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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

X-35Bの「ミッションX」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-25 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館別館の「ウドバー・ヘイジー・センター」に
展示されている航空機のご紹介をしています。

まず冒頭写真の

グラマン F14 D (R) トムキャット

艦載機仕様(deck-launchedと紹介されている)で、超音速。
可変後退翼を備えた戦闘機です。

前にもお話ししたようにグラマンは猫的名前を連続して
戦闘機につけていましたが、この戦闘機には

シーキャット

とつけようとしていたと言われています。
シーキャットって猫じゃなくて魚(ナマズ)だし。

しかし、この戦闘機の採用を推していたのが

トム・コノリー大将

で、そのことからトムの猫(Tom's cat)→トムキャット、
となって、そのほうがこれまでの猫戦闘機と釣り合いがとれるよね、
ということになったのではないかと推察されます。

英語のwikiにははっきりと、

「コノリー大将に敬意を払うために名前がつけられた」

とも書いてあります。

可変翼の動きが猫の耳のようだというのでつけられた、
という話は、わたしに言わせると、どうも後付けっぽいんですよね。

これももちろん後付け(笑)
機体にペイントされていたフィリックス猫。

搭乗するのはパイロットとRIO(Radar Intercept Officer)

このレーダー・インターセプト・オフィサーというのは
普通のナビゲーター・オフィサーとは違う職種で、

武器兵器の現状をモニター
BVR(beyond visual range視覚範囲外)への攻撃
レーダーによる他飛行体や異常のチェック
他飛行機の戦術分析
無線通信の取り扱い
ナビゲーション機器の取り扱い
電子戦および関連装置の取り扱い
周囲の観察と敵の発見
ミッションの実行と統制

などを任務とする士官です。

万が一パイロットに異常があった場合に限り、
RIOは操縦の装置にアクセスすることができ、
飛行機を無事に着陸させる訓練だけは受けていますが、
パイロットのように操縦することはできません。

ところでこんなものもありました。
「リアル・トップガン」のフライトスーツとヘルメット。

「トップガン」は正式には

The Fighter Weapons School(海軍戦闘機兵器学校)

といい、1969年、ミラマー基地に創設されました。
アグレッサーを演じることでより進んだ戦闘機と戦略攻撃を
海軍のパイロット達に戦闘メソッドを通して叩き込む、
というのがトップガンの使命であり、
4週間のコースを受けると受講者は艦隊に戻り、彼らの部隊に
学んだことを伝えていくのです。

ここにある私物は海軍のトップパイロットのうちの一人、
クリストファー・”ブーマー”(Boomer)・ウィルソン大尉のものです。

彼は現役時代に VF-211に所属し、ベトナム、ラオスなどで
少なくとも150回に及ぶ戦闘に参加し、6個のメダルを授与されました。

戦後はF-14が登場したときの最初のパイロットとして
この機体を艦隊運用に紹介するために大きな働きをしたという人物です。

ウィルソン大尉がトップガンだったのは1982年から1984年まで。
F-14の最初の操縦者全てが彼の薫陶を受けています。

その後も彼はトップガンのテクニカルアドバイザーとして現場に残りました。
28年間のパイロット人生でその飛行時間は5400時間を超え、
三十種類もの航空機を甲板から離発着させるレジェンドだったのです。

真ん中のインシグニア、徽章は「兵器学校」つまりトップガンのマークです。
写真の上が彼が実際に使っていたフライトバッグとマニュアル、地図など。

このマニュアルは、F-14に彼が乗っていた時のものです。

前方の車のナンバープレート(アメリカではライセンスプレート)は
ウィルソン大尉のオリジナル?ナンバーで、

 XTOPGUN1

となっています。

これを許可したアイダホの免許局もさすがアメリカ、話がわかるというか。
ただ、アイダホに生まれたからには、どこまでも

「FAMOUS POTATOES」

という言葉がまつわってくる運命が・・。

「トップガン」と「ポテト」って、ある意味反対語みたいなものかも(笑)

 

カーチス SB2C-5 ヘルダイバー

展示は一応年代を追うように並べてあるので、実は前回の
ボロボロの水上機の横にあったのはこの「ヘルダイバー」ですが、
ブログエントリの構成上後先になったのをお許しください。

 

第二次世界大戦の間、期間としては1943年から終戦まで、
海軍は対日本戦にこの航空爆撃機ヘルダイバーを投入し、
普及後は、海軍の30の部隊、13隻の空母で運用されていました。

しかし、 艦隊戦術、技術、そして急降下爆撃のための爆弾の製造、
それらの変化に伴って急降下爆撃の方法そのものが廃れていったため、
結局ヘルダイバーはカーティス製では最後の急降下爆撃機となったのです。

ところで、このヘルダイバーは躯体にほとんど凹みや傷がなく、
修復したといっても綺麗すぎるのですが、それもそのはず、完成後、
2〜3ヶ月で終戦になってしまったため、戦闘を経験していません。

1945年の12月から空母「レキシントン」の爆撃部隊に組み入れられ、
占領下の日本で初めてまともに飛行することができたようです。

このノーズのおちょぼ口を見ただけでセイバーだとわかってしまう(笑)

ノースアメリカン F-100D スーパーセイバー

セイバーというと、われわれ日本人にはブルーインパルス、
東京オリンピック開会式、というイメージがありますね。

航空自衛隊が採用していたのはF-86戦闘機ですが、
後継型のこれも、同じようなノーズインテイクをしています。

こうして真正面から撮るとすごく大きな口に見えますね。
空中給油口がその口の前に突き出しています。

F-100は空軍にとって初めての実用超音速機でしたが、
機体に何か余計なもの(例えば爆弾とか?)がついているだけで
超音速にならない、など性能的にはいまいちだったせいか、
後発に押されてあっという間に陳腐化してしまいました。

この機体は1957年の使用開始以来21年任務を果たし、
飛行時間は6,159時間、という記録を持っています。

その現役中にはキューバ危機に出動し、のちに日本に配置され、
そこから南ベトナムで任務に当たっていましたが、ベトナムでは
対空砲を数回受けています。

どうして対空砲を数回「ヒットされ」ても無事だったのかは謎ですが。

機体中央にサイコロのマークがペイントされていますが、これは
あのテト攻勢の時に当機が所属していた、第90戦略戦闘部隊のものです。

我が自衛隊のF-86の次期戦闘機候補にF-100が挙げられたことがあります。

これをライセンス生産するという案は一度は具体化されそうだったのですが、
岸信介首相に対する説明で「戦闘爆撃機」という単語を使ったところ、

「日本に爆撃機は要らない!」

と一喝され、沙汰止みとなったという話があります。

なるほどねえ。
あまり考えたことはありませんでしたが、爆撃するというのは
「相手の国に行って領土を攻撃する」とイコールなので、
専守防衛を旨とする我が自衛隊には必要ないと。

じゃあミサイルならいいのか?

って話ですが・・これはいいんだな、きっと。

とにかく「爆撃」というのは言葉だけの問題で、F-100は
制空戦闘機として採用します、といえば良かったんじゃないかと思いますが、
先ほど述べたようにF-100の出来は決して良くなかったということなので、
自衛隊としてはこのとき岸首相の一喝に救われたのかもしれません。

ロッキード・マーチン X-35B STOVL 

形も見たことないし、名前も初めて聞くわけだが?と思ったら、
ロッキード・マーチンが開発した試作機なんだそうです。

直にこの目で見ていた時にはなんの感慨もなかったのですが、
この試作機が史上初めて一度のフライトにおける垂直着陸、
水平飛行での音速突破、そしてショート・テイクオフ、これらの
「ミッションX」を成功させた歴史的な功労機であることを知りました。

他の機体は他の航空博物館でも見られるものが多いですが、
これだけはここでしか見ることはできません。当たり前か。

ところでこの「STOVL」とは、

Short Take-Off and Vertical Landing aircraft、
短距離離陸垂直着陸機

のことであり、垂直離着陸機のVTOLとは、離陸時に短距離を滑走し、
着陸時に垂直着陸する、という違いがあります。

X-35Bの試験プログラムは2001年6月23日から2001年8月6日までと
歴史的に最も短い運用期間でしたが、そのわずかな期間に挙げた功績は
その後の航空史に貢献する最も偉大なものだった、といわれています。

X-35Bに搭載されていたエンジンも、ピカピカの状態でここにあります。

このエンジンは「リフトファン方式」を採用していました。
垂直機に使われてきたリフトエンジンの代わりに開発されたものです。

リフトファンから噴出される空気は熱を持たないので、
エアインテークからエンジンに熱い空気が入り込むのを防ぎます。

この時の「ミッションX」の飛行ではホバリング試験時、
エアインテークの温度は周囲の外気よりも3℃高かっただけでした。

X-35の機体には、採用されているエンジンF-119の

「プラット&ホイットニー」

のマークとロールスロイスのマークがありました。
このX-35で得た実験結果から生み出されたのが、あのF-35です。

 

続く。



真珠湾攻撃を見た水上機〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-16 | 航空機

SR-71、ブラックバードを観てから、わたしは正面から見て右手の
緩やかな傾斜になっているデッキを歩いていきました。

手前から紹介していきます。

リパブリック F-105D サンダーチーフ

どこかで見たような気がするのですが、初めてかもしれません。
F-105は超音速の爆撃戦闘機としてデザインされたもので、
核あるいはそれ以外の爆弾を搭載することができました。

いわゆる全天候型の機体で、モノパルスとドップラーの両方のレーダーを
夜間、または悪天候の時のオペレーションのために装備していました。

ウェポンベイは基本核爆弾を運ぶために密封され、
密着型の燃料タンクを装備していました。

(通常の飛行機は空中給油を想定した燃料タンクを持っている)
爆弾は機体にマウントされたウェポンラックや翼のパイロンに牽引されます。

F-105が初飛行したのは1959年で、610機が製作されました。

ここにある機体は、1967年のベトナム戦争時代に製作され、
タイのコラットに配備されていた空軍基地第388戦略戦闘機隊、
第42戦略戦闘部隊の所属でした。

サンダーチーフ、Thunderchiefはその最初の綴りから、『Thud』
(サッド、ドスンと落ちるという意味。擬音)と呼ばれました。

「ローリングサンダー」作戦

「スティール・タイガー」作戦

「バレル・ロール」作戦

などの「コンバット・ツァー」に参加し、その後は
コロンビア地区のナショナルガード空軍に所属していましたが、
1981年に当博物館に譲渡されたものです。

SA-2 ガイドラインミサイル

てっきりサンダーチーフが運んだことがあったのかと思ったら、
なぜかソ連のミサイルなんだそうです。

ソ連ではこれをDvina (ドヴィナー)と呼んでおり、SA−2は
NATOのコードネームで、SAは”surface-to-air”のことです。

ちなみに、ドヴィナーは1960年、アメリカの

U-2 ドラゴンレディ

というスパイ偵察用の飛行機を撃墜したことがあります。
その時U-2のパイロットだった

フランシス・ゲイリー・パワーズ大尉

はソ連に拘束され、その後人質交換で帰国しています。

この記事を読んで驚いたのは、スパイとして拘束された時、

「パワーズ大尉は自決するべきだった」

(CIAから自決用の薬も渡されていた)という世論が
アメリカ社会に起こり、それはいまだにあるらしいということです。

アメリカ人って人命尊重が第一なので、そういう精神論はないと思ってました。
いや、精神論というより、機密を漏らしたことがいかんかったんでしょうけど。

ちなみにU-2は今でもバリバリの現役で、ISILの掃討作戦にも参加してます。

ベル AH-1F コブラ

とってもよく見慣れた機体を見てつい懐かしさを覚えるのだった。
というか、日本では富士重工業がライセンス生産しているので、
コブラの製造元がベル・エアクラフトだと改めて知ると新鮮です。

これがあのヒューイからの派生形であることもここで初めて知りました。

コブラは、初めてガンシップを目的に生産されたヘリコプターで、
1967年、南ベトナムでデビューして以来、AH-64アパッチに置き換えられる
80、90年代まで陸軍の攻撃機として君臨しました。

今でも海兵隊ではコブラの発展バージョンを運用している他、
世界の様々な国で使われています。

ええ、そこはよく存じ上げておりますですよ。

コブラは1993−4年、ソマリアに展開した陸軍第10山岳部隊、
タスクフォース・レイブンでも使用されました。

これも陸自でおなじみ、

ベル UH-1H イロコイ

ヒューイの愛称で知られるイロコイがデビューしたのは1956年、
H-13メディバックに置き換えられることが決まってからのことです。

20世紀が終わるまでに、ベルは他の軍用機を圧倒する数
(1万6千機以上)のヒューイを生産しています。

現地の説明には

「ただしB-24コンソリデーテッドのぞく」

と書いてありました。
派生型も含めてB-24は1万8千機以上作られていますから。


ヒューイは空中機動力にたいへん優れ、救難任務に活躍し、
ベトナム戦争といえばヒューイ、ヒューイといえばベトナム戦争、
という具合に、ある意味ベトナムのシンボルでもありました。

特に1966年から1970年までの間におけるベトナム戦争で
傑出した働きを挙げた出動はそれこそ数え切れないほどでした。

本体に書かれている『スモーク・シップ』の字は、強襲作戦の煙幕の中でも
このイロコイが難なくミッションを果たしたことを意味しています。

ツインローターの海兵隊のヘリコプターは

ボーイング -バートル CH-46E シーナイト

型番から想像するに、CH-47の前の形ですね。(←得意げ)
これを主要攻撃ヘリとして運用していた海兵隊では
『Phrog』(プローグ?)と呼ばれていたそうです。

運用が開始されたのは1966年。
海兵隊の「殴り込み」的任務に最高に適したヘリと言われ、
その後も、ほぼすべての主要な米軍の任務、災害救援に始まって
大きなミッションとしては大使館人員の避難などにも使われました。

ここに展示されているヘリの独特な緑色は、(カーキではない)
引退する前年度に参加したベトナムでの特別任務の際施されたのと
同じ歴史的なペイントをそのまま再現しています。

このミッションで、ヘリ部隊はネイビークロスを授与される働きをしました。

またプローグは、2004年にアフガニスタン、2007年から2009年にかけては
イラクでの最も激しい戦闘の時期にも参戦しています。

ところで、この列の端に、一際目を引くボロボロの水上機がありました。
ほぼ全ての航空機が、歴史的な意味を持つバージョンに塗装されている
このスミソニアン航空博物館で、一種異様な空気を放っています。

シコルスキーJRS-1

写真ではこれでもそうでもないですが、実際に目にすると、
おどろおどろしいその姿からは「呪いの飛行機」という言葉さえ
ふと脳裏をかすめるような・・・。

それにしても、どうしてスミソニアンはこの飛行機を全くレストアせず
そのままの姿で展示しているのでしょうか。

スミソニアンのHPを検索すると、一応スミソニアンではこの飛行機を
2014年現在で将来修復させるつもりをしていることがわかりました。

Museum technician Patrick Robinson talks about restoration plans
for the Sikorsky JRS-1 in the Mary Baker Engen Restoration Hangar
during the Udvar-Hazy Center's 10th Anniversary Open House on January 25, 2014.

なので、今はあくまでも「仮の姿」なのだと思われます。
しかしもう4年も経っているのに、作業が始まっている様子もないなあ・・。

まるで障子紙のようにベラベラに破れまくっています。

「呪いの飛行機」という言葉が浮かんだのですが、
この飛行機には
因縁らしいものがあるといえばあります。

実はこの水上機、あの1941年12月7日にハワイ州パールハーバーにいました。

スミソニアン博物館のあまたの航空機の中で、JRS-1は、
真珠湾を「目撃」した唯一の存在なのです。

真珠湾攻撃が始まったとき、このJRS-1は海軍基地にいました。
未曾有の攻撃を受けた海軍は、直ちに無事だった非武装の飛行機に
敵の艦隊を捜索するために出動を命じています。
その一機が、このJRS-1(1937-1944年使用)だったのです。

民間機にシコルスキーS-43「ベイビー・クリッパー」がありますが、
これはその軍用バージョンです。

真珠湾当時、当機は非常にカラフルな塗装を施されていました。

機体のほとんどはシルバー、底部は黒、尾部の表面はグリーン、
そして胴体後方には周りに赤い帯が巻かれており、そして
操縦席の側にダイヤモンド形の飛行隊の記章が描かれていたそうです。

真珠湾攻撃の数日後、「非常時」に突入したということで、
地上員はカラフルな塗装を青で塗りつぶして目立たなくしました。

しかし、ここにある機体をよく見ると、表面の青が風化して
元の塗料が透けて見えます。 

JRS-1がこのようになってしまったのは、長年、
外部に放置しておいたことによる劣化だそうです。

先ほども書いたように、スミソニアン博物館は飛行機の保全と復旧を
今後予定しているようですが、飛行機というのは放置しておくとこうなります、
ということがある意味ものすごくよくわかるので、
これはこのままで置いておいたほうが展示としてよろしいのでは・・・。
いかんいかん、廃墟好きの血が騒いでしまった(笑)

ちなみに、上に貼り付けたwikiには、ここのJRS-1の写真とともに

「スティーブン・F・ウドバー・ハジー・センターでの復興中のシコルスキーJRS-1」

として、こんな写真が載っていますが、

このわたしが、2018年9月現在、全く作業に取り掛かる様子もなく
ボロボロのまま展示されていたことを力強く宣言しておきます。

・・・もしかしたらご予算の関係かなあ。

 

続く。


伝説の黒い鳥 SR-71 ブラックバード〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-09 | 航空機

スミソニアン博物館別館ことスティーブン・F・ウドヴァー-ヘイジーセンターに
入っていって最初に皆が目を奪われるのが、SR-71、ブラックバードです。

制作したのはロッキード社。

はて、そういえば、博物館に入っていってエントランスを進んで行くと、
そこに「ボーイング航空機ハンガー」とサインがあったはずなのに、
最初に出てくるのがピッツとヴォートとカーティス、そしてロッキード。

一つもボーイングなんてないんですが?

