来て1時間で免許を取ったという程度の腕でした。

当然飛行機の仕組みについてもあまりわかっていなかったはずですが、
清武がその飛行機設計をフランスの設計家に絶賛されたことに対抗したのか、
徳川は、既存のエンジンを積み替えたものを「『徳川式』飛行機だ」などと言っていたことも
清武の不興を買いました。

同じ陸軍の飛行教官でも、清武の100時間以上に対して徳川はわずか15時間という飛行時間で
清武のほうが教え方がうまく
、学生に人気があったということも軋轢の原因になりました。

その後、徳川は陸軍軍人であることを生かして周囲に圧力をかけ、

御用掛として呼ばれた民間人の清武を陸軍の中で孤立させてしまいます。


余談ですが、清武の「宿敵」はもう一人いました。 
こちらも大物、志賀直哉です。
学習院時代、清武が華族女学校に妹を迎えに行っていたのを勝手に色々想像して
けしからん、と憤った志賀が友人と共に清武を「ぶん殴った」というものでした。 

しかも志賀は後年、そのことをしれっとエッセイに書き、どう見ても自分が悪いのに
清武のことを「とにかく人に好かれぬ男だった」などとディスって、非難されています。
そのときの随筆の一文は

「フランスに行って飛行将校になり勲章を貰い、
フランス人の細君と混血の赤児を連れて帰ってきた」

という悪意とその裏に潜む嫉妬が隠せずにじみ出ているものです。
三島や太宰ともいろいろあったそうですし、なんだか嫌な奴みたいですね志賀直哉って。


さて、徳川との確執ですっかり陸軍と日本に嫌気のさした清武は、
教官を辞職することを決心し、民間の飛行学校を設立することを考えました。
それに必要な飛行機を購入するために神戸からもう一度渡仏したのですが、
そのときヨーロッパでは大変な事件が起きていました。

サラエボ事件です。

第一次世界大戦の導火線となったこの事件に呼応して、パリからリヨンに避難した清武、
いやバロン滋野は、カフェのレジにいる18歳の可憐な少女に出会います。

滋野夫人となる、ジャーヌでした。 
後に夫が急死して未亡人になったとき、意に染まぬ再婚話から逃げて
清武の元に駆け込んできたジャーヌを彼は受け入れ、結婚して日本に連れ帰っています。


リヨンで暮らしながら清武は考えます。

「この戦争は日本にも波及したので、 民間飛行練習所をつくるどころではないだろう。
この間、計画はひとまず中止して、自分の腕を磨こう。
しかし民間学校はこちらでも閉鎖同様だから、フランス陸軍航空隊に従軍しよう」

いやいや、この流れでどうして従軍となるかな(笑)

ともかく三段飛びのような論理展開で清武はフランス軍に志願し、
フランス陸軍の方も時節柄、喜んでこれを受け入れたのでした。

1914(大正14)年12月2日に入隊した清武は、3日後、少尉に任官します。
さらに「日本の地位に相当する階級を与えるべし」と陸軍側が考慮した結果、
翌月の1月31日には陸軍歩兵大尉に任ぜられました。

フランス陸軍も階級によって待遇が随分と違うのですが、
居室や食堂も変更になるので、この2カ月足らずの間、彼とその周りは
変更に次ぐ変更でてんやわんやの騒ぎとなったようです。

もちろん制服も大尉になると変わります。
現在残されているバロン滋野の陸軍での集合写真を見ると、不鮮明ながら
彼だけが色の違う制服を着ているので大変目立っているのがわかります。
大尉の軍服は上衣が水色、襟章が黄色に金色の星と羽(操縦将校)をあしらい、
腕章が金のエリスと翼(飛行隊)キュロットは赤という華やかなものでした。

(えー、このエリスはエリス中尉のエリスではなく、フランス語の
héliceはプロペラという意味です。念のため)

ピロット(パイロット)としてのバロン滋野の実力はフランス人にも一目置かれていました。
偵察将校で後に親友となるペレージュ中尉が

「バロン滋野、我が隊には百数十人のピロットがいますが、
正直なところわたしは
誰の飛行機にも同乗したくありません。
しかしバロン・シゲノとロルフューブル海軍中尉となら喜んで同乗します」

