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残念兵器ドルニエ ・プファイルとバッハ・シュテルツェ〜スミソニアン博物館

2019-07-12 | 航空機

ドルニエDo335A-0プファイル(Dornier Do Pfeil)

今日タイトルの「残念兵器」というのは、「アラド」のように、機体は
優秀な部類だったが、時期的に残念な存在だった、ということではなく、
失礼ながら性能その他も残念だったし、製造時期も残念だった、という
文字通りの意味です。


さて、残念兵器その1、ドルニエDo335はその速さから
「プファイル=矢」という愛称を与えられました。

レシプロエンジン機としては、時速770kmを誇る「最速のプロペラ機」でした。

これができた頃のプロペラ機の最高時速は755kmでしたが、プフィルは
水平飛行で846km/hを記録した、といわれています。

「アマイゼンベア」(オオアリクイ)という別のあだ名が表すこのユニークな機体は、
コクピットを挟んで前後にエンジンを積むという機構を持っていました。

設計者のクラウディアス・ドルニエはこの画期的なレイアウトで特許を取っています。
採用されたのはダイムラー・ベンツ社のシリンダーエンジンで、二つのうち
どちらかが動かなくなっても、一つだけで航行が可能でした。

当時超ハイテク技術だった脱出用のイジェクトシートが装備されたのは、
後ろにあるエンジンのプロペラに搭乗員が巻き込まれる可能性があったからです。

着陸用の三輪車を最初から装備しているという形です。
冒頭の写真を見ていただいてもわかりますが、脚は大変長く、その下を
ドイツ人男性が頭をかがめずに歩いて通り抜けられるほどでした。
車輪も大きく、脚はいかにも頑丈そうですが、折りたたむことができます。

当時、ドイツの要求していたのは制空権のないところに高速で侵入して
爆撃する機体でしたが、「高速性能」に加えて運動性能が良かったので、
設計を変えないまま多用途重戦闘機にジョブチェンジしています。

「重」と付いているのは機体が大きく、重量があったからです。

 

プファイルは、確かに高速でしたが、実験してみたら案外欠点が多く、
その重量のせいで、飛んでいるときはともかく、着陸に頻繁に失敗しました。
こんなに丈夫な脚をつけていても、耐えられないくらい重かったってことです。

加えて、後ろ側のエンジンがなぜかしょっちゅう加熱したことも不安材料でした。

しかしジリ貧のドイツにとっては高速爆撃機は頼みの綱的存在だったらしく、
最重要量産機の指定を受けて大量発注され、がっつり量産体制に入ったところ、
連合国の爆撃で生産していた工場が壊滅し、生産は中断を余儀なくされました。

青息吐息で工場再建し、なんとか35機を生産した時点で終戦に(-人-)

終戦間際に、ロイヤル・エアフォースの飛行隊が、プファイルが飛んでいるのを
目撃した、という記録がありますが、それがそのうちの一機だったのでしょう。

 

戦後、連合国は二機のDo335を取得しています。
どちらも3年間にわたって飛行試験を受けたあと、そのうち一機は
飛行機の保存と補修を行っていたドイツのドルニエ工場に戻されました。

工場で働いていた人々のほとんどが、戦中からの労働者でしたが、
彼らはDo335プファイルの尾翼と後部プロペラに、パイロット脱出時に
爆破によってそれらを吹き飛ばす爆発性のボルトがまだ付いているのに
驚いた、とスミソニアンのHPには書いてあります。

爆発物をつけたままにしてその技術に敬意を払うアメリカに
ドイツ人びっくり、みたいな話ってことでOK?

これらはパイロットが後部プロペラと尾翼にぶつかることを避けるため、
イジェクトの時にキャノピーが外れるのと同時に作動する仕組みでした。

このため、ドルニエはプファイルをレストアして2年後のエアーショーで
空を飛ばせてお披露目をしてから、ミュンヘンの博物館に展示されたそうです。


それでは、最後にもう一つのドイツ「残念兵器」を紹介しましょう。 

フォッケ・アハゲリス Focke-Achgelis FA 330A
バッハ・シュテルツェ(Bachstelze)

後ろの航空機ではなく、手前のカゲロウちっくな飛翔体に注目してください。
これはヘリコプターの前身ともいうべき回転翼凧で、
フォッケ・アハゲリス社が開発したバッハシュテルツェ(セキレイの尾)、
というあだ名がついており、Uボートの艦載偵察機として使用されていました。


昔、海上すれすれを潜望鏡を出して航行する潜水艦の悩みは洋上での視界の狭さでした。

見つかったが最後、爆弾を落としてくる駆逐艦に出会わないためには、
向こうより先に相手を確認して対処する必要があったのです。

これを解決するために組み立て式の飛行機を載せてしまったのが帝国海軍ですが、
ドイツ海軍はそこまで変態ではなかったので、偵察用の小さな飛翔体を開発しました。

帝国海軍が潜水艦に積んでいた水上機をその場で組み立てていたように、
こちらも、甲板で二人掛かりでその都度組み立てて使っていました。
帝国海軍の元潜水艦乗りは、「ネジ一本無くしてもおおごとだった」
その組み立て作業に極度の緊張を強いられたことをのちに述懐していますが、
こんな細かい作業を潜水艦の上でやろうなどと考えるのは、世界広しといえど
日本人とドイツ人しかいなかったということでもありますね。

だいたい不器用なアメリカ人や大雑把なラテン系の国なら、まず
そんなことをしようなどとハナっから考えたりしません(断言)

 

ところで、そもそもこれはどんな風に使用されていたと思います?

