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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

マグニフィセント・ライトニング「震電」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-07-05 | 航空機

以前、戦艦「マサチューセッツ」の内部にあるちょっとした航空機コーナーに
「震電」の模型を見たとき、後ろと前を間違えてしまったことがあります。

わたしの類稀なる機体音痴を棚にあげるわけではありませんが、
それくらいこの日本海軍が試作していた局地戦闘機は特異な形状をしています。

 

まずはスミソニアンが所蔵している「震電」の完全形をご覧ください。
博物館の説明によると、

九州飛行機 J7W1「震電」(Magnificent Lightning)

日本海軍のJ7W1「震電」は、第二次世界大戦中生産注文された戦闘機中、
唯一の「カナード(Canard)翼」を備えた航空機でした。

カナードはフランス語を英語読みしたもので元々の意味は明らかではありませんが、
航空設計関係者の間で使われるようになった言葉です。

 

日本ではカナードは前翼のこととされており、ウィキペディアの
「震電」の解説でも「前翼型」と説明されています。
カナードをもつ固定翼機には「エンテ(Ente)型」という呼び名がありますが、
このエンテというのはフランス語の「Canard」と同じく「鴨」を意味します。

わたしはフランスに行くと、デリやレストランでも、
フォアグラを取るために
肥育させた鴨の胸ササミの部分である

「マグレ・ド・カナール」

があると目の色を変えて注文してしまいます。
適度にさっぱりしていて美味しいんですよね。

というのは全く関係なくて、その飛ぶ姿が鴨に似ているから、
という理由でそう呼ばれているそうですが・・・ほんとかしら。

ところでこの白黒写真ではカナードもエンテも全くその存在がわかりません。

Wikiにわかりやすい「震電」のイラストがありました。
真上から見た「震電」のノーズに、小さな尾翼みたいなのがありますが、
これが「前翼」であり、カナードもしくはエンテと呼ばれるものです。

というところで、初めてスミソニアンの「震電」をご紹介するわけですが、
残念ながらこんな部分だけ、全く修復なしの状態で放置されています。

「震電」の躯体が転がらないように黄色い移動用を兼ねた展示ラックが
ちょうどカナードの生えていた部分を串刺しにしております(T_T)
前翼がまっすぐではなく若干弓形カーブを描いていたことがわかりますね。

博物館の説明です。

「カナード」とは、胴体の後部に主翼を取り付け、機体前部に
小さな翼を固定した航空機を表すためのことばです。

アメリカでは、カーチス-ライト社と陸軍航空隊とがカナード航空機、

Curtiss XP-55 Ascender (アッセンダー、上昇する者の意)

を使って実験したことがあります。

Ascender

しかし、J7W1「震電」はもっと進歩していました。

「アッセンダー」も「震電」も、いずれも革新的で珍しいものでしたが、
いずれも試作の初期段階に至ることはありませんでした。

スミソニアン別館にはこのような状態、「晴嵐」の翼の下に
庇護される雛鳥のような状態で置かれています。

それにしてもスミソニアン修復スタッフが「晴嵐」修復に
えらく力を注いだというのがこれを見るとよくわかりますね。

さて、従来型戦闘機の常識を覆す革新的な前翼型戦闘機は
空技廠(海軍航空技術廠)の技術大尉、鶴野正敬が考案したものです。

再びスミソニアンの解説です。

日本海軍の技術者の一員として、鶴野は既存の航空機よりも優れた性能を持ち、
連合国の航空機に対抗するための急進的なデザインを思い描きました。
当初から鶴野は、ターボジェットエンジンが究極の推進力になると信じていたのです。

基本的なコンセプトを証明するために、横須賀に拠点を置く空技廠のスタッフは、
木製のMXY6カナードグライダーを3機設計製作し、試験を始めました。

主翼のエルロンの内側に2つの垂直尾翼表面を持った後退翼機。(イラスト参照)
実験機のうち1機には小型の4気筒エンジンを搭載しました。

 

一連のテスト飛行は好結果だったので、試作の前段階に当たる
プロトタイプを製作することになりました。
製作を請け負った九州航空機にはそういったオーソドックスな航空機の
生産経験が欠けていたにも関わらず、海軍は九州飛行機に
高性能のカナード迎撃機を設計するように命じたのです。

なぜこのとき九州飛行機が選ばれたかというとその理由というのが

「九州飛行機が他に比べて暇だったから」

海軍は零式艦上戦闘機が既にデビューから時間が経ち、当然
敵からは研究され尽くしているだろうと考えていました。

零戦に変わる画期的な戦闘機を模索していた源田実軍令部参謀と、
同じ考えから「震電」を構想した鶴野大尉によって、1日でも早く
新兵器を開発しようということになったのでしょう。

スミソニアンによるとこうです。

専門性ではなく稼働できるかどうかが選択の決め手となりました。
より能力の高い企業はすでにフル稼働しており、
まったく新しい航空機の設計には対応できませんでした。
海軍は九州の設計スタッフを、鶴野を含む追加のエンジニアで
補強しなければなりませんでした。

全方面からその能力をディスられる九州飛行機さん、かわいそす。

しかし結局作業は1944年6月に始まり、2機の試作品のうち最初のものは
10か月後に完成しています。
ドイツから指導のため技師を招聘し、通常なら1年半はかかるところを
6000枚の図面を書き上げるのを半年で済ませてしまったのですから、
この点は大したものだと褒めて差し支えないでしょう。

この制作にあたって、九州飛行機では近隣は元より、奄美大島、種子島、
熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員し体制に備えました。
その数は最盛期には5万人を超えたといいます。

 

「震電」のコクピット。

エンジンは胴体の後ろ半分の内側後方に取り付けられました。
星型の空冷式エンジンが動かす6枚翅のプロペラは機体の後部に、
ノーズの下に1つの車輪と支柱を、翼の下に2つの車輪からなる
三輪車の着陸装置が装着されました。

今日、この配置は一般的ですが、第二次世界大戦中は
ほとんどの戦闘機が尾輪を採用していたのです。

補助ホイールは各垂直フィンの底部に取り付けられました。
2つの補助装置を含むすべての5つの車輪は、収納式。
武装はノーズの中に4基の30 mm五式固定機銃。
これらの銃の重さは胴体の後ろでエンジンとプロペラの重さと
のバランスをとるのを助けました。
各銃は毎分450発砲することができました。

コクピット左側のレバー類。

「脚」とは車輪のことで、レバーには

下ゲルー中正ー上ゲル

と書かれています。
「中正」とはニュートラルのことでしょう。

 

戦争による危急の必要性から、異例のこととはいえ、海軍は
初飛行も行わないうちに「震電」の生産を現場に命じ、
2つの生産工場で毎月150台の機械を生産することが計画されました。

しかしエンジン冷却に問題が生じたこと、空襲による機材調達の遅れ、
および航空機業界のあらゆる部分で発生した全国的な混乱により、
「震電」は初飛行となる1945年8月3日まで空を飛ぶには至りませんでした。

昔、愛知の航空工廠で聞いた「零戦の部品を牛車で運んだ」という話ではありませんが、
この「混乱」の具体的な理由は、九州飛行機が疎開を行い、その際
部品の運搬を夜中に牛車で行なった、いうことなどです。

初飛行後、8月6日、そして9日、つまり人類史上二発の原子爆弾が
日本本土に落とされたその両日にテスト飛行が行われ、そして
それきり「震電」が空を飛ぶことはありませんでした。

鶴野大尉は終焉が近づいていることを感じたかもしれません。
しかし彼は慎重で、保守的なテストパイロットでした。
彼は「震電」が飛行中の計45分間、最後まで
ランディングギアを上げることはありませんでした。

そしてこの短いフライトで、「震電」にはいくつかの
深刻な問題が潜在していることが明らかになったのです。

日本のwikiはこのあたりを簡単にこう記しています。

1945年8月3日、試験飛行にて初飛行に成功。
続く6日、8日と試験飛行を行ったが、発動機に故障が発生し
三菱重工へ連絡をとっている最中に終戦となった。

この「問題」とは、

飛行中プロペラの関係で期待が右に傾く

機首が下がり気味

エンジンの油温の上昇

降着装置が脆弱で荒れた航空路では使用できない

などで、しかもベテラン搭乗員がことごとく戦死していた当時、
未熟なパイロットにこの難しい「震電」が

果たして操縦できるのかなどという問題も残っていました。

 

ところで、レシプロエンジン機さえ問題多発だったことから、その実現性には
かなり疑問は残りますが、海軍は将来的に「震電」を「震電改」とし
ジェット機にするという壮大な構想を持っていました。

この計画を聞かされた技術者は、

「震電の発動機の配置からすれば、ジェットエンジンへの換装は
そんなに難しいことではない」

とその時思ったことを述懐しており、スミソニアンでもまた、

九州飛行機は戦争が終わったとき、設計のトラブルシューティングを行い、
ターボジェット推進バージョンの計画を進めていた。

と記述しているのですが、これは若干の買いかぶりというしかなく、
実際にはエンジンの開発は全くそんなレベルを視野に入れるまで進んでおらず、
というか当時の日本には耐熱金属を作るための希少金属が枯渇していたことから、
(というか日本はそのために戦争したようなもんですからね)
試作にこぎつけることは現実的には難しかったのでは、というのが後世の評価です。

 

スミソニアンに展示されている「震電」の胴体は最初の試作品です。

アメリカ海軍諜報部の技術者は日本でこれを解体し、1945年末に、
テストと評価のために他の約145の日本機と一緒にアメリカに送りました。

しかしJ7W1「震電」を誰かが操縦したという記録はどこにも残っていません。

 
それにしても、試作で終わってしまったため、コードネームを持たない
「震電」に「壮大な稲妻(マグニフィセント・ライトニング)」などという
曲訳にも程がある(笑)命名を行なったのは一体誰だったのでしょうか。
 
 
 
続く。

 


ブラッド・チット〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-04 | 航空機

さて、今日はイントルーダーなど、空母艦載機搭乗員の
サバイバルにまつわるレディルーム展示室の展示からお話しします。


航空機搭乗員は航空機事故や不時着に備えて、
対策するための装備を航空機に搭載しています。

ここには「パーソナル・サバイバル・ギア」としてこんな説明がありました。

航空機から脱出して海上あるいは敵の陣地に降下することになると
搭乗員は救出される、あるいは脱出できるまで個人でなんとかせねばなりません。

携帯サバイバルギアには、このような機能が求められます。

● 応急手当てができる

● 信号を送る&通信する

● 長期間生存が可能である

ここに展示してあるアイテムのほとんどはA-6イントルーダー乗員のものです。

上段左上から

搭乗員サバイバルのための用具とそのテクニック スタディカードセット

楽しくカードでサバイバルについて学ぼう、というものでしょうか。
遭難してからカードを見ているようでは間に合わないのでは・・・。

航空機、救命いかだ用食物 賞味期限1982年6月3日

中の食べ物がなんなのか一切書いていないのが不親切。
賞味期限がたとえ切れていても遭難したら食べるでしょうけど。

サバイバルナイフ

素っ裸でジャングルに放り出される体験型番組ネイキッド&アフレイドでも、
たった一つ持ってきてもいいガジェットにナイフを持ってくる人がほとんど。
サバイバルの基本です。

懐中電灯

頭につけることも(無理すれば)できそう。

下段左から

携帯トイレ

PIDDLE-PAKというのが商品名です。
エチケット的には必要なのかと思いますが、海上を遭難している時、
なぜわざわざパックに用足しをするのか、ちょっとわかりません。

まさか、飲(略)


サバイバルプラントの知識 スタディカード

これもカードで楽しく学べるシリーズです。
食べられる植物、食べてはいけない植物が図解になっていると見た。

乾電池

オリーブドラブの紙ケースに入っています。

超小型サバイバルの知識カードと鉛筆

鉛筆は案外あると便利かもしれません。

下段左から

エアマスク的なもの

カッター

救急救命マニュアル

アメリカ国旗

最後は使用に関して注意が必要です。
どこでもこれを出していいかというとそうでもなかったりします。

しかし、アメリカ人であることを伝えてなんとか助けてもらえそうなら、
その時にはこれを出してみましょう。

これは、右側の説明にあるように

BLOOD  CHIT (ブラッドチット)

というもので、イントルーダーの乗員は敵のテリトリーに飛ぶ際、
必ずこの布を身につけていました。

みなさん、「ブラッドチット」って聞いたことありませんか?
ほら、アンジェリーナ・ジョリーの旦那の。


それはブラッドピットや、と即座に突っ込んでいただきありがとうございます。

チットは小さなメモのことで、イギリス英語が語源です。

ブラッドチットは撃墜されたパイロットが、地上に降りたとき、
そこで遭遇する可能性のある一般市民に助けを求めるためのものです。

わたしはあなたたちにとって危害を加えるものではない
アメリカ軍の軍人であるが、もしわたしを助けてくれたら
わたしの国はあなたに報酬を支払う用意がある


というようなことが書かれているのが通常です。
ブラッドとあるのは、搭乗員の血液型などが書かれることもあったからでしょう。

日本軍ではその類いのものは一切用いられませんでしたが、
アメリカ軍は日中戦争であのフライングタイガースがこれを用いていました。

漢字だと我々には意味がよくわかりますね。

来華助戦 洋人 軍民一體 救護

「この外国人は戦争の努力を手助けするために
中国にやって来ました。
軍民は一体になって彼を助け、守るべきです」

こちら朝鮮戦争のブラッドチット。

日中戦争のブラッドチットには、当たり前のように

「わたしは日本人の敵です」

と書いてあったそうですが、この度は日本語でも記述があります。

わたしはアメリカ合衆国の航空兵です。
わたしの飛行機が撃墜されたので困っております。
しかしわたしは帰って、世界平和のために
また帰国のために
再び戦う覚悟です。
もしあなたが最寄りのアメリカ軍基地に
連れて行ってくだされば
あなたの為にもなるし、
アメリカ政府はあなたにお礼を致します。

お互いに助け合いましょう。

誰か日本人に作成してもらったのだと思いますが、
あまり文章力のある人ではなかったって感じ?

「困っております」とかはなんだか微笑ましい?ですが、
「あなたの為にもなるし」ってなんでそんな上から目線なんだ?
とムッとする人もいるかもしれません。

「お礼をするのであなたにもそれは利益になりますよ」
って言いたかったんだと思いますが。たぶん。

 

さて、ここにあるイントルーダー乗員の持っていたチットには、
漢字でこんな風に書かれています。

我是美國公民、我不會説中國話、我不幸要求幣我獲得食物、

住所和保護、請ニイ(あなた)領我到能給我安全和儲法送

我回美國的人那裡 

美國政府必大大酬謝ニイメン(あなたたち)

中国語ではとにかく謝礼を強調し、助け合いましょうとかはなく、
世界平和などには一切触れていないのが、なんとなくですが
中国人をアメリカ人がどう思っているかを表している気がします。


続く。

 

 


イントルーダー・レディルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-07-01 | 航空機

 

ファントムII乗員のための最初の搭乗員控え室、
「レディルーム#6」という展示を見てからさらに進んでいくと、
別の部屋が現れました。

「イントルーダー・レディルーム」

言わずと知れたA-6「イントルーダー」部隊の搭乗員控え室です。
「intruder」は「侵入者」という意味なので、それを表すマークは
いかにも侵入を図ろうとする者の鋭い眼をデザインしたものとなっています。

ちなみに同型の電子戦型は当ブログでもおなじみ?「プラウラー」です。
今気づいたのですが、戦闘機が「侵入する人」電子戦機が「うろうろする人」、
「グラウラー」(噛みつく人)と、これ「変な人」シリーズだ(笑)

「ムーミン」に出てくるようなキャラが書かれたボードは
先ほど見た「レディルーム#6」の看板だと思われます。
どうしてここにあるのかわかりませんが、ムーミンの人は間違いなく
「ファントム」で、しかも『II』のマークがついていますね。

その横には「SDO」=Squadron Duty Officerの説明があります。

SDOは司令官の直属の代理ともなる役割で、
レディルームの中では、航空隊のジュニアオフィサーが割り当てられ、
24時間交代のローテーションで任務に当たることになっています。

入港時にはSDOは全ての航空隊員の動向を把握しており、
また空母内の各部署との連絡も取り調整を行うと言った具合です。

ワッチや他の任務についている各自についても全て確認し、
緊急時には全ての人員を必要に応じて招集する権限を持ちます。

それだけの任務を、交代でジュニアオフィサーが行うというのも
航空隊らしいといえばらしいですね。

さて、今度のレディルームは、一部をガラスで囲み、
かつてのブリーフィングの様子を活写する展示となっていました。

この展示にあたっては、改装の過程が写真で記録されており、
ビフォーアフターがわかるようになっています。

左下の白黒写真が、1980年代初頭ごろのこの部屋の実際の様子です。

 

直訳すれば「イントルーダーの飛行」という映画があったようです。
ウィリアム・デフォーは一番右かな?(若すぎてわからん)

調べてみると、日本では案の定

「イントルーダー 怒りの翼」

ってことになっておりました。何が怒りだよ。

Flight of the Intruder - Trailer

ベトナム戦争時代のイントルーダー乗りの話なので、
敵地に不時着してバディを担いで脱出、みたいな話もあるようです。

当時の映画評は低予算のためか散々だったそうですが。

ブリーフィングのデスクは下にオーディオなどのスイッチがあり、
本物であろうと思われます。

コカコーラを瓶で飲んでいるところが時代を感じます。
鉛筆は耳に乗せたかったのだと思いますが、うまくいかなかったようです。

搭乗員となっているのは、後ろの鋭い目の人を見ても
ファッションマネキンではなく、明らかにここ用に作られた人形ですね。

VA-115、ストライクファイター・スコードロン部隊の歴史は長く、
1942年にTBFアベンジャーの部隊として発足し、最初の戦隊章は
ウォルト・ディズニーがデザインしたことでも有名です。

ヘルメットにゴーグルをした天使が魚雷を投げているという・・。

ここで見学記をあげたこともある空母「ホーネット」の艦載機部隊として
沖縄、そしてレイテ島の戦いに参加したという部隊でもあり、
朝鮮戦争を経てベトナム戦争時代はこの「ミッドウェイ」をベースとしました。

その後、湾岸戦争で「ミッドウェイ」が「砂漠の盾作戦」「砂漠の嵐作戦」
に参加した時もここから展開し、その後はホーネットの部隊となって
その後「ロナルド・レーガン」艦載機部隊としてまた再び横須賀を定係港とし、
厚木、そして現在は岩国基地に移動しております。

非常に日本と縁の深い航空隊だということになりますね。

そのうちイントルーダーに乗っていたのは1970年代ということになります。

後ろの三人はマネキン出身らしく男前ばかり。
ホワイトドレスの部屋でサングラスをかけている士官は
ルテナント・ジュニアグレード、つまり中尉であります。

机の上にこれ見よがしに置かれている本はなんと

「LOST INTRUDER」

パーキンソン病を患った元A-6乗りの海軍軍人が、墜落した
イントルーダーをダイビングによって探すというドキュメンタリー。

 

中尉、カッコつけてるけどズボンが短いです!(笑)

奥にある「グリーニーボード」Greenie boardというのは、先日説明した、
LSOによる着艦の際の「評価表」というようなものです。

「フォックス」「ジッパー」(笑)「ボールズ」(笑)「カウボーイ」
「ノットソー」「パグ」(笑)といったようなふざけたパイロットのタックネームが
左端に書かれ、右に着艦の評価が色で表されます。

緑はOK。ちょっとした逸脱があっても修正ができた。

黄色は普通。理由のある逸脱をカバーできれば良い。

茶色はグレードなし。安全性に欠け平均以下の着艦。

ほとんどがグリーン(のはず)なのでグリーニーボード、というわけですが、
ちょいちょい茶色が混じってしまっている人もいるようです。

それ以外の色についても説明しておくと、

赤はウェイブオフ、つまり着陸していない。

自分の空母を間違えて降りようとしたパイロットに向かって、

「ウェイブオフ!ウェイブオフ!」

と叫ぶのでご存知かと思いますが、甲板にはタッチせず、
着陸態勢に入ってからなんらかの理由でやめて通り過ぎることです。

ゴーアラウンドという言葉も同じ意味ですが、海軍では必ずウェイブオフと言います。
日本語では着陸復行といいますがこの言葉が使われたかどうかは謎です。

海軍は戦争中も「ゴーへー」(ゴーアヘッド)とか、ナイスとか、
公に私に英語を使いまくっていたので、「タッチアンドゴー」は使ったようですが、
(元艦上航空機乗りの人が書いていた)着陸復行のことはなんといっていたのでしょうか。

ちなみにウェイブオフをする理由とは、

視界不良で滑走路が見えない
背風(テイルウインド)または横風(クロスウインド)
滑走路上に障害物や離陸機などがある

といったところで、成績的には「ノーカウント」です。
着艦をやめた航空機がその後どこに行くのか気になりますが。

そして、

青は着陸失敗(ボルター)

これはアレスティングフックが引っかからなかった場合。
着陸許可はLSOから出されますが、この場合は自己判断でタッチアンドゴー、
もう一度着艦をやり直すことになります。

例えばこのグリーニーボードの一番下の「パグス」パイロットは、
いきなりボルターをやらかして動揺したのか、再着艦(次のコマ)では
茶色の「ノーグレード」となってしまいました。(-人-)ナムー

また、

赤を緑でサンドウィッチは「完全なパス」、降りる様子もなかった
白はグライドパスを使った「コンピューターによる着陸」
このうち⚫️がついているのは夜間着陸となります。(点数高い?)