と不思議に思うわけですが、これはつまりこのハンガーそのものに
ボーイングが出資するなりして名前をつける権利を買ったのかもしれません。



ブラックバードは見るからに尋常でないスピードが出そうなイメージですが、
マッハ3の超音速で、しかも高高度飛行をする為に生まれた機体です。

戦略爆撃機として核を搭載するために計画された「ビジランティ」が、
冷戦が終わったので偵察機になった、というのを、わたくし、物知らずのため
無茶扱いしてしまいましたが、
偵察機というのは速ければ速いほど、そして
高ければ高く飛べるほど都合がいいので、機体は大きいことは強みにもなるのです。

さて、前回も書いたように、「ブラックバード」はエントランスをまっすぐ進むと、
階段の降り口から真下に冒頭写真のように展示されています。

この黒い鳥が放つただならぬオーラに心奪われぬ者はおそらくいないでしょう。

以前、キャッスル航空基地跡にある航空博物館で、博物館の外、
誰も他に人のいないところに無造作に放置してある機体を見たのが、
わたしとブラックバードの最初の遭遇でした。

感激して写真をそれなりに撮りまくり、ここでもご紹介しましたが、
所詮地面に置いてあるのを人の背の高さで見るしかない展示では、
いまいちその全容をお伝えすることができずもどかしい思いをしたものです。


が、さすがはスミソニアン、わかっていらっしゃる。
ブラックバードは上から見てこそ、その姿形に心から感動できるというもの。

ブラックバードに限らずとも、全ての航空機を、地上目線と上空からの目線、
両方で見ることができるのは、
航空博物館多しと雖もここだけではないでしょうか。

SR-71はここの目玉の一つなので、展示の仕方も効果的です。
この特殊な形の航空機の
機体に合わせて、床にライティングのための照明を取り付け、
こうすることで、黒い機体の下部も鮮明に見ることができるというわけです。

機体の横にもあるようですが、二階デッキから見る人のためにも説明がありました。

歴史的に見ても、グローバルに操作され、敵航空基地にとって完璧に
ノーマークであった偵察機はSR-71をおいて他にないと言えましょう。

完璧にノーマーク、これはこの機体に追求されたステルス性によるものです。

まず、この機体の色。
ブラックバードの名の通り黒ですが、黒は黒でもなんというか、
全体的にザラザラした、粉っぽい感じを受けると思いませんか?

この粉っぽさの原因は、塗料に含まれた鉄粉です。
フェライト系ステンレスというのは腐食しにくく、
かつ強磁性があり、放熱効果をもたらします。

この強磁性と機体の表面の鋸状、そして独特のヌメッとした外見は
レーダー電波を乱反射させる効果のために開発されました。

内側に傾いた垂直尾翼、機首のチャイン(船舶用語で張り出し、ボートの形)
なども、ステルス性を高めるための工夫の一つでした。

また、機体のどこを取っても曲面だけで構成されており、
かつ薄くて平たい形状をしているので、レーダーに発見されにくくなります。

エンジンの噴射煙もレーダー反射するので、ブラックバードは、
燃料に噴射炎を抑える添加剤を加える、
という徹底ぶりで、
当時としては画期的なステルス性を誇りました。

ブラックバードが沖縄に配備され、ハブ(蛇のあれ)というあだ名で
現地の人たちに呼ばれていた頃、しばしばブラックバードは
離陸してすぐに那覇空港のレーダーシステムから消失しました。

とはいえ、全く姿を消してしまうというわけでもないので、
ソ連からは結構な回数地対空ミサイル施設からレーダーロックされ、
実際にも4000発以上のミサイル攻撃を受けていますが、その運用期間、
ブラックバードは一機も被害を受けず、かすり傷一つ負いませんでした。

コクピットからミサイル攻撃を受けたあるパイロットは、
SR-71の速さと高さに追いつかず、遥か下方で爆発をするミサイルを見て、

「爆発というより縮小しているように見えた」

と語っています。

世界最速のジェット推進機として、ブラックバードの性能とオペレーション実績は、
冷戦時代の航空技術の頂点に達したといっていいでしょう。

ほとんどの航空機が、コストの関係で熱にさらされる部分だけしか
チタンを使用していないのに対し、SR-71は85%チタンです。
マッハ3で飛ぶと飛行機は高熱にさらされるからです。

ちなみに速度マッハ3というのが公称ですが、パイロットはしばしばこの
『スレッド(橇、ブラックバードの内輪の愛称』の限界を試し、
マッハ3.5までは出るということが確認されています。

 

ロッキード社は、機体のコストを抑えるために、より低い温度で
機体の素材を柔らかく合成する
技術を開発することに成功し、
このことは会社の素材技術を大幅に発展させる結果になりました。

それだけではありません。
1機1機手作りするための専用の工具・製造工程をまず研究開発し、
その他にも耐熱燃料、オイル、油圧フルード(油圧駆動液)・・・。

全てが40機のブラックバードのためだけにゼロから開発されました。


飛行機がマッハ3で飛ぶと、飛行機はひどい高温に晒され、
翼の前縁は
300℃に達しますが、その際、
ブラックバードの柔らかい機体は数インチは膨張したそうです。

熱された機体を冷却するのは、チャインのチタン表面の後ろ側で
燃料を循環させるという方法で行いました。
チタンが熱を持つので放熱効果のあるフェライト系の塗料が使われたというわけです。

継ぎ目の境界部にはゴム糊のようなシーラント(封止剤)が使われましたが、
ブラックバードの機体がマッハ3で飛んで一旦膨張してしまうと、
駐機しているときはもちろん、亜音速で飛ぶときも継ぎ目から燃料が漏れました。

しかももう一つ厄介なことに、チタンを溶接した継ぎ目部分は塩素に弱く、
機体を洗浄するのには蒸留水でないとだめだというのです。

つまりブラックバード、マッハ3で飛んでいる以外はずっと垂れ流し。
名実ともに実に不気味な飛行機だったということです(ごめん)。

というか、マッハ3で飛んでいる時がブラックバードの「本当の姿」で、
その他は仮の姿だった、ということができるかもしれません。

wiki

ここでブラックバードのコクピットをどうぞ。
後ろの背景から、スミソニアン別館のこの機体だとわかりますね。

ブラックバードはタンデム式で、あの大きな機体に定員2名です。
数だけ考えればコスパが悪すぎますが、悪いどころか、この二人には
育成のために莫大な国家予算が惜しげもなく注ぎ込まれていたので
費用対効果はまさしくプライスレスだったと言えます。

前席がパイロット、後席がフライトエンジニアで、操縦席と後席の距離は1.2m。
後席のエンジニアはカメラ、ラジオ、電子ジャミング機を操作します。

ブラックバードはたった40機しか製造されず、
このコクピットに座って操縦した者は史上33人しかいません。

あれ、数が足りないけど、一人で2機操縦した人がいたのかな?

ブラックバードの近くに、SR-71乗員のフライトスーツが展示されています。
コクピットは与圧されていますが、それでも高高度すぎるので、
乗員は加えて高度与圧スーツを身につける必要がありました。

万が一、機外に射出されることになった時のためでもありますが、
ブラックバードでベイルアウトなんて、どっちにしても助からなさそう。

ブラックバードはNASAでも研究のために所持していましたが、
そのスーツはまるでNASAの宇宙飛行士の着るようなものです。

スーツを一人で着ることはできず、着用には必ず介助を必要とし、
シートベルトすらも自分で付けることはできません。

しかも、着脱の際、急減圧が起こると、体外の空気の減圧により気泡が生じ、
血液の流れが阻害される潜水病と同じ「空気塞栓」が起こる可能性があるので、
潜水艇に乗り込む時にも同じようなことをしますが、SR-71乗員は
搭乗前に充分な時間を掛けて100%の純酸素を呼吸し、
血液中の窒素を追い出してからスーツを着用しました。

前にも書きましたが、一人で脱ぎ着できないスーツなので、
当然ながら生理的な問題はおむつで解決するしかありませんでした。

大戦中に「それ」を処理する管を機体に備えていたP-40の話をしたばかりですが、
アメリカの知恵を結集したこれだけの高性能の航空機であっても、
その問題を解決することには無関心だということです。

ただ、ブラックバードに乗組むような優れた人たちが、
生理的なサイクルを意思でコントロールできないはずはありません。

何十時間も飛ぶ飛行機ではないのだし、その問題なかった・・・・はず。

ブラックバードの乗員には特別なフライトスーツが与えられていました。
第1戦略偵察隊と名付けられたSRー71は、カリフォルニアにある
ビール航空基地から最初の飛行を行っています。

ご存知と思いますが一応言及しておくと、SRとは、

strategic reconnaissance(戦略偵察)

の頭文字で、空軍参謀総長だったあのカーチス・ルメイが、それまでの

reconnaissance/strike (偵察爆撃)=RS

という案を退けて命名したという経緯があります。

機体の形がプリントされたオリジナルスカーフ、胸には
「TOM ALISON」の名前とウィングマークも誇らしく。

トム・アリソン氏は、SR-71のオンライン・ミュージアムで、
講演会を行った1999年現在のお姿を見ることができます。

USAF Col. Tom Alison, SR-71 pilot

ちなみに現役時代のコロネル・アリソン。

ちょっとウケたのは、SR-71オンライン博物館のアドレスが

www.habu.org

であることです。

ブラックバードが最初に配備されたのは、沖縄の嘉手納基地でした。
米軍基地から飛び立つ異様な黒い飛行機を、地元の人が

「ハブ」

と呼んでいたという話は、おそらく彼らをひどく喜ばせたのでしょう。

SR-71は、嘉手納基地から北ベトナム、ラオスなどに週1-2回飛び、
偵察任務を行っていました。

ベトナム戦争が激化した1972年にはほぼ連日運用されていたといいます。

しかし、これだけ特殊性を持つ金食い虫(というか鳥)のブラックバードは、
アメリカ議会の槍玉に上がり、仕分けの対象になって実戦での運用から引退します。
この頃、人工衛星がそれに変わる偵察手段として主流になっていたことも、
ブラックバードの必要性に疑問が持たれる理由となりました。


その後、ブラックバードはNASAで各種研究に使用されていましたが、
1998年に正式に退役が決まり、1999年10月9日最後の記念飛行が行われました。

この時、アポロ計画の時の「フライ・ミー・トゥーザ・ムーン」の向こうを張って、
NASAと軍の関係者が

「バイバイ・ブラックバード」

を歌ったり演奏したかどうかは定かではありません(笑)

Julie London - Bye Bye Blackbird

ブラックバードの元パイロットはこのように「スレッド」を賞賛します。

「敵ミサイル、ミグ戦闘機を一機残らず振り切って、
我々をいつも無事祖国まで連れ帰ってくれた。
有人飛行開始から100年、これほどの名機はほかにない」


ところで朗報です。

ブラックバードを世に出したロッキード社の一部門であるスカンク・ワークスは、
現在、マッハ6で飛ぶSR-72を開発中で、
完成は2030年になるという話です。

マッハ6って、これ、人間が乗る必要ある?なんて言っちゃおしまいか。


SR-72もやはりブラックバードの名を受け継ぐどうかはわかりませんが、
(今度は”ハブ”なんていいんじゃないかな)
何れにしても次世代の伝説の誕生を楽しみに待ちたいと思います。

 

続く。

 

 


ピッツ、コルセア、キティホーク〜スミソニアン航空宇宙博物館

2018-09-08 | 航空機

スミソニアン航空宇宙博物館の展示について
いよいよお話する時がやってきました。

予告編?でもご説明した通り、スミソニアンの
航空宇宙博物館はワシントンの中心部にある本館と、
ダレス空港の近くにある別館で構成されています。

どちらも訪問してみて、当ブログ的には何と言っても
第二次大戦時の世界の航空機が充実している別館から
お話するべきだと思いました。

空港から約15分の距離にある別館。
昔は本館と別館の間をシャトルバスが運行していたそうですが、
今では空港と別館の間だけになっています。

こちらの建築についての言及は見つかりませんでしたが、
本館の建築を設計したのはギョウ・オバタという日系人建築家です。

経歴だけ見ても蒼々たる有名建築を手がけているのがわかります。
2018年現在95歳でまだ健在だそうです。

別館は15年前の2003年にオープンしました。
正式名は

スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター
(Steven F. Udvar-Hazy Center)

といい、スミソニアン協会に6500万ドルを寄付した人物の名前です。

ここを開けると、すぐに金属探知機があり、荷物検査を受けます。

ウドヴァー・ヘイジー氏はハンガリーのブダペスト生まれ。
12歳の時に家族と移民してアメリカにやってきて、
長じて飛行機のリースを専門とする

インターナショナル・リース・ファイナンス・コーポレーション (ILFC)

を創立し、CEOを勤めていた人物です。

別館のエントランスをまっすぐ進んでいくことにしましょう。
このエントランスの右手にはIMAXのシアターがあります。
ここで出発前に「空母のお仕事」というとてもわたし好みの映画を観ました。

正面には

BOEING AVIATION HANGAR(ボーイング航空機格納庫)

とあり、その上に皆様をお迎えするべく紅白の
非常におめでたい柄の飛行機が展示されています。

こ、これは・・・まるで旭日旗ではないですか。
さあ、旭日旗柄とみれば太陽にも文句をつける何処かの反日国の人、
スミソニアン博物館別館に今すぐ電話するんだ!

というのはもちろん冗談ですが、(あの人達は冗談通じなさそう)
当時ももちろんこの色柄で空を飛んでいたわけですね。

白黒写真のコクピットに女性の姿があります。

ピッツ・スペシャル S-1C リトル・スティンカー


スティンカーって・・・「臭い奴」って意味だよね?
もしかしたらスカンクとかを意味するのかしら。

それでは説明を読んでみます。

現存する中で一番古いピッツ・スペシャル「リトルスティンカー」は、
カーティス・ピッツによって作られた二番目の飛行機です。
ピッツが最初のS-1を世に出したのは1945年で、この一番機は
1960年代から1970年大の曲芸飛行のシーンで有名になりました。

その理由は機体が小型で軽量、回転半径が小さく、敏捷だったからです。
この後継型は現在でもエアロ飛行の現場で基本となっており、
その頃よりさらに進化した曲芸のトレーニングにも対応しています。

ところで、この写真の女性は誰でしょうか。

Betty Skelton Frankman Erde (June 28, 1926 – August 31, 2011) 

ベティ・スケルトン(フランクマンとエルデは彼女の二人の夫の名前)は

「初めてのファーストレディ」(First lady of firsts)

というあだ名を持つ記録マニア、いやホルダーでした。
見ての通り飛行機での記録だけでなく、テストドライバーとしての記録、
そして曲芸飛行士であり、スタントマンであり、ナレーターであり、
編集者であり、GMの広告のディレクターであり、
宇宙飛行士のテストも受けたという・・・・。

つまり、スピードに関するものならなんでもおk、という
文字通りのファスト(fast)レディだったというわけです。

彼女は宇宙飛行士の適性テストに合格しており、当時女性はまだ
宇宙飛行士に採用する計画がなかったので実現はなりませんでしたが、
マーキュリー計画の宇宙飛行士たちとは大変意気投合したようで、
彼らから「マーキュリー7」をもじって、

「マーキュリー7½」

と呼ばれていたといいます。
おそらく彼らからも「一目置かれていた」のではないでしょうか。
頭のいい人ならではのユーモア溢れる人物だったようで、
「リトルスティンカー」という名前も彼女の命名だろうと思われます。

ベティ・スケルトンはこの飛行機を1948年に購入し、49年度、
ならびに50年度の国際女性エアロバティック・チャンピオンシップで
見事優勝を果たしています。

彼女の飛行技術とその完成度はピッツのデザインと機能を
大いに世間に知らしめることになりました。

「リトル・スティンカー」は1951年に一度売却されましたが、
彼女と彼女の夫はこれをスミソニアンに寄付するために買い戻しました。

ボランティアが5年がかりでこれをレストアし、ここにあるというわけです。

ちなみにベティ・スケルトンは機体がここに展示された2001年、
看病中の最初の夫を亡くしましたが、2005年、79歳で、
海軍で外科医をしていたアラン・エルデ博士と再婚しています。

共に80代の夫婦は余生をフロリダのホームで過ごし、彼女は
髪の色と同じ赤いコンバーチブルを85歳で死ぬまで運転していたそうです。

「ミッドウェイ」のハンガーデッキの機体をご紹介したことがありましたね。

ヴォート F4U-1D コルセア

コルセアは、エントランスをまっすぐ進んで行くと目の前に現れます。
スミソニアン別館は、二階から入って行く作りになっていて、
このようにまるで空中を駆けているかのような状態で牽引されている
コルセアに目を奪われて歩みよると、いきなり眼下には
最初に来る人ならあっと声を出してしまうくらいたくさんの航空機が
所狭しと並んでいるという仕組みです。

誰が考えたか知りませんが、心憎い演出だと感心しました。

右手はこんな感じ。
わたしが思わずこの眺めに嘆声したのもお分りいただけますでしょうか。

しかもスミソニアン別館、この反対側にはこの約二倍のスペースが広がり、
正面にはそれと同じくらいのスペースシャトルの展示場が広がっているのです。

果たして飛行機の出発時間までに全部見終えることができるのか?
驚くと同時にに不安になってしまいました。

この画面でもお分かりのように、ハンガー状の展示場は、両脇に
緩やかなスロープになったデッキが設えてあり、地面の高さからだけでなく
上から航空機を眺めることができます。

さて、ここにあった説明を読んでみました。
いきなりV-J Day(対日戦勝利の日)という言葉が出てムッとします(嘘)

1945年9月2日のV-Jデーまでに、コルセアパイロットの日本機に対する
キルレシオは11:1というものでした。

ムッとはしませんが、どうしてもこういうのを見ると日本人としては
完全に平静ではいられない心のざわめきを感じてしまうの。

キルレシオというのは1機に対する彼我の損失率で、つまりこれは
コルセア1機で日本機を11機撃墜したという意味です。

 機体の独特かつ独創的な逆ガルウィングのデザインは地上高が高く、
3枚のブレードを持つハミルトン・スタンダード・ハイドロマチックプロペラは
4メートル以上の巨大なものでした。

プラット&ホイットニーR-2800エンジンとハイドロマチックプロペラの
組み合わせは、これまでで最も大きく、史上かつて存在した機体で
これほど強力な動力を搭載していた戦闘機は他にありません。

あのチャールズ・リンドバーグは、海兵隊エア・グループ31にいた時
太平洋上の日本軍の拠点に対し、このコルセアで爆撃を行っています。

そうだったんですか!?