と真剣に言ったことがあるくらいでした。
さて、1815年の5月27日、バロンに大本営飛行科長から命令が下ります。

「キャピテーノ・シゲノは飛行機に搭乗し、V24中隊に向け出撃すべし」

向かい風に近い烈風の中を時速40キロの列車よりもノロノロと3時間飛び、
部隊に到着したのですが、後で途中ドイツ機とすれ違っていたことを知りました。

着任した翌日、バロン滋野はペレージュ中尉を偵察に乗せ、出撃しました。
初陣です。
それから毎日のように出撃し、その度に砲撃の中を投弾して帰ってきました。
この頃、彼が実家に出した手紙です。

「略)なんとも云えぬ勇ましさです。
自分で自分の乗っている飛行機が見られたらさぞ愉快だろうなぞと、
愚にもつかんことを考えながらタバコをふかして飛んでいると、すぐ近所で敵弾が爆発します。
然し決して中らぬものとチヤンときめ込んでいますからなんともありません。
ヘン、やってやがるなア、位のものです」

幾度となく死と隣り合わせとなりながら、清武は全く恐れず空に上がるのが常でした。
ヨーロッパに来るきっかけになった「死んだら妻の元に行ける」という気持ちが
彼から死への恐怖を取り去っていたのでしょうか。

そんなバロン滋野に司令部からまず感状、続いて「戦功十字勲章」、そして
志賀直哉も嫉妬したという(笑)レジオン・ドヌールが授与されます。
軍機となっていて本人は知るべくもありませんでしたが、評定にはこう書かれていました。

「ピロットの特性顕著、当体に配属以来、軍人としての誠実な特質、勇気、感嘆すべき意志力を示せり。
最も危険な爆撃の数々の任務を遂行せし功績により軍功表彰され、レジオンドヌール勲章を授与さる」


バロン滋野は1915年4月1日、初撃墜をしました。
ランス市郊外上空でヴォアザン式偵察爆撃機で偵察攻撃中、
フォッカー式EIII型駆逐機に攻撃され、45分に亘る空中戦の末、
ほとんど弾を撃ち尽くした状態の時に相手が墜ちたのでした。

たちまちこの戦闘は全フランス陸軍に広がりました。
偵察爆撃機が駆逐機と45分もわたり合って撃墜したとあっては当然です。
ほどなく、バロン滋野はN26鴻(おおとり)飛行中隊に編入されました。
「As」つまり敵機を5機以上撃墜したピロットで構成されたエース部隊です。

 ちなみに第一次世界大戦当時の航空戦において撃墜がどのように公認されていたかというと、

「一人のピロットが敵機を撃ち落とした時に、二人以上のピロットが正確に
その落下した場所を見届けるか、砲兵隊、塹壕の歩兵、繋留気球の偵察将校などが
正確にその落下した場所を報告してくるか、あるいはピロットが撃墜した時に
誰も見ていなかった場合には、そのピロットが案内人となり、二人の飛行将校が
各一機に乗って、その場所に行き、撃墜された飛行機を見届けた場合」

となっていました。
これだけ厳密ならハルトマンやレッドバロンの撃墜数もかなり正確なんでしょうね。

バロン滋野の公認撃墜数は6機と記録されていますが、公認未公認、
共同撃墜の末同僚に戦果を譲ったりしているので実際の撃墜数はもう少し多かったようです。
しかし本人は敵機を撃墜することについてこのように述懐しています。

私は元来狩猟が非常に好きである。
然し鳥を打ち落とした其の瞬間だけは非常に愉快だが、
すぐに其の後には哀れな感じを禁じ得ない、

其れでも矢張りこの遊びがやめられないのである。
丁度其れと同様に敵機を打ち落とした瞬間に愉快を感じ次に非常なる哀れを感んじた。
そして1500メートルの高空からひらひらと真白な飛行機が落ちて行くのを見乍ら
嗚呼彼等も敵とは云へ親も兄弟もあるだらうと思つて馬鹿に哀れっぽく感じた、
それでもをかしい、昼食をする頃になると一時も早く出掛けて行って又打ち落とし度くなる、
人間は実に理由(わけ)の分からぬ動物であるとつくづく思ふ」 