耐圧スーツにヘルメットのフル武装のパイロットは今降りてきたのでしょうか。
赤いシャツはORDNANCE、武器搭載などを行う係です。

こういう人たちがこの部屋にいたんですよ、という展示でした。
このような着艦の評価は、戦争中でも同じように行われたのでしょうか。

イントルーダーを作っているグラマン社によるポスターには、

「A-6イントルーダー。
パワーを知るものはごくわずかです。
そしてそれを手にする者も。

それができるのはグラマン社だけ」

みたいな?(曲訳です)

「ベトナム戦争空戦戦死者」「イントルーダー発進」

「チェリーストリートの少年たち-大学の狂気の純真さがベトナム戦争で無垢を奪った」

ほとんどがイントルーダー乗りだった作家ステファン・クーンツの作品です。
クーンツは司令官まで海軍軍人を務め、退役後コロラド大学で資格を取って
弁護士となりましたが、作家活動をはじめ、現在に至ります。

イントルーダーの模型自慢コーナー。
海軍のイントルーダー、海兵隊仕様(左下)、給油中、そして
一番右のは試験機でしょうか。

 NAVY/MARINES

と機体にペイントされています。

イントルーダーで使われていたコクピットの装備色々。

「高度計」「ウェットコンパス」(航空機用コンパス)

「攻撃角度のためのインジケーター」

「爆撃ナビゲーター用のradar slews tick」(ロック機能付き)

「”オールドスクール”のフライトコンピューターマニュアル」

離発着に関係する部品。

「『ロナルド・レーガン』のアレスティングギアワイヤ一部」

仕様&未使用のA-6カタパルトのカタパルトと機体を連結すもの」

「A-6Eなどのジェットエンジン”ブーマー缶”」

bumar canエンジンというのがわかりませんでした。

 

上左から:

「VA-15ブーマーズ」「52ナイトライダーズ」「VWA121グリーンナイツ」

「224ベンガルズ」

下段左から:

「VA-205グリーンファルコンズ」「VA-304ファイヤーバーズ」

「VA-95グリーンリザード」「VMSJ-2プレイボーイズ」

プレイボーイズはヒュー・ヘフナーの許可を得たのでしょうか。

実際のイントルーダーコクピットが再現されていました。

空母「キティホーク」にアプローチしようとしている
イントルーダーの爆撃手目線だそうです。

バニーちゃんがお酒を運んでいるマークのイントルーダー部隊。
これは海兵隊基地を見たことがある私に言わせると本物で、
実際に基地に掲げてあったものだと思われます。

ウェストパックということは、ミッドウェイが横須賀に定係していた頃ですね。

 

続く。

 


「晴嵐」に刻まれた落書き〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-30 | 航空機

いきなりですが、このブログでお話しした映画「海底軍艦」
ストーリー設定を覚えておられるでしょうか。

敗戦を受け入れない海軍軍人たちが終戦後、伊号403で南方に向かい、
そこで海底軍艦轟天号を秘密裡に建造するというもので、
彼らが乗り捨てた伊号403は敵となるムウ帝国に鹵獲され、
その神殿に神々しく飾ってあるというものでしたね。

海底軍艦「轟天号」のインスピレーションの元となったのは
実在した日本海軍の潜水艦伊400型であることになっていたわけです。

伊四〇〇型潜水艦は第二次世界大戦中に就航した潜水艦で最大であり、
特殊水上戦闘機「晴嵐」を3機搭載することが可能な潜水空母でした。

2012年、人民海軍の032型が竣工するまで史上最大だったこの潜水艦は
理論上地球を1周半航行可能であり、日本から地球の何処へでも
攻撃を行なって日本にまた帰ってくることが可能とされていました。

終戦間際に三隻が完成しましたが、連合国はその存在を知らず、
終戦を受け入れて内地に帰る時に2隻の四〇〇型を拿捕したアメリカ軍は
その大きさにさぞ驚愕したことと思われます。

400 submarine 

帰投命令を受けアメリカの駆逐艦「ブルー」に接収され、
横須賀に回航中のフィルムが残されているのでこれをご覧ください。

「ブルー」の甲板から写した伊400には多くのアメリカ軍人が乗り込み、
士官から説明を受けている様子も見ることができます。
拿捕された伊400の艦尾には星条旗が揚げられていますが、
日本海軍の旭日旗は降ろさずにそのまま並べて揚げたままです。

これをわたしはアメリカ海軍軍人たちの敬意の表れと見ますがどう思われますか。

さて、アメリカ人が驚いたのは伊四百型の大きさだけではありませんでした。
航空機を搭載し、敵地近くまで潜行して行き航空攻撃を行う。

同じことをするのにアメリカが何万人もの兵士の命を犠牲として
サイパン、グアム、そして硫黄島を奪取しようとしたわけですが、
この攻撃法はそんなアメリカにしてみれば

「その考えはなかったわー」

というべき視点に立った武器だったと言えます。

さて、それではスミソニアンの解説はどうこの潜水艦搭載型
水上戦闘機を説明しているでしょうか。

愛知 M6A1「晴嵐」CLEAR SKY STORM

愛知航空機のチーフエンジニア、尾崎紀男は、潜水艦に搭載し
作戦展開させる爆撃機の要件を満たすためにM6A1 Seiranを設計しました。

アメリカ本土やパナマ運河のような、日本から数千キロ離れた
戦略目標に潜水艦空母の艦隊で近づき直接攻撃するための航空機です。

この航空機/潜水艦システムは航空技術と海洋技術を巧妙に組み合わせたものでした。

米国が第二次世界大戦に参加する前に、日本海軍はすでに潜水艦から
偵察機を運航しており、そのうちの1つは実際にアメリカ本土を爆撃しています。

1942年9月9日、潜水艦伊-25からカタパルトによって打ち上げられた
横須賀工廠E14Y1 グレン(連合国コードネーム)偵察用水上機が、
オレゴン州沿岸の森林に4つの即席リン爆弾を投下したのです。

その5か月前、日本海軍は伊新しい潜水艦空母伊四〇〇型の製造を命じました。
海軍の計画では大艦隊を想定していましたが、最終的には
伊-400、伊-401、伊-402の3機しか完成しませんでした。

この3隻の潜水艦は1962年に原子力潜水艦「USSラファイエット」ができるまで
かつて建造された最大の潜水艦でした。

伊-400潜は6,560トン、巡航速度は18.7ノット。

それぞれ3機の「晴嵐」を防水コンパートメントに搭載し
60,000 kmの航続距離を持っていました。

AMクラス(伊13型)と呼ばれる、より小さな日本の潜水艦も
2機の「晴嵐」を運ぶために改装されました。

この巡潜甲型(旗艦)を建造していたのも改装したのも、
神戸の川崎重工業株式会社です。 

それにしても改めて驚くのは「晴嵐」の機体の大きさです。
隣にはB-29の翼の下に紫電改がいますが、どう見てもこれより大きい。

これを折りたたんで3機も搭載できた潜水艦の大きさとは、一体・・・・。
って感じです。 

伊-400プログラムを開始した直後、海軍は愛知航空機に
プロトタイプ特別攻撃機M6A1の開発を指示します。
最高技術責任者の尾崎は、ここで野心的な挑戦に立ち向かいました。

つまり250 kgの爆弾または800 kgの魚雷を牽引し、投棄可能なフロートで
少なくとも時速474 km、フロートなしで559 km出せる航空機。

海軍はまた、3台の「晴嵐」を組み立てて飛ばすのに
30分以内でなければならないと規定しました。

尾崎は機体が直径3.5 mの円筒形の格納庫の中に収まるように、
2つのフロートを取り除いたときに主翼桁が90度回転するよう設計しました。
翼を回転させた後、胴体に対して平らになるように折りたたむことができ、
水平尾翼の両側の約2/3も、垂直尾翼の先端と同様に折り畳めます。

すげー!(笑)

いやー、細かい工夫、特に省スペース技術にかけては日本人に勝るものはない、
と兼ねてから思っていましたが、まさに本領発揮って感じです。

ちなみにフロートなしの「晴嵐」を搭載する場合、機体は回収できないので
一旦射出すれば使い捨て、ということになります。

日本の美しい言葉「勿体無い」はどうした、とつい問い質したくなりますし、
その場合搭乗員はどうやって帰還させるつもりだったのか・・。

 

愛知航空機は1943年10月に最初のプロトタイプを完成させ、
11月に飛行試験を開始しました。
1944年2月、2台目の試作機がテスト飛行を行なっています。

初期の結果が満足のいくものだったため、海軍は
愛知が残りの試作機を納入する前に生産開始を命じました。

しかし、1944年12月に発生した大地震(昭和東南海地震、震度6震源津)
が生産ラインを激しく混乱させた後、進捗は事実上停止しました。
さらにB-29爆撃機が空襲を行うようになり、プロジェクトはさらに混乱。
1945年3月には戦況がさらに悪化したため、潜水艦計画は縮小されました。

最初の伊-400は1944年12月30日、伊-401はその1週間後に完成しました。

しかし、伊-402は潜水艦の燃料タンカーに改造され、
実質作業は伊-404と405で終了することになったので、
自然と「晴嵐」の生産計画もまた縮小されることになりました。

最終的に26台の「晴嵐」(プロトタイプを含む)と「晴嵐」を陸上機化した
「南山」2機、合計28機が生産されています。


ちなみに地震大国の悲劇というのか、戦争中でもおかまい無しにこの国は

鳥取大震災(昭和18年9月10日)マグニチュード7.2

東南海地震(昭和19年12月7日)マグニチュード8

三河地震(昭和20年1月13日)マグニチュード6.8~7.1

と短期間に三つの大地震に見舞われています。
まさに泣きっ面に蜂。
三河地震は特に軍需工場地域が被災し、まともな被災者数も
情報統制で明らかにされませんでした。

 

海軍上層部は、伊-400と401、2隻のAMクラス潜水艦、伊-13と14、
そして10機の「晴嵐」爆撃機から構成される第1潜水艦艦隊と
第631航空隊を編成し、指揮官にキャプテン・タツノケ・アリズミ
(有泉龍之助大佐のこと)を配置ししました。

海上試運転の間、部隊は「晴嵐」の組み立て時間を
少しでも減らすために猛訓練を行い、最終的に、乗組員は15分以内に
3機の航空機を(フロートなしで)発射させることができました

スミソニアンの解説には本当に「!」が付いています。
揺れる潜水艦上でネジ一本無くしても成り立たない航空機の組み立てを
分単位でできるような日本人の器用さなど一切持ち合わせないアメリカ人にとって、
何十年も経った今でも、この事実は驚異でしかないのでしょう。

ここで、わたしが先ほど呈した疑問への答えが出てきます。

この作戦の欠点は、「晴嵐」はフロートがないと安全に着水できない事です。
その場合、パイロットは潜水艦の近くで飛行機を捨てて水に飛び込み
救助を待つしかありませんでした。

やっぱり・・・・。

 

伊四百型と「晴嵐」の運用はおそらく第二次世界大戦中でも
最も野心的な戦略だったといってもいいでしょう。

日本海軍は、第1潜水艦小艦隊に搭載した第631航空隊を使用して、
パナマ運河を破壊することを考えました。
計画立案者は6つの魚雷と4つの爆弾でガトゥン閘門を攻撃するために
「晴嵐」を10機割り当てました。
パイロットは真珠湾を攻撃する前に彼らの前任者がしたように、
運河の閘門の大きな模型をつくり重要な特徴を記憶しました。

しかしそうこうしているうちに英米の艦隊は移動していることがわかり、
目標はウルシー環礁に停泊しているアメリカ軍艦隊の攻撃に変更されました。

1945年6月25日、有泉は「光作戦」の命令を受けました。
この計画は6機の「晴嵐」と4機の 偵察機「彩雲」を必要としました。

これは結果的に特攻作戦でした。

伊-13と14はそれぞれ2機のMYRT「彩雲」を運び、それらをトラック島で降ろします。
偵察機はウルシーのアメリカ艦隊を偵察し標的の情報を「晴嵐」に伝えると、
6機の「晴嵐」が最も重要な標的、すなわち
アメリカの空母と輸送船団に対して神風攻撃を仕掛けるのです。

しかしこの作戦はトラブルに見舞われます。

2機の「彩雲」が乗っていた伊-13は、空爆で損害を受け、
その後アメリカの駆逐艦に撃沈されてしまいます。
伊-400は旗艦からの重要な無線を逃し、間違った合流点に行ってしまいました。

そうこうしていた1945年8月16日、有泉司令は終戦の知らせを受け取ります。
乗組員は「晴嵐」のフロートに穴を開け、海中に投棄しました。

この時、伊−400の乗組員は10分で「晴嵐」3機を組み立て、
エンジンを停止し翼を畳んだ無人のまま射出したそうです。

有泉司令は弾薬、秘密書類を投棄させた後、艦内で自決しました。
自室の机には真珠湾攻撃で戦死した九軍神の写真があったということです。

国立航空宇宙博物館のM6A1は、最後に作られた機体(シリアル番号28)で、
今日でも唯一の現存する「晴嵐」です。

アカツカカズオ海軍中尉は福山から横須賀までこの「晴嵐」を輸送し、
そこでアメリカの占領軍に引き渡しました。
航空機はアメリカに輸送され、カリフォルニア州アラメダの海軍航空基地で
定期的に展示されていました。
その後1962年11月にメリーランドのガーバー倉庫に到着しましたが、
屋内の表示/保管スペースが利用可能になるまで12年間屋外で保管されたままでした。

修復作業は1989年6月に始まり、2000年2月に終了しましたが、これらは
スタッフの専門家チーム、多くのボランティア、そしてGarberと日本で働いている

何人かの日本の関係者の傑出した作業のおかげです。

製造図面は残っていなかったため、修復チームはいくつかの欠けている部品を
正確に再現するために様々な航空機システムの徹底的な調査を行いました。

彼らは、独創的なものから不条理といえるようなものまで、
「晴嵐」に組み込まれた興味深い設計機能を見つけました。

この遺産はまた、戦争末期に日本の航空業界を悩ませていた
「困難な労働条件」を表していました。

つまり、働き手を戦線に奪われたために専門職の労働者が不足し
現場で作業に当たっていたのが女子高校生だったりして、
品質と技量は深刻なくらい劣化しているのが明らかな上、
工場が爆撃に度々見舞われていたことを示す証拠さえありました。

例えば、工場が爆撃されてできたらしい金属製のフラップの損傷が
布のパッチで応急的に覆われていた、などということです。

またスタッフは燃料タンクの内部に書き損じが貼られているのを発見しました。
部品の基本的な装着と配置もあちらこちらで不十分と見られました。

翼からは誰か・・おそらく作業をした学生でしょうが、彼なり彼女が
引っ掻いて記した完璧な英語のアルファベットが見つかりました。
のみならず機体のさまざまな場所から
工場で彼らが刻んだらしい落書きが見つかっています。


そして、驚くべきことに、フロートが「投棄可能である」となっていた
設計者の主張にも関わらず、実際の機体からはフロートを切り離すことができる
という証拠はどんなに精査しても見つけることはできませんでした。

愛知航空機は、「晴嵐」生産終了間際には、すでにこの機能を廃止し、
フロートは投棄しないことにしてしまったのかもしれません。


徴用されて労働していた学生たちは、自分の組み立てる機体に
作業の合間にこっそりなんと落書きをしたのか。

戦争中で、しかも軍の飛行機を作っているのにやっていることは
子供っぽく、まるで今の高校生みたいだなあとスミソニアンの修復員たちも
苦笑したか、それとも、そんな学生たちが現場で労働しなくてはいけなかった
当時の日本の追い詰められた国情に思いを馳せたかもしれません。

 

続く。



ファントムII のレディルーム#6〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-06-21 | 航空機

朝一番に切符を買い、その日一番のアイランドツァーに参加し、
フライトデッキの新しくなった展示の写真を撮って「ミートボール」まで来た時、
わたしはキャットウォークに降りていくことができるのに気がつきました。

この階段を降りたところは、かつてのレディルーム、搭乗員控え室に繋がっているのです。

一人乗りのボートが「ミッドウェイ」の左舷後方すぐ横を走って行きます。
わたしがもしここでボートに乗るなら、同じコースを航走してみるでしょう。

中に入っていくと、まずメイルボックスが現れました。

「郵便物のピックアップは入港時 0730と1800

海上では通知のあった時に行われる」

ポストのあるホールの右側にはレディルームのドアがあります。
ドアのポスターには

「注意 ここからは戦闘機の領分(カントリー)です」

入ってすぐ左はまっすぐ艦体を左舷から右舷に抜けられる通路となっています。
突き当たりに見えるのが右舷側の区画というわけ。

レディルームは、左側に偉い人の机やロッカーのあるコンパートメントがあります。

角にあるデスクは置いてある帽子から推察してシーマン、右側は
士官が使用しているとわかります。
ダイヤルキー付きの金庫状のもの、書類ロッカーなども。

どの椅子にも占有者の上着がかけてあるのがいかにも使用中って感じ。

士官の机の上にはパイロットを象ったブロンズ像、そして
洗面器のような

「1975年 ミグ撃墜アワード(MIG KILLERS)」

のカップが。
以前、「ミッドウェイ」艦載機部隊が撃墜したミグについて、
いかにそれがずば抜けていたか実際の数字をあげてお話ししたことがあります。

ミッドウェイ戦闘機隊 vs.MiG〜空母「ミッドウェイ」博物館

1975年というのはベトナム戦争終結の年ですから、
戦争が終わって、もっともミグを撃墜した艦載機部隊に
このカップが授与されたということなのでしょう。

さらにその横には着艦信号士官(LSO)の白いベストとゴーグル、
そしてヘッドフォンとヘルメットなどの装備一式が展示されていました。

このレディルームすぐ上にあった「ボール」または「ミートボール」こと
光学着艦装置と無線を駆使して、白いベストを着た着艦信号士官(LSO)たちが
全ての艦載機の着艦をモニターし、着艦しようとする機の各パイロットに
進入角度や速度が適正であるかどうかなどの指示を送ります。