リンドバーグは戦争でアメリカ軍兵士が行った酷い所業を見たらしく、
それを告発するような発言をしていますし、ドイツに知己が
(最近DNA鑑定でドイツに子供が三人いたことがわかった)いたせいか、
思想がドイツ寄りだったせいで、彼の戦功らしきものは現在のアメリカで
全くなかったことにされているんですよね。
アメリカのユダヤ人団体が運動したからだとか。

ところで今wikiを見てびっくりしたのですが、リンドバーグさん、
1970年の大阪万博の時に来日していたそうです。

戦前から二度目の来日だったことになります。

この飛行機は1944年7月当時、USS「エセックス」にあった、
海兵隊の近接航空支援戦闘機隊の「サンセッター」仕様にペイントされました。

近接航空支援(close-support fighter)とは、火力支援目的に
行われる航空作戦のことを指していいます。

そういえば、ここでご紹介したオヘア空港の名前になった
チャールズ・オヘアは、

「F6FはF4Uの相手にならない。F4Uこそが海軍最高の戦闘機だ」

と言ったとか言わなかったとか。

では『風が吹けばオヘアが儲かる』と言ったのは誰?←内輪受けネタ

冒頭写真に一緒に写っている関係でもう一機ご紹介しておきます。

カーティス P-40E キティーホーク

しかし、いろんなところでこのサメペイントを見ましたが、
さすがはスミソニアン別館、ここにあるキティちゃんの顔、
他のどこよりもちゃんとしていて上手いではないの。

手描きなので結構デッサン狂った不器量な子もいるんですよね。


ところでこのカーティスのP-40には「キティーホーク」の他に

「トマホーク」「ウォーホーク」

がその型番ごとにあるのを皆さんはご存知でしょう。
トマホークはご存知のようにインディアンの武器だった斧のこと、
そしてウォーホークは「タカ派」のこと。
それでは、キティーホークとは?

わたしなどにゃんこ関係か?とつい考えてしまったのですが、
なんのことはない、キティーホーク、地名です。
地名は地名でも、ライト兄弟が初めて飛行機を飛ばした場所ですが。

語尾を「ホーク」で統一しようとしたけど案外ネタがなくて、
そうだ、ライト兄弟の初飛行のあそこ、ホークがつかなかったっけ?
みたいなノリで決まった名称という気がします。


このホーク三兄弟は、いずれも航空機として第二次世界大戦の
前半期における成功を収めたと言ってもいいでしょう。

シャークマウスのトマホークは、中国大陸で日本軍と戦った
クレア・リー・シェンノート元帥の「フライング・タイガース」機として
最も大戦中有名になった機体です。

P-40のパイロット、ボイド・D・ワグナー大尉は、1941年の12月中旬、
フィリピンで日本機を6機撃墜して初めてのエースとなりました。

アメリカの媒体で「フライングタイガース」の記述を見ると、いつも
それが「真珠湾以前だった」ことが書かれているかチェックするのですが、
ここの展示も含め、それに言及されているのを見たことがありません。
意図的にそれはアメリカでは触れないことになってるみたいですね。

それから、あのジミー・ドーリットル少佐は自分専用機として
シェンノートにP-40を所望し、移動に使っていました。

ついでに「紫電改のタカ」のジョージの兄トマス・モスキトンも、
黒いウォーホークで滝城太郎に復讐するために・・
って誰も知らないか。


機体としてはごく平均的で変わったところのないのが特徴といえば特徴、
というP-40でしたが、その普通さが大量生産を可能にし、その結果
戦地に安定して送り出すことができたのも成功の一因のような気がします。

アメリカ人にはもしかして当たり前だったのかもしれませんが、
日本軍がこの飛行機を鹵獲しておそらく内心ショックを受けたのは、
飛行中にトイレができるように外に出せる蛇腹の管がついていたことだそうです。

戦闘機について詳しい方は、そのあたりの生理的なことを
日本機は全く顧みていなかったことも当然ご存知ですよね。

パイロット本人たちの生理的な苦痛もさることながら、
帰投してきた機の整備(掃除)をする整備員の苦労はいかばかりだったか。

最低限の人間工学を無視していいはずはないのですが、やっぱり
日本はそれどころではなかった、ってところに帰結するんでしょうか。

なんかやりきれんなあ・・・。

ここにある機体は1946年まで第111航空隊、カナダ空軍、
アメリカ空軍、個人と所有が移り、1975年にレストアされて
第75戦闘機隊、第23戦闘機群、第14空軍で飛び続けました。

最後の第14空軍は、空軍予備役の部隊です。


さて、この階段を降りていったところに、最後の写真にもちらっと見える
あの航空機が、その存在感も禍々しく(ごめん)存在しています。

 

続く。


「フリート・エンジェル(艦隊の天使)」ヘリ部隊〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-09-01 | 航空機

 

空母「ミッドウェイ」フライトデッキ上の艦載機、
前半に引き続きヘリコプターをご紹介しています。

CH-46 シーナイト(Sea Knight) ボーイング・バートル

この辺になってくると、現行のCH-47にそっくりになってきます。
解説には Vertical Replenishment Helicopterとありますが、
これを直訳した「垂直補給」とは、ヘリからロープで荷物を牽引し、
そのままそれを他の艦船などに積むような補給法のことで、

VERTREP(ヴァートレップ)

と簡単に呼ばれているそうです。
ヘリなら当たり前のこの方法ですが、ヘリコプターが登場した後、
この補給方法は船と船を接舷しなくてもできる画期的なものだったのです。

コロンブスの卵というのでしょうか、この当たり前だが画期的な方法を
最初に試みたのはUSS「サクラメント」で、1964年のことでした。

この時「サクラメント」は2台のCH-46 シーナイトを導入し、
燃料や弾薬を「サクラメント」から最大100マイル離れた他の船に
配達することが可能となりました。

ヘリコプター戦闘支援艦隊8号機の「ドラゴン・ホエール」搭載の
MH-60Sナイトホーク・ヘリコプターが、USS 「ハリー・S・トルーマン」
弾薬船USNS 「マウント・ベイカー」の間を飛行し、VERTREPをしているところ。

誤解のないように断っておきますと、ヘリがたくさんいるのではなく、
これは分解写真で一機のヘリの動きを表しています。
海上の様子を見るとどちらもが航行中であることがわかりますね。

 

VERTREPによる補給は従来の方法と比較して、操縦の自由度が高く、
吊り下げのためのラインを補強しさえすれば、時間の損失は最小限ですみます。

冷戦時に行われたあるVERTREPによる補給作業は、受け取る側の駆逐艦が
ソビエト潜水艦との接触を維持している間に達成されたということです。

このCH-46シーナイトはVERTREP用に開発されたので、
わざわざこんな名前がつけられているのだと思われます。

エンジンは、重量のある積荷を航行中の船舶に
補給するのにパワーアップしたものが2基搭載されました。

中を公開しており、内部に入って座ることもできます。
折しもちびっこの団体が搭乗中だったので遠慮しておきました。

シーナイトは人員輸送のための「フリークェント・ビジター」として
頻繁に空母に着艦を行いました。

クルーは3人、17名までの乗客を運ぶことができます。
シートの赤は元々の色でしょうか。

時間があったら中に乗って、コクピットの写真を撮ったのですが。
次に訪問することがあったらぜひその時には・・・。

後ろのハッチだけでなくコクピット側の入り口も階段がつけられ、
入っていくことができるようになっていました。

日本では川崎重工業が1965年(昭和40年)からライセンス生産し、
各自衛隊でKV-107として採用された他、警視庁や民間向けに販売し、
政府による武器輸出三原則が発表されるまで海外への輸出も行っていました。

自衛隊向けの機体は「しらさぎ」との愛称が付与されていましたが、
ほとんど「バートル」と呼ばれていたようです。

陸上自衛隊で導入したバートルは日本航空123便墜落事故にも出動し、
生き残った乗客を救出する姿が報道され、有名になりました。

この後継機が現行のCH-47J/JAです。

航空自衛隊は最も最近まで「バートル」を運用してきました。
UH-60Jに置き換えられることになり、2009年、平成21年11月3日、
浜松救難隊の最後の一機が入間基地の航空祭でラストフライトを行ない退役。

ちなみに2008年公開の映画「空へ-救いの翼 RESCUE WINGS-」では
この機体が飛行・離着陸を行なっているシーンが見られます。

海自も9機だけ、機雷掃海ヘリコプターとして導入しています。
MH-53E シードラゴンに置き換えられ1990年(平成2年)全機除籍されました。

父ちゃんが子供にヨタ教授(たぶん)をしているの図。
よくしたもので、たとえ間違っていても子供は片っ端から忘れてくれます。

ところで、この機体もうすっかり既視感があるんですけど。
陸自のUH-1ヒューイそっくりではないの。

と思ったらそれもそのはず、UH-1ヒューイそのものでした(笑)
説明の看板には

UH-1 ヒューイ ガンシップ 攻撃ヘリコプター

とあり、HA(L)-3、「シーウルヴス」(海の狼たち)
というヒューイ部隊のマーク(よく見ると青い狼)がノーズに描かれています。

このマークは、著作権の関係でここには載せられませんが、ドイツのビール
レーベンブロイのライオンを参考にして作られました。
レーベンブロイとは向きが違いますが、ちょっとだけ似ています。
ちょっとプジョーのマークにも似ていますかね。
青い狼が携えているのは海軍を表す「トライデント」(もり)です。

 

ところでちょっと待って、ヒューイってアメリカ軍はアメリカ軍でも
陸軍のヘリだよね?

なんでここにあって、海軍の部隊が運用しているの?
と思った方、あなたは鋭い。

 

ここで、「ガンシップ」なるものについて説明をしておきます。

ところで「ガンシップ」というとどんなヘリを想像します?
やっぱりAH-1コブラの名前が筆頭に上がるのではないでしょうか。

陸上自衛隊でもヒューイは多用途ヘリとして認識されており、
決してガンシップと呼ばれるものではないことはご存知の通り。

もともとガンシップとは読んで字のごとく、「砲艦」を意味する海軍用語です。
現在海軍では大型河川などに配備される喫水の浅い軍艦を指しますが、
どちらかというと攻撃用ヘリという意味でよく使われているようです。

攻撃用ヘリ=ガンシップの定義は、

「輸送機の機体を流用して開発した局地制圧用攻撃機」

ということになり、ベトナム戦争がきっかけで生まれた概念です。
朝鮮戦争で本格的に導入され始めたヘリコプターですが、あくまでも輸送が目的で、
ベトナム戦争初期もその役割は輸送と偵察の他、

VERTREP(ヴァーティカル・リプレニッシュメント、垂直補給)

SAR(サーチアンドレスキュー、救難)

MEDEVAC (メディカル・エヴァキュレーション、負傷者搬送)

などに止まっていました。
程なく海軍は対潜戦にヘリコプターを導入すると同時に
魚雷の搭載を始めますが、対地攻撃に対しては固定翼機にお任せの状態でした。

1965年ごろ、戦線が激化したためメコン川などの作戦に参加することになった
アメリカ海軍は、

「ブラウンウォーターネイビー(河川などで戦う海軍)」

となることを(行きがかり上)余儀なくされます。

最初、ブラウンウォーターネイビーとなったアメリカ海軍は、
ガンシップヘリを所有する陸軍第145大隊の支援を受けていました。

この陸海共同軍は「ジャック・ステイ作戦」で、メコン川流域の
南ベトナム解放民族戦線のゲリラ討伐を一応成功させはしました。

しかしながら終わってみれば、やはり餅は餅屋っていうんでしょうか、
たとえば昼夜を問わず艦船に離着艦を行うような場面では、
陸軍のパイロットとエアクルーにはそれちょっとキツイ、
みたいなことが多々あったらしいんですね。

それは陸軍のパイロットとクルーが艦船を使ってのミッションの専門的な訓練を
全く行っていなかったことからくる問題だったようです。

そこで生まれたのが、ヘリコプターガンシップを運用する海軍航空隊、
ヘリ戦闘支援第一部隊(HC-1)、通称「フリート・エンジェル」でした。

使用したのは2機の陸軍のUH-1Bヒューイ、もちろんガンシップ仕様です。

「ミッドウェイ」フライトデッキ上の「艦隊天使」は、当時の武器を搭載した
ガンシップ仕様のUH-1がそのままに展示されています。

これらガンシップはブラウン・ウォーター・ネイビーを近接航空支援し、
迅速なる敵地攻撃を効果的に行いました。

需要が飛躍的に増えたガンシップ部隊を海軍は増強し、当初のHC-1部隊は
4つの部隊に分割され、

ヘリコプター戦闘支援部隊3(垂直補給)

ヘリコプター戦闘支援部隊5&7(救助)

そして

ヘリコプター攻撃部隊 (Light) 3

つまりHAL-(3)シーウルブスとなったというわけです。
シーウルブス結成にあたり、海軍は海軍内にパイロットの志望を募りました。
志望者の中から80名が選ばれ、ベトナムに1年後から配置されています。

シーウルブスのデビュー戦?は1966年10月31日、
まだ部隊が分割される前のことで、ベトコン兵士を搭載した
80隻以上のボートに遭遇した2隻の海軍艦船の指揮官が要求した
緊急航空支援(CAS)にこたえた時です。

シーウルブスはスクランブル発進して約15分以内に現場に到着すると、
たちどころに16隻のボートを沈没または破壊したとされています。

HA(L)-3はその後も偵察、医療避難(MEDEVAC)、あるいは
ネイビーシールズの輸送と撤収というミッションをこなしました。

1972年3月16日に解隊となるまでの間、ベトナムとカンボジアでの
シーウルブスの飛行任務は実に12万回に及びました。

これらの戦闘を通して200人以上のシーウルブス隊員が負傷し、
そのうち44人が戦死しています。

コクピットドアに書かれた LT JG MARTIN COYNE、コイン中尉は、
ラインオフィサー(実務に関わる士官)たるパイロットとしてHAL-3、
おそらくMEDIVACを行なっていたシーウルブスののパイロットだったのです。

海軍の物故者名簿には、彼が2006年に64歳で亡くなったこと、
「Other Comments:」として、2007年1月、彼の妻は
カリフォルニアのサンディエゴに繋留してある
「ミッドウェイ」の
シーウルフUH-1Bの機体に夫の名前を記した、
と書かれています。

 

ところで、最初に海軍が運用しだしたヘリ部隊の名前、「艦隊の天使」
=「フリート・エンジェル」は、やっぱりヘリのローターを
「天使の輪」に見立てたネーミングなんでしょうね。

 

続く。

 


アップサイドダウン・シーキング〜空母ミッドウェイ博物館

2018-08-31 | 航空機

空母「ミッドウェイ」のフライトデッキ訪問、この辺で
回転翼機のご紹介に移りたいと思います。

まずは名作対潜ヘリコプター、

SH-3 シーキング(Sea King )シコルスキーエアクラフト

20年以上にわたって、シーキングは海軍にとって最も有能な
対潜ヘリコプターとしての位置を締めてきました。

ユニークなボートシェイプ機体は、非常時にはたとえ平坦でない
洋上のポンツーンへの着地も可能としました。

パワーがあって安全性に富んだシーキングは、その用途の可能性を
大きく広げ、本来の任務である救難救助や掃海の他にも、
大統領専用ヘリ「マリーン・ワン」に指定されたり、あるいは
アポロ計画で宇宙飛行士を回収するという場面にも活躍しました。

右舷?から見たシーキングのノーズ。

強力なタービンエンジン双発の大型機に変わったことで、これまで
捜索役と攻撃役の2機(ハンター/キラーチーム)で行っていた対潜作戦が
これ一機でで行えるようになった画期的なヘリコプターです。

開発段階で艦載機を想定していたため、メインローターブレードや
尾部のテイルブームなどは折りたたむことができる構造です.