Uボートの甲板で組み立てが終わったところのようですが、
これ、実は「凧」だったと先ほど言ったのを思い出してください。

そう、バッハシュテルツェは150mのケーブルでUボートに係留され、
Uボートが航走すると、ローターが回転して空を飛ぶ凧だったのです。

German submarine launched Autogyro Fa330 

凧には一人だけ操縦員兼偵察員が乗っていて、偵察を行います。
偵察員は、牽引ケーブルに沿わせた電線で潜水艦と通信を行い状況報告しました。

約120mの上空からなので、かなりの視界が確保でき、ナイスアイデアでしたが、
かわいそうに、もし敵に見つかったあかつきには、艦長判断で
索は躊躇なく切られ、偵察員は機体とともに見捨てられることになっていました。

その後、ちゃんと敵の船が捕虜として海から助け上げてくれればいいですが、
おそらくはそのほとんどのケースが海上に残され、時間の問題で沈んでいく運命です。

せっかくUボートの乗員になったのに、何が悲しくてこんなものに乗って
海に置き去りにされ、艦長を恨みながら海のもずくとならねばならないのか。

きっとくじ引きで負けた操縦員兼偵察員は苦悩したことでしょう。知らんけど。



さて、我が帝国海軍の伊号に搭載された水上機は、立派に敵地攻撃をしていますが、
それでは盟友ドイツのバッハシュテルツェの戦果はどんなものだったでしょうか。

悲しいことに、1943年8月6日、U-177に搭載されていたFa330がギリシャの蒸気船
「エイサリア マリ」を発見し、撃沈した、というただ一回の戦果があるのみです。

民間船でしかも蒸気の船というあたりがもの悲しいですね。

 

これ、なんでだと思います?ほとんど戦果がなかった理由。

wikiは「その優位性にも関わらず」とすっとぼけておりますが、理由は歴然としています。
まず、揚収に時間がかかりすぎたんですよ。

組み立ては4人がかりなら3分くらいでできたらしいのですが、
使い終わった後の収容・分解・収納には急いでも20分はかかったといいます。

これ、その間、確実に海の上に浮いていなければならないってことですよね。

こんなのなら、多少早く敵を見つけたとしても、それから駆けつけることになり、
20分も経てば潜水艦では追いつけないところに行ってしまってませんか?

本来の目的であった天敵駆逐艦を上空からいち早く発見するということに成功しても、
凧を揚収しているこの20分間に向こうに存在を察知されれば、
つまりお片づけの時間で相殺されて全く意味がなかったんじゃ?

とつい真顔でツッコミを入れてしまいたくなります。

スミソニアンの説明によると、これを使っている間は他の潜水艦を
(レーダーでも、視覚的にも)見つけることができないという理由から、
Uボートの艦長たちもこの兵器を嫌っていた、とあります。

水上の敵を探していて敵潜水艦が真下にいてもわからなかった、じゃ
シャレにならんのです。戦場はそんなに甘くないのです。

思うに、バッハシュテルツェの戦果がほぼ皆無だった一番大きな原因は、
実戦でこれを使おうとしたUボートの艦長がいなかったから
なんじゃないでしょうか。

 

 

続く。

 

 



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1 Comments

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ドイツ軍機 (お節介船屋)
2019-07-12 10:48:23
ヒットラーやゲーリング空軍総司令官等指導部の考えが陸軍の侵攻の支援が空軍の役目と考えており、爆撃機も戦略用の大型でなく地上陸戦支援目的との考えでの整備であったようです。
前回の記述のFW-190にしても2万機の製造中の爆撃機型の多さ、Bf-109やFW-190の戦闘機も航続力が短く、英本土爆撃の護衛も不十分でバトル・オブ・ブリテンでも惨敗しました。Bf-109は3万機も生産されており、仏海岸から遠距離でもないのに爆撃機の護衛が不十分でした。ただレーダーを過小評価したり、ヒットラーのロンドン空襲命令での戦術面での錯誤や不徹底もありました。ドイツはヒットラーの考えに翻弄されゲーリング等は本土防空戦を考え上申しましたがゲーリングはヒットラーの命を受け戦いの最終段階でも英本土爆撃に固執していました。
どこの国でもいえることですが指導部内の争いや考えに左右され、ちゃんとした戦いの分析や見通しが行われず、前線の兵士等に無理な戦いを強いる事となると負け戦となると思います。
オペレーションリサーチや多少性能が劣っても大量生産や整備性向上を行う事や戦術、戦略に素早く対応可能な組織や、指導部の人員、編成の交代等に優れた米国に比べ、日、独、伊等枢軸国は貧すれば鈍する状態となってしまいました。
Me-262にしても歴戦の勇士たるガーランド等がその素晴らしさに戦闘機としての性能を見出しているのも関わらず、ヒットラーの爆撃機への執念とゲーリングの追従に開発が遅れて防空戦にも間に合わなかったのでした。
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