無事に着艦させればそれでおしまいというわけではなく、LSOは着艦を評価し、
フライトオペレーション終了後にパイロットにブリーフィングで
よかった点や改善点をしっかりと確認するのです。

そんなLSOは、飛行隊に所属する現役のパイロットでもあります。
LSOになるには、パイロットとしてすぐれているのはもちろん、
指導者としての資質も要求されることになります。

なるほど、レディルームにLSOの「シマ」があるのは、つまりここで
パイロット達にアフターブリーフィングを行う必要性があるからなんですね。

 
ところで在日米海軍のツィッターに書いてあった情報で驚いたのは、
艦載機パイロットには常に「空母に着艦する資格の更新」というのが必要で、
それも、最後に着艦してから29日経つと、自動的に消滅してしまうということ。
昔から、そして今でもそうですが、空母の着艦には高度な技術が必要なので、
29日経つともう腕が鈍るという理由からです。
 
着艦資格を得るには陸上で模擬空母に着艦する試験を受けますが、
それを採点するのも、この着艦信号士官、LSOなのです。
 
LSOはもうお判りのように、Lはランディング、Sはシグナルの意味ですね。

レディルームを前に立って全体を眺めたところ。
男の子とそのお母さんを案内してきたのはボランティアの元軍人。

もしかしたら自分のこの日のエスコートが、将来、有望な
海軍軍人を一人増やすことになるかもしれないわけですから、
説明に力も入ろうというものです。

この部屋は「レディルーム#6」といい、かつてあった
F-4 ファントムII戦闘機隊の控え室を再現したものです。
ここにある金色のプレートには、レストアに当たって寄付をしてくれた人の
名前や団体名、家族名が刻まれています。

寄付をした人の中には当然ですがパイロットもいるようで、
名前に

「ホークアイ」「コンドル」「キラー」「フィンガーズ」「10G」

などのかつてのタックネームを付け足しています。

そして壁にずらりと並んだ歴代航空隊のエンブレム。壮観です。

左から順番に

VF-14「トップハッターズ」、VF-21「フリーアンサーズ」、
VF-31「トムキャッターズ」、VF-32「スウォーズマンズ」、
VF-33「ターシャーズ」

どれもF-4ファントムIIの部隊で、最後のTARSIERとは
「メガネザル」のことです。

右から

「ビジランティス」(自警団)「ブラックナイツ」
「チャージャーズ」
「エーシズ」「サタンズ・キティーズ」

ここでなぜか「ブルーエンジェルス」が挟まって、

「レッドライティングス」「ブラックライオンズ」

ブルーエンジェルスも含め、全てファントムIIの部隊です。

右より、有名な

ジョリーロジャース」、「シルバーキングス」
「ファイティング・ファルコンズ」「グリム・リーパーズ」
「ダイヤモンド・バックス」「スラッガーズ」

そしてあの

 別名日の丸やっつけ隊、「サン・ダウナーズ」

そして「ピースメーカーズ」

一番左は戦闘機学校のマークです。
これら全てファントムII時代の部隊です。

この鐘とプラーク(銘板)は、フィリピンのバターンにあった
「キュビ・ポイント」士官クラブのバーに飾ってあったものだそうです。

第213戦闘機部隊「ブラックライオンズ」の初級士官たちが
1967〜8年の「ウェストパック・クルーズ」において、
当地に訪れた空母「キティホーク」に持ち帰ったもので、
祖国への任務に命を捧げたファントム機乗りたちの慰霊の鐘となっています。

「ファントムの真実」とは。

「マクドネル・ダグラスのF−4ファントムIIは20年以上にわたって
アメリカの戦闘機の第一線にありました」

はいそうですね。
もっと長く使っていた国も東洋にあるわけですが。

1957年から79年にかけて、5,057機が生産されました。

これは月平均にすると72機が生まれていたことになります。
ファントムはアメリカ海軍、海兵隊、空軍にも使用され、
同時に多くの同盟国でも活躍しました。

また、海軍の「ブルーエンジェルス」、空軍の「サンダーバーズ」など
アクロバット飛行部隊でも
この機体が使用されているのはよく知られるところです。

 

ファントムは高速かつ駆動性に優れているうえ大変丈夫でした。
攻撃型戦闘機としてだけでなく、大型の武器を搭載して敵地にやすやすと進入し、
目的を果たして帰還して来ることができました。

ベトナム戦争時代は海軍、海兵隊、空軍で同じファントムに乗っていましたが、
海軍の戦闘機隊は空母から発進し、トンキン湾においてキルレシオ13:1という
ダントツの記録を打ち立てています。

典型的な空母への着艦のパターンが図解で記されています。

黒いリボンの右側から空母の上を左旋回して、高度を落としながらアプローチ。
ここでフラップを下ろす、とか、ここでは高度600フィート、とか、
とにかく最後の瞬間まで細かく決められています。

もしウェイブオフタッチアンドゴーの事態になったら(点線)
向こうまでまっすぐ行って、
帰ってきてもう一度同じアプローチをするようです。

パイロット用の教材に書かれているような図解がパネルになっていました。

左はイジェクション・シート、脱出シートの詳細。
右側はファントムのコクピット周りの説明のようです。

我が航空自衛隊の現役パイロットには、今でもこれが
完璧に理解できる人がいっぱいいるはず。

「LOOSE DEUSE 」というのはチームでタッグを組む空戦のスタイルで、
そのマニューバだと思うのですが、どうも「タリホー」とか「ボギーズ」とか
「コブラ」とかの意味がわかりません。

説明を読む限り、「タリホー」はこれから交戦する、「ボギーズ」は敵、
「コブラ1」「コブラ2」はこちらの味方ではないかと(適当)

どなたかこの言葉についてご存知でしたら教えてください。

左は敵地に急降下爆撃を行う際のアプローチの仕方。
敵の防御ラインを突破し、的確に爆撃をおこなて離脱する方法が図解で示されています。

下に「RIO」とありますが二人乗りのファントムの「レーダー・インターセプト・オフィサー」
つまり「ファントム無頼」でいうと栗原航空士のことです。

下の図のように急降下爆撃を行うときに航空士は的確な高度をモニターします。

右はミサイルなどを発射するときの角度などについて。(適当)

こちらも着艦のアプローチの方法だと思います。
巨大な扇風機が邪魔だったので説明はなしです。


続く。


ドラゴン・スレイヤー「屠龍」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-18 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館に当たるダレス空港の隣、
スチーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに保存展示されている
航空機の中から、帝國陸海軍の軍機をご紹介しています。

冒頭写真を見て、わたしが本日テーマの屠龍と桜花を勘違いしているのでは、
と疑った一部の皆さんにお断りしておきますが、そうではありません。
散々機体の認識を間違えて、ここで指摘されるという前科を持つ
わたしですが、
さすがに屠龍と桜花を間違えるはずがないじゃないですか。

なぜこの写真を扉に採用したかというと、ここの「屠龍」はこんな状態なので、

なんとなく完全体の飛行機の方が収まりがいい気がしまして。


川崎 キ45改 二式複座戦闘機 「屠龍」

現地の説明では

KAWASAKI Ki-45 Kai Hei (Mod. C ) Type 2

TORYU (Dragon Killer) Nick

「龍を屠る」という日本語の意味をそのまま「ドラゴンキラー」とし、
連合国軍からの呼び名「ニック」を付け加えています。

アメリカではより直接的な「Dragon Slayer」(スレイヤーは虐殺者)
という言い方をすることもあるようです。

 "Kai" は「改」、”Hei" とは甲乙丙の「丙」を意味します。
甲乙丙を「ABC」と同じ型番の順番であるとして、「Mod. C」と説明しています。

「屠龍」はご覧のように、水上戦闘機「晴嵐」の翼の下に、
まるで庇護されるように展示されています。

日本語のWikipediaでは

「二式複戦の現存機としては、当センターが収蔵する
丙型丁装備(キ45改丙)ないし丁型(キ45改丁)キの胴体部分が唯一となる」

英語Wikiに記載されている現存機についての説明は、

今日現存するキ45改はたった一機である。
第二次世界大戦の後アメリカが、日本軍の航空機を「評価」するため
USS「バーンズ」に積んで持ち帰った145機のうちの一機で、
ペンシルバニアのミッドタウン空技廠にオーバーホールのため送られ、
その後オハイオのライト・フィールドとワシントンのアナスコーシアで
試験飛行を行ったのち、空軍からスミソニアン研究所に1946年寄贈された。
胴体だけが現在スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターで、
「月光」と「晴嵐」と並んで展示されている。

というものです。

補足すると、「バーンズ」が最初にアメリカにこれらの航空機群を
荷揚げしたのはバージニア州ノーフォークだったということです。

さらに博物館の説明を翻訳しておきます。

Kawasaki Ki-45は、第二次世界大戦の他のほぼすべての日本の戦闘機よりも
開発と運用に時間がかかりました。

設計主任だった土木武夫は、1938年1月にこの設計に着手しましたが、
量産機型は1942年の秋まで戦闘には投入されていません。

実戦に投入されることになると、キー45はすぐに米海軍の哨戒魚雷艇
(PTーパトロール・トルピード・ボート)

地上目標の攻撃任務を負った搭乗員達にとっての脅威になりました。

「屠龍」はまた唯一戦時中に運用された帝国陸軍の夜間戦闘機です。

 

日本軍は1930年代半ばから後半にかけて、双発エンジンで複座の
重戦闘機のようなもの、さらに
太平洋の戦場に投入するための
長距離戦闘機を必要としていました。

1937年3月、陸軍は多くの製造業者にそのコンセプトでの戦闘機を発注し、
川崎、中島飛行機、三菱はそれに一応手を挙げたものの、中島と三菱は
他のプロジェクトに集中するために競争から降りています。

結局、軍は仕様を追加情報で修正し、川崎に設計作業を受注しました。

指定は速度336mphの二人乗りの戦闘機。
2〜5000メートルの動作高度、および5時間以上の航続距離があること。
さらに軍はブリストル水星エンジンを指定しました。

SFUHセンターには展示されていない機体の部品も、また大切に
人類の遺産として保存されています。

機体から取り外した ハ102 空冷複列星型14気筒エンジン。
星型エンジンとはシリンダーが放射状に配列されたレシプロエンジンで、
これは最初の実験の後修正して換装されたものとなります。

1939年1月に、川崎は最初のプロトタイプを発表し、テスト飛行をしたのですが
速度は軍の要件を満たすには遅すぎたため、エンジンを取り替え、
エンジンナセルとプロペラスピナーを改訂しました。

これらの修正は最高速度を520 kph(323 mph)に高めましたが、
その後も胴体を狭め、翼の長さと面積を増やし、ナセルをもう一度改造、
そして武装を換装するなどの改造を繰り返しました。

スミソニアンには「屠龍」の翼を所蔵しています。
なぜ展示されている胴体に翼を取り付けないのかという気もしますが、
日本語のWikiの
情報がある程度正しければ、これは展示機の翼ではなく、
別のもう一機の(丁型)飛行機のものだからという説明ができます。

翼部分は「ローン」つまり貸し出しされていることもあるそうです。

Miscellaneous Parts(ミセレーニアスパーツ)つまり「パーツその他」です。
アメリカで、「その他色々」という意味で「Misc」(ミスク)という言葉は
よく使われ、学校の「何でもいれ」にMiscと書いたシールが貼ってあったりします。

外側だけを展示するので必要のないのパーツは抜いてしまったようですが、
破棄せずにちゃんと残してくれているのはありがたいことです。

取り外してしまったコクピットのシートクッションもちゃんと保存してありますよ。
これらも展示はしておらず、倉庫に入ったままのようですが。

クッションの中身は綿のようです。
合皮の無い時代なので、シート素材は皮革のようですが、
だからこそここまで形態を保ったと言えましょう。

合皮は本当にすぐに劣化してしまいますからね。

川崎は1942年8月に最初のKi-45 Kai(修正版)を完成させました。
しかし中国戦線に投入されることはありませんでした。

同年6月、二式複座戦闘機は爆撃機の護衛として
中国で「フライング・タイガース」のトマホークと対戦していますが、
結果は惨敗、キティホークにも負け続け、部隊からの評判は散々だったそうです。

ただし、

多くの日本海軍の戦闘機とは異なり、「屠龍」は
乗組員の装甲と
耐火性の燃料タンクを持っていました。

さすが、海軍の飛行機、特に零式艦上戦闘機は重量を軽くするために
搭乗員席のバックシートに穴まで空けて装甲を薄くしていた、
などという事情を踏まえていないと到底書けない文章ですなあ。

とにかく、対戦闘機戦では初戦散々だったこの「屠龍」が
もっともその威力を発揮したのは、本土防空戦における対B29戦でした。
龍を屠る者の名前通り、龍=B29を屠る飛行機となったのです。


SFUHセンターの解説の続きを翻訳します。

「屠龍」は通常20 mmと37 mmの重機関銃を搭載していました。

ニューギニア地域で連合軍の船団攻撃に投入され、第5空軍の
コンソリデーテッドB-24「リベレーター」爆撃機を攻撃しています。

日本軍は夜間戦闘機としてキ-45の派生系をいくつかを採用しましたが、
部隊でははこれらの「屠龍」を改造し、機体上部に、ターゲットの弱点である
腹部分の燃料タンクを斜め上向きに射撃するように取り付けられた
2本の12.7 mm機関銃に置き換えたりして非常に高い戦果を得ました。

「月光」にも取り付けられた「斜め銃」、「上向き銃」のことですね。

「屠龍」が特に効果的だったのは、エース樫出勇大尉を筆頭にした
精鋭ばかりで固めた山口県小月の防空部隊が運用した時であり、
その後、上向き銃を搭載する頃にはレーダーを使っていなかったこともあって
かなり苦しい戦いをしていたというのが事実のようです。

当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という名前はつけられてなかったのですが、
北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、
樫出大尉のいた小月と芦屋の飛行戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになりました。

また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったそうです。

昭和19年8月20日、B-29の邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち
23機撃墜、被撃墜については3機未帰還、5機が被弾という損害であった。

同じ戦闘についてアメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失、
そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、
対空砲火による損失が1機としており、日本機17機撃墜となっています。

この数字が正確で、このとき日本側が来襲機の28%を撃墜していたとすれば、
ヨーロッパ戦線での平均である
来襲機の10~15%撃墜を大幅に上回り、
世界的に見てもこのときの防御率はトップクラスだったことになります。

 

この国土防衛戦についてスミソニアンの解説はどうなっているかというと、

1944年6月、2年前のドーリットル隊の攻撃以来、
日本本土に対する最初の急襲としてB-29 スーパーフォートレスが襲撃しました。
キ-45 「屠龍」を含む日本の迎撃機はこれらを迎え撃ち、
あるキ-45パイロットは8機のスーパーフォートレスを撃墜しています。

このパイロットが誰を指すのかはわかりませんでした。

1945年3月9日、米陸軍第20爆撃集団は焼夷弾による夜間の低高度攻撃を始めました。

日本では3月10日、つまりあの悪名高き東京大空襲です。

これらの任務は、アメリカの伝統的な高高度からの日中爆撃からの
急進的な離脱を示しました。

やんわりとぼかして書いているようですがね。
つまりそれまでは昼間にピンポイント爆撃していたのが、この辺りから
夜間の一般市民無差別爆撃に舵を切ったということですよ。

そしてこれをわざわざ進言したのがあのカーチス・ルメイですよ。
なぜか日本は戦後このおっさんに叙勲しておりますが。

日本は対空砲火と夜間戦闘機攻撃で反撃しました。
ニックの6つのSentais(グループ)が終戦まで故郷の島を守りつづけたのです。

 

アメリカ側の無差別爆撃をちゃんと書いていないあたりはともかく、
こういう視点から語ってくれると実にニュートラルな印象を受けますね。

さて、最後に、「屠龍」が戦後、アメリカ軍に接収され、
そこでのテスト飛行でどんな評価を得たかを書いておきます。
これらもスミソニアンのキュレーターの記述によるものです。

 

アメリカに輸送されてから2〜3ヶ月の間、「屠龍」は集中的に
ライトフィールドとアナスコーシアでテスト飛行を受けました。

陸軍のテスト飛行ではパイロットは

「ニックの地表での操作性は大変に悪い」

と報告しています。
窮屈なコックピット、過度の振動、そして視界不良に対しても低評価でしたが、
ただ離陸距離、上昇速度、飛行特性、進入および着陸、および操縦性は
すべて良好から優秀と言っていい、と高い評価を与えられています。

テストが全て終わった1946年6月、陸軍はイリノイ州パークリッジにある
スミソニアン協会の国立航空博物館(NASMの前身)博物館保管場所に
運ばれた「屠龍」は、現在世界で唯一の現存するその姿をここに留めています。

 


続く。

 

 


へランティスブロン(HELANTISUBRON)の謎〜空母「ミッドウェイ」博物館

2019-06-10 | 航空機

前回の「ミッドウェイ」シリーズでは、2年前の訪問時の写真をご紹介しましたが、
今回から最新(といっても昨年夏ですが)のものを挙げながらお話します。

昨年夏、三度目となる「ミッドウェイ」見学のため、サンディエゴに滞在しました。
部屋からは以前ここでもご紹介した「パール・オブ・インディア」が見えます。
アラスカに鮭を採りにいっていたこともある帆船です。

エレベーターを待つフロアは全面ガラス張りで、「ミッドウェイ」がこんな風に見えます。

この写真もエレベーターホールからガラス越しに撮ったもの。
「ニミッツ」級空母3番艦の「カール・ヴィンソン」です。

カール・ヴィンソンは民主党の下院議員で、1981年に97歳で亡くなりました。

その活動は戦前からで、なんでも日本が海軍条約脱退した後、
アメリカの海軍力を拡張するのに大変貢献し、戦後も海軍委員会の議長として
原子力空母の調達実現への原動力となったという人物です。

「カール・ヴィンソン」が進水式を行なった時、彼は96歳でこれに出席し、
存命中の人物の名前がつけられた最初の空母となりました。

「ミッドウェイ」に来るときには必ず宿泊するレジデンスイン・バイマリオット。
去年まで工事中だった向かいのホテルも今年は開業しています。

地の利もあって結構お高いのですが、今回はカードのポイントが使えました。

「ミッドウェイ」開館の時間前にわたしは現地に向かいました。
歩いて数分で到着です。

埠頭は朝早い時間はホームレス、日が昇ってくると観光客で大変な人出となります。

後部デッキにはおなじみ、二体の乗員の人形があるのですが、
ちょっとこれ見てくださいます?