この写真には写っていませんが、胴体の左右には「スポンソン」という
物入れにもなる部分があり、そこには膨らませるとドラム缶2個くらいの
大きさのエアバッグと、酸素ボンベが入っています。

万が一海に落ちた場合はエアバッグが膨らみ、しばらくは浮いているので、
その間に脱出するのです。

「ミッドウェイ」ではシーキングがタキシングの時にタイヤのブレーキが
故障して止まらなくなり、仕方なく浮上したら、次にローターが止まって
海に墜落するという事故が起こったことがあります。

乗員(4人)が海に浮いた機体から脱出するためにローターの止まるのを
待っていたところ(ローターが回ったまま機体が傾いたら危険)、
機体がくるりと回転して逆さまになってしまい、乗員はすぐさま離脱、
全員が別のヘリにホイストされて助かりました。

パイロットには全く責任のない機体の故障による事故です。
先般墜落した陸自のアパッチ・ロングボウ(貴重なアパッチが・・)の場合も、
目撃証言によるとローターが分離したとということで、
操縦ミスではないらしいことになっていますね。

機体の不具合で起こるミスによる乗員の死亡は、
自分ではどうしようもないことだけに、整備や点検の段階で
防ぐことはできなかったのかと残念でなりません。

チャック・スマイリー、という名前からコメディアンしか想像しなかったのですが、
意外とこんな人でした。

この写真は、スマイリー少佐が海に着水したカプセルから
アポロの宇宙飛行士を回収した時のものらしいです。

写真では確認しにくいですが、ヘリのノーズには「66」と書かれています。
敬意を評してのペイントでなく、ここにあるヘリが、これだけの
アポロ計画で着水したカプセルから宇宙飛行士を回収したのです。

機体にはアポロ13と記されたカプセルも描かれています。

日本では海上自衛隊が三菱によるライセンス生産で対潜哨戒機HSS-2を
1964年から「ちどり」という名前で運用していました。

先ほど事故の話をしましたが、日本で運用していた間にも、
HSS型ヘリは決して少なくない回数の事故を起こしています。

SH-3シーキング Wikipedia

最初の事故の1967年から1996年までの間に通算20回、
21名もの尊い命が失われました。

昨今のヘリの事故の多さ、そして安定した機体と言われた
シーキングにおけるこの殉職者の数を見ると、ヘリコプターが
決して一般人の交通手段として広く普及しない訳がわかります。


HO3S ヘリコプター シコルスキーエアクラフト

戦後すぐの1946年から海軍はこのHO3Sを最初の海軍機に指定し、
広範囲の任務に導入をし始めました。

固定翼機のようにカタパルトを必要とせず、ピンポイントで
洋上の船舶にも降りられることから、空母だけでなく
戦艦や巡洋艦にも航空機を搭載することができるようになったのです。

これはもう海軍にとって天の恵みという他ない進化で、
ヘリをそれでも使用することは決して少なくない事故の確率を考慮しても
それを補って余りあるメリットがあったということでもあります。

このHO3Sは海軍向けに作られたR-5の派生形で、
全部で88機生産されたうちの一機です。

にしても、なんだか変なキャノピーだなと思いません?
これではパイロットは外が見えないではないの。

なんの説明もないので想像するしかありませんが、展示に当たって
キャノピーの破損した機体しか残っていなかったので、
仕方なくこんなカバーを制作したのかもしれません。

多用途ヘリ HUP レトリーバー(Retriever)

HO3Sの形と似ていますが、こちらはパイアセッキ社です。
このころのヘリコプターというのは黎明期だったせいか、
結果として同じような形になってしまった感があります。

「パイアセッキ」という名前については前にもお話ししたことがありますが、
創業者のフランク・パイアセッキから取られたもの。
ポーランドにある名前で正確には「ピアシェキ」と発音するようです。

そしてこの名前のレトリーバーって犬の種類なんじゃ?と思った方、
その通りで、この名前は猟犬を意味するレトリーバーからきたものです。

1949年に採用され、救難や輸送などの目的で空母に搭載されました。

エンジンは、M4中戦車シャーマンと同じ

Continental R975 C4
4ストローク星型 9気筒空冷ガソリン
400 HP

が搭載され、パワーを重視した作りです。

パイアセッキ社はその後「バートル・エアクラフト」と社名が変わり、
さらにボーイングに買収されて「ボーイング・バートル」になりました。

自衛隊でも装備されていたおなじみ「バートル」はこの会社の製品です。

「ミッドウェイ」に関わった艦載機パイロットなどの
名前と共にちゃんと装備を身につけたマネキンがコクピットにいて、
現役時代が想像できるように展示されているのがさすがです。

今まで見てきた中で、もっともお金と手が掛かっている博物艦だと思います。

マネキンが座っている位置を見て、レトリーバーが他のヘリと違う、
ともし思った方がいたら、あなたは大変ヘリに詳しい方です。

 HUPレトリーバーはご覧のように左側にパイロット席がありますが、
(普通のヘリはそうではないらしい)レスューハッチが
コクピットにある関係でこうなっているのだそうです。

確かP-3Cは左がパイロット席だったと思いますが、
ヘリは違うんですかね。

1960年代には後継機としてUH-2シースプライトに、
そしてHUPの成功により評価を得たタンデムローターは
のちのCH-46シーナイトに受け継がれていくことになります。

中が良く見えるように公開してくれていました。
背中のシートがキャンバス地を貼っただけって・・。
CH-47に乗ったことのある方が「決して乗り心地は良くない」と
断言しておられましたが、その意味がよくわかります。

でたー!おにぎり!・・・じゃなくて、

対潜ヘリ H-34 シーバット(Seabat )

ノーズの下部に布が貼っていますが、これも修復の跡かな。

対潜水艦にヘリを使う、という思想は当然戦後生まれですが、
その中でも対潜武器としての嚆矢となったのが当機です。

1950年代からヘリコプターを対潜に用いることが試みられ、
任務に耐えうる強力なエンジンとして選ばれたのが

ライト社製 R-1820 ピストンエンジン サイクロン9

でした。
B-17フラインングフォートレスなどの大型機やドーントレス、
ワイルドキャットなど戦闘機にも搭載された第二次大戦中のエンジンです。

対潜用のシーバットにはディップソナーも搭載されています。

かっこいいかと言われると答えに困る、どちらかというと不気味なシェイプです。
なんかの稚魚みたい。

シーバットはマーキュリー計画の時に宇宙飛行士を海から回収して
有名になったそうなので、おそらくその時のパイロットが
ジム・カーソン大佐なんだと思いますが、海軍にはこの名前の大佐が
たくさんいると見えて、検索してあまりにもたくさんの人が出てくるので
特定は諦めました。

カマン・エアクラフト SH-2 シースプライト(Seasprite) 

シコルスキー、パイアセッキときてカマン。
ヘリ製造会社の有名どころから、代表的なヘリが一つづつ出揃いました。
これにヒラーが加われば完璧なんですが。

ところで皆さん、スプライトの意味が「小鬼・ゴブリン・妖精」だったってご存知でした?
わたしは子供の時からスプライト=清涼飲料水のイメージしかなかったのと、
スプラッシュという言葉のせいもあり、

スプライト=「しゅわしゅわっとした泡的なもの」

だと思い込んでいました。

シースプライトはつまり「海の妖精」です。
(ゴブリンかもしれないけどここは綺麗にまとめて)

ジェット・タービンエンジンを積んだヘリのパイオニアで、
最初から海軍のために設計・製造されました。

多用途ヘリとして開発されたシースプライトですが、対潜用ソノブイ、
レーダー、磁気検出器(magnetic detector)、魚雷を装備することができ、
そのコンパクトな機体は駆逐艦に搭載することで、機動部隊の
対潜防御に大きな役目を果たしました。

ちゃんとここにも人がいます。
シースプライトの場合は操縦席は右側になるはずですから副操縦士?


しかしこのコクピットは狭そうだ・・・・。

多用途ヘリとしてシースプライトの主たる役割は、対潜戦のほか、
対地戦闘、および対艦ミサイルからの防衛と敵艦の監視などです。

また、その他にも、救急輸送、捜索救難、人員や貨物の輸送、
小型艇の撃退、水陸両用作戦の援護、火砲の目標指示、機雷の発見、
攻撃成果の評価など、多岐にわたる役割をこなしました。

 

続く。

 

 

 


フライトオペレーションと空母「フォレスタル」の事故〜「ミッドウェイ」博物館

2018-08-20 | 航空機

空母「ミッドウェイ」飛行甲板の展示をご紹介しています。

正面から見るとピエロの顔みたいでいまいちかっこよくない、

A-7 コルセアCorsair II

は、アメリカ海軍が初めて導入した軽爆撃機(艦上攻撃機)です。
1967年以来ベトナム戦争から1991年の「砂漠の嵐作戦」まで活躍しました。

この独特なデザインのため、いろんなあだ名があったと言います。

「ザ・ハーレー(The Harley)」

「スラッフ(SLUF )」

「ザ・ゲーター(The Gator)」

SULFは Short Low Ugly Fellow、「チビのアグリーな奴」の意味で、
これがパイロットの間では一番ポピュラーな愛称だったようです。

「誰がSLUFって呼んでるって?」

あるコルセアIIのノーズ(ボディかな)ペインティング。
ハーレーというのはあのハーレーダビッドソンのことでしょうか。
「ゲーター」はアリゲーターのことで、甲板のスタッフが主にこう呼んでいました。

確かにコルセアII、どことなくワニを思わせるシェイプをしています。

wiki

ノーズ下のインテイクという発想はF-8「クルセイダー」からきています。
自慢ではありませんが、機体音痴のわたしなどは今でも時々両者を混同します。

見分け方は、インテイクが分厚いのがコルセアII、薄いのがクルセイダー。

機体の近くにボマージャケットが夏場にも関わらずかかっていました。
音響装置のようなので、ボランティアでトークをするベテランの私物でしょうか。

もしかしたらもうすぐイベントが始まるところだったのかもしれません。
テントの下には何人かがトークショーの始まりを待っているようでした。

残念ながらわたしは時間がないのでイベント関係は全てパスです。

このコルセアIIは、空母「コンステレーション」CVA-64
艦載機であったことがペイントでわかります。

コンステレーション(Constellation)というのは星座という意味ですが、
アメリカ国旗の星を表す言葉でもあります。
事実上「アメリカ合衆国の旗艦」だった「コンステレーション」の
艦載部隊だったVA-97「ウォーホーク」のテールコード「NH」が見えます。

テールコードとはアメリカの軍用機の垂直尾翼に記される
機体認識のためのイニシャルで、2つのアルファベットからなり、
機が所属する基地と、部隊マークからなる所属部隊を表す形で構成されます。

例えば横田エアベースの所属機は「YJ」で、「J」はおそらくジャパンを意味します。
二文字で基地を表さなくてはならないため、法則はかなりランダムで、
例えば、

AF エア・フォース・アカデミー

RA  ランドルフ・エアベース

のようにそのものがあれば

NV レノ・タホー (ネバダ)
OH  スプリングフィールド(オハイオ)

のように州名からの二文字のこともあります。
そうかと思えば

SA ロックランド・エアフォースベース(テキサス)

のように一体どこから取ってきたのか謎(多分TECKI-SA-S)なものも。

この「NF」は、VFA-97が海軍航空基地(NAS Lemoore)所属ということで
「ネイビー」とエアフォースの「フォース」から取ってきたのではないかと
わたしは推測してみたのですが、本当のところは知りません。

どなたかご存知でしたら是非教えてください。

 

ウォーホーク部隊はコルセアIIでベトナム戦争に参加し、ここでもお話しした、
アメリカ人とベトナム人を崩壊時のサイゴンから救出する大作戦、

「オペレーション・フリークェント・ウィンド(頻繁な風)」

に参加し、その支援を行なっています。

wiki

空母「ミッドウェイ」乗組で横須賀勤務も経験したアメリカ海軍下士官、
ジロミ・スミス氏の著書「空母ミッドウェイ」には、ある日ミッドウェイに着艦した
物資輸送のヘリから「ものすごい美人」なパイロットが降りてきて、
彼女がトイレを使用している間、前に立って見張りをしていたという話が出てきます。

今では普通に女性軍人が勤務している米海軍空母ですが、当時は男だけでした。
しかし、輸送艦などにはすでに女性の乗員が勤務していましたし、
コルセア IIの戦術電子飛行隊にはご覧のように女性パイロットもいました。

彼女らの後ろは間違えようのないインテイクの形をしたコルセアIIです。

ところでコルセアIIはよく見るとカタパルトに乗った状態で展示されています。

カタパルトとはご存知のように航空機の射出機ですが、
これは甲板に二箇所設置されている油圧式のH4-1型の一つとなります。

カタパルト発進するF/A-18

F/A-18 Hornet Catapult Launch - USS Nimitz

現在の空母上でのフライトオペレーションの様子です。
ところで、これも観ていただけますか。

Foreign Object Debris Walk-down On Supercarrier USS George H.W. Bush

色とりどりのシャツを着た人々が、甲板の上をぞろぞろといった感じで歩いて行きますが、
これは決して朝の朝礼に向かうところでも、ウォーキングしているのでもありません。

「FOD Walk Down」(フォッド・ウォークダウン)

といって FODとは

「Foreign Object Debris」

つまり簡単にいうと、ゴミ拾いのために甲板を歩いているのです。
空母ではフライトオペレーションの準備として必ずこの作業を行います。
フライトの前に、数十人から100人単位が、フライトデッキの艦首から艦尾まで
一列になって(この映像では参加者が多いので三列以上になっている)
下を見ながら歩いて落ちている小さなゴミを拾って歩く作業です。

どんな小さなゴミ、例えばネジ一本でも、耳栓でも、コインでも、
残っていて艦載機のエンジンに吸い込まれると大事故に繋がるからです。

このウォークダウンには、声がかかった時に甲板にいる者が
問答無用で全員参加しなくてはなりません。
天気が良いと、ウォークダウンは一休みの口実になるので、
フライトデッキ以外からも集まってきますが、寒い日や雨や雪が降っていると
誰も出て来ないので艦長が直接命令をする羽目になることもあります。

こういう時には、イエローのシャツを着た「ハンドラー」(航空機の移動を取り仕切る)
のためのパシリである歩兵部隊の水兵たちが、目の色を変えて
艦内を除いて周り、参加していない人たちを引きずり出して参加させるのです。

ちなみにこのパシリは「ハンドラー」から絶対の権限を与えられ、
ハンドラーの命令以外では一歩も動かず、やたらと威張っていたとか。


着艦では機体が甲板にタッチダウンした途端、フックがアレスティングワイヤーに掛かり、
艦載機が驚くほど急激に停止する様子がご覧になれます。

タッチダウンの瞬間、艦載機はパワーをフルにします。
ワイヤーは全部で3本ありますが、その全部をミスしても、
すぐにもう一度飛び立ち再びアプローチに向かえるようにです。

しかしほんの稀に、このパワーを失速させてしまい、
フックをかけることもできずに海に墜落する事故も起こります。
今は知りませんが、少なくとも「ミッドウェイ」では、
夜間着艦アプローチをして着た早期警戒機E-2がフックを引っ掛けず、
何を思ったかその瞬間パワーを落としてしまったため、
夜間の海に墜落するという事故が起こったことがあります。

E-2「ホークアイ」はご存知のように背中に大きな円盤を背負っており、
海に落ちた時、海上にはこの円盤だけが見えていたそうです。

おそらくこの円盤の浮力だけで機体は数十分浮いており、この間
プレーンガードのため飛んでいたヘリがホバリングを続け、
「ミッドウェイ」からはSAR(サーチ・アンド・レスキュー)隊員が
飛び込んで救出作業を行いましたが、7名の乗員のうち2名は
機体と共に暗闇の海に消えていったということです。


ビデオでは着艦の後、発進のシーンが見られます。
2:18~で、発進するF/A-18の後ろに鉄板が立ちあがります。

これはジェット・ブラスト・ディフレクター、JBDといい、
「ミッドウェイ」の時代にも同じように稼働していたものです。

フライト・オペレーションでは次に飛ぶ艦載機は後ろで待機していて、
前の機が発進しJBDが閉まるとカタパルトまで移動し、発進を行います。

 

この映像ではそんな風に見えませんが、昔も今もフライトオペレーションは
大変危険な事故が起こりうる時間で、たとえどんなに完璧にオペレーションが
行われたとしても、事故を完全に防ぐことは不可能だといわれています。

 

例えば「ミッドウェイ」でも、まさにこのカタパルトからF-4が発進した時、
先端のウォーターポンプが破損し、同時に艦先端がすっ飛んで
カタパルト前部がめちゃめちゃに壊れたという事故がありました。

この時に破損して飛び散ったデッキの破片がインテイクに吸い込まれ、
そのせいで「ファントム」は海に真っ逆さまに落ちていったそうです。


しかし、空母のフライト・オペレーション史上、最大かつ最悪の事故は
1967年7月29日、
空母「フォレスタル」で起きた「F-4誤射事故」でしょう。

発進を待つ「ファントム」から、なんと誤ってミサイルが発射され、
デッキの反対側にいた A-4「スカイホーク」の燃料タンクに命中、
大爆発を起こし、燃料満載で待機していた他の艦載機に誘爆してしまいました。

ちなみにこのスカイホークはあのジョン・マケイン大佐の機だったそうです。
機体にミサイルが命中したのによく大丈夫だったなと思うのですが、
マケインはすぐさま脱出し、爆発と火災が広がっていたので、
治療を受ける前に爆弾を海に投棄する手伝いを行なったと自伝で述べています。

(あかん・・・・)

この時のドキュメンタリーがヒストリーチャンネルで制作されています。

USS Forrestal Fire 1967 (extract from History Channel Documentary)

F-4のパイロットがスイッチを入れた途端、ちゃんと装着されていなかった
セイフティピンが外れて、(強風で外れることがあった)ミサイルの発射装置が
アクティベイトされ、A-4に命中。
燃料が甲板に広がり、爆発の瞬間、27名が死亡しました。
その中には、消火活動を行なっていた消防隊の指揮官も含まれていました。

それから4分の間に6つの爆弾が爆発し、火災を引き起こして、
さらに91名が死亡。
18人の遺体はついに見つからなかったということが述べられています。

こちら海軍が製作した長めのドキュメンタリー、というか「啓蒙ビデオ」。

Trial by Fire: A Carrier Fights For Life (1973)

4:00くらいから実際の甲板上の映像、爆発の瞬間と火災、
その凄絶な現場が淡々と映し出されます。

12:20ごろには総員による必死の消火作業が写っていますが、
小爆発を繰り返す地獄のような甲板で、ホースを抱えて
突進していく乗組員たちの姿には涙が溢れてしまいました。

このタイトル「ラーン・オア・バーン」(学ぶか燃えるか)は、
消火活動を行う部隊の教育のために作られ、海軍では全員が
必ず観ることを義務付けられています。(多分今でも)

一次火災を消火するために現場にいた消防士が
ほとんど最初の爆発に巻き込まれて死亡してしまい、
残りの消火活動は訓練が十分でない乗員が行うしかなかったこと、
火災の消火のために水を掛けたため、それによって燃料が広がり、
火災を下の階に広げたことなどが教訓として残されました。

「フランクリン・ルーズベルト」

この事故を受けて、全てのアメリカ空母には「デッキ・エッジ・スプレー」、
全甲板を水、あるいは泡で洗い流す消火システムが搭載されました。


それから蛇足ですが、この事故の原因がなぜかA-4のパイロットであった
マケイン大佐の「ウェットスタート」のせいであり、父親が提督であった
マケインのミスを隠すために海軍が情報を捏造したという説が流れているそうです。

どうしてミサイルをぶつけられた艦載機のパイロットに責任があるのか、
全くこの事故に詳しくなくとも理解できないデマの類だというしかないのですが、
どうもマケイン・シニア議員を貶めたい民主党支持派が流しているようですね。

北朝鮮のミサイル発射は安倍首相がやらせている!に始まって、
獣医学部がオープンするのも、官僚がセクハラを行うのも、
ポストが赤いのも、安倍が悪い!アベガー!