軍極秘の勤務評定においても

「模範的なピロットであり、その勇気と冷静さは中隊の最上の模範を示した」

と激賞されていたバロンは、休戦条約が調印され、1918年11月11日に戦争が終わって 、
その時にはすでに妻となっていたジャーヌと、生まれたばかりの娘を連れ、帰国します。
娘のジャクリーヌ・綾子はその後脳膜炎のため2歳で死去しました。


日本では航空事業についての計画を航空局に積極的に働きかけますが、
関係者はまだ国内に操縦者がいない現状では、バロン滋野の提案による
「フランス人パイロットがわが国を我が物顔に飛び回る」 
事態になりかねないということを盾に、なかなか話を進めようとしません。

それだけでなく宮内省もジャーヌ夫人の男爵家への入籍を認めず、
清武はまたしても日本での生きにくさを実感せざるを得ませんでした。

しかも国は、バロン滋野の申請した航空事業にはのらりくらりと返事をせず、
それでいて神戸の毛織物商川西清兵衛が設立した航空株式会社は認可し、
(のちの川西航空機)彼の焦燥は深まる一方でした。

失意の日々の中で、 若い時から胃弱で何度も入院を繰り返していた清武は、
その心労が祟ったのか、胃病と腹膜炎を併発し、1924(大正13)年10月13日、
ジャーヌ夫人に看取られながら苦悶のうちに昇天しました。
わずか42歳でした。

その後、男爵の後継問題でジャーヌは滋野の実家から酷い扱いを受けることになりますが、
結局彼女は日本でフランス語を教えながら糊口をしのぎ、二人の遺児を育てて73歳で死去しました。 

長男のジャーク・清鴻(きよどり)は海軍の飛行士官を志望しましたが、不合格になったため、
陸軍航空通信隊に入隊し、そこで終戦を迎え、戦後はピアニストになりました。
そのスタイルから「和製(カーメン)キャバレロ」と言われていたそうです。

愛情物語/ジャック滋野
 

否定的に「ビジータイプ」と言われる一昔前の奏法で、フィンガーテクニックはともかく、
今聴くと正直なところ音楽理論的にかなり怪しい点があるのですが、
それなりに当時は有名だったようです。

少しあれれと思ったのが、このレコード?ジャケットにちゃっかり
「Jacques Baron Shigeno joue.. 」(ジャーク・バロン・滋野が演奏する)と書いてあることです。
芸名でもあったんでしょうかね・・・・バロンって。 


清武は音楽家から飛行家へ、ジャークは航空工学を諦め音楽の道へ・・。
父子が逆の道を歩むことになったのも何かの因縁でしょうか。



ところで清武は1918年に、雑誌の「百年後の日本」というテーマのアンケートに対し
こんな回答をしているそうです。

一、華・士族・平民の差別なくなるべし
一、軍人、官人の威力奮はざるべし
一、文明はほとんど極度に達し、従って戦争は不可能に近づくべし
一、少なくとも長距離の輸送・交通・郵便などは空中路となるべし
一、自転車のごとき軽便なる飛行機の使用盛んなるべし

全て100年経って、この世界はまさしく清武のいう通りになっています。

今日もどこかで新たな戦争の火種が生まれ続けているということを除いては。 





参考文献:バロン滋野の生涯 平木國夫著 文芸春秋社



 



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1 Comments

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華族 (昭南島太郎)
2015-06-26 10:12:54
バロン滋野のことを知ったのは、高校時代に購入した陸軍関係の本だったと思います。
バロンが仏軍制服に身を包み軍帽を手に取り、ジャーヌと寄り添うように二人で立っている写真だったと記憶してます。
でも、今回のエントリーまですっかり忘れておりました。
我が家系は明治以降曽祖父の時代から陸軍軍人だったようで、華やか(なのかな?)な華族社会などとは縁もゆかりもなかったと思いますが、何故か縁者に旧華族と言われる人がいます。
中尉のブログの読者に同様のご先祖様を持つ方がいらっしゃったら予めお詫びしますが、その縁者のご先祖は貧乏お公家さんだったとかで、爵位はあれどお金なしだっとか。。。

地位もお金もない太郎からでした(笑)

昭南島太郎



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