2年前の写真。
ぽ、ポーズが変わってるっぽい。((((;゚Д゚)))))))

作業船がメンバーを載せて準備中でした。
左から2番目の人はダイバーだったりしませんかね。

何をするつもりかはわかりませんが、とにかく「ミッドウェイ」は
このように切れ目なくメンテナンスを行なっているようです。

連日かなりの人数が観光に訪れるだけでなく、企業からのファンドや寄付も集めています。
民間人にも寄付を呼びかけており、ボランティアを募ることによって
この「国家遺産」の維持を図っているのです。

「軍事遺産」への対応が冷たい日本などとは比較にもならないレベルですが、
アメリカでも「ミッドウェイ」は特殊な部類といえるでしょう。
東部の重巡「セーラム」のように、ほぼ放置されたまま、という遺産も結構あるのです。

オープン前だというのに、チケット売り場にはもうこんな列ができています。

「ミッドウェイ」入館料は大人22ドルと結構高い方です。
(だいたいアメリカの博物館の相場は12ドルといったところ)

入館してすぐハンガーデッキにあるエンジンは、

R-2800 ツイン・ワスプエンジン(プラット・アンド・ホイットニー)

空冷星型複列18気筒の航空用エンジンで、F4Uコルセアなどが搭載していたものです。
説明のタイトルは

THE ENGINE THAT WON THE WAR」(戦争を勝利に導いたエンジン)

はいはい。

いつもちゃんと撮れなくて、今度来た時は、と思っていたアクリルの「ミッドウェイ」。
透明な素材で作ることで内部構造がよくわかるというわけです。

とにかくこの構造がすごい。
他のところならこれだけでも博物館の展示の目玉になりそうな手の込みようです。

この日もサンディエゴは雲ひとつない超晴天。
まだほとんど人のいないフライトデッキの様子をご覧ください。

くるたびに少しずつ塗装や展示が変わっているのが「ミッドウェイ」。
このT-2『バックアイ』ですが・・・・、

去年いなかったパイロットがコクピットにいます。

左からF-2/3 「フューリー」、F9F-8P「クーガー」、F9F「パンサー」

ほぼ同時代の戦闘機が羽を上げた状態でまとめられています。

今年修復作業を行なっていたのはF-8「クルセイダー」

まず塗装を剥いで継ぎ目の錆止めから下処理を行い、風防は全て交換するようです。
現役機並みに手をかけるんですね。

ハンガーデッキにテントを立てて設えられた「ヴェテラントーク」のコーナーでは、
一番乗りしてきた男性に、元艦載機パイロットのヴェテランが早速
「ランディング・トーク」で、自分の現役時代の体験を披露していました。

この向こうは全てヘリコプター。
手前の「シコルスキーHO3S」「シーバット」など、第二次大戦後の
「ヘリコプター黎明期」に活躍したヘリが並びます。

朝鮮戦争下で北朝鮮の爆撃を行った米海軍を描いたウィリアム・ホールデン主演、
グレース・ケリー助演、なんと横須賀などが舞台になるせいで、
淡路恵子が出演しているという

「トコリの橋」(The Bridges at Toko-Ri)1954年

ではシコルスキーHO3Sが活躍するシーンが観られます。

そのHO-3Sのコクピットにも、去年まではいなかったこんな人が。
ウィリー・ウォンカか?

と思っていたら、なんとですね。

The Bridges At Toko-Ri Theatrical Movie Trailer (1953)

この「トコリの橋」の予告編、最初からご覧になってください。

1:00〜から、これと同じような帽子をかぶった人(ミッキー・ルーニー)が
出てきて、わたしは思わずあっ!と声を出してしまいました。

1:10からは酔っ払いに絡まれる淡路恵子姉さんが出てきますし、
1:15から映るのは富士屋ホテルです。

2:00からはなぜか空母甲板の上で着物を着た日本女性が踊ってるという・・・・。

この映画、俄然観たくなりました。

というわけで、映画を知っている人は、なるほど!とこのマネキンを見て
ちょっと嬉しくなってしまうという仕掛けです。

これも朝鮮戦争で活躍したヘリ、「HUPレトリーバー」
いつの間にか全ての座席にパイロットが乗っています。
当時のヘリパイがどんな装備で乗務していたかわかります。

「SH-2 シースプライト」など、乗員を3人乗せるという大盤振る舞い。
ヘリコプターのハッチを開けたままにして、落ちないように
防護網を貼って飛ぶというのは当時のやり方だったのでしょうか。

「シースプライト」は対潜ヘリです。
「沈黙の艦隊」ではすぐそこに停泊している「カール・ヴィンソン」に搭載され
原子力潜水艦「やまと」を迎撃するという設定でした。

定員は三名。
後部座席にはイケメンすぎるクルー(TACO?)がいました。

もともとカマン・エアクラフトがあの無人対潜ヘリ「 DASH」の代替に
開発したヘリなので、武装もしています。

機体に描かれた部隊マークの「HELANTISBRON」とは、
おそらくですが、

HEL=ヘリ ANTI=アンチ SB=潜水艦 RON=ロン

だと思います。
だからロンってなんなんだって話ですが、多分これは
「スコードロン」のロンなんだと思われます。

「対潜ヘリ部隊」を一言で言ってみました的な。

さて、今日はですね。
三年越しの懸案だった艦橋の見学がやっと実現することになりました。
満を持して朝一番に乗り込んできたのも、週末は艦橋ツァーが激混みで、
早い時間に受付終了してしまうからです。

ツァーがどこから始まるかは行ってみたらわかるだろうと、案の定今回も
全く調べずに現地に乗り込んできたわたしです。
とりあえず、艦橋の周りをぐるっと回れば必ずそれらしいところがあるはず。

機体を日よけにして座るベンチがあるのがアメリカ式。
特にこのE-2「ホークアイ」偵察機は大きなお皿を背負っているので、
下で休憩するには十分な日陰が確保されるというわけ。

さて、このホークアイの後ろには・・・・、

いえーい

艦橋に続いているらしい通路が左舷側にあったぞ。

一目でわかる艦橋(アイランド)ツァーの案内図。
ボランティアらしいじいさまたちが立っているところまで行くと、

「ちょうど今最初のツァーが出発するところだから」

よし!

解説役のボランティアを先頭に、グループは狭いラッタルを登っていきます。
さあ、いよいよ「ミッドウェイ」のアイランドツァーの始まりです。

 

続く。

 


橘花と燕(メッサーシュミットMe262)〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-06-09 | 航空機

 世界の航空博物館数あれど、旧日本軍の軍用機をこれほど数多く、
しかも完璧な状態にそのほとんどを修復して後世に残してくれている
博物館は、ここスミソニアン航空宇宙博物館の別館、正式名
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターをおいてないでしょう。

ただし、完全な姿で見つからなかったものについては、
修復をあえてせず
そのままの形で展示されていたりします。

この写真の中心になっているのは海軍の水上攻撃機「晴嵐」M6A1
その右側が川崎の「紫電改」ですが、「晴嵐」の翼の下にあるのは
キ45改「屠龍」の胴体で、取得されたそのままの状態。

「晴嵐」の尻尾の下に見えているのが今日取り上げる「橘花」です。

この「橘花」の置き場所がものすごく微妙で、どこに立っても
必ず何かの陰になってしまうので、写真を撮るのに苦労しました。
この写真では「紫電改」の向こう側にひっそりと見えています。

ちなみに、右側に黄色い台の上に見えている車輪はB-29、
スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」のものです。

「晴嵐」のフロート越しに見る「橘花」。

「橘花」を現地の説明では「オレンジブロッサム」と翻訳していました。
柑橘、の「橘」であり、日本ではみかんなどの木の総称としても「橘」が使われます。

正確には「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」という
日本固有の種目で、みかんのような実が成ります。
日常的に生垣などから生い茂って実をつけているのを見ますが、
人に盗られたりカラスがついばんだりしないのは、実は酸っぱく、
とても生食には向いていないからなんだそうです。

というわけで「橘花」は正確には「オレンジの花」ではないのですが、
わざわざこういう翻訳をして紹介する意図はなんだったのでしょうか。


英語圏の戦闘機の名前は一般的に猛禽類や猛獣、剣の別名などがよく使われます。
そのものの「ラプター(猛禽類)」の他には「ヘルキャット」、
「コルセア」(私掠海賊)
「カットラス」(海賊の刀)「バッファロー」
イギリスの「デーモン」、アメリカには「ファントム」など、
そのものに力があり、相手を威嚇するような強い動物や想像上の存在など、
何れにしても花の名前を選ぶのは少数派ということができるでしょう。

しつこいようですが、紹介の説明板の前に立っても、肝心の本体が
どこにあるのか
すぐにわかる人はあまりいないでしょう。
ここからも、しゃがんで姿勢を低くし、「晴嵐」越しに見るしかないのです。

おそらくわたしのように日本機に特別な興味を持って来る見学者以外は、
「橘花」の存在を確かめることなく通り過ぎてしまうでしょう。

「橘花」の全体像がちゃんと見えるのは、逆側のこの角度だけです。
(しかしそこでは機体が何か確かめるすべがないという・・・・)

「橘花」の現地の説明を読むと、まずこうあります。

中島 「橘花」(オレンジブロッサム)

中島「橘花」は、第二次世界大戦における唯一自力発進が可能だったジェット機です。

capable of taking off under its own power. 
とあるのでこのように翻訳してみたものの、ジェット推進の「秋水」も、
一応自力でテイクオフできていたはずなので、この書き方にはちょっと疑問です。

ドイツがジェット推進のメッサーシュミットMe262戦闘機の試験を始めた頃、
日本は空軍の武官をドイツに派遣し、いくつかの航空実験を目撃しました。

正確には日本海軍、空技廠の武官ですが、当時は空軍のなかったアメリカでも、
航空に関わる軍事のことを「空軍」というので別に間違いではありません。

がしかし、

彼の作成した熱狂的なレポートに着想を得て、日本海軍の関係者は
Me262をベースにした双発ジェットエンジンで単座の攻撃機を
1944年に開発しました。

「熱狂的にレポートを作成した空技廠の武官」というのが誰なのか、
こうなるとぜひ知りたいところですが、日本側の記述によると
これは少し違っていて、本当のところはこのようなものです。

燃料事情が悪くなった日本では、低質燃料、潤滑油でも稼働する
高性能なジェットエンジンの開発が喫緊の課題となっていました。

そのとき同盟国ドイツに駐在していた陸海軍の将校と技術者が、
メッサーシュミット Me262の技術資料を、日本側の
哨戒艇用のディーゼルエンジンの技術と交換することを決めたのです。

ここに、ドイツの技術が欲しい日本と、日本の植民地などで入手できる
車両や航空機制作に必要な原材料が欲しいドイツの利害関係が一致し、
シンガポールなどの中継地からドイツとの間に潜水艦を往復させる

「遣独潜水艦作戦」

が5次にわたり実施されることになりました。

しかし、その4回目の遣独作戦でMe262の資料を搭載した潜水艦は、
パシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されてしまったのです。



この時、シンガポールで潜水艦を降りて輸送機に乗り換え命拾いをした
巌谷英一技術中佐
辛うじて資料を日本に持ち帰っています。

ただし、巌谷中佐が持ち帰った資料は本当にごく一部に過ぎず、
肝心のエンジンの心臓部分、そして機体のほとんどの情報は失われたため、
結局ほとんどが日本独自の開発になりました。

機体の形がうっすらとMe262に似ているのは、おそらく
記憶スケッチで設計したからだと思います。


しかしスミソニアンではそこまで情報を精査していないらしく、
ただ、「橘花」はドイツの技術を取り入れて作った、という前提で、
さらに、こんなことまで・・・。

スペックは幾分ドイツの戦闘機よりも厳密さに欠けます。
レンジは500kgの爆弾を搭載した時で205km 、250kg爆弾搭載時で278km。
最高速度はたった696kph、着陸時速度は148kph、
ロケット補助システムによって離陸時には最大速度時速350mでした。

躯体はメッサーシュミットの設計より少し短いものでした。

だから機体もエンジンもドイツの技術じゃないと何度言ったら(略)

スミソニアンが橘花を「オレンジブロッサム」とわざわざ英訳し、
機体の紹介に付け加えたのには、ある印象が込められていたとわたしは考えます。

散りゆく花を日本人が航空機の名前に選ぶとき、そこには
最初から特攻兵器として生産された「桜花」がそうであったように、
機体を特攻に投入するつもりがあったに違いないという先入観です。

果たしてそれは正しかったでしょうか。

「橘花」は終戦の詔勅の8日前の8月7日、松の根油を含む低質油を積んで
12分間だけ空を飛ぶことに成功しました。
これが日本でジェット機が初めて空を飛んだ瞬間です。

2回目の実験で離陸中に滑走路をオーバーランして擱座し、
破損した機体を修理中、終戦を迎えてしまいました。

終戦の知らせを受けた工場作業員によって即座に操縦席が破壊されましたが、
研究用に接収しようとした進駐軍の命令によって、彼らは
自分で壊した部分を修理させられることになりました。

ここにある「橘花」の由来については詳しくはわかっていませんが、
何れにしてもその時接収されたものに違いありません。


さて、「橘花」が特攻兵器になった可能性についてです。

「橘花」のエンジンを艤装した技術者は「これは特攻兵器ではない」
としていましたが、
もし終戦がもう少し遅く、計画通り数十機が量産されていたら、
熟練パイロットがほとんど残っていなかったあの頃、やはり
ジェット機「橘花」は体当たりをするしかなかったのではないでしょうか。

スミソニアンもおそらくそう考えていたのでしょう。

さて、結果的にそうはなりませんでしたが、日本海軍が設計図を手に入れ、
同じものを作ろうとしたメッサーシュミットのMe 262は、スミソニアンの
本館の方で見ることができます。

Messerschmtt Me 262 A-1A SCHWALBE

ニックネームは「シュワルベ」=燕。
メッサーシュミットMe 262は第二次世界大戦の世界の全ての戦闘機を
はるかに凌駕する性能を持っていました。

時速190キロメートルでアメリカ軍のP-51マスタングより速く、
戦争の初期に落ち込んでいたルフトヴァッフェの優位性を
わずかな期間とはいえ取り戻す役割を果たしたとまでいわれています。

Me 262は第二次世界大戦の終結の年に1442機生産され、
そのうち戦闘に上ったのはわずか約300機だけ、その他のほとんどは
訓練事故や連合軍の爆撃によって破壊されました。

Me 262がいかに性能において優位性に立っていたとしても、
すでにその頃には連合軍が絶対的な航空力において制空権を取っており、
パワーバランスはその優位性を相殺してもお釣りがくるほどだったのです。

つまりこのことは、いかに革命的な戦闘機をもってしても、それだけでは
不利な戦局を挽回するほどの力はないことを証明することになりました。

ミュージアムに展示されているMe262A-1aのコクピット。

メッサーシュミットの工場が爆撃された後、技術者と工員は
Me262の機体を森を切り開いたところで組み立て、
アウトバーンをタキシングして輸送し、部隊に配達したそうです。

最初にメッサーシュミット社に栄誉をもたらしたのは、
メッサーシュミットBf109という飛行機でした。

1936年から1945年にかけて、メッサーシュミット社は
7種類、合計3万3千機の航空機を生産しています。

テストパイロットフリッツ・ヴェンデルに話しかける
ヴィルヘルム・”ウィリー”・メッサーシュミット教授

彼は第二次世界大戦期で最も有名なドイツの航空機設計者でした。
彼の会社はルフトヴァッフェにとって最高の航空機を生み出しましたが、
それがこのMe262とメッサーシュミットBf109です。

1898年生まれの彼は、航空の世界の初期に彗星のように現れ、
56年の生涯を通じて航空機に携わり、仕事を愛し続けました。

優れたエンジニアであったのみならず、指導者としても傑出しており、
部下の能力を最大限に引き出して最高の結果を得ることができた彼ですが、
バトル・オブ・ブリテンでBf109が爆撃機の護衛に失敗してからは
ナチの指導者たちは露骨に彼を批判するようになったということです。

尾翼に鉤十字、胴体に鉄十字をつけて離陸するMe262。
ランディングギアに三輪をつけるというアイデアは今ではよくありますが、
実際に採用されたのはこの機体が初めてでした。

世界中の博物館に現存しているMe 262は9機だけです。

ここにある機体はJagdgeschwader(ヤークシュワーダー)7
有名な第7戦闘飛行隊が使ったものです。

記録によるとこのシュワルベのパイロット、ハインツ・アルノルド
ソ連軍のピストンエンジン戦闘機を42機、アメリカの爆撃機と戦闘機を
7機撃墜したということです。

「注意! 鼻車輪を引きずらないでください」

とあります。鼻車輪ってなんだ?

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空諜報部隊はヨーロッパにチームを派遣し、
敵の航空機、技術的および科学的な報告書、研究施設、そして
米国で研究するための武器を入手していました。

ドイツが降伏すると、「オペレーション・ラスティ」(元気作戦?)
としてドイツの科学文書、研究施設、および航空機を接収して研究を行う
チームが派遣されますが、その一つのチームは「ワトソンの魔法使いたち」といい、
元テストパイロットだったハロルド・E・ワトソン大佐の指導の下、
アメリカでのさらなる調査のために敵の航空機と武器を集めまくりました。

パイロット、エンジニア、整備士からなるワトソンのチームは
 "ブラックリスト"を使って航空機を集めました。
強制収用所との二択でルフトヴァッフェのテストパイロットを脅し、
米軍に雇い入れる、というようなあくどいこともやっています。

Me 262も彼の部下によって集められた飛行機の一つで、これに
「Marge」と命名し、パイロットは後に
 "Lady Jess IV"と改名したそうです。

マージからレディに昇格させたい何かをパイロットは感じたのでしょうか。

 右下の写真では「マージ」が高速低空飛行で「飛ばされて」いるところ。

機体は当時と同じ迷彩に塗装され、第7航空団のマーク
(犬かな)が鮮やかに書き込まれています。

「橘花」とMe262。

ドイツの名機と、同じものを作り出そうとして、諸事情から
劣化コピーのようになってしまった日本のジェット戦闘機は、
そのあだ名を合わせると「橘花と燕」です。


5月から6月にかけて咲く橘の白い花に燕。
まるで日本画の題材になりそうな光景が浮かんでくるではありませんか。

 

 

続く。


MiG-21とベトナム戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-05-20 | 航空機

ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

ただ飛行機を並べて個々の説明をしているというのではなく、
明らかに時代に沿ってテーマ通りに展示してあるのが嬉しいところ。

ベトナム戦争については、初っ端に

「主に共産主義の普及を阻止するための作戦として始まったが、
東南アジアにおける戦争は、四代にわたる大統領就任期間、
10年以上にわたる惨事の継続となり、その後のアメリカにとって
政治的、軍事的、社会的ジレンマとなった」

と厳しいことを書いております。
というかその通りなんですけどね。
こういう博物館でこの評価がなされるあたり、アメリカの言論が
まだまだ健全であることを感じさせます。


ローリングサンダー作戦に始まるアメリカ軍の航空攻撃は、
当初はハノイとハイフォンにあったミグ戦闘機基地への爆撃に
限られていましたが、その後は前線での近接戦闘と
敵航空機の制御が任務の全てになっていきました。

1972年末のラインバッカー作戦IIではB-52爆撃機による夜間爆撃、
戦闘爆撃機による昼間の鉄道、発電所、武器庫、通信施設、
ミグ飛行場、ミサイル用地、そして橋などを攻撃し尽くしました。

この作戦は11日にわたって行われ、15機の爆撃機を失いましたが、
終戦に向けた交渉を有利にする幇助となりました。

第二次世界大戦と違い、航空兵力の投入は勝利に直結しませんでした。

三年後、アメリカ軍は南ヴェトナムから撤退し、その後は
北ベトナムの支配による共産主義のもとで統一されることになります。

ベトナム戦争で爆弾を景気よくばらまいているB-52。(右)
左上はA-6 イントルーダーです。

アメリカ海軍が朝鮮戦争での経験から学んだことを一つ挙げるなら、
低空でも高いサブソニック能力を持ち、かつレンジの長い
打撃航空機の必要性だったといってもいいかもしれません。

しかもいかなる天候下にあっても、敵の防御を突破し、
小さな敵に対しても確実に「サーチ・アンド・デストロイ」、
つまり探し出し、そして破壊することができる、そんな飛行機です。