と主張している人たちをなんとなく思い出してしまいました。


防衛団体で以前「ロナルド・レーガン」を見学した時、
引率をしてくださった元海幕長が、

「過去幾度となくあった事故を教訓とし、困難を乗り越えて、
アメリカ海軍は今日の空母を作り上げた。
空母はその知恵と、努力と長きにわたる研鑽の賜物です」

と言っておられたのが忘れられません。

敗戦によって断絶した我が国の空母の系譜ですが、今後「いずも」が
カタパルトを先端に搭載した固定翼機艦載空母となった時、
その運用技術のほとんどは、アメリカが何十年もの間に亘り血の汗を流して
築き上げてきた「先人の知恵」に多くを負うことになるのでしょう。

その時にはそれを真摯に受け止め、アメリカ海軍の空母史において
安全の礎となった軍人たちの犠牲にもぜひ思いをいたしてほしいと思います。

 

 

続く。


MiGマスター・クルセイダー〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-08-16 | 航空機

もう一度空母「ミッドウェイ」フライトデッキ上の航空機紹介に戻ります。

ご覧のように、艦橋をバックにしたナイスな角度で写真が撮れる位置に、

Vought F-8 「クルセーダー」Crusader 

があります。

アラメダ旧海軍基地跡に展示繋留してある空母「ホーネット」上で
初めてこの飛行機にお目にかかった時以来、この名作機について
その誕生がチャンス・ヴォート社の「救世軍」となったことなど、
色々とお話したきたものです。

クルセーダーに何かしら歴史的な意味があるとすれば、それはこれが
世界最初の音速艦上戦闘機であったことでしょう。

「ミッドウェイ」から発進しようとしている2機のF-8。
どちらもカタパルトから発進するためのワイヤーが下部に見えていますね。
当時「ミッドウェイ」のカタパルトはパワーアップしたばかりでした。

F-8が「ミッドウェイ」にいるということは、これはベトナム戦争の頃です。
このころの「ミッドウェイ」戦闘機隊は

F-4B(ファントムII)戦闘飛行隊
F-8C/D(クルセイダー)戦闘飛行隊

だった、と過去の自分のブログに書いてありました(笑)

ただ、「ミッドウェイ」の場合、ファントム部隊のMiGバスターぶりが凄すぎて、
同じ時期に「ミッドウェイ」から発進して戦闘をしていたF-8部隊は
残念ながら少し霞んでしまったのか、検索しても記述が出てきません。

 

記録によると、最初に北ベトナム軍のMiGと戦ったF-8はUSS「ハンコック」
搭載部隊のクルセーダー部隊でしたが、この時の対戦はMiG17の勝利でした。

ファントムIIが爆撃と戦闘機どちらの機能も持ち、空対空ミサイルを
空戦に使うことができたので、ドッグファイトの時代は終わりを告げ、
相手に接近することなくミサイルを放つファントムIIの戦闘スタイルが
対空戦闘の主流になる、と当時の専門家たちは予測していました。

しかし、北ベトナムでMiGとクルセイダーとの間で繰り広げられた
空戦の結果を見る限り、少なくともドッグファイトの能力からいって
F-8はMiGと互角に戦うことができる当時の最高の戦闘機だったと言えます。

搭載されていた20ミリ機銃のみによる勝利こそありませんでしたが、
機敏性に優れた機体を持つF-8のパイロットたちは対MiG戦で結果を出しました。

今の戦闘機のシェイプから見るとあまりに牧歌的すぎて(失礼)
この航空機が超音速ジェットだったというのが不思議な気がしますが、
それはともかく。
ベトナム戦争中MiGを撃墜したF-8搭乗員の名簿を貼っておきます。

CDR Harold L. Marr VF-211 MiG-17 12 June 1966
LT Eugene J. Chancy VF-211 MiG-17 21 June 1966
LTJG Philip V. Vampatella VF-211 MiG-17 21 June 1966
CDR Richard M. Bellinger VF-162 MiG-21 9 October 1966
CDR Marshall O. Wright VF-211 MiG-17 1 May 1967
CDR Paul H. Speer VF-211 MiG-17 19 May 1967
LTJG Joseph M. Shea VF-211 MiG-17 19 May 1967
LCDR Bobby C. Lee VF-24 MiG-17 19 May 1967
LT Phillip R. Wood VF-24 MiG-17 19 May 1967
LCDR Marion H. Isaacks VF-24 MiG-17 21 July 1967
LCDR Robert L. Kirkwood VF-24 MiG-17 21 July 1967
LCDR Ray G. Hubbard, Jr. VF-211 MiG-17 21 July 1967
LT Richard E. Wyman VF-162 MiG-17 14 December 1967
CDR Lowell R. Myers VF-51 MiG-21 26 June 1968
LCDR John B. Nichols VF-191 MiG-17 9 July 1968
CDR Guy Cane VF-53 MiG-17 29 July 1968
LT Norman K. McCoy, Jr. VF-51 MiG-21 1 August 1968
LT Anthony J. Nargi VF-111 MiG-21 19 September 1968
LT Gerald D. Tucker VF-211 MiG-17
(pilot ejected before combat 22 April 1972)

ドッグファイトで21機という結果。
自分で以前書いておいてすっかり忘れていましたが、
クルセイダーは
対MiGでキルレシオ8対1という成績を上げており、

「MiGマスター」

と渾名されていたんでした。

ただしブルーのマーキング、タッカー大尉ですが、
(パイロットは戦闘の前に脱出した)・・・?

パイロットが脱出したからにはMiGは撃たなくても落ちたわけですよね。
それがタッカー大尉の唯一の撃墜記録になっているのです。

そういえば、あの戦記小説「大空のサムライ」の中で、主人公の
坂井三郎氏をモデルとした撃墜王坂井三郎が
(色々と大人になった今ではこんな風にしか思えなくなりました)

「対戦する前にパラシュートで逃げてしまった敵がいたけど、
これって撃墜記録になるんでしょうか?」

と上官(笹井中尉)に尋ねるシーンがありましたっけね。
これはこのパターンをそのまま地で行ったケースのようですが、
本人はかなり微妙だっただろうなあ。

ちなみに、ベトナム戦争中の海軍パイロットのエース(5機撃墜)は

デューク・カニンガム大佐

ウィリアム・P ・ドリストル大佐

の二人のF-4パイロットです。

左から二番目(カニンガム)と三番目(ドリストル)。
手に持っているのはF-8 の模型?

ベトナム戦争中生まれた5人のエースのうち、3人が空軍で2人が海軍でした。
そのうち4人はエースの資格を満たす5機撃墜記録を持っています。

唯一空軍のチャールズ・デベルブ大佐だけが6機撃墜の記録を持っていますが、
これは5機目を撃墜した同日にもう1機撃墜したからで、アメリカ軍では
5機撃墜してエースになったら自動的に名誉除隊することになっていて、
5機以上の撃墜は本来記録としてあり得ないのだそうです。

 そして黄色いラインで印をつけた「MiGマスター」の名前を今一度見てください。

展示機のコクピットに乗っている人物のヘルメット、この、
もし一部韓国人が見たら
発狂するというホットな旭日旗柄は、他でもない、

VF-111  SAN DOWNERS「サン・ダウナーズ」

のクルセイダーであることを意味しています。
黄色でマークしたトニー・ナージ大尉は、サンダウナーズが
空母「イントレピッド」艦載部隊であった時、サイドワインダーでMiGを撃墜しています。


当ブログで、「イントレピッド」見学についてアップした記事で
このナージ中尉について書いた直後、
東から移動してサンフランシスコで
アラメダに繋留されている空母「ホーネット」の見学をしたのですが、
その艦橋見学ツァーの解説をしていたベテランが元クルセイダー乗りでした。

そこで彼に二人になった時、

「もしかしたらアントニー・ナージ大尉って知ってます?」

と聞いたらなんとこのベテラン、ご当人と一緒に勤務したことがあり、
向こうもびっくりしたでしょうがこちらも驚いたということがありました。

こらこらおっさん、サイドワインダーを手で触るんじゃない。

機体上部、可変翼の付け根上に「サンダウナーズ」と文字があるのがお分かりでしょうか。
ちなみにこの可変翼ですが、折りたたみ式になっています。

翼はこのまま上に跳ね上げる形。
着艦してタキシングしながらすでに翼を畳んでいるせっかちさんです。

そういえば某エリア88という漫画では、風間真さんが飛行中に翼を畳んで
敵の罠を突破するシーンがありましたっけね。

もちろん飛行中に翼を畳むことはできないのですが、その逆、
F-8のパイロットが翼を広げ忘れたまま飛び立った、というのは

少なくとも7−8回!!

本当にあったと報告されています。
そのうち1960年の例は、空中で翼が伸びていないことに気がついたパイロットが
 (#`Д´)ノノ えーい!と次々燃料を捨て、24分後無事に帰還したというものでした

この時の離陸写真。確かに翼がない(笑)

翼は空中で伸ばせないので、気がついたら一刻も早く帰るしかないのですが、
搭乗員の技量のせいか、F-8の機能が優れているせいか、
翼を伸ばし忘れて飛び立った飛行機で墜落した機は一機もなかったそうです。

機体に記された3人の軍人の名前は、いずれもベトナム戦争で戦死した
「ミッドウェイ」艦上機時代のクルセイダーパイロットのものです。

リン中佐

ドイル・リン(DOYLE W. LYNN )中佐は、サンダウナー、
VF-111のパイロットで、北爆が始まった1965年5月27日、
「ミッドウェイ」から出撃をし、撃墜されました。
パラシュートは目撃されず、遺体も見つかりませんでした。

ラ・ヘイ中佐

ジェームズ・ラ・ヘイ(JAMES D.LA HAYE )中佐は、同年5月8日、
北ベトナムの沿岸で乗っていたG-8が撃墜され、機体は海に墜落、
パラシュートは開かず、戦死しました。

ゴラホン中尉

ジーン・ゴラホン(GENE R. GOLLAHON)中尉は、
「ブラック・フライデー」と言われた海軍飛行隊最悪の日、
北ベトナム軍の地対空ミサイル (SAM)に撃墜された
3人のパイロットのうちの一人でした。

撃墜された彼のF8は地上で爆発し、パラシュートは認められませんでした。
彼の遺体は9年後の1974年、本国に返還されています。

「ミッドウェイ」時代のサンダウナーズの戦死者はこの三機のみとなります。

そして1966年の6月から7月までに北ベトナムで12回行われた空戦で、
クルセイダー全体の損失率はMiG17の4機に対して2機。
ベトナム戦争を通してのキルレシオは19:3で、これは全アメリカ軍の
機体の中でベストの数字だということです。

この19機の内訳はMiG-17が16機、MiG-21が3機。

そしてこれも戦争にはありがちなことですが、アメリカ側の記録によると
ベトナム戦争中空戦で失われたF-8はわずか3機であり、
その他すべての撃墜は対空砲によるものだとなっていて、
VPAF(ベトナム人民空軍)側の主張は11機の F-8をMiGが撃墜した、
というものだそうです。

ベトナム戦争の間に170機のF-8クルセーダーが喪失しましたが、
そのほとんどが地対空砲によるものか、あるいは事故によるものです。

F-8は当時の陸上機をも凌ぐ高性能を誇りました。
例えば同じエンジンを搭載した空軍のF-100戦闘機の最高速度はマッハ1.3、
本機はマッハ1.7と、エンジンの性能が最大限に生かされています。

これはエアインテークの上から前方に突き出したコーン状の機首が、
偶然ショックコーン(エアインテークの手前で空気の衝撃を吸収する)
の役目を果たすことになったからだということです。

偶然って・・・じゃ何のためにわざわざこの変な形にしたのよ。

 

続く。

 

 


ゼロから完璧まで〜ソリッドモデル作品展

2018-07-20 | 航空機

文京シビックセンターで行われていたソリッドモデル展見学記最終回です。

展示されていたモデルは膨大な数ですが、出展していたモデラーは、
わたしが見た限りによると11人±と言ったところでしょうか。
大変お若く見える方から大ベテランの風格の方まで年齢は様々ですが、
とにかく全員が男性です。

全ての模型を対象にした場合、女性のモデラーというのは
もちろんいないわけではないでしょうが、少なくとも
ソリッドモデル界隈には何となくですが、一人もいない気がします。

行ってみて、見てみて、話を聞いてみて、後から調べてみて、
わたしはソリッドモデルという物凄い世界があることを知りましたが、
このように気宇壮大というか悠長に一つのゴール(つまり完成)
に向けて情熱的に取り組むといった作業は、どちらかというと実利的で
すぐに出る結果を求めがちな女性には、向いていないのかもしれません。

もちろん、男性の中でも少数派に属する人々であることは確かです。

わたしは一つ一つの作品の前で立ち止まり、製作者に逐一説明を聞いて、
時折関係ない会話もしながら会場を観て歩いたのですが、一人の出品者に、

「女の人も観に入ってこられますが、大抵サーっと歩いて、
一通り眺めたらすぐに出ていってしまうのに珍しいなと思って見てました」

といわれました。

模型を作ることそのものには全く門外漢の知識しか持ち合わせませんが、
模型が再現できることには興味以上の関心を持っている上、
その機体にまつわる歴史やストーリーに、自分の知識が重なると
パズルが解けたような達成感があってたまらないんですよね。

まあ、こういう変則的な模型ファンも世の中にはいるってことですよ。

 

さて、冒頭画像のモデルは、それこそこの道半世紀!みたいな
ベテランの風格を感じるモデラーの作品、

F7U カットラス チャンス・ヴォート

です。
当ブログ的にはカットラスについては随分「イジって」きたのですが、
何というか、モデラーというのは単にその飛行機が優秀かどうかなどより、
独自の(模型製作者ならではの)萌えポイントに触発されて、カットラスのような
マイナーな(マイナーですよね)飛行機を作りたがるのだろうかと思いました。

こんなことを書くとカットラスに失礼ですけど。

でも、3年しか配備されなかったことといい、あだ名が「未亡人製造機」
(お約束)といい、やっぱりこれダメダメ飛行機なんだな。

「なんかマンボウみたい・・・・」

散々カットラスについて書いたことがあり、さらには「ホーネット」艦上で
実際の機体を見ていたにも関わらず、わたしはこの模型を見て
おそらく初めてものすごく重大なことに気がつきました。

マンボウみたいに見えるその訳は、この飛行機に

水平尾翼がない(つまり無尾翼機)

からだったのです。

何で水平尾翼を無くしたかというとまあサクッというと、
戦闘機に速さを求めたってことなんだと思いますが(多分)、
無尾翼なので、着艦の時に抑え角(甲板と機体の角度)を
思いっきり取ることにして、案の定前が見えないという、
「ポゴ」の時のような欠陥が生まれてしまったというわけ。

英語のwikiにはさらっと

「これによって4人のテストパイロットと21人の海軍搭乗員が死んだ」

なんて書いてあります。
うーん、やっぱり死に過ぎ。
もうこうなったら未亡人大量製造高速マシーンという感じですか。

製造した4分の1が事故で破壊された、ともありますし、

VF-124, USS Hancock ハンコック
VF-81, USS Ticonderoga タイコンデロガ
VA-86, USS Forrestal フォレスタル
VA-83, USS Intrepid イントレピッド
VA-116, USS Hancock ハンコック(別部隊)
VA-151, USS Lexington レキシントン
VA-212, USS Bon Homme Richard ボノム・リシャール
Air Test and Evaluation Squadron 4 (VX-4),
USS Shangri-La and USS Lexington
試験航空隊 シャングリラとレキシントン

これだけの現場で機体が「海に持って行かれた」って・・・(絶句)

未亡人製造機の他にはこのブログでもご紹介済み、

「ガッツレス・カットラス」 "Gutless Cutlass"

とか、

「少尉除去装置」 "Ensign Eliminator"

なんてあだ名もあったようですね。

ただし、このシェイプは飛行機のカタチとして実に近未来的で、
当時カットラスを見た人は、目を見張ったそうです。

それに、やっぱりスピードだけは出たんですよ。スピードは。

というわけで、模型作り人もこの辺りに惹かれてこれを
製作対象に選ぶんだろうな、という気がします。


ところで、カットラスの向こう側には

「昭和30年代のソリッドモデル・キット」

という展示がありますね。
これはその名の通り、まだ既成の「プラモデル」がなかった頃、
模型といえばこういう材料で作ってました、という見本。

この製作者の私物だったりするんでしょうか。

こちらはホーカー社のシーフューリー

レシプロ機で第二次世界大戦のために作ったのですが、
製作が間に合わず、その代わり?朝鮮戦争に投入されました。

この時中国義勇軍のMiGと空戦して撃墜していますし、
ビルマ軍やキューバ空軍などでも撃墜記録を上げています。

非常に単純な仕組みだったのが幸いして使いやすかったようですね。

グラマンの「ダック」・・・ダックってアヒル?

この角度からはその特異さがわかりにくいですが、

うわーかっこ悪うー。(個人の感想です)

なぜダックなどと名前がついたのかよーくわかりますね。

これならまず水に浮くこと間違いなしなフロート。
ちなみにこのフロート、伊達に付いているわけではなく、
中に荷物やそればかりか燃料も収納でき、おまけに!

フロート内の並列のシートに2名まで人員を乗せて輸送が可能だった。

乗ってみたいようなみたくないような。

この写真は沿岸警備隊の使用機のようですが、やはりどちらかというと
海難救助に活躍したんではないかと思われます。

その他には哨戒、輸送、連絡、観測、標的曳航、煙幕展開
などに結構重宝されたようですね。

1933年から45年まで生産されあちこちで使われていました。

これは見ればわかるようにまだ製作中。
ソリッドモデルの世界ではあまりに製作期間が長いので
(だいたい三年が普通らしい)展覧会にはこのように
途中経過の作品を展示することがあるようです。

これは翼と胴体のアス比を見てもお分かりかと思いますが、
かなり大きな飛行機です。
もしかしたらB29の大きさくらいだったりして?

航空研究所の試作した長距離機になる予定だそうです。

航空研究所は東京大学にあり、航空の基礎的学理を研究していたところで、
大学の研究員あh陸海軍の佐官、尉官、担当官という構成でした。

それにしてもこの試験機、コクピットはまだありませんが、
妙なところに窓がありますね。

前回別のモデラーさんの作品でもご紹介した

 デ・ハビランド D.H.88コメット

エアレーサーといって、レース用です。
前回ご紹介した優勝機である機体を色ごと再現したモデル。
この「グロブナー・ハウス」という機体はレストアされて
実際に飛行を行っている(現在も)ということです。

これこれ。
確か尾翼の赤の中にはハーケンクロイツが入るはずという・・。
偵察用グライダーだったと思います。

そうそう、これを見て思い出したのですが、前回「エル・アルコン」を
「何かのアニメに出ていた」と紹介したのですが、実は

宮崎駿さんのアニメ映画「風立ちぬ」内での主人公堀越二郎が
少年時に空想していた設定の飛行機だと思います。

と裏コメをいただきました。
このアニメをいまだに観ていないことがばれちゃいましたね。

そしてこれは同じ宮崎監督の「未来少年コナン」に出てくる
ファルコという飛行機だそうです。
『そうです』でこれも観ていないことがばれてしまいましたね。

どっちも暇になったら観てみようっと。

ビールの缶で機体を作っている(らしい)製作者の作品。
ロシア語は読めないけど、アエロフロート機であることはわかる。

そして機材はTu-114ツポレフです。

たった今ものすごく驚いたのは、「ツポレフ」と入力したら
「Tu-95」と変換されたこと。

こちらは戦略爆撃機らしいですが、いわゆる同社の目玉商品なんですかね。

パンアメリカン航空使用、ストラトクルーザー

「ストラトフォートレス」「ストラトフレーター」
「ストラトジェット」「ストラトタンカー」

何でもかんでも成層圏を意味する「ストラト」をつければ
いいと思っているボーイングの旅客機ですが、戦争が終わったとき、
ボーイング社は民間への華麗なる転身を計ろうとして、
ストラトフレーター(貨物機)をなんとか旅客機に改造しました。

それが「ストラトクルーザー」です。

貨物機だったストラトフレーターが、下部を膨らませて
非常にカッコ悪かったわけですが、これにもそのかほりがします。

いや、その翼の角度はない。

と思わず真顔で言ってしまいそうになりますが、
アメリカ軍の試作機だったと思います。
というかそうであってほしい。

真ん中の戦略偵察機はX-16
このとき製作者と話をしていて初めて知ったのですが、
偵察機というのは「大きい機体であるからこそ意味がある」
つまり高高度からの偵察に使えるからなんですね。

じゃ、ヴィジランティが偵察機に転換されたのも、決して
無理やりとかそれしか使い道がないというわけじゃなかったってこと?
わー・・・なんかすみません<(_ _)>

高高度というのは基本高度2万メートル以上。
これだけ高いところを飛ぶならこれくらい大きくなければね。

しかし、X-16という名前でお分かりのように、結局これは
モックアップだけで実機製作には至っていません。

しかし模型では完成してちゃんとアメリカ軍のマークが入っています。

なんとこんな戦闘機が日本では試作されていたなんて。

閃電J4Mが双胴式になったのは、P-38から着想を得たのかな、
とチラッと思ったりするわけですが、日本軍の搭乗員も、
P-38のスピードにはかなり苦しめられたといいますから、
速度を重視した機体を製作するときにこれを真似てみた、
というのもあながち間違いではないような気がします。

しかしそれにしても変なところにプロペラがあるなあ。

「搭乗員が空中で脱出したとき、プロペラに巻き込まれるというのが
計画が中止になった原因の一つだそうです」

あー、やっぱり。誰がみてもそう思うよね。

結局閃電は長期間にわたって開発していながら、実機にならなかった
幻の戦闘機ですが、なぜかアメリカ軍では

「ルーク( Luke)」

というコードネームをもう付けていたということです。
どうやらどこかで計画書が捕獲され、アメリカ側では
日本がこんなのを作っている、という情報をもとに、
閃電ができたときに備えてコードネームを与えていたんですね。

なんか期待に添えなくてすみません。って感じ。

これはもう、スピードだけが目的っていうシェイプですね。

マイルス 超音速研究機 M.52

音速を超えるだけのために作られた飛行機のようです。
マイルス・エアクラフトは、30年代から1942年まで存在した
イギリスの航空機製造会社でした。

機体のデータはアメリカに譲渡され、ベルX-1の役に立ったので
無駄というわけではありませんでしたが、この飛行機そのものは
マッハ1.5を記録したものの、どこかに飛んで行ってしまったため
回収できなかったということです。

この日出展されていたモデラーの皆さんには全員にお話を伺えましたが、
この大量に航空機を出していた方とはチャンスがありませんでした。
大小大量の作品を出しておられたのですが、残念です。

加えて、前に団体の人たちが熱心に見学をしていたため、
こんな写真しか撮れませんでした。

奥の緑のシャツの方が製作者です。

それにしても製作中の模型が多い!
グレーの機体は皆同じ飛行機に見えますが・・・。

ダッソーのミラージュIIIC。

この模型は少し変わっていますね。
プリントしたものを貼り付けているようです。

さて、というわけでとりあえず全部を見終わったので、
出口の受付のようなところに座っておられる方たちにお礼を言って
会場を後にしました。

外から見たソリッドモデル展の様子を見ていただければ、
わたしがいかに場違いだったかお分りいただけるかと思います。

でも、場違いながら実は思いっきり楽しんでしまったのだった(笑)

ソリッドモデルという言葉自体初めて知ることになったこの日、
ゼロから始めて完璧を目指す模型製作の奥深さを、
怖いくらいに感じてしまったわたしでした。

ソリッドモデルクラブの皆様、今回新しい世界を教えてくださった
Kさんに
心からお礼を申し上げます。

 

ソリッドモデルシリーズ終わり

 


スーパークルセイダーv.s ファントムII〜ソリッドモデル作品展

2018-07-19 | 航空機

ソリッドモデルの展覧会で見た模型についてお話ししています。

ソリッドモデルの定義とは中が空洞ではない、つまり中実(ソリッド)であり、
木を削って躯体や翼などを作り上げる、ということを説明しました。

この「シー・ホーネット」(ホーネットの艦載機用でアレスティングフック付き)
などは、その木材の部分を見せるような作り方をしています。
日本では切削性に優れた朴の木がよく使用されているというお話でした。

戦後、アルミ箔が普及すると同時にこれを木に貼ることが始められ、
今では紙のように薄い金属板を貼るのだそうです。

この金属部分にはビスを表現するために穴を穿ちます。

裁縫道具の印つけみたいなので打っていくんでしょうか。
ライトの反射している部分を見ていただければわかりやすいです。

それからこのタイヤ。

「ユザワヤで大きさと色の合うボタンを探して来ました」

「よくこんなぴったりの大きさのものが見つかりましたね」

「いや、それをまた加工して大きさを合わせるんです」

前回のエントリで斜め銃付きの月光を作っておられたモデラーの作品。

Military Air Transport Service、MATSのコンスティレーションです。

アメリカ軍の軍事航空輸送サービスのことで、使用機材は色々。
グローブマスターにスターファイターをまるまま乗せて空輸したりしていました。

ちなみに海軍の輸送サービスのことを

 Naval Air Transport Service (NATS)

といいます。

 

チャンス・ヴォート社のF8U-IIIクルセイダーですが、はて「III」とは・・?

「スーパークルセイダーです。3機しか作られなかったそうです。」

F8Uのヒットがチャンス・ヴォート社にとって「救世主」となった、
というのはこのブログでも書いたことがあるわけですが、
この成功に気を良くしたCV社は、ファントムIIへの対抗機として
クルセイダーの後継となる本機を作りました。

速度は一定以上の水準を持ち、ファントム IIに勝る点もありましたが、
迎撃専門のクルーを乗せていたファントムIIには勝てず、この流れで、
スーパーでない方の優秀なクルセイダーもファントムに駆逐されてしまうことになります。

スーパークルセイダーの関係者はこれ以降ファントムIIを敵と定め、
3機のうちの2機のスーパークルセイダーの運用者、NASAのパイロットは

決まって海軍のファントム IIの迎撃に上がり模擬空戦でこれを打ち負かした。
これは海軍側から嫌がらせを止めるように苦情が来るまで続けられた。(wiki)

嫌がらせを止めるように苦情が来るまで

嫌がらせ

実戦でなければ俺ら強え!ってことですか(笑)

なおこのモデルは内部構造を見せるために一部スケルトンです。

大きなモデルはそれこそグランドピアノの上にギリギリ乗っかるくらいですが、
こんな小さなモデルに心血をそそぐモデラーもいます。

右の鳥のようなのは、「エル・アルコン」。
テレビアニメに出てくる練習機だそうです。

ボーイング396という実験機です。
本気でこんな形の飛行機を飛ばそうとしていたのか。
またしても前回の「飛行機馬鹿」という言葉が脳裏を過ぎるわけですが、
画像検索しても出てくるのはこのモデラーさんの作品ばかり。

本当に実験機として存在したかどうかも怪しい・・・。

まあ、そういうものをカタチにしてしまえるというのが模型なんですよね。

「これってちょっと風が強いとたちまちあおられてしまうのでは」

と他人事ながらつい心配になってしまうシェイプの飛行機。
飛行機の羽の形って、伊達にあの形をしているわけじゃないと思うのよね。

ARUP S2

というこの飛行機、開発されたのはなんと1933年。
こんなの飛ぶわけないじゃん!と思ったら、飛んでました。

ちなみにショーでクラッシュしてテストパイロットは死亡しています。

The flying "Heel Lift" - Arup S2 and S4 flying wings

「ヒール・リフト」とありますが、実際に靴の踵に入れる中敷と比べている映像が(笑)
これを見る限りちゃんと飛んでちゃんと着陸しているんですが・・・。

こういう超マイナーな「失敗作」を再現できるのも模型の(略)

A26と言っても、エド・ハイネマンの「インベーダー」とは違います。
製作者に聞いてびっくりしてしまったのですが、これは日本製の長距離飛行機、
キ77、陸軍と朝日新聞社が資金を出し合って2機試作したものなのです。

A-26の「A」は朝日新聞の頭文字、

「26」は皇紀2600年の26

だと言いますから、驚きませんか。(朝日新聞的な意味で)

1号機は昭和19年に周回世界記録(未公認)を樹立していますが、
2号機は昭和18年にインド洋上で消息不明となっています。

戦後アメリカ軍に接収された1号機は、修理されたようですが、結局
1949年ごろ廃棄されました。

アメリカ軍によって移送されるキ77。
向こうに見えているのは標的にされる直前の「長門」です。

このツルツルとした模型の機体ですが、木を削って形を作り、
磨いて塗料を乗せるというオーソドックスな仕上げをしています。

朝日新聞の旭日旗、名前が「神風号」・・。

これも昔三菱の航空資料室を見学した時に書いたことがあります。

朝日新聞社は1937年、ロンドンで行われるジョージ六世の
戴冠式の奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画しました。

当時、日本とヨーロッパの間を結ぶ定期航空路はなく、
逆風である東京、欧州間の飛行は、非常に困難とされていたのです。

この連絡飛行の機体に採用されたのが「神風号」という名前。
一般公募によるものだったそうですが、いやまったく、築地にある、
あのアサヒ新聞と同じ新聞社のことであるとは、信じられませんね。
この麗々しい記事は、勿論のこと朝日新聞に載せられたものです。

神風号は1937年4月6日、日本を出発。
離陸後94時間17分56秒で、ロンドンに到着しました。
イギリスの新聞は朝刊のトップに神風号の接近を報じ、ロンドンの空港や
前経由地の
パリの空港は人が詰め掛け、神風号の二人の乗員は
フランス政府から
レジオンドヌール勲章を受勲しました。

この歴史的な快挙を成し遂げたその飛行機が、ここで作られていたのです。

・・と当時のエントリをそのまま引用してみました。

 A26と同じ製作者の作品だったと思います。
ソリッドモデルで風防はどうやって製作しているのかというと、

初期には塗装のみで表現されることも多かったが、1950年代には
既に熱した透明塩ビ板を木製の型に押し付けて成形する方法も使用されていた。
その後材料はアクリル板へと変化し、成形方法も手動から
バキュームフォームへ変化。

というのがwikiの説明。
この作品は塩ビをヒートプレスして透明化させているそうです。

デ・ハビランド DH.88 「コメット」

は、レース用飛行機で、このつるっとした機体がいかにもスピード重視。
1900年初頭から30年代までは、よく都市間飛行の最速を競う
飛行機のレースが行われ、有名な飛行家を輩出したものですが、
この機体はレースのためだけに作られ、3時間半試験飛行をしただけで
大胆にも英ー豪間レースに出場し、いきなり優勝したという凄い奴です。


例えばこのモデルの製作者は、ソリッドモデルクラブに入会して
4年という経歴ですが、入会前にも独自に何機か製作をしています。
全くの素人が入会するというのはなかなか敷居が高そうです。

この飛行機はDo26(ドルニエ)

躯体の形を見てわたしにもわかりましたが、水上艇です。

現場で製作者に聞くと、これは郵便を運んでいたということですが、
ここに載せるためにDo26で調べると、第二次世界大戦の開戦前に

ドイツのドルニエ社で開発された飛行艇

ルフトハンザ航空の大西洋横断郵便機として開発された

開戦後軍用に改造され、洋上偵察や輸送任務に使用された

はて?これになぜスイスのマークが付いているんだろう・・。

少なくともこの「ゼーアドラー」というタイプ、
6機しか制作されておらず、他国が使用する余地はなかったはずなのに。

不思議に思って画像検索してみると、あらびっくり、
画像で見つかる実機の写真はハーケンクロイツかドイツ軍のものばかり、
スイスの十字を付けているのはこの方の模型だけではないですか。

「もしかしたら・・・・・」

わたしは一つのことに思い当たりました。

この会場で別のモデラーさんが、自分の作品(ドイツ機)を指して、

「これ、本当はナチスの鉤十字が付いてるはずなんですよ」

一つはマークがなく、もう一つは丸だけです。

「鉤十字付けると怒られちゃうんですよね」

「実際にそうだったのに・・・?」

「一度、作品展にロシア人が入ってきて、
鉤十字を見つけて
文句を言われたことがありました。
『こんなものを付けてあなたは無神経だ』とかなんとか」

「えー・・・酷い」

「そう、怒られるから鉤十字は描けない」

史実を遡求し、後世の政治判断でなかったことにしたり、あるいは
変えるべきではないと思うわたしにはとても納得のいく所業とは思えません。

今、隣国の一部国民が、必死で海上自衛隊の自衛隊旗である
十六条旭日旗、陸自の八条旭日旗に(書くのも汚らわしい)
「戦犯旗」というレッテルを貼ろうとして運動しています。
つまり彼らは旭日旗をナチスのハーケンクロイツと同じように、

「使ってはいけないもの」

にしようとしているわけです。

ただし、それを言っているのは一国だけで、先日のフランスでの
独立記念日でも我が陸自の隊旗がシャンゼリゼを行進しましたし、
日米合同の訓練では自衛隊は普通に自衛艦旗を揚げています。

かつての連合国(日本と戦った国)はこの旗になんの問題もないという立場で、
むしろこの「運動」に呆れている風でもあるのがまだしも救いです。

で、ハーケンクロイツなんですが、実機で水上に滑走、離水、着水させている
本格的なモデラーが海外にいまして、そのyoutubeがこれ。

Dornier Do 26 06.09.2014 RC seaplane

惜しいところで田んぼの「田」の字(笑)

もういっそ、「田」にしてしまえば?と言いたくなります。
しかし、模型業界における逆卍って、こんなことになってたんだ。
知らなかった。

「いっそまんじ(卍)にしようかな・・・なんて」

「何か言われたらこれお寺のマークですよ、って?」

そう笑い合いましたが、わたしはなんだかモヤっとした気持ちになりました。
実際にハーケンクロイツを付けていたモデルにすら、それを描くことを
禁止してしまうというような所業を「全体主義」っていうんだよ!