グラマンのイントルーダーはそんなニーズに応えるもので、
1960年に初飛行後、海軍には1963年、海兵隊には64年に配備されました。

ここに展示されている「A」タイプは海軍に1968年に配備され、
その後ベトナム戦争、その後1991年の砂漠の嵐作戦では
72時間の飛行時間を記録しています。

総飛行時間は7500時間、6500回以上の着陸を行い、
767回の空母着艦、カタパルト発進は712回と記録されています。

AIM-120 AMRAAM Missle

Advanced Mediun- Range, Air-to Air Missile、
の頭文字で「アムラームミサイル」となります。

中距離空対空ミサイルで、イントルーダーの足元にあったので
これが運用していたのかと思ったのですが、

F-14D, F/A-18, F-15, F-16

だそうです。

製造したヒューズ社は吸収合併されて、今では
ファランクス・シウスを作っているレイセオンが管理しています。

そういえば、5月17日のニュースとして、アメリカが日本に
F−35戦闘機に搭載するためのアムラームを160発売却すると報じられたばかりです。 

https://www.afpbb.com/articles/-/3225612

朝日デジタルでは、「先月墜落事故を起こしたF-35」となっていて実に不愉快。

マグドネル F-4S ファントムII

あの「ファントム無頼」連載時でさえ、老朽化がネタになっていたF-4が
まさか平成の終わりまで日本を飛ぶことになろうとは
何人たりとも予想していなかったでしょうが、
ファントムIIってベトナム戦争時代の飛行機っていう認識なんですよね。
アメリカでは。

製造元だってまだダグラス社と合併する前の名前が記載されています。
(合併してマクドネル・ダグラスになったのは1967年)

日本国自衛隊始め、アメリカでも空軍、海軍、海兵隊、
13カ国で採用されてきたマルチロール機、ファントムII。

ここに展示してあるのは1972年、海軍のS.フリン中佐と
彼のレーダー・インターセプトであるW.ジョン大尉が、
ベトナム時代に敵のMiG戦闘機を沿岸部から駆逐し、さらに
サイドワインダー空対空ミサイルでMiG-21を撃墜した機体です。

そのサイドワインダーミサイルが隣に展示してありました。

アメリカにとって初めての熱感知式の誘導ミサイルとして、
史上最も成功した短距離空対空ミサイルです。

1950年のデビュー以来多くのモデルが開発されてきていますが、
ここにあるのはそのスタンダードタイプです。

アメリカ国内で様々な航空機に搭載されたのみならず、
世界40カ国の軍に採用されたロングヒット商品で、
ベトナム戦争に始まってペルシャ湾岸戦争にも使われています。

さて、このファントムIIですが、さらにその後、
ベトナムの爆撃作戦第2ラインバッカー作戦にも参加しています。

その後海兵隊に所属が移り、F-4JからF-4Sに近代化されました。
この改装でエンジン(無煙に変更)ハイドロ、電気系統、
配線、翼の改良による駆動性などが全て向上しました。

その他、電波ホーミング誘導方式やフォーメーションライト
(蛍光で夜間視認できるテープ)の胴体と垂直尾翼への設置なども
この大改装の時に行われています。

展示機には最終的な所属先である海兵隊部隊、

VMFA-232 Red Devils

の塗装がそのままになっています。

これは珍しい。
ファントムIIのノーズコーンの中身が見えてます。

APGー59レーダーが搭載されている部分ですが、
wikiにはもっと鮮明な写真がありました。

同じくファントムIIの搭載している72型。

もっとわかりやすい、100型。
この写真は1982年のものだそうです。

ちなみに我が航空自衛隊はF-4J改にAPG-66Jを搭載していました。
改装が行われたのは昭和の終わりなので、当然これもその後
何かに置き換わっていると思うのですが、わかりませんでした。

・・・もしかして最後までそのまんまだった?

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナムではますます洗練された「賢い」兵器が投入され、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」だったということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとして、それでもなおかつ
カーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは怪しいものです。

 

さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・・・、
いわば「新しい波」
イラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

今更このブログで皆さんにご紹介するまでもありませんね。

ヴォート RF-8G クルセイダー

Rが付いているので偵察型のクルセイダーです。
そのほかの機体に比べてメンテがよくないようだけど気のせいかな。

つい最近も書きましたが、クルセイダーは初めての艦載型
ジェット戦闘機として、時速1600kmの高速を誇りました。

variable incidence wing (可変発生翼)

というのはクルセイダー特有の仕組みで、翼の迎え角を
最大7度まで気流に合わせて変えることができる上、
着艦時のパイロットの前方視界も確保できました。
これが艦載機パイロットにとって離着艦を容易にしたのです。

このシステムを搭載した生産航空機は史上クルセイダーのみです。

可変翼は艦載機として切実な問題である省スペースにも役立ち、
翼の先を折りたたむこともできました。

しかしそんな便利なシステムならどうして全ての艦載機に搭載しないのか?
と思ったあなた、あなたは鋭い。

これをするには翼にピボット機構を備えなくてはいけませんが、
このため翼そのものの重量が増大し、コストもかなりのものになります。

さらに、翼が前後に動く

可変翼(スィープ・ウィング)

翼そのものが変形する

能動空力弾性翼 (AAW)

などの他にも空力抵抗に対応する可変翼が研究によって生まれてきたため、
結局このシステムそのものは、クルセイダーのみに搭載されて終わったのです。

このRF-8Gは海軍で運用されていた最後のクルセイダーです。

F8U-1Pとして配備され、最初の7年間は海兵隊に所属して
南西アジアでの戦闘時間は400時間、総飛行時間は7,475時間。
これはクルセイダーの中では最も長時間となる記録です。

ここでの展示は、翼を折りたたんだポジションが見られます。

ミコヤン-グレヴィッチ MiG-21F " Fishbed C"

当博物館にはもう一機MiGが展示されています。

フィッシュベッドというのはそのまま解釈すると「魚の寝床」ですが、
これはNATOのコードネームであってソ連製ではありません。

ソ連ではその翼の形(三角形)からバラライカと呼ばれたそうですが。

MiG-21はソ連の第二世代ジェット戦闘機です。
1956年に試験飛行後、1960年にMiG-21F-13としてデビューしました。

ユニークな「テイルド・デルタ」のの機体は薄いデルタ翼を持ち、
それは操作性と高速性、中空域での優れたパフォーマンスと、
離着陸に適した特性を与えました。

その後MiG-21はソ連軍の要撃戦闘機のスタンダードとなり、
その後レーダーやさらにパワフルなエンジン、
アップデートを加えることでマルチロール・ファイターとなりました。

MiG-15ほどではないにしろ、12種類のMiG-21が、
30カ国の軍によって採用されたのです。

戦闘機として凄かったのが、機能の割に作りがシンプルだったことですが、
それゆえいくつもの派生形を生み、あまりにも種類が多くなって
機体の規格がまちまちなため、整備しにくいという欠点がありました。

とはいえその性能は、F-16が世に出てくるまで
世界のトップにあったというくらいです。

驚くべきことに、2019年現在でも世界各国の空軍に配備されており、
近代化改修を重ねて今後も多数運用し続けられるといわれています。

あまりにもたくさん作られたため、アメリカの田舎あたりには
自家用機として「趣味のMiG」を飛ばしている人がいるんだとか(笑)

このMiG-21F-13はワシントンD.Cにあるボーリング空軍基地で
行われた「ソ連軍武器展」で展示するために整備されたものです。

「ソビエト連邦を知る」

というトレーニングプログラムの一環として行われたもので、
歴史を忘れないようにという意味で企画されたということです。


ベトナム戦争といえば、こんなものもありました。

北ベトナム軍は戦争中に捕虜にしたアメリカ人を釈放するにあたって、
こんな統一されたスタイルをさせて帰していた、というのです。

ベトナム人はしないスタイルなので、これが彼らの思うところの
「アメリカ人らしい服装」だったということになるのでしょうか。
この服装に黒い革の鞄というのが定番となっていました。

これは1972年に捕虜になった空軍のバド・ブレッカー少将が着ていたものです。
少将も捕虜に?と驚きますが、もしかしたらパイロットだったかもしれません。
まる7ヶ月の間捕虜生活を送ったということです。

解放される時、POW、捕虜たちは「ハノイ・タクシー」
と呼ばれるC-141で祖国に帰されました。
彼らが最初に到着するのはあのフィリピンのクラーク基地。

ここで医療検査を受け、メディアのインタビューを受けてから
家族と友人の待つ祖国へと向かって行きました。

左は「ホーチミンサンダル」で、タイヤから作られています。
ベトコン御用達の定番ファッションです。

このデザイン、今普通にオシャレに履けますよね。
無印良品で売ってそう。

右は「ドッグ・ドゥ」トランスミッター

ホーチミンの道に空中から落とされ、夜間何か動きを感じると
警告を発するデバイスです。
信号はCIA などによってモニターされていました。

どう見ても犬の落し物だが?と思ったあなた、あなたは鋭い。
「Dog Doo」で調べるとそのものが出てきますよ。

ところで、ベトナム戦争で登場したヘリは、ベトナム戦争の
象徴のようなイメージがありますね。

例えばこれは1967年に行われた「マッカーサー作戦」での一シーンですが、
ベル UH-1ヒューイが人員(右側に列を作っている)
を輸送するためにジャングルの中に切り開かれた部分に降りているところです。

 戦場での一シーンなのになぜか厳粛で美しいと感じてしまいました。
人々が天上から舞い降りる使徒の如きヘリコプターを待つ様子に、
祈りにも通じる、救済を求めてやまない思いが表れているからでしょうか。

 

続く。 

 

 


桜花〜スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターの桜〜スミソニアン博物館

2019-04-11 | 航空機

 

スミソニアン博物館別館、スティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジー・センターには
第二次世界大戦時アメリカと干戈を交えた枢軸国からあくまでも
「イタリア抜きで」(笑)、つまり日独の軍用機が多数展示されています。

このほとんどが、終戦後、アメリカが相手国に乗り込んで
破壊される前の軍用機を接収し、空母に積んで本国に持ち帰り、
海軍と空軍のパイロットに実際に操縦させて性能を評価したものです。

スミソニアンのHPを検索すると、また同協会にはこの時代に接収した
日独の技術文書も数多く保存されており、研究者向けに有料で
公開されていることがわかります。

ちなみに保存の形態は全てマイクロフィルムによるもので、
動画などは撮影者のミスでぼやけていたりするものもあるとか。

日本機ばかりが並べられている一角。
手前から「紫電改」「橘花」「晴嵐」「屠龍」「震電」。
一番奥が「月光」で、その手前に見えている灰白色の機体が
本日取り上げる「桜花」です。

桜花 Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22

「桜花」は特攻目的に開発された滑空機です。

靖国神社の遊就館で見ることのできる「桜花」は複製なので、
実はわたしにとっても実際の「桜花」を見るのはこれが初めてです。

現地の説明にある「KUGISYO」は海軍空技廠のことで、
MXY-7が型式番号になります。

「桜花」については日本語のWikipediaに多くが記述されているので、
今日はアメリカ側の説明を中心にご紹介します。

最初から体当たりを目標として開発された航空機というのは、
世界の歴史の中でもこの「桜花」が最初で最後でした。

日本以外の何処の国にとってもあり得ない思想である、
最初から死ぬことを目的とした攻撃、というのもさりながら、
人が操縦して体当たりするための爆弾を開発することの
不合理さと不可解さに、アメリカ人はなべて困惑したのでしょう。

アメリカ側が鹵獲した「桜花」を詳細に研究してたどり着いた結論は

「危険でもっとも手に負えない敵」

この鹵獲機にもわざわざノーズに描かれているように、彼らはこの人間爆弾を
「BAKA Bomb」と呼び、キリスト教の教えに反する自殺が前提の
武器をこうして蔑んでみせましたが、それでも

「アメリカ軍全体に広まった恐怖は決してやわらぐことはなかった」

(戦史研究家ジョン・トーランド)のは確かです。

アメリカ側の被害は1945年4月12日、駆逐艦「マナート・エーベル」が
真っ二つになって轟沈したのを始め、駆逐艦中心に損壊損失含め7隻。
(未確認の民間徴用船を含めるとさらに戦果は増えると言われている)

そして「桜花」特攻によって150名が戦死し、197名が負傷しています。

 

スミソニアンのキュレーターの手による解説も、機体そのものよりも
日本軍の行った特攻に対する解説に重きが置かれています。
以下、翻訳します。

 

Ohka 22は、初歩的な訓練を受けたパイロットが連合国の軍艦などに
突入できるように特別に設計された有人誘導ミサイルでした。

連合軍の空軍と海軍は戦況が進むに従って日本軍の戦闘機を
非常にシステマチックに鎮圧しはじめ、追い込まれた日本軍は
このタイプの攻撃のアイデア(特攻のこと)を選択したのです。

1944年10月19日、大西瀧治郎海軍軍令部次長は、フィリピンで
水陸双方から攻撃するために集結せんとしていた敵軍艦を攻撃するために、
特殊攻撃を行う航空隊を編成することを提言しました。

日本軍はこのユニットを表すのに「特別攻撃」という言葉を使い、
同盟国からは神風として知られるようになりました。

終戦までに、約5000人の搭乗員が特攻によって戦死したと言われます。

連合軍はこれらの部隊を「神風」または「自殺隊」(スイサイドスクヮッド)
日本人は特殊攻撃を意味する「トッコー」という言葉を使いました。

いくつかの哲学的概念が特攻という行動に動機付けられました。
祖国、故郷、そして天皇を救うための究極の犠牲。
そして戦士の名誉と行動の規範である「武士道」に対する義務。
そして、特攻の任務によって1281年にモンゴルの侵略艦隊を破壊した
台風、つまり「神風」の奇跡を再現するという信念。

終戦までに5000人のパイロットが特別攻撃によって死に、現実に
彼らがもたらしたダメージは連合国にとって深刻だったと推定されています。

1945年4月の沖縄侵攻中、アメリカ海軍は21隻の潜水艦と217隻の損害を受け、
被害となった死傷者の数はあまりに酷いものでした。
太平洋戦線で戦死したアメリカ海軍の全死傷者のうち実に7%に当たる
4,300人が特別攻撃によって死亡、また5,400人が負傷しています。

「桜花」の説明に入る前に延々と特攻についてこのような説明をしています。
特攻による自死の概念とその思想についても簡単ではありますが
端的に触れているのはさすがです。

 

そしてここからが「桜花」誕生のストーリーとなります。

トッコー攻撃は、ほとんどすべてのタイプの軍用機で行われました。
しかしそのうち日本軍は特別に設計された特攻用の航空機を必要とするようになります。
敵艦に突入するためには対空戦闘砲とその前に
防衛戦闘機からの攻撃をかわさなくてはいけなかったからです。

その答えは、照準を当てることが難しく、さらに素早く簡単に組み立てることができ、
大量生産が可能な小型飛行機、というものでした。

大田正一少尉は小型のロケット推進力のある特攻機のアイデアを思いつき、
東京大学航空研究所の職員の助けを借りて、改良案を日本海軍に提出したことから
海軍当局者は感銘を受け、プロジェクトは勢いを増しました。

 

「桜花」発案者の大田正一を、英語ではなぜか「オオタミツオ」と間違えているのですが、
この書き方では唐突で少しわかりにくいですね。

大田正一は海軍兵学校卒ではなく、海兵団から操練を経た
航空偵察員で、その頃から「頭のキレるアイデアマン」だったそうです。

この彼こそががロケット推進の有翼誘導弾が三菱で開発されていることを知り、
精度を上げるために人間が操縦すれば良いのでは、と思いついて
東大の教授に相談し、実現にまでこぎつけた「桜花」の産みの親です。

彼は自分のこのアイデアをなんとしてでも海軍に実現させるべく、
軍令部のゴーサインを得るために、自分が偵察員であることを隠して

「出来たらその時にはわたしが乗っていきます」

と宣言していました。

計画を持ち込まれた技術者や航空本部のお偉方にとって、一殺必死の武器に
誰を乗せることになるかが最後の決断のネックとなっていたわけですから、
開発者自らが「自分がやる」と言わなければ許可は降りなかったでしょう。

大田はそれを見越して嘘をつき計画を認めさせただけでなく、

「兵器が出来たら自分が乗りたいですリスト」

を、乗る可能性のない偵察員に取りまとめをさせて、さらに
名前を貸すだけならと賛同した搭乗員の名簿を上に提出しているのです。


最終的に軍令部が「桜花」の計画を承認し、研究試作が開始されるや、
自ら乗っていくと言ったはずの大田はケロリとしてこう言い放ちました。

「また新しい発明を考えて持ってきます」

それを聴いた航空本部の課長だった海軍中佐は自分の判断を悔やんで、

「あんな奴の提案を採用するのではなかった」

と苦々しく思ったという話があります。

その後、大田は桜花を使った特攻部隊「神雷部隊」付きになり、
その時に偵察員から操縦員への転換訓練を受けているのですが、
なんと「搭乗員の適性なし」と判断されています。

本当に真面目に訓練を受けたのか?
適性試験でわざと手抜きしなかったか?

この彼にとって都合よく見える結果に疑義を感じるのはわたしだけではありますまい。

その後新聞に「桜花」の発案者として華々しく紹介されて顔出しした大田は

「自分がそれに乗らないからといって()将兵を死につかせることを
躊躇ってはいけない。今はそういう事態ではない」

と堂々と語り、「桜花」の使用が終戦直前の7月に中止されてからは
方々に再開するように説いて回ったといわれています。

 

終戦の次の日には空技廠にやってきて

「こんな形でやるんなら真先に儂を行かせてくれと上申したのに駄目でした」

と楽しそうに話したという大田中尉は、8月18日、零戦に乗ってそのまま行方不明となり、
殉職扱いで大尉に昇進しました。

が!