とは誰も言わないのかな。

 

続く。


月光の「斜め下」銃〜ソリッドモデル作品展

2018-07-17 | 航空機

文京シビックセンターで行われたソリッドモデルの作品展、続きです。

一口にモデラーといっても、このソリッドモデルを作る人たちは、
ほとんどゼロから、素材やその加工法を自分で編み出して創るという、
気の遠くなりそうな創造の果てにこの境地に至っておられることがわかりました。

ソリッドモデルというのはいわばマニュアルというものがないらしいのです。

日本では飛行機が武器となって使用されるようになると、識別のために
木で作ったソリッドモデルを「實體模型」と称して軍が主導し作っていました。

この實體模型製作はモックアップ製作の技術にもつながることから、
戦後は模型製作そのものが禁止されていたこともあったそうです。

いわゆる模型会社のキット模型というのはそれらの普及型で、
模型というと本来はこちらを指します。

その製作過程は、資料、材料の準備、加工、塗装、部品の製作、
組み上げという手順を踏む。
市販の図面の一部には断面形状まで描かれているものもあるが、
信頼できる資料がない場合には、図面と写真から正しい断面形状を読み取り、
再現するには高い能力と経験が必要である。
また、航空機ではエンジンや爆弾などの外部に装備される武装を除き、
複数の種類の機体で共通に使用される装備はほとんど無いため、
小物の部品までほとんど全て自作する必要がある。

とWikipediaにもしっかりと書いてあります。
ちび丸艦隊シリーズの「雪風」をもらったくらいでオロオロして、
人に制作を押し付けるわたしなど、7回生まれ変わっても到達できない境地です。

模型会社のキットによるプラモデルはあらかじめ詳細なモールドが施され、
誰が作っても正確なアウトラインを再現できるのですが、
それでもソリッドモデルに留まったモデラーというのは、つまりは
規制のキットでは物足りない、という種類の人たちだったわけです。

例えば、この日の会場で制作を実際にしておられる人がいました。
この方に限らず、制作途中の作品について伺うと、全員が全員、

「ここをどうしようか考えてるんですよ」

と悩みながら制作しているらしいことをおっしゃいます。
ソリッドモデルが何か予備知識なしでいきなり行ったわたしにも、
そういった皆さんの言葉から、

「これはどうやらなんの決まりもなく、ただ想像力を駆使して、
ゼロから作り上げていくとんでもないモノらしい」

と察しがついてきました。

この方が今削っている木片は、飛行機の躯体になります。
削りかすが少し見えていますが、考えながらやっているので、
サクサクと進むというものでもなさそうです。

「ここに来て、作業、進みました?」

と恐る恐る聞いてみると

「全く進んでません」

そうなんだろうなあ。

ちなみにこの方がこれから作ろうとしているのは、

ブラックバーン ファイアブランド TF.5

イギリスの戦闘機というと、スピットファイアくらいしか知らないわたしは、
どちらが会社名なのかも調べるまで見当もつきませんでした。

こういう、マイナーな(マイナーですよね?)飛行機を選ぶというのも
ソリッド・モデラーの傾向ではないかという気がします。

この日会場で、作品出品者同士が

「そういえば今回零戦がないね」

という会話をしていたのを聞いてそれを確信したのですが。

「これは水上艇ですね」

底のシェイプからそうではないかと推察し尋ねてみると正解。
なんと、こちらも制作途中だそうです。

期限のない延大な趣味ならでは、気分次第で作業をする模様。

このモデラーの作品はもちろん実物が展示されていますが、
後ろにあった写真に注目してみました。
どれもよく見ないと合成とはわからないくらいよくできています。

このアメリカ軍機のブルーですが、この方曰く、

「自分で考えたオリジナルの色を使っている」

とのことです。
とにかくモデラー歴は軽く60年はいってそうなベテランでした。

もしかしたら「キットは物足りなくてソリッドに止まった」
という人たちのお一人だったのかもしれません。

カナダ空軍のF-104(スターファイター)だと思われます。
(この方は模型に一切説明をつけない主義のようでした)

スターファイターといえば、映画「ライト・スタッフ」で、チャック・イェーガーが
テスト飛行で墜落させていましたっけね。
あの映画にはチャック本人も一介のオヤジ役で出演していましたが、
テスト飛行でスターファイターを壊したというのは創作だそうです。

ちなみに、F-104にも「未亡人製造機」のあだ名はあったそうで、
割と最近、ドイツでは、

「スターファイター 未亡人製造機と呼ばれたF-104」

というタイトルのテレビ番組が制作されたとか・・。

この飛行機によって文字通り未亡人に製造された奥さんが、
ロッキード社を相手取って訴訟を起こすという内容だそうで、
エンディングにはこの飛行機によって殉職した116名の名前が
『今日まで責任の所在は明らかにされていない』
という言葉とともにずらずらと出てくるんだそうです。((((;゚Д゚)))))))

今にして思えば自衛隊もこれを使っていたことがあったのか・・。
しかしこうしてみると、空自の人たちが

「三菱鉛筆」

と呼んでいた訳がよくわかります。
また、こんな名称もあったと製作者が。

「”最後の有人戦闘機”なんて言われてました」


というかこのブログでも書いたことがあったんだっけ。
あれは静浜基地の空自の博物館を見た時のエントリだったかな。

「でも全く違いましたけどね」

そうそう、あれは日本でそう呼ばれていただけで、つまり英語の

「ultimate manned fighter」

あるいは

「Missile With A Man In It」

を意訳した結果という説らしいですね。

日本では真剣に、航空機がミサイルを積む時代はもうすぐ終わり、
と考えていたので、この英文を曲げて解釈してしまったのかも。

ちな、これを選定するときに

「乗ってみなければわからない」

と言い放ち、アメリカに赴いたのは当時の空幕長源田実ですが、
決定後、これを日本に運んだのは

貨物航空会社 フライング・タイガース

だったそうです。

尾翼のスコードロンマークが・・・・(笑)

「本当にこんなマークだったんですか?」

「そうだったみたいです」

「トランプがついてるんです」

と指し示して教えてくれた王立空軍の飛行機。
名前も聞いたけど5秒後に忘れました(´-ω-`)

ポーカー・・・じゃなくてホーカーだったかな・・いや・・。

冒頭写真のパンナム機を始め、ビールの缶を素材に使っているモデラーの作品。
TWAの旅客機、というと、つい最近見たトム・クルーズの主演映画、

「バリー・シール アメリカを嵌めた男」(原題 The American Made)

で、「TWAのパイロット」という台詞を耳に留めたのですが、
トランスワールド航空のことだったんですね。
TWAは2001年に廃止されました。

この機体は当時最新鋭だった「スーパー・コンスティレーション」です。

ハワード・ヒューズが開発を推し進めた旅客機で、その美しいフォルムから
「レシプロ大型旅客機の最高傑作」として現在も数機が保存され、
イベントなどで飛行し人気となっているということです。

コンスティレーションのコーナーにあった「プロペラの削り方」。
ねじれとか完璧に再現されているんですが、これすごくない?

案外日本の軍用機が少ない、と感じるソリッドモデル展ですが、
この方は「月光」を、しかも二機制作しておられました。

「厚木にいた飛行機ですか?」

「そうです」

見ると、ちゃんと「斜め銃」が再現されてるじゃありませんか。

話には聞いていたけど、斜め銃というのがどのように設置されていたか
初めてちゃんとわかりました。

聞いたところ、やはり銃は20ミリだったそうです。

ハッチが空いているので、ここの銃撃手が乗るのだと思い、

「銃手は一人ですか?」

と聞いてみると、なんとパイロットが操縦席から銃撃するのだそうです。
つまり、これはB29のような大きな飛行機の下を航過しながら、
パイロットが狙いをつけて銃を発射するのですって。

「効果はあったんでしたっけ」

「何機か落としてます」

え〜そうだったのか。小園さんやるじゃん。
今ちょっと調べたら、スミソニアンにも横須賀の月光があるそうですね。

スミソニアン・・・・今年行ってみようかな( ̄+ー ̄)

銃撃手がおらず、パイロットが銃撃を行う、という話をしていると、
隣のブースのモデラーさんが

「え、そうだったの。知らなかった」

と話に加わって来られました。
月光製作者は、わたしたちに機体をひっくり返して見せてくれました。
すると、そこには

「斜め下銃」

が!!!

具体的にどんな風に斜めに突き出していたのかわかったのもですが、
思っていたより兵器として成果があったことをここで初めて聞いて、
なぜかちょっと嬉しくなってしまったわたしでした。

 

続く。

 

 


大空を翔る(時として荒唐無稽な)夢〜ソリッドモデルクラブ作品展

2018-07-15 | 航空機

文京区シビックセンターで行われた航空機模型クラブの展覧会に行きました。
前回巡洋艦模型展を教えてくれた方の情報です。

文京区といえば、渡米前に住んでいた町であり、シビックセンターの
市役所で結婚届を出し、我が家の本籍地のある懐かしの場所。
行くたびに後楽園のプールに息子を連れて通ったことや、
日本に進出して最初にできたころ、ワクワクしながら通った
日仏学館の近くのスターバックスや、桜の季節の播磨坂の想い出が蘇ります。

この展覧会、この模型クラブが創立65周年記念ということで
ソリッドモデル(木を削って形をつくる模型)がテーマです。

会場は文京区シビックセンターの貸し出しスペースで、行ってみると
思ったより小さなスペースなのに軽く驚きますが、
模型展というのは、いかに小さなスペースであってもその中にいると、
なぜか無限の広がりを感じるのはホビーショーや前回の模型店で経験済み。

意識するとしないに関わらず、縮小された模型を見るとき、自分自身も
いつの間にか「小さき者」となって、その視点で観ていることがその理由でしょうか。

というような御託はともかく、力作をご紹介していきます。
今回は全部が航空機ということで、まずは黎明期の飛行機から。

サンマテオのヒラー航空博物館で人力飛行機についての展示を見て、
ここでもご紹介したことがありますが、これはその前、
オットー・リリエンタールのグライダー。

なんというか、飛行機以前のスタイルです。

リリエンタールという人は、生涯2000回くらいの滑空実験をしたと言いますが、
こんな危なっかしいもので、しかも防具もつけず、よく怪我しなかったな、
と思ったら、やっぱり墜落して脊椎を損傷して亡くなっていました。

(-人-)

オットー・リリエンタールグライダー

先ほどのページの下半分に、二宮忠八のことが書いてあります。

ライト兄弟よりも早かった飛行機の発明「飛行神社」

その忠八さんの発明した「玉虫型飛行機」。

二宮さんが陸軍に動力付き飛行機を採用してもらっていたら、
航空の歴史が変わっていたかもしれません。

デュモン「14ーbis」

こんなの絶対飛ばないよね。と思ってふと見ると。
ちゃんと滑空している写真があるじゃないですか。
すげー!こんなの今時作って飛ばす人がいたんだ!と思ったのですが、
この写真、後から合成だとわかりました。

まあ写真は偽物ですが、実際にも高さ6m上空を200m滑空した模様。

アルベルト・サントス=デュモンはいわゆる理想家で、飛行コンクールで
得た賞金を、そのまま慈善事業に寄付するといった「いい人」でした。

そんな人だったので、飛行機の発明が即座に兵器利用されたことに失望し、
飛行家として拠点としていたフランスから祖国ブラジルに帰ってしまいます。

もちろんそこでも事情は同じ。
世界中の軍隊がこの新兵器を取り入れることをトレンドにしていましたからね。

祖国に帰った彼はそこで飛行機を兵器利用するな!という提言を行いましたが、
黙殺され、またしても
失望した末、ホテルで首を吊って自殺してしまいます(-人-)

今回わたしが一番驚いたのは、カルティエのアイコン的時計、
「サントス」が、この人の名前から取られていたということです。

彼がフランスに住んでいた時、宝石商ルイ・カルティエに飛行用に
時計を注文したことがあり、そのデザインを元にしているのだとか。

ご本人もファッションリーダー的存在で、トレードマークはハイカラー。

空飛ぶ伊達男の異名を取ったデュモンのお洒落番長ぶり・・・納得。
ちなみに彼は59歳で亡くなるまで生涯独身でした。

ALBERTO SANTOS-DUMONT - BRAZIL'S FATHER OF FLIGHT

彼の生涯が非常にわかりやすい英語で解説されていますので、
興味のある方はご覧ください。

デュモンは絶望して死んでしまいましたが、彼の考え方は残念なことに
世界的な流れからいうとごくごく少数派で、時代はこの新発明を

軍事利用することでどんどん発展させ昇華させていきます。

なんと、こんな飛行機同士ですでに空中戦が行われていたくらいです。

青島攻略で日本機と戦ったという、

ルンプラー・タウベ

もちろんドイツ軍の飛行機です。

すっかり忘れていましたが、日本とドイツって第一次世界大戦では敵同士、
青島ではビスマルク要塞を陥落して日本が勝ったりしてたんですね。

この戦争で初めて軍隊に飛行機を投入することになった日本は、
これも海軍初の水上機母艦「若宮」を建造し、水上艇である

モーリス・ファルマン

でルンプラータウベと空中戦を行いましたが、駆動性の点では
タウべの圧勝で、はっきりいって勝負にもならなかったそうです。

加山雄三の映画「青島要塞爆撃命令」ではちょっと違っていた気もしますが。

その横になんとブラックバードSR-71Aがいました。

ソリッドモデルというのは木型をまず成型して、その上にアルミとか
塗料とかでコーティングするわけですが、この方はケント紙使用。

しかもこの説明によると、「ソリッドモデルとは違う」?

工程について聞くのを忘れたのですが、これはもしかしたら
ソリッドとは違い、中空なんでしょうか。

わたしは実際に、カリフォルニアのマーセド近くにある無名の航空博物館、
キャッスル航空博物館でこの実物を見ているわけですが、
実際のブラックバードの機体は色が禿げてまさにこんな質感でした。

こういうクラブで模型を作る方というのは、ネットでいろんな角度の写真を集め、
公開されている設計図や、とにかくあらゆる資料から設計を起こすので、
売られているキットを買ってきて作る、というのとは次元の違う「趣味」です。

このブラックバードを作った方も、機体の下部はどんな写真にも写っておらず、
アメリカに住んでいる人にスミソニアンまで行って写真を撮ってきてもらった、
とおっしゃっていました。

 

こちらも同じ方の作品、ケント紙による海軍の「景雲」

模型の楽しいところは、実際には存在しなかった飛行機や、試作機を
あたかも存在するかのように再現できることでしょう。

この「景雲」も偵察機として試作された機体です。

当時の日本機には画期的な形をしているのがわたしにもわかります。
景雲、昭和20年の5月と敗戦色濃くなったころ試作されました。

なんと、日本はこの時期三菱が開発したジェットエンジンを
この機体に積もうとしていた、というのにはびっくりしました。

試作の段階で1機目は排気タービンを装着しなかったせいか、
10分間飛ぶか飛ばないうちにエンジン内で火災が起きて失敗。
その後空襲で破壊され、2機目を作っているうちに終戦になったそうです。

さて、わたしのように飛行機に興味がないわけではないが、そこに
まつわるヒストリーや物語があればなおよし、というような、
模型作りの門外漢にとっては、同じ展示でもこのような演出があると
おっ、と目を輝かせて見入ってしまうものです。

本作品展のテーマは「大空を駆け巡る『夢』」ということで、
作り手の「こんなものを作って見たい」という夢が形になったものだそうです。

それでいうと、この作り手さんは、「ジーメンス シュケルト D IV」
半分がスケルトンになった写真を見て「作りたい」と思ったのだとか。

陸軍将校が飛行将校(パイロット)と地図を見ながら、爆撃地点を
打ち合わせ中、というストーリーで、制作者によると、

「パイロットなので少し背が低いんです」

あーなるほど!
人体は模型を買ってきてあちらこちらアレンジをしているそうです。

わたしが他の作品を見ていると、制作者が戻って来られて、
それまで中身を見せるために外していたプロペラを付けてくれました。

(わたしが一眼レフのカメラを持っていたので、取材かと思い、
戻って来られたということです。きっとがっかりさせたことでしょう)

例えばエンジンのディティールも、金属片を丸くくりぬいたりして、
おそるべき再現度となっています。
足下の石などは、水槽に使う小石を選んできたり。

前から見て気づいたのですが、機体の下にはオイル受けのバケツがあります。

この制作者の作品第一号はにゃんと、(猫戦闘機だけに)クーガーでした。
クーガーについてエントリをアップしたばかりだったのでちょっと嬉しかったです。

ところで、このクーガーさん、尻尾がありませんが?

こちらがこの模型の完成直前のお姿。

「落として壊してしまったんです」

にゃんと〜!