戦後、死んだはずの大田の目撃談があちらこちらから出るわ出るわ。

中国軍の義勇軍に加わらないかと誘われたとか、北海道で密輸物資を
ソ連領に運んでいたとか、その合間にも子供を作ったり寸借詐欺をしたり、
傘を持ち逃げしたり(笑)

結局彼は戦犯となることを恐れ、死のうとして零戦に飛び乗ったものの、
金華山沖に着水したところを漁師に拾われて生きながらえ、
戦後のどさくさであちらこちらに起こったように、偽の戸籍を手に入れて
職を転々としながらも細々と、82歳まで生きていたということです。

作家柳田邦男は

「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂」

と彼を評したそうですが、例えば「桜花」を

「この槍、使い難し」

と言い放ち最後まで評価していなかった野中五郎少佐が
生きてこの人物のことを知ったら、おそらく
天地も裂けんばかりに激怒していたことでしょう。


もっとも、功名心にはやる大田の画策によって生産に漕ぎ着けたという
苦々しい経緯があったとはいえ、苦しかった現場はこの兵器に
期待を寄せ、
大田とは無関係に新兵器での体当たりを志願する搭乗員は何人も現れました。

スミソニアンの解説に戻ります。

横須賀の海軍第一航空技術廠(略して空技廠)は、数週間以内に
MXY7 Ohka 11を完成させました。
この単座の飛行爆弾は機首に大きな弾頭を詰め込み、双尾翼には
3つの小型ロケットエンジンを搭載、エンジンは双発で
三菱G4M BETTY爆撃機(一式陸攻)の腹にぴったりと牽引されました。

「桜花」の戦闘デビューは1945年3月21日。
グラマン F6F 「ヘルキャット」が「桜花」 11を搭載した16機の
一式陸攻を迎撃し、これらを全機撃墜するという悲惨な結果に終わりました。

 

この時「桜花」は全て海に没し、発進することもありませんでした。
「桜花」は射程距離が限られていたため、一式陸攻の乗組員は
目標の37 km以内で飛行する必要があったのですが、それはまさに
アメリカ機からは射程距離の範囲内で撃ち落とされるしかなかったのです。

この失敗を元に、空技廠は「桜花」 11を修正して、「桜花」 22を開発しました。
射程距離を約130 kmに伸ばすため炸薬を減らして弾頭の大きさを半分にし、
そしてP1Y1爆撃機「銀河」に適応するようにしました。

(桜花)に搭載されていた炸薬。現在は展示されておらず倉庫に収納されている。


「銀河」は一式陸攻よりも速かったので、まだしもアメリカの護衛戦闘機から
逃れる可能性が高くなったのです。

エンジニアはまた、ガソリンを燃料とし、100馬力の日立製Tsu-11という
新しいハイブリッドモータージェットエンジンを搭載しました。

空技廠は最終的にのModel 22を3機完成させ、生産は地下工場にシフトしました。
しかしほとんどの機体は未完成のままで、22が戦闘に出る前に戦争は終わりました。
他にも「桜花」43Bは地上のカタパルトからの打ち上げ用に設計されていましたが、
もし連合軍が提案した九州への侵攻である「オリンピック作戦」を実施していれば
日本はその攻撃に対して何百という「桜花」で特攻を行ったことでしょう。

その時には何万という連合軍兵士と日本人の命が失われた可能性があります。

「桜花」のコクピットパネル。
あまりにシンプルで恐ろしいくらいです。
搭乗員の話によると、非常に操作性は良く、熟練パイロットでなくとも
正確に機体を繰ることはできたということです。

「桜花」を腹の下に牽引した一式陸攻を後ろから見たところ。
1945年6月6日に撮られたものだそうです。

スミソニアンで公開されている写真より。
これがカタパルト打ち上げ式に開発されていた「桜花」43Bで、
1945年横須賀で撮られた写真だと言われています。

機体の下部には橇状の形状が見え、画面後部には米軍のジープが写っています。

第336邀撃部隊のライスター大尉がジョンソン空港(現在の入間基地)で
1950年、「桜花」と記念写真。

「ディスティネーション、ジャパン!ジョンソン空港にて」

  

ロケットエンジン搭載の「桜花」11型は世界中の美術館にありますが、
モータージェット搭載のNASM MXY7モデル22は1機だけです。

アメリカ軍は「桜花」の試験飛行は行わなかったようで、研究の後
この機体は倉庫にありましたが、スミソニアンの修復スタッフは
1994年から航空機の作業に取り掛かり、3年かけてエンジンを取り付け、
コックピットを再構築し、外装と機体を軽く修理し、
そして機械を再塗装して再マーキングするという丁寧な修復を完成させました。

「桜花」は2003年12月からここに展示されています。

ところで、スミソニアンのページにはこんなエッセイがあります。
エリザベス・ボージャというキュレーターの手によるものです。

最後にこれを翻訳しておきます。

ワシントンDCの春分の日はまだ寒く、雨を伴ったりすると、
春がもう訪れているとはとても想像できませんが、
この時期、アメリカの首都は、その最大の毎年恒例のイベントの一つ、
ワシントン桜祭りを祝うことになっています。

ところであなたは国立航空宇宙博物館にも「いくつかの桜」
があることを知っていましたか?

もしあなたがタイダルベイスン(ポトマック川の入江)で
桜祭りの群衆に紛れるつもりがなければ、バージニア州シャンティリーの
Steven F. Udvar-Hazy Centerを散策してみるのもいいかもしれません。
4月には、駐車場は美しい桜の花でいっぱいです。

敷地内にある記念碑付近を散策したり、ダレス国際空港を離発着する航空機が
頭上を飛んでいるときに航空機を間近で観察するのもいいものですよ。

それから博物館の中に入って、すぐにわたしのいう「別の桜」を観ましょう。

それはボーイング航空ハンガーで展示されている第二次世界大戦時代の
日本の航空機Kugisho MXY7 Ohka 22です。
Ohkaは「桜」という意味です。
彼女の機体には色彩鮮やかな桜の花が描かれています。

(アメリカ人はこの桜のシンボルが近づいて来たとき、
ただ神風攻撃の標的とし見ただけでしたが・・・)。

あなたがDCで桜を観るか、それともあなた自身の町で桜を観るかはともかく、
この春の旅行をどうぞ楽しんでください。

 

続く。

 


「月光」の”シュレーゼ・ムジーク”〜スミソニアン航空宇宙博物館

2019-01-10 | 航空機

ワシントン空港近くにある通称スミソニアン博物館別館、
正式名称スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターを
ワシントン行政区画部にある本館より先にご紹介したかったのは
日本ではもう見られない帝国陸海軍の航空機があったからです。

博物館を入理、右回りに展示を観ていくと、前回お話しした
Me162「コメート」に続き、ナチスドイツと大日本帝国、つまり
かつての枢軸国の軍用航空機コーナーに出ます。

といってもアクシスパワー・トリオのうちの二カ国だけ。
ここでも「今回はイタリア抜きで」は生きております(笑)

中島飛行機 J1N1-S 月光 ”アーヴィング”

"gekko" と書かれますと、アメリカ人は自動車保険会社の
「ガイコ(GEICO)」のキャラクターを思い出すんじゃないでしょうか。
アメリカでも「商品とあまり関係のない不思議なコマーシャル」
と言われているらしいこの会社のCMには、その名もガイコという
gekko(イモリ類)のキャラが登場します。

なので、ここでも

gekko=「ムーンライト」

と翻訳しておいてくれないと、アメリカ人にはこの飛行機が夜間戦闘機であった、
というイメージが全く伝わらないんですがね。
ついでにスペルも ”gekko" ではなく "gekkou" とか "gekkoh" にして欲しいかな、

という文句はともかく、これがまさに、現在世界で一機だけ現存する「月光」の実物です。

 

現地の説明をそのまま翻訳しておきます。

1941年に中島飛行機が3人乗り戦闘機として設計したIRVINGは、
1943年5月に夜間戦闘機として改造され、
B-17爆撃機を2機撃墜するほどの能力を有しました。

月光を意味するGekkoは、再設計の際二人乗り座席にしたことで、
通信士の席だったところに上向きの発射銃2丁を取り付けることができました。

第二次世界大戦中、プロトタイプの他、邀撃、偵察、そして
夜間戦闘機を含む約500のJ1N1機が建造されています。

戦争末期にはかなりの数がカミカゼとして特攻に使われ、
戦争で生き残った少数の機体は連合国によって廃棄されました。

 

まず上向きの発射銃、というのはここに来る人ならご存知の
小園安名大佐(戦後階級を剥奪されたらしいですがここでは一応)が
考案した「斜め銃」のことです。

小園安名のバイオグラフィによると、小園がこの銃を発案し提唱していたのは
台南空司令時代からのことだったとあります。

理論的には有効と思われたアイデアでしたが、小園の日頃の評判、
(奇行が多く、神がかり的で、一度いい出したら絶対に自説を曲げない頑固者)
のせいで、周りの雰囲気は

「まあやってみればー?」

という冷淡なものだったようです。

大型機の下を航過しながら機体を銃撃する。

の画期的な方法を試験飛行したアメリカ軍が、B-17を二機も撃墜した
この兵器をどう評価したのかはわかりません。

後述しますが、この斜め銃を最初に考案したのは小園ではなく、
第一次世界大戦時には上向きに銃口を向けることのできる銃が
イギリス軍の飛行機に搭載されていたそうですし、ドイツでは
偵察用の夜間戦闘機に上向き銃を採用していました。

そしてそれは一定以上の効果があったことが言われています。

しかしかつての枢軸国の技術を敗戦後、良いものは貪欲に取り入れ
自国を発展させてきたアメリカがこれに類する武器には
全く興味を示さなかったらしいということだけは確かです。

アメリカ軍は本土空襲時の戦果を元に、すでに硫黄島占領の頃から
後方と下方への警戒と反撃を徹底させていましたし、
月光を捕獲した時には彼らにとって珍しい戦法でもなんでもなかった、
というのが実際のところだろうと思います。

そもそも大型機への後下方からの攻撃、というニッチな目的
(日本にすれば切実でしたが)のために、小さな航空機に重い銃を積むのが

汎用性に甚だ欠けるものであったことは、B-17撃墜に気を良くした小園が
「雷電」にも大型化した銃を搭載しようとして嫌がられたという
エピソードが表しているような気がしないでもありません。

「月光」と斜め銃。

実は、わたしが今回ここに来ることを実行したきっかけがこれでした。
今年の渡米前、文京区で行われたソリッドモデル展で見た「月光」。

斜め上銃と斜め下銃を再現したその模型について調べていて、
世界に現存する最後の「月光」がスミソニアンにあることを知り、
すぐさまワシントンに行くことを思いついたのです。

調べたもの・ことを実際に自分の目で見たいと思ったとき、
わたしは人よりも多少行動的であることを自負していますが、
今回のこれなどはそのわたしの行動の中でも特に迅速だったと思います。

つまり、この「月光」を観るために、わたしはここに来たといっても過言ではありません。

「月光」は夜間戦闘機として改装される前「二式」という偵察機だったように
夜間戦闘機には夜間偵察を兼ねられるものが多いのです。

「月光」の下部には「斜め下銃」はなく、この機体が
後期に制作されたものであることを表していますが、
偵察用の窓があるのが確認できます。

「昼間戦闘機」に対してそれでは「夜間戦闘機」とは何ですか、って話ですが、
夜だけ活動するのではなく「夜にも」活動することができる、という意味です。


その特色としては

  • 乗員が複数名
  • 強力な武装
  • 充実した通信設備や相応の航法能力
  • 黒・グレー・濃緑など、暗めの迷彩塗装
  • 機上レーダーの搭載

であり、日本海軍の場合は「強力な武装」がつまり
「月光」の場合は斜め銃を含む重武装だったということですね。

ちなみに先ほど述べたドイツの夜間戦闘機搭載の斜め銃ですが、

「シュレーゲ・ムジーク」 Schräge Musik

つまり「斜めの音楽」という意味の名前が付いていました。

日本のネット界では、明後日方向で的外れの意見や行動のことを

「斜め上」

といいます。
特にかの国の行動がこう言い表されることも多いわけで、最近では
一連のP-1事案についてのこの国の対応はまさに「斜め上」と呼ぶにふさわしい
不可解さと予測不可能な不条理さに満ち満ちているわけですが、それはともかく。

そして「おかしな事」を斜め上と感じるこの感覚は古今東西同じらしく、
ナチスドイツはアメリカのジャズをバカにし揶揄して「斜め音楽」=変な音楽、

と名付け、国民に退廃したアメリカ文化というイメージを喧伝していたのです。

なんでこれが機関砲の名前になったのかその経緯はわかりません。

わたしの想像ですが、単に最初「斜め銃」=「シュレーゲ・ピストル」
(ピストルはドイツ語)とかいう普通の名詞で呼んでいたのが

ドイツ軍に皮肉屋さんがいて、ナチスの宣伝でしょっちゅう言われていた
「シュレーゲムジーク」というあだ名をつけたのでしょう。

「シュレーゲ」が一緒なだけじゃん!ムジーク関係ないじゃん!(ドイツ語)

とならなかったのは、みんながこの響きを気に入ったってことなんでしょうね。

終戦になって日本に進駐したアメリカ軍は、本土を占領した後、
彼らの関心を引いた145機の陸海軍航空機を接収し、それらを

3隻の空母に搭載して

アメリカに送りました。
(その3隻の名前はUSS『バーンズ』以外はわかりませんでした)

この接収された航空機のなかに4機の「月光」がありました。
このうち3機が厚木で1機は横須賀から接収されたもので、
この横須賀からの機体番号7334には、外国機を表す番号

FE3031(後にT2-N700に変更)

が与えられました。
記録によると、接収後、「月光」はまず米海軍パイロットの操縦で
USS  バーンズに着艦した後、アメリカ本土まで運ばれました。

米海軍の航空情報担当者は1945年12月8日、

バージニア州ラングレーフィールド基地に”Gekko 7334”を割り当て、
その後1946年1月23日、今度はペンシルバニア州ミドルトンの
倉庫である航空機材倉庫(Air Materiel Depot)に移されました。

ミドルタウンの海軍航空隊整備部門は、まず「月光」のエンジン
(零戦と同じ生産先でさらに同じモデル)を改造し、換気システム、無線、
および一部のパーツを飛行試験のためにアメリカ製に置き換えました。

このときメカニックはこれらの作業をわずか3ヶ月で終了させています。

この後海軍は6月初旬、月光7334を陸軍に移していますが、
この2ヶ月間で、海軍内での試験飛行を終わらせたのかもしれません。


海軍から機体を受け取った陸軍のテストパイロットによって

「1946年6月15日、月光7334を約35分間飛行させた」

とこの時の記録には残されていますが、
テストが行われたのはどうやらこの1回だけであったようです。

アメリカまで輸送した4機のうち1機を大改装までして35分のテストを一度だけ、
しかも残り3機はそのまま廃棄とは、さすが金持ち、勝者の余裕ですな。
(もちろん皮肉です)

その後月光7334は陸軍空軍の手によってイリノイ州の
ダグラスC-54を作っていた工場に運ばれました。
おそらくここでテストのために付けた機材を取り外したのでしょう。

それから3年後の1949年、月光7334はスミソニアンに寄贈され、
一旦イリノイ州パークリッジの倉庫に保管されました。

ところがパークリッジ倉庫はその後、朝鮮戦争で鹵獲した飛行機など、
60機あまりでいっぱいになってしまい、月光7334は
1953年には修復工場の外に押し出されるように投棄され、
1974年に修復スペースが利用可能になるまで雨ざらしになっていました。

さらにその5年後の1979年、NASM(スミソニアン航空宇宙博物館)は
やっとの事で月光7334を修復の対象にし、その作業に取り掛かったのです。

 

現物を見ればわかりますが、ここにある世界唯一の「月光」の機体は
その修復技術の高さと美しさで他の航空機と比べても目を引きます。

1976年に修復された当博物館所有の三菱零式艦上戦闘機に次いで、
月光7334は、 スミソニアン博物館の復元技術者の熟練の技を
世界に知らしめることになった二機目の日本機となりました。

月光7334の修復作業は、機体が20年間外気に晒されていたため、
各部分が(深部まで)完璧に腐食してしまっており、その当時、
NASM修復技術部門のメンバーがそれまでに手がけた中でも、
最大かつ最も困難な航空機修復プロジェクトとなったと言われています。

正確には作業が開始されたのは1979年9月7日、
終了したのは1983年12月14日。
細心の注意とふんだんな資金をかけ、述べ1万7千時間を投入し、
復元作業は行われました。

さすがは歴史的遺物の維持に理解がある金持ち国アメリカです。
(これは皮肉ではありません。心から感謝しています)

そうやって心血注いで修復が行われた月光7334は、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターに、
その完璧、かつ世界唯一の姿を今後も後世に伝えていくことでしょう。

 

 

ところで本日のタイトルは、「月光」と「ムジーク」の
「組み合わせの妙」にツボってしまったので、つけてみました。

どこからかベートーヴェンが聴こえてきませんか?

・・・おっと、このこじつけはあまりに「斜め上」だったかな(笑)

 

続く。



メッサーシュミットMe 163 B-1a ”コメート”〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-11-22 | 航空機

昔々、三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所資料室で見た
ロケット戦闘機「秋水」について調べた流れで、当然のように
「秋水」の原型であったドイツ・メッサーシュミット社の

Me163 (Messerschmitt Me 163 ”Komet")

についても知ることになり、そのシェイプ、ロケット推進による
画期的な機体がたどった運命に心惹かれたものです。

あれから幾星霜、今回ワシントンのS・ウドバーヘイジーセンター、
スミソニアン航空宇宙博物館訪問で、まさかその実物と
初対面ができるとは全く思っていませんでした。

ウドバーヘイジーセンターで、真正面のブラックバードに目を奪われ、
そのあと右回りにアメリカ軍のウォー・バード、そしてソ連軍の
MiG戦闘機などを見ていくと、ベトナム戦争に参加した一連の飛行機の次に
現れるのが、これです。

リパブリック・フォード JB-2 ルーン(Loon)

JB-2はアメリカが所有することになった最初の無人誘導弾で、
あの、ナチスドイツのV-1を模倣したものだったのです。

わたしたち日本人はこのミサイルについてほとんどの人間が
その名を知ることもありませんが、もし原爆の開発が何かの理由で遅れて
1945年夏に投下されることがなかったとしたら、その代わりに
日本本土に投入され、多くの日本人の命を奪っていたのは
こちらであった可能性が高いのです。

開発されたのは1944年であり、アメリカは原爆製造が間に合わなければ
決行するつもりだった本土への侵攻作戦(ダウンフォール作戦)
に、このルーンミサイルを使おうとしていました。

ナチスドイツ軍がV-1という新兵器を編み出したことを知ったアメリカは
同じジェット推進の爆弾を開発することを決定し、すぐさま
ノースロップ社に開発を命じました。

ところが開発している最中に、ドイツ軍はイギリスをV-1で攻撃します。

アメリカの凄いところは、破壊されたV-1をイギリスから輸送して
技術を復元し、それでこのJB-2をすぐさま作ってしまったことでしょう。

ドイツが降伏してしまったため、日本への本土侵攻に際し、
上陸作戦に先駆けて雨あられと降らせるつもりで製造したミサイルですが、
8月6日と9日の核兵器使用と同時に配備を終了することになります。

 

ルーンミサイルの制作がドイツ技術のスパイから生まれたことが表すように、
戦前、アメリカはドイツ技術に遅れを取っているという劣等感を持っており、
なんとかこれを打開せんとしました。

そこで考えたのが移民大国の強みを生かして、マンパワーを
直接導入するという作戦です。

といえば聞こえはいいですが、第二次世界大戦末には

オペレーション・ペーパークリップ

を発動し、ドイツ技術を科学者ごと強奪するという阿漕な真似をやらかしています。

肝心のドイツは戦争中、惜しげも無く?優秀な科学者を徴兵して
戦線で歩哨や炊事部隊、トラックの運転手をさせていたのですが、
流石に独ソ戦が長期化して苦境に立たされるようになってきてからは
彼らを一人でも多く呼び戻して研究開発に復帰させようとリストを作っていました。

アメリカが利用したのがこのリストで、(オーゼンベルグ・リスト)
この筆頭に名があったのが、V-2ロケットの製造にも関わっていたロケット工学者、

ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977)

でした。

ブラウンはこの作戦でアメリカに渡り、

PGM-11 レッドストーンミサイル

などをクライスラーで手がけましたが、彼の最終目標は自分のロケットが
平和的に使われることだったため、人工衛星の開発に転身し、
NASA誕生後は初代所長としてアポロ計画でそれを実現させたのです。

アメリカがソ連との宇宙戦争に勝ったのは、ブラウンを移民させたことが
大変大きな要因であったと言えるのではないでしょうか。

さて、メッサーシュミットのMe-163コメートです。

この展示に添えてあった説明の写真は、どうもドイツでの一般公開らしく、
周りに自転車の人や一般人、女性の姿も見えますね。

説明をそのまま翻訳しておきましょう。

第二次世界大戦時、ナチス・ドイツの時代にヴンダーヴァッフェン
(ワンダー・ウェポン=不思議な武器)が製造したもっとも印象的な、
ザ・メッサーシュミット Me 163コメート(コメット=彗星)は
史上最初の、そして唯一の無尾翼式ロケット推進迎撃機でした。


同盟国日本では同じ設計図から「秋水」を作っていたわけですが、
この説明によると、つまり全く存在しなかったことにされています。
まあ試作で終わってしまったので数に入れてもらえないのは
仕方ないことなのかもしれませんが。

ドイツ軍が運用したその他の「アドバンスな」兵器と同じく、
第二次世界大戦の最後の年、Me 163はわずかな効果がありましたが
戦況を変えるというほどのものにはなり得ませんでした。


アメリカ軍がドイツの科学者を引き抜くという手段にまで出たのは、
終戦間近でもう国内はボロボロのはずなのに、こういった
バカにできない技術を生み出してくるドイツの技術力に
脅威を感じていたから、というのは間違いのないところでしょう。

そして何と言っても彼らが同じ白人種だったからです。
同じことはソ連でも行われ、米ソの間では戦後、ドイツ人の技術者、
科学者をいかに引っ張り込むかの争奪戦となった時期がありました。


そして戦争が終わってアメリカをはじめ連合国がドイツと、
そして日本にしたことは、軍事研究につながる航空機はもちろん
自動車生産など開発事業の全面禁止でした。

川西航空機(現在の新明和)は最悪の時期、
あられ(食べるやつ)を売っていたこともありますし、BMWですら、
戦前に設計開発した図面や工作機械まですべてが没収されて、
一時は鍋や釜などの製造で糊口を凌いでいたといいます。

おっと、話が逸れました。翻訳の続きです。


これが開発され、配備された状況を考慮しても、Me 163は
特異な技術力の成果であることは疑いようがありません。


実際に Me 163がどんな風に飛び、敵を撃墜したか。
このフィルムを観ればその片鱗とはいえ、わかります。

ドイツ空軍 LUFTWAFFE メッサーシュミット Me 163

フィルム後半の急上昇の凄さもさることながら、
いったい誰が撮影したのか、コメートに攻撃された(らしい)
爆撃機(B-26?)とB-17らしき映像が挿入されています。

他のアメリカのウォー・バードがほとんど当時の塗装を施され、
綺麗に保存されているのに対し、コメートは当時のままの塗装です。

保存のために手を加えていないので、翼も自重で下がらないように
両側につっかえ棒がかまされています。

(博物館の柱が撮影の邪魔なんだけど、場所ここしかなかったのかな)


Me 163 の製造計画は30年代後半に起きました。
ロケット推進は、当時のナチスの航空計画者にとって魅力ある研究だったのです。

この推進方法は燃料消費量が高く、当初設計不可能と思われましたが、
(事実この点を完成品は最後までカバーできなかった)
それにもかかわらず、ナチスドイツはロケットエンジン設計者、
ヘルムート・ヴァルター(戦後イギリスに連れて行かれた)と契約を交わし、
まず、

Heinkel He 176

を開発しました。
その後研究はメッサーシュミットに移譲、名前もMe 163に変更されました。

最初のMe 163 Bプロトタイプ、Me 163 V3は1942年4月に完成しました。
導入されたエンジンは

Walter 109-509Aモーター

でした。

このエンジンは航空機に素晴らしい上昇力をもたらしましたが、
時折空気が入り込んでキャビテーションを起こし、
モーターの始動時に破局的な爆発を引き起こすことがありました。

他にも機体の抱える問題は多く、例えば着陸の際、
スキッドが適切に伸びないせいで地面へのタッチダウンに失敗し、
これにより多くのパイロットが負傷(たぶん死亡も)することになりました。

スキッドが適切に作動して着陸成功した後も、機体が柔らかい地面で転覆するので
操縦士は細心の注意を着陸のたびに行わなくてはなりません。

しかも着陸の失敗はしばしば機体の爆発を引き起こし、
または燃料を被った操縦士はまず助からないと言われていました。

これだけの一連の事故や爆発を起こせばそれは普通失敗なのですが、
彼らがどうしてもこの運用を諦められなかった理由は、
ロケット推進エンジンの見せた恐るべき成果でした。

1941年10月2日、Me 163 V1は1,004.5キロメートル(623.8マイル)
の世界最高速度記録を達成しています。

その後このMe 163の改良版として、着陸装置を変更した
さらなるプロトタイプが生まれます。

ところで、この一連のコメートさんの憂鬱については、
かつてわたしが一度漫画で描いたので
とりあえずもう一度載せておきます。

「秋水くんとコメートくん」








コメート部隊は1944年8月16日、連合軍の爆撃機を迎撃して失敗、
この戦闘経験により、Me 163が効果的な武器になり得ないことがわかってきました。

この漫画にも描いたように、搭載していたMK 108 30ミリ砲2基は
本来3〜4発ヒットさせれば大型爆撃機を撃墜することができるはずでしたが、
砲の低速に対し、コメートそのものが高速すぎてタイミングが合わなかったのです。

コメートは結果的に撃墜記録をたった9機しか挙げていません。

高度1万2100メートルにわずか3分30秒以内で到達しましたが、
問題は8分間しか燃料が保たなかったことです。

個人的には8分しか飛べないのにそれでも撃墜9機って
十分すごくね?と思うんですけど、まあ採算悪すぎるか。

そしてこれも漫画でいっているように大きな問題のもう一つは、
1回または2回ロケットを点火させた後、機体は推進力を失うので、
パイロットは連合軍の戦闘機がまだうようよしている空域を、
ゆったりと基地に向かってグライダー滑走するしかなかったのです。

ある意味日本の特攻兵器より非人道的だったんじゃ・・。

これを見て、

修復を行うと、ルフトヴァッフェのマークはともかく、尾翼に描かれた
ナチス・ドイツのハーケンクロイツも描き直さなければなるので
博物館としては歴史的な資料として手を加えずに残すことにしたのでは?

と思ってしまったわたしは考えすぎでしょうか。

しかしこれ・・・・塗装が剥げて読めなくなってしまった字、
よくよく見ると英語なんですけど。

戦後、ドイツからアメリカに接収されて運ばれたMe 163 は5機。
この機体はそのうちの1機で、ステンシルの英語はなんらかの実験に
使われた際に描かれたものだと思われますが、博物館でも
この機体の由来ははっきりとわかっていないのだそうです。

コメートくんの外観を一層愛らしいものにしているこのプロペラ。
発電機を回すためのものです。
Me 163にはあってなぜその「コピー」である「秋水」に
なかったのかというと、機体にそれをつける手間を省いたのだそうで、
それでは発電はどうしたのかというと、無線用蓄電池で行なっていたとか。

それを載せるスペースを節約するためにプロペラ(風力エコ発電)
にしたのじゃないのかなあ、ドイツは。

機体の下部にあるこの丸い跡は何?
と調べてみたら、なんと

牽引棒取り付け点

であるらしいことがわかりました。
自力で地上を動けないので、ここに棒をつけて引っ張ったんですね。
とほほ・・・。

機体下部に出ている部分はスキッドで、これが着陸時
「そり」になって地面を滑走します。
って無茶苦茶不安定な着陸方法じゃないですか。

これに乗って生き残ったパイロットってよっぽど優秀だったんだろうなあ。

と思ったら、コメートのテストパイロットだった人が
語っているナショジオの映像を見つけました。

Messerschmitt Me 163 Komet

ワーグナーの「ワルキューレの騎行」アレンジ版が妙に合ってます(笑)
離陸してすぐ、コメートが車輪を捨てる様子、そして
グライダー飛行して基地に帰る様子も見ることができます。

最後に、

「コメートは戦況になんらの変化を与えることもできなかったが、
("Too little, too late."とか言われてんの)
ブリリアントな設計と素晴らしい効果でその存在が近代航空史そのものである」

みたいな評価をされているところがやっぱりねという感じです。
ていうかこのナレーション、スミソニアンの文章をほとんどぱくっとるやないかい。

でもいいよねコメート❤️
どこかの物好きが同じ機体で別の動力を積んだリバイバルを作ってくれないかな。

 

続く。

 

 


MiG-15と朝鮮戦争時代の航空機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-11-07 | 航空機

ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。

入って右側のコーナーを歩き、一周してきたとき、
前にもお話ししたブラックバードSR-71の尾翼に気がつきました。

スカンク・・・・。

途端にブラックバードを開発したロッキード社のプロジェクトチームの

「スカンク・ワークス」

という名前を思い出してしまうわけですが、それにしても可愛いですね。
英語のウィキによるとロゴはこれ。

スカンクが腕組みして考えている→スカンク・ワークス

というコンセプトは同じながら、明らかに機体に描かれたロゴがキュート。
(個人的な意見です)

この名前は、プロジェクトチームの設計室が何かの工場の目の前にあって、
その匂いがあまりに酷いため、電話に出た人がつい自虐って、

「はい。こちらスカンクワークスです」

と漫画に出てくる蒸溜所の名前で答え(アメリカ人らしい!)、
それがウケたので正式名称にしてしまったという経緯があります。

ちなみにスカンクワークスはその後、あのF-117を生み出し、
今でもアメリカの航空産業の最先端を突っ走っております。


さて、今シリーズはそのブラックバードも投入された、
ベトナムー朝鮮戦争の翼をご紹介します。

  

「航空機の形の変遷」と右側にあり、先日来
「ミッドウェイ」シリーズでお話ししてきたクーガーパンサーがあります。

左上は一足早くご紹介したB-26インベーダー、その下は
どう見ても無駄に大きすぎるコンソリのB-36ピースメーカー

大陸間爆撃機(インターコンチネンタル・ボマー)の癖に
どの口でピースメーカー(笑)などというやら。

岸首相ではないですが、ついこう言いたくなりますね。
責めているわけではありませんので念のため。

ちなみに、「核武装は抑止力」という核保有国のスタンダードな
エクスキューズは、この頃盛んに行われていた(圧倒的な米のリードでしたが)
米ソの核開発競争から生まれたらしいですね。

そして左の一番下、これが・・・・、

ノースアメリカン F-86A セイバー

 

 ベトナム戦争時代は「ミグの小道」(MiG Alley )と呼ばれる
最危険空域に出撃しては、MiG-15と戦った戦闘機。

セイバーはアメリカで作られた最初の後退翼ジェット戦闘機です。

朝鮮戦争におけるヤルー川上空の空戦で

「偉大な戦闘機」

としての評価を得ることになりました。
中国国境を超えて敵を追跡することができないにも関わらず、
セイバーのパイロットは記録的な撃墜をMiGに対して立てたのです。

セイバーの設計者は鹵獲したドイツの空力データを研究し、後退翼は
高速時の制御が従来のものより容易であることを突き止めたのです。

このF-86Aは、朝鮮戦争でMiG-15との間に行われた空戦を知っています。
金浦にあった航空基地から邀撃に上がることが多かった、
最初のセイバー飛行隊第4戦闘機部隊のマークを付けています。

朝鮮戦争 1950−1953

これを見て、朝鮮戦争がたった3年しか行われなかった、
というのが何か不思議な気がするのですが、それはともかく。

朝鮮戦争とベトナム戦争の間の航空攻撃というのは、
従来の武器で限られた体制で行われました。

広いフォーメーションを取る第二次世界大戦の時の重爆撃機は
目標を定めるということは滅多にありませんでした。

北朝鮮も北ベトナムも、その戦略的施設は空襲に対して脆弱で、
彼らの後ろ盾となっていた中国とソ連こそが敵であるとして
アメリカはこれを攻撃することに消極的だったのです。

 

アメリカ側にとってどちらの戦争も空軍、海軍、海兵隊の戦闘機と
爆撃機の総力を上げて敵の供給ラインを攻撃したという構図でした。

ピースメーカーのような核も搭載出来る爆撃機などの航空戦力は
はっきり言ってどちらの戦争にも決定的な役割となりませんでした。

 

と書いてあります。そうだったんだー。
その割には左の写真、盛大に爆弾をバラまいておりますが。

おっとこれはあの憎っくきB-29ではないですか。
なんとB-29、ビンテージながら北朝鮮に爆撃機として投入されていた模様。

 

そして写真右側が、あの

ミコヤン・グレヴィッチ MiG−15 戦闘機

です。

ミコヤン-グレヴィッチ設計事務所は、冷戦期初頭のジェット戦闘機、
最も有名なMiG−15の主力設計者として華々しく航空界に登場しました。

初飛行は1947年、指導者であったヨシフ・スターリンの要望で
先進的かつ高高度における要撃機としてデザインされたものです。

MiG−15はそのスピード、駆動性、そして重武装が可能なことで
朝鮮戦争において劇的なデビューを果たし、
かつ西側諸国に衝撃を与えたといわれています。

ミコヤンの設計のユニークだったところは、動力にイギリスの
ロールスロイスから取り寄せた、

ニーン・ジェットエンジン

を取り寄せて、これを無許可でコピーし改良したものを積んだことです。

言いたくはないですが、こういうルール無視をするのって
共産主義国家の技術者に多いって感じがしますね。なりふり構わないっていうか。

しかも、ロールスロイスのエンジンそのものも、ミコヤンが
ロールスロイス社のパーティに招かれた時にビリヤードで勝ち、
の褒美に購入の許可をもらった、という経緯がありました。

まあしかし、くれると言っているものを貰わないのは馬鹿、
盗める技術を盗まないのは阿呆、というのがあちらの常識。

お人好しなロールスロイス社を彼らは出し抜いたと思ったでしょうし、
ソ連ではそんな彼らはヒーローだったでしょう。

おそらく、今でも。

 

朝鮮戦争の間、MiGー15はアメリカ軍のF-80シューティングスター
そしてF-86セイバーと制空権(エアー・ドミナンス)を巡って対峙しました。

 

画期的だったのはまずこれがソ連にとって初めての
後退翼を持つジェット戦闘機だったことで、さらには
コクピットは与圧されており、イジェクトシートが装備されていました。

これらもそれまでのソ連が持っていなかった機能ばかりです。

このMiG-15は、そのシリーズが最も広く製造された航空機といわれ、
その派生形は17,000種類に及ぶと言いますから驚きます。

その十分の一の1,700でもそりゃ多い、となりそうですが。

このことを、Wikipediaにはこう記してあります。

派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、
西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、
初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、
複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15)
の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。

・・・事足りるって何に足りるんだろう。

というツッコミはともかく、これだけ種類が膨大になったのは、
ソ連以外の国でも生産され、それに全て改修型、派生型が生まれたからです。

アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。

朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。

ベトナム戦争ではますます洗練された「賢い」兵器が投入されるようになり、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」ということになりました。

(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)

これらの新しい精密兵器は、

「戦略的爆撃は、大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」

という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。

とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとしても、それでもなおかつ
あのカーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは疑問です。

 


さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・いわば「新しい波」が
イラクを攻撃したということになります。

攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。

ロッキード T-33A シューティングスター

シューティングスターというと、わたしなど入間での墜落事故と
その墜落機を操縦していたパイロットたちの自己犠牲を思わずにいられません。

これは「Tバード」という名称で知られていたロッキードの練習機で、
アメリカでは1947年から、偶然のようですがセスナの「ツィート」
T-37に交代する1957年まで空軍で使用されていました。

当博物館所蔵のT-33A-5-LOは、1954年まで空軍で運用され、
その後はワシントンD.C.のナショナルエアガードのものとなり、
1987年には博物館に寄贈されていたものです。

機体を見てものすごくピカピカしていることに気づきませんか?

生まれて一度も塗装されたことのない飛行機だからなんですね。
自然の金属地は磨き上げるとここまでなるという驚くべき見本です。

練習用にしか使われたことがなく、その時に装備していた銃は
展示に当たって全て取り外されました。

 

こんなものも飾ってありました。

やはりMiG−15を運用していたポーランド空軍将校のフライトスーツです。

1953年3月5日、ポーランド空軍のフランシスチェク・ヤレツキー大尉は、
4機のMiG-15とともにポーランドのストロプ基地から哨戒に出ましたが、
レーダーにソ連軍機を発見したため増槽を落とし、隊形を崩して急降下しました。

ところがソビエト軍は彼らの迎撃をすでに予想しており、
「Oparation Krest」と名付けられた警戒迎撃システムコードを準備して
つまり飛んで火にいる夏の虫を待ち構えていたのです。

隊形を解散して一機でやってきたヤレツキー機はソ連軍に追いかけられました。

彼はデンマークのボーンホルム島にアメリカ軍がいることを知っていたので、
そこに逃げ延びて着陸することで追手から生還することができました。

このジャケットの説明の最後はこのようなものです。

「このフライトスーツはヤレツキー大尉が自由世界
(フリーダム)への必死の飛行の際に着ていたものである」

いやまー、いいんですけどね。
アメリカ基地を「フリーダム」だと思ったからそこを目指した?
流石にそこまで考えていなかったと思うけどどうでしょう。 

ここにあるヒューイはもう紹介がすんでいますが、残っていたのがこれ。

シコルスキー HO5S-1

海兵隊で負傷者救出のために投入されたヘリで、デビューは
朝鮮戦争の最後の年になります。

他のヘリのように負傷者を外付けの担架に乗せる方式ではなく、
二人の死傷者と付き添い一人を内部に乗せることができました。

フロントのバブルウィンドはそのものが開くので、
内部へのアクセスが簡単ですし、後部にマウントされたエンジンは
搭載重量の制限を飛躍的に大きくしたといわれます。

ヒンジの改良によってローターの動きに安定性が増し、
さらには夜間飛行も可能になりました。

 

このHO5S-1は朝鮮戦争に参加して生き残った数少ないヘリの一機で、
VMO-6部隊に配備され、朝鮮戦争で重症を負った海兵隊員を、
少なくとも五千人以上輸送したといわれるヘリコプターです。

戦後は民間のヘリコプター会社に払い下げられ、
エアタクシーや農薬散布、配線のテストなどの仕事をしていましたが、
スミソニアンに寄贈され、朝鮮戦争で活躍した頃の塗装を施されて
かつて戦場から人命を救っていた頃の姿を後世に残しています。

 

続く。

 

 

ホークアイ航空部隊のレディ・ルーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-10-04 | 航空機

さて、飛行甲板の上の固定翼機機シリーズ、続きです。


 Grumman C-1「トレーダー」 Trader

「トレーダー」というのはそのものズバリ貿易船のことです。

C-1トレーダー貨物機は、COD(Carrier Onboard Delivery)、つまり
陸上から洋上の航空母艦へ補給物資を輸送する艦上輸送機であり、
人員の輸送、
修理部品の搬入、傷病者の搬送、
特に郵便の配達という重要な作業を行っていました。

右側のエンジンカウル内側に、光沢のある丸いものがありますが、これは
パイロットがノーズギアが展開されているかどうかを確認できるミラーです。

なるほど、バックミラーをカウルにつけて下を確認するんだ。

「イージーウェイ・エアラインズ」

このあだ名は、乗員たちの待ち望む支給品、何より
家族からの手紙を積んでおり、常に皆に熱烈に待ち焦がれられた、
「定期便」であるトレーダーらしい名称と言えましょう。

とにかくその頃は飛行機で運ぶ手紙でしか連絡が取れなかったので、
現地のオーディオ説明で、乗員の妻だったという人が

「たとえば何か相談をしたくても、返事が返ってくるのは2ヶ月後で、
車を買うとか、カーテンをどうするとかいう相談も返事がそんなに
先になってしまうのでは相談しても仕方がなくて・・」

みたいな愚痴を言っておられました。

スネイル・メール(電子メールではない郵便のこと)の時代には
人々は連絡を取るのにこんなに苦労していたのです。


かくいうわたしは、先日大学に入学した息子をアメリカに残して
家に帰ってきたわけですが、彼の勧めにより、息子の使っていたパソコンデスク
(大きなディスプレイ搭載)で作業を始めるにあたり、
接続を全てメッセージのやりとりで教えてもらいながら行いました。

写真を送りながらやりとりができるので、電話よりずっと便利です。

昔の親なら、アメリカに航空便箋で手紙を書いたり小包を送ったり、
高い国際電話でわずかに言葉を交わしたりしか出来なかったのに、
全くこんな文明を享受できる便利な時代によくぞ生まれたものだと思います。

日本からものを取り寄せるのも、今はAmazonで簡単らしいですしね。

ダグラス A-3A スカイウォリアー

ラインの上にきっちりノーズを向けて展示してあります。

スカイウォリアーも実は第二次世界大戦終了後すぐ、
アメリカが核爆弾を積むことのできる飛行機を開発させ、
その結果できたという経緯があるので、大変機体が大型となっています。

こうやって正面から見ると、胴体が四角いですね。
多分これも搭載する予定だった核爆弾のことを考えてのことでしょう。

スカイウォリアーはやはり戦略爆撃機として開発されたビジランティの
登場とともに置き換えられて引退しています。

しかし、ビジランティもそうでしたが、大は小を兼ねるという言葉通り、
機体が大きかったので、戦略爆撃機としてはお役御免になっても、
電子戦機や写真偵察機、空中給油機に改装されて生き残りました。

スカイウォリアーと記念写真を撮るおじさん。
機体の下にはベンチがあって、日陰で休むこともできます。

こちら今年の写真。

給油プローブがまるで槍を持つ戦士みたい・・。
あ、それで「スカイウォリアー」か!(多分違う)

スカイウォリアーの面白い写真をwikiで見つけました。
偵察機として使われていた時、搭載したカメラを全部並べたものです。
搭乗員の足元にあるのも数えれば全部で12基あるんですが、これ、
現在ならおそらくこれだけのカメラ全部の機能が一台に搭載されたものが
できてたりするんだろうなあ。

F9Fパンサーについてはもうお話ししましたが、別角度からの写真を。

ちら今年の一眼レフによる写真。
腐っても一眼レフ、何も考えずに撮っても、画質の違いは歴然です。

パンサーのパイロットもアップにしてみるとイケメンなのがわかります。

ちなみに正面から見ると・・・・・

\(^..^)/


Northrop Grumman E-2「ホークアイ」 Hawkeye 

我が自衛隊でも運用しているので大変馴染みのあるこのシェイプです。
鵜の目鷹の目と申しますが、早期警戒機として「鷹の目」が必要であることは
全世界の共通認識なんだなと思うこのネーミング。

現場でのニックネームはその独特なエンジン音から「ハンマー」だったそうです。
ハンマーでカンカン叩くような音でもしてたんでしょうか。

鷹という割には背中に甲羅を背負っていて、ちょっと間が抜けているというか
愛嬌のある感じがよろしい。

これは今年一眼レフで撮った写真です。
今年の「ミッドウェイ」訪問では、今までの見学で時間がなく
見ていないところを重点的に回りましたが、丸一日使ったので
これまでお話しして来た航空機展示も、ひとつひとつオーディオツァーで
説明を聞きながら見ることができました。

この写真は念願のブリッジ・ツァーの移動時に
下にホークアイがいたので撮ったものです。

これを見てふとレドームの大きさは、大相撲の土俵くらいかな?

とふと思ったので調べてみたところ、レドームは7.31m、
相撲の土俵は4.5mで、レドームの圧勝でした。

この圧倒的かつ画期的なレーダーレドームの思い切った(多分)採用で、
海軍はこれまでの早期警戒機とは格段に違う管制力を手に入れました。

後ろから見たホークアイ。

接合部からレドームまでの高さが結構あるのがわかります。

少し前に「ミッドウェイ」で運用されていたホークアイが
海に落ちた話をしたかと思いますが、あの話で、これが海に落ちた時には
やはりこのお皿が浮きとなってしばらく浮いていることを知りました。

お皿は対空警戒・監視を行うための強力なレーダーなのですが、
これもまた意外な副産物だったというわけです。

ちなみに現在の「ホークアイ」は、強力なレーダー・電子機器により、
同時に250個の目標を追尾し、30の要撃行動を管制することができます。

どうしてホークアイだけこんなに写真が多いのか?
と思ったあなた、あなたは鋭い。
実は個人的にこの飛行機が結構好きだったりするわたしです。

これはオーディオの説明の通り、ノーズ下部に搭載された
撮影のためのウィンドウを強調してみました。

しかしこうして見ると、ホークアイ、何かに似てるなあ。
・・・・スヌーピー?

さて、今回初めて見学した部分に、飛行甲板の一階下にあった
搭乗員の控え室、「レディ・ルーム」があります。

いくつかの飛行隊のレディルームがそのまま展示してあったのですが、
その中からホークアイのクルーの控え室をご紹介します。

椅子の背もたれには、かつてその席が「定位置」だった何人かの
クルーの名前が残すことなく貼り付けられていました。

もしかしたらこれはパイロットスーツにつけるネームそのものでしょうか。

エンドレスで室内のモニターにはE-2にまつわる映像を流しています。
今画面にある

E-2D アドバンスド・ホークアイ

は、「ミッドウェイ」にホークアイ部隊があった頃にはまだなくて、
というより現在進行形でアメリカ海軍が運用している最新型です。
2007年初飛行を行い、2015年より実戦部隊に配備を開始したばかり。

もしかしたら横田基地で見たホークアイはこれだったのかもしれません。

ホークアイの見た目はあまり変わらない、と書きましたが、
その時思ったのはとにかくプロペラの数が多いこと。(8枚羽根)

もちろんプロペラの羽は多ければ多いほど飛行機は安定しますが、
素材が近代化して軽くて薄いプロペラが作れるようになって、
初めてこういう多重羽根の大型機が実用化したという気がします。

この最新型E-2Dは中期防衛力整備計画において
導入が決定されたので、今年中には空自にお目見えするでしょう。


ところで、この周りの地図と写真、これらはあの

「砂漠の嵐作戦」

を再現しているようですね。
イラクがクェートに侵攻し、湾岸戦争が始まった時、イラク地上軍を
空爆により無力化する目的で実施されたのがこの「砂漠の嵐作戦」です。

このとき、B-52、F-16、F-15E戦闘機による空爆のほか、
巡航ミサイル使用による発電所などに対する攻撃も実施されていますが、
その攻撃に先立ち、E-2航空隊が情報収集に出撃しているわけです。

E-2の機能、探査能力などについて説明しているようです。

これは海軍に存在したホークアイ部隊の徽章一覧ですが、
やはりホークをあしらったものが多いですね。

VAW-126のようにホークのアイから稲光が出ている、
文字通りのものもあります。

電子戦を行うため、ちょっと関係ありそうなコウモリとか、
「スチール・ジョー」(鉄の顎)という名前のサメとか、
見ていて興味が尽きないのですが、渦巻き模様の真ん中に
眼(アイ)があるというVAW-123のマークを見てください。

レドームにそのマークをそのまま描いちゃってるんですよー(笑)

出撃などの指令を受けるデスクの電話がレトロです。
今はガラスで覆われていますが、もちろん当時は違います。

「ミッドウェイ」に湾岸戦争時搭載されていたこの部隊は

VAW-115 "リバティー・ベルズ”

でした。
湾岸戦争後、我が空自・海自との合同訓練も行なっています。

その後岩国基地勤務を経て海兵隊と岩国駐留を交代後は
空母「ロナルド・レーガン」艦載部隊を経て、現在は海軍航空局の
ポイント・ムグにいるそうです。

何気なくありますが、よく見るとすごい。

最初からこんな思い切ったデザインを採用したおかげで、
ホークアイの存在意義は確固たるものになり、1960年の誕生以来、
なんと78年間に亘ってほぼ同じ形で現役であり続けています。

ここには艦隊に配備された1964年からカウントしていますが、
デビューから4年間のタイムラグがなぜあったのははわかりません。


形がほとんど変わらないと言われますが、もっとも電子戦を行うので
搭載するコンピューターがしょっちゅうアップデートされ、

したがって中身は常に最新型です。


最初の1960年の導入の時には、コンピュータはコンピュータでも
アナログで情報処理機能にもかなり問題があったらしいですが、
現行の最新型E-2D アドバンスドホークアイは、2007年から運用されており、
2人のうちの片方のパイロットを4人目のオペレーターとして活用するために、
コクピット計器版は17インチカラー液晶ディスプレイだそうです。

(オペレーターは3人乗り込むことになっている)

ベトナム戦争末期の脱出作戦「フリークェント・ウィンド」、
湾岸戦争の「デザート・シールド」作戦に参加していますが、一度も
「ミッドウェイ」艦載部隊になったことはない

VAW-113  "ブラック・イーグル”

も紹介されていました。

「ブロンディ」「ラムジェット」「サイコ」(おい・・)
「リップス」「ファング」「ダース」・・・・

搭乗割に書かれたタックネームは大抵変な名前ばかり。
結構仲間内のノリで決められてしまうみたいで、トム・クルーズのように

「俺はマーヴェリックな」

という風に自分で宣言する方が珍しいのかもしれません。
自分でつけるならもう少しかっこいい名前を考えるよね。

 

ところで、皆さんにはこのホークアイ部隊、「ブラック・イーグル」の名前を
少し頭の隅に記憶していただきたいと思います。

VVAW-113は、「ロナルド・レーガン」の艦載部隊として太平洋航行中、
東日本大震災の報を受け、すぐさま「オペレーション・トモダチ」発令後
被災地に飛び、初動偵察と救助活動における空中コマンドを行なった部隊でした。

海軍はこの時の働きに対し、E賞を同部隊に授与しています。

左下のキャップは、全E-2部隊の「リユニオン」の時に制作されたもの。
皆が同じ形の機体に乗っていたわけですから盛り上がったことでしょう。

飛行部隊にはどこにでもある(同じものを海兵隊航空部隊で見た)
名前いりコーヒーカップを架けるラック。

言っておきますが、本当の部隊で使用中のラックには
こんな綺麗なカップなど一つもありませんでしたよ。

ひどいのになると全く洗わずに飲み終わったのを引っ掛ける人も。

フライトスーツとヘルメットの置き場はレディ・ルームの出口脇にあります。

ところでこれなんですかね。
E-2を製造しているノースロップ・グラマンが記念として贈ったものらしいですが。

 

続く。


スカイレイダーのトイレ爆弾〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-10-02 | 航空機

空母「ミッドウェイ」博物館、艦橋下のキャプテンズ・キャビンを見終わり、
外に出てきました。
この辺で、残りの航空機の写真を全部放出しておきましょう。

まず、冒頭は、

Northrop Grumman  EA-6B「プラウラー」Prowler

このブログではすっかりお馴染みの「うろうろする人」です。
ちょうど艦尾から艦載機エレベーターに乗っているところを
舷側から覗き込むと、こんな風に全体を見ることができます。

背景のサンディエゴ市街の高層ビルとの組み合わせが絶妙ですね。

反対側からの写真。これは今年撮ったものです。

「イントレピッド」にもあったのでその時に散々説明していますが、
「プラウラー」はこの「ミッドウェイ」甲板の反対側にあった
艦上攻撃機「イントルーダー」と同型の電子戦機です。

機体には「 VAQ-132」のスコードロン名があります。
1968年に電子戦機部隊としてこの名前に変更になったVAQ-132は
当時できたばかりのプラウラーを運用する部隊となりました。

誰も近寄って中を見ることはできませんが、コクピットには
マネキンを座らせているというこの展示の凝りよう。

前席には

CDR E.F. ROLLINS JR. と LCDR R. ROBIDOCK

など記名があります。
実際のVAQ-132、 スコーピオンのパイロットだと思いますが、
記名については本人と遺族の希望で依頼の上行われることもありますし、
たとえば戦死したパイロットは周りがその遺業を顕彰する意味で遺したりします。

前方に移動してみました。
ノーズの先の➕がちょっとミッフィーちゃんみたいで可愛いわね。
んでこの、無理無理翼を畳んでいる感じがなんとも言えませんわ。

おっと、真横の顔も忘れずに。これも今年の写真。

撃墜マークみたいなのが機体下部にペイントされていますが、
これはプラウラー的にいう勝利、つまり電子戦で相手をタゲてやった!
ということなのかなと解釈してみましたが、どんなもんでしょう。

オーディオツァーではかつてのクルーの体験談や打ち上げ話が聞けます。
ちょっと時間が経ったので、この尾翼についているアンテナを彼らが

「ラグビーボール」

と呼んでいたという話だけしか覚えていませんがorz

グラウラーはなかなか性能に対する評価が高かったようで、つい最近、
2015年までは海軍で現役だったため、厚木近辺では度々目撃されていたようです。

厚木基地に見学に行った時には、同じ「グラウラー」という名前でも
機体はホーネットと同じEA-18Gに置き換えられていました。

海軍ではそういうわけで退役してしまいましたが、海兵隊では
未だに運用しているので、岩国などでは見ることもできるようです。

 

T-2バックアイのコクピットには本当に座ることができます。
これも「ミッドウェイ」のご自慢の展示の一つ。

赤いキャップにシャツの人は「ミッドウェイ」のボランティアです。
一応実機だったりするので、見張りを置いているのかな?と思ったら・・

やっぱりアメリカの軍事博物館、基本放置でした。

日本の女の子ならVサインをせずにはいられないところです。

テントとベンチが置いてあり、イベントを待っている人がいます。
正面の半ズボンの人は解説を行うベテランかもしれません。

「ミッドウェイ」にはしょっちゅう元パイロットのベテランが
ボランティアでやってきて、自分の乗っていた飛行機の前で
体験談などを話す企画をやっています。

これは今年の写真。
手前のカタパルトを撮ったら写り込んでいた向こうの集団は、

「フライト・デッキ・トーク」

と呼ばれるベテランたちのカジュアルな講演です。

朝一からたった二人を相手にモニターを駆使して体験を語るベテラン。

彼らにとっても何度も話して飽きられている身内にではなく、
初めて聞く人たちに囲まれるほうがずっと話し甲斐もあるでしょうし、
アメリカ人というのは社会にあまねく軍人、特にベテランにに敬意を払う、
という意識がいきわたっていますから、この甲板トークは
ベテランの話に熱心に聴き入る見学者でいつも満員御礼状態です。

これは以前お話ししたA-5「ビジランティ」

艦上攻撃機と同型の偵察型を持つという点ではホーネットやイントルーダーと同じ。
偵察機が高高度を飛ぶためと考えれば、大きな機体は無駄ではない、
ということは理解しましたが、問題は艦載機としての運用です。

艦上機と考えればこれ異常に大きくないですか?
先端も尖りすぎてるし。

と思ったら、やっぱり現場ではこの大きさがネックとなっていた模様。

例えば艦首のとんがったところはエレベーターにも載らないので、
乗降のたびに垂直に跳ねあげなくてはならなかったそうですし、格納庫では
垂直尾翼も邪魔になるので必ずきっちり折りたたまなくてはなりません。

ビジランティのノーズ下部にもカメラが設置されています。

戦略爆撃機から偵察機に転用された後も、「自警団員」という
名前を変えなくても良かったのは幸いでした。

しかし元々が艦載機用に設計されていないこの機体は、
乗っている人にはたとえ問題はなくとも、艦上で飛行作業を行う
スタッフには、きっと総スカンで嫌われていたのに違いありません。


このため海軍はF-14の偵察兼任型がやってくるまでの間、
クルセイダーの偵察型RF-8Gを、能力が劣るのは承知の上で使っていました。

結局1979年11月までにRA-5Cは全機退役しています。
艦載機としてでなればそれなりに役に立ったと思うんですが。

 

Douglas A-1 「スカイレイダー」Skyraider (formerly AD)A-1  

第二次世界大戦中に開発が始まり、出来上がった時には
「アヴェンジャー」よりも、「ヘルダイバー」よりも小型軽量でありながら、
性能はどちらもを凌駕していたという割にはあまり有名でないような。

わたしが知らなかっただけならすみません。(ハイネマンに言ってる)


スカイレイダーは最後のプロペラ機でありながら、海軍機としては
朝鮮戦争とベトナム戦争のどちらにも参戦した唯一の飛行機です。

製作については、それまでのダグラス機が不出来だったため、
チーフ・エンジニアだったハイネマンはその流れを汲むことをやめ、
自分のアイデアで軽量な戦闘機を作ろうと決心しました。

ところが海軍はまるでその経緯を見ていて嫌がらせするかのように、

「明日の9時までにできてなかったら採用はアウトね」

とか言い出したので、ハイネマンとスタッフはホテルの部屋で
徹夜して一晩で戦闘機の図面を書き上げたという話があります。

一晩で作ったにしては、というか火事場の馬鹿力というべきだったのか、
この機体は色々とよく出来ていて(わたしは知りませんでしたが)
エド・ハイネマンのヒット作の一つになりました。

こちら今年撮った写真。

これでもか!とばかりに爆弾が取り付けてありますね。

そう、これこそがこの機体の画期的なポイントだったのです。
それまでの案は魚雷を機内装備する予定でしたが、ハイネマンは
これをきっぱりと廃棄し、兵装を全て機外に装備することにしたのでした。

折りたたまない部分の翼の下には他のより重そうで大きな爆弾が。
みなさん、このことを覚えておいてください。試験に出ます。

「翼の下に兵装を装備する」

というスカイレーダーからはこんな伝説が生まれました。
当時のレシプロ機としては大容量のペイロードが可能で、当時、

「キッチン以外に運べない物はない」

というのがキャッチフレーズとなったため、
それを受けてャレンジャーの海軍さんは、朝鮮戦争で、

流し台を『兵装』として搭載・投下し、

「キッチンも運べる」事を証明してみせたのです。

その時のキッチンシンク実装例。

「ザ・キッチンシンク」とペイントされたキッチンシンクが、
爆弾の下にわざわざ取り付けてあります。
ちゃんと爆弾と一緒に投下するのならええやろ?という態度です。

みんな結構真面目な顔で「ヨシッ!」みたいな雰囲気なのが笑えます。
やっぱりどんなことであっても「歴史を作る」ことに違いないからでしょう。
右側の士官がこの時の指揮官だと思いますが、この人を
覚えておいてください。
試験には出ませんが。


さて、こういう前例ができてしまうと、エスカレートしていくのが
ワールドスタンダードな海軍という組織の常。(多分)

ベトナム戦争の頃には、

「もはやこの機体が搭載したことがないのはトイレくらいのものである」

と言う、ある意味結果を見越した悪質な?ジョークが生まれました。
そして案の定。

機上のパイロットの真面目な表情をご覧ください。

今回のチャレンジャーは爆弾と一緒に便器を落とすのではなく、

「信管を取り付けた便器」

機体に搭載して実戦で投下し、その神話を打破してみせたのです。
てか打破すんなよ。
だいたいどこに落としたんだよそのトイレ爆弾。

実装例。
うむ、トイレは一番外側に装備していますね。

しかしどうしてあえて戦争の時にそんなことをするのかというと・・・
まあ多分、戦争中だから、あえてやろうと思うんでしょうな。

さらに話はここで終わらず、最後に、

「もう積めないのはバスタブだけだ!」

と言う確信犯的な話の流れになり、実際にバスタブを搭載して
出撃しようとしたツワモノパイロットが現れましたが、
この度は上官に発覚し未遂に終わりました。

きっと、この上官からは

「オマエラええ加減にせーよ」

という一言があったに違いありません。
ここでバスタブの搭載を許してしまえば、次はどうなるか。
いよいよ上層部の責任問題にもなってくると彼は踏んだのでしょう。

英断です。

だから残念ですがバスタブの写真はありません。

世界の基準にたがわず、アメリカ海軍でも「上司」というものは
「そういうもん」みたいですが、それでは

最初の「キッチンシンク」の時の上官、あれは何だったのか。

彼の名前がアメリカ海軍航空隊の歴史に残っていないのを残念に思います。



続く。