説明によると、

「機体にアルミ板を貼りながらキャノピーをヒートプレスしているところで
作品は高い棚から落る」(原文ママ)

なんか達観しきったようなこの表現、たまりませんわ。

同じ人の二作目、

И-153 イー・ストー・ピヂスャート・トリー チャイカ

チャイカはカモメという意味です。
そういえば「わたしはカモメ」というソ連の女性飛行士のセリフがありましたね。

実際は「わたしはカモメ」はチェホフの戯曲のセリフで、本人
(ワレンチナ・テレシコワ)が言ったのは単に

「ヤー・チャイカ」(こちらチャイカ)

だったとか。
今調べたらテレシコワ女史って81歳でまだご存命でした。

それはともかく、わたしがこの模型に食いついたのも人体付きだったから(笑)

毛皮のブーツとか、思いっきり雰囲気出てます。
不時着してしまって「うーむ、ここはどこ?」みたいな?

なんとこの飛行機「ノモンハン事件」で日本軍の九七式と空戦してます。

ただし複葉機のI-153は、日本軍の九七式にはかなりの苦戦をしたようです。
同時にソ連軍が投入したI-16と九七式はほぼ互角でしたが、
結局は搭乗員の質で勝る日本軍の圧倒的な勝利となりました。

白い機体の汚れ具合とかがもうリアリティありまくり。

やはり同じ人の一際目を惹くロケット的航空機、ポゴ。

コンベアXFY-1 POGO PLANE

アメリカ海軍、空母の上のスペース節約のためにこんなものを作っておりました。

U.S.A. Air News - Pogo Plane In Flight (1954)

ロケットのように垂直に離陸して、普通に飛んで、また垂直で着陸してしまう、みたいな。
確かに画期的でこれがうまくいけば、着艦はしやすいと思うけど、それじゃ

着艦した後どうやってハンガーデッキに格納するんですか?

と瞬時に疑問が生まれてきてしまいます。

実際はそれ以前の、

「着陸するときにパイロットが地面を見ることができない」

という理由で、計画は中止、試験機だけで終わってしまいました。
着陸を見る限り、コクピットは上しか見えておらず、バックミラーでもないと無理だったでしょう。
しかも、スピードも出ない(亜音速以下)のでなんの使い道もなさそうだと。

でもなんだかネーミングといい、飛んでいる姿といい、夢がありますよね。

 

何と言っても、アメリカも航空大国になる過程において、結構
おバカなことを試してはやっぱりダメじゃん、というような無駄な失敗を
やらかしてる証拠がこれ、という気がします。

本展覧会のテーマでいうと、大空を駆け巡る「夢」の最たるもの。

その夢も、その前に「荒唐無稽な」とつけてもいいような・・・
いや、真面目に実現確実!と思ってやってたのならすみません<(_ _)>

まあなんだ、愛すべきヒコーキ(馬鹿)野郎たちに乾杯(笑)

 

ソリッド模型展シリーズ、もう少し続けます。

 

 

 


振り向けば、エアボス〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-07-07 | 航空機

 

空母「ミッドウェイ」の飛行甲板から見た艦載機エレベーターです。
前にもご紹介しましたが、「ミッドウェイ」博物館はエレベーターを
ハンガーデッキ階に固定して、カフェというか休憩所として解放しています。

ここで買ってきたパックのサンドウィッチやバーガーを食べながら
航空機やこの前の広場の巨大な「水兵とナースのキス」像、そして
眼前に広がるサンディエゴの眺望を楽しむこともできるのです。

左のほうに見えているブリッジで、右手全般に広がる島
コロナドと陸が繋がれています。

画面の右に行くと海軍基地が広がっています。
コロナド・ブリッジが開通するまでは、車のフェリーも操業していたようですが、
今ではフェリーは人間専用となって完全に住み分けができているようです。

ちなみにフェリー料金は4ドル75セント、所要時間は15分です。
本当に呉から江田島みたいな感覚ですね。

ところでこのエレベーター部分に展示されているのは

Douglas A-4 「スカイホーク」Skyhawk

で、今はもうない「黒騎士」とあだ名されたVA-23攻撃隊の飛行機です。
操縦しやすく、「ハイネマンのホットロッドなんてあだ名もありました。

前回は空中給油のプローブの位置にやたらこだわってみたのですが、
その目で改めてこの機体を眺めると、

「ノーズから生やすのはイマイチなのでここに付けたんだな」

とつい考えてしまう場所にある給油プローブに目がいってしまいます。
クーガーの、ピノキオみたいにノーズから給油口が生えているのもなんですが、
だからと言ってこの場所も中途半端な気がしないでもありません。

映画「トップ・ガン」ではこれが仮想敵機を演じていました。

それからここでもお話しした「ライト・スタッフ」では、海軍出身の宇宙飛行士、
スコット・グレン演じるアラン・シェパードがこの「スカイホーク」で
母に着艦するシーンが描かれていましたが、
彼が本当にスカイホークに乗ったかどうかはその経歴からは窺えません。

シェパードは海軍のテストパイロット出身宇宙飛行士で、彼がテストした機体は  

McDonnell F3H Demon Vought F-8 Crusader, Douglas F4D Skyray 

 Grumman F-11 Tiger  Vought F7U Cutlass   Douglas F5D Skylancer

カットラス試験の時にはスナップロールの時に機体が復元せず、
機体を立て直せなくてベイルアウトしています。

そういえばカットラスは「ガッツレス」(根性なし)という不名誉なあだ名以外に
「未亡人製造機」とも呼ばれていたんでしたっけね。

また、スカイランサーのテストをしてこれが気に入らなかった彼は
上に無茶苦茶な報告を上げたため、海軍はこれを導入するのをやめて
代わりにF8Uクルセイダーを導入したという話も・・・。

サービス画像、アラン・シェパード海軍兵学校時代。

さあ、今日もフライトデッキに展示されている飛行機を見ていきます。

「ミッドウェイ」博物館は展示に工夫が行き届いており、さすがは
西海岸で最も人が訪れる展示艦であると感心します。
コクピットに座ることはできないと思いますが、上から見ることができます。

 North American T-2 「バックアイ」Buckeye

Tというからにはトレーニング、つまり練習機なのですが、空自が昔
採用していて「ブルーインパルス」にもなっていた三菱製のT-2と違い、
こちらはノースアメリカン社製の練習機です。

「バックアイ」というのは後ろに目がある人のことではなく(そらそうだ)
オハイオ州バックアイにあるノースアメリカンの工場で生産されたからです。

バックアイはトチノキのことで、オハイオは「トチノキ州」と呼ばれ、
またオハイオ州の人のことはそのものズバリ「バックアイ」といいます。
ついでに州立オハイオ大学のニックネームも「バックアイ」。

中・高等練習機として1990年代まで使われていましたが、その後

T-45 Goshawk「ゴスホーク」

に置き換えられて引退しました。
「ゴスホーク」はシェイプがT-4そっくりです。

wiki

艦上で給油中のゴスホークさん。
ゴスホーク=「オオタカ」というよりイルカっぽい。

North American A-5「ビジランティ」 Vigilante
爆撃機

unknownさん、お待たせいたしました(笑)

遠目に見てもまるでヒラメのようなうっすーい機体。
超音速爆撃機である「ビジランティ」は空中給油機も着艦フックも
空気抵抗を減らすため内蔵しています。

こんなでっかいのに乗員はたった2名、冷戦時代に核爆弾搭載用に、
先日お話しした「スカイウォリアー」の後継機として作られました。

こんな薄いのにどこに核を積むつもりだったのかというとここ。
インターナル・ボム・ベイ(内蔵爆弾格納室)といい、なるほど、
薄いが胴体が長いわけがこれを見るとよくわかります。

この図は、核爆弾を射出したという想定で、全体が4つに分かれていますが、
先端が「テイルコーン」、
真ん中の二つが燃料タンク、一番後ろのが核爆弾です。

というわけでこの「ビジランティ」、導入後すぐに起こったキューバ危機では、

「アメリカも核攻撃は辞さない」

ということをアピールするため、フロリダに配備されたのでした。

 

冷戦時代、米ソはお互い核爆弾を航空機に積んでウロウロさせていました。

落ちたら一大事の核爆弾を、落ちる可能性がある飛行機に載せること自体、
はっきりいって素人目にも無謀としか言いようがありません。

実際チューレ空軍基地米軍機墜落事故を始め、この時代に、
表沙汰になっているもの、
なっていないものを含め、アメリカは実際に
核を積んだ爆撃機を何機も
(一説には30件以上の事故があったとか)
墜落させているといわれています。

しかし爆弾の小型化と戦略原潜がその代わりをすることになったせいもあって、
核の爆撃機搭載は(ソ連との協議もあり)自然に廃止の方向に動きました。

しかしそれをいうなら現代の原潜も

「核を積んでウロウロしている」

ことには間違いないのですが、なんというか、空を飛んでるのと
海底に貼り付いているのでは随分安全度も違う気がします。

 

ちなみに「ビジランティ」とは「自警団員」という意味です。
試しに自動翻訳にかけると「自衛隊」となりました(´・ω・`)
自警団員といっても自宅警備員という意味ではありませんので念のため。

 

その後「ビジランティ」は、戦略爆撃機構想が終焉したので
変換を行うことになったわけですが、いかんせん発想が
特殊すぎました。

投下時はテイルコーンを切り離し、核爆弾をドローグガンで後方に射出するのですが、
この時、目標地点で空になった燃料タンクも一緒に射出する仕組みです。

しかし、カタパルトから射出すると、しばしば衝撃で燃料タンクが脱落したり、
また、ベイ内には1発の核爆弾しか搭載できない・・・・。

つまり爆撃機としては使えねーと判断され、どうなったかというと
その機体のでかさにも関わらず偵察機に生まれ変わったのでした。

・・というか、偵察機くらいにしか使い道がなかったんだと思います。

しかし転んでもだだでは起きないアメリカ海軍、核爆弾投下の際には
ウェポンベイだった部分に、偵察機本来の偵察用カメラだけでなく、
監視のための電子機器を一切合切内蔵するための「カヌー」と呼ばれる
フェアリング(空気抵抗を減らすためのエアロパーツ)をつけました。

写真機体下部に見えているのが「カヌー」です。

こちら、横から見た「カヌー」。

カヌーには電子偵察システム用のアンテナ、赤外線センサー、
そして側方監視レーダーなどが収納されていました。


「ビジランティ」の横に黄色い機械と紫の人がいます。
紫の人は通称「グレープス」という燃料補給隊。
燃料補給ができるのは「紫のシャツの人」だけです。

最初黄色い車は航空機の牽引車ではないかと思っていたのですが、
コメント欄でunknownさんに「それエンジンのスターター」とご指摘を受けました。

ですが、それ繋がりでトウイングの話題に突入してしまっていたので、
今更流れを変えるわけにいかず、そのまま掲載します。


牽引を行うのはやはり黄色いシャツを着た「イエローシャツ」軍団です。

このタイプは陸上でも使われるのですが、空母にはもう一つ別の形の牽引車があり、
それは高さがわずか50センチくらいの小さな形をしていました。

牽引車の操縦のベテランになると「名人芸」並みのスキルを身につけていて、
航空機同士の間隔わずか数センチのところを、ものすごいスピードで
スルスルと引っ張ってしまうのだとか。

もちろん牽引していて航空機を何かにぶつけるなんて、ありえません。


ちなみに、牽引の時にはこの車がトー・バーという接続のためのバーで
牽引する航空機に取り憑くのですが、その間航空機のコクピットには
必ず人が乗っていなければなりません。

八戸基地の記事でも出てきましたが、「ブレーキ・ライダー」という役です。

ブレーキ・ライダーの役目は、例えば海が荒れていたり、あるいは
牽引車の重さが足りなくて、機体が滑ったり動いてしまったりした場合、
ブレーキをかけて機体の暴走を止めることです。

ただ、自分で操縦するならともかく、牽引車に引っ張られるコクピットに
ただ乗っているのは、パイロットでもない者にとって本当に怖いものだろうなと思います。

特に怖いのがエレベーターに乗る時

機体はコクピットを外に向け、しかもヘリコプターなどは、
スキッドを端ギリギリに寄せてエレベーターを動かすため、その時
コクピットはパレットから完全に海の上に突き出した状態になります。

この時、海が荒れていたりすると、機体がもろに波をかぶることもあるので、
ただでさえ避けられがちな「ブレーキ・ライダー」、こんな日は誰もやりたがりません。

海に慣れ、艦を住処として、いつも任務をこなしている乗員にも
怖いものが存在するということは興味深いですね。

ちなみに、ただ一つ、率先してブレーキライダーを皆がやりたがるケースは、
先日もお話しした、
アラートの際のコクピット乗りこみだけでした。

ただじっとして寝ていれば、じゃなくて目をつぶって待機していればいいからです。


余談ですが、かつての「ミッドウェイ」乗員の証言によると、その人が勤務中、
当時の「ミッドウェイ」のエアボスは、どういうわけか牽引車の操縦が好きで、
しょっちゅうフライトデッキに降りてきては(エアボスの勤務場所は艦橋)
「イエローシャツ」になりきって、艦載機を牽引するのが趣味という人でした。

彼は一般的なエアボスがそうであるように、戦時平時を問わず
「寝ない」人でしたが、エアボスにしては超気さくなタイプと評判で、
そうとは知らずに気安く牽引を任せた何も知らない新入りを、
背中の「AIR BOSS」という文字でしょっちゅうビビらせていたそうです。

ただ黄シャツ軍団のベテランによると、くだんのエアボスの牽引は
いわゆる「下手の横好き」というやつだったそうなので、エアボスでなかったら
趣味の牽引などとてもやらせてはもらえなかったと思われます。

おそらくエアボスが牽引する機のブレーキライダーには、
部隊の「生贄」が乗らされるはめになったことでしょう(-人-)ナムー


 

続く。



F9F「クーガー」空中給油の長すぎるブーム〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-07-06 | 航空機

空母「ミッドウェイ」のハンガーデッキに展示されている航空機を
一つづつ懇切丁寧に紹介しています。

うおおっ、これはまたいかにも時代を感じさせるシェイプの飛行機。
艦載機として生まれた飛行機そのものといった翼の形をしているではありませんか。

 

Grumman F9F 「パンサー」Panther

グラマンの「猫一族」、パンサーです。
どこかで見たような気がするけど「イントレピッド」艦上だったかな?
と思って調べたら、その時に見たのは「クーガー」の方でした。

両者は似ていますがF9Fの「パンサー」に対し、主翼を後退翼にしたのが「クーガー」です。

にゃんと!(猫だけに)

パンサー(下)とクーガーが一緒に飛んでいる写真をwikiで見つけました。
翼の形状だけが違うのがよくわかります。
ちなみにクーガーは、翼にエルロンが付いていない数少ない飛行機の一つです。


朝鮮戦争が起こった頃、空母艦載機として最初に採用されたジェット戦闘機で、
1947年に制式採用になってまだ3年の新型でしたが、空力設計においては
翼が直線的であるなど、明らかにライバル戦闘機には劣っているといわれていました。

ただ、その割には敵地深くもぐりこむように攻撃したり、敵地やあるいは
追い詰められた前線の部隊に即座に一発爆弾をお見舞いする、などといった
任務には大変優れていたため、戦闘機としてよりこちらで重宝されたといいます。

 

性能的にはあまり優れていない飛行機でも、
パイロットの腕で2世代分は
カバーできる、ということを
我が空自のファントムパイロットがF-15相手に証明した

という話を最近どこかで読んだ覚えがあるわけですが、

参考:【下剋上】「ファントムII」は死なず 
   退役間近、空自「F-4EJ改」が「F-15J」をバンバン堕としているワケ 


「パンサー」にも同じ話があります。

朝鮮戦争時代、アメリカ海軍で初めてジェット機(MiG15)を撃墜したのは
実は「パンサー」初期型のF9F-2でした。

 

そういえば、わたしも、「イントレピッド」のクーガーを語るログで、
初期のパンサーに乗ってMiG15を撃墜したエイメン少佐とやらの写真を上げたんだったわ。

MiGを撃墜して帰ってきたエイメン少佐が、機嫌よく機体から降りてきてるシーンですが、
機体がまさにこのパンサーであることが星の位置からわかりますね。

 

上の写真は、英語サイトの「航空機今日は何の日」で見つけました。
これによると、撃墜されたMiGパイロットはミハイル・フョードロビッチ・グラチェフ大尉

別名「日本やっつけ隊」であるサンダウナーズのドライバーであったエイメン少佐は、
「フィリピン・シー」より発進したF9F「パンサー」で、グラチェフ機に
20ミリ砲を
四発撃ち込み、撃墜したとされています。

MiGが墜落するところは確認されていませんが、グラチェフ機は未帰還となったので、
被撃墜認定されたというものです。

F9F-8P 「クーガー」COUGAR

何ということでしょう、「ミッドウェイ」では「パンサー」の隣に、
後継型の「クーガー」も展示してあるじゃないですか。
サービス満点です。

しかし後継型と言いながら、こうしてみると翼だけでなく機体の形も全く別物ですね。
F9F-8P は写真偵察機バージョンで、おそらく撮影機材の関係でノーズを延長しているため、
少しシェイプが
変わって見えるのかもしれません。知りませんが。

これによって同機は上空からの撮影が水平、垂直どちらからも可能になりました。


そしてつい先ほども書いたように、初期の「パンサー」を後退翼にしたのが「クーガー」です。
後退翼を採用した理由は、艦載機として翼がよりコンパクトにたためるからかな?

と素人のわたしなどは考えてしまいますが、もちろん目的は機能向上。
後退翼にすることで高亜音速〜遷音速領域での抵抗減少や臨界マッハ数を上げることができる、
つまりぶっちゃけ速くなるのです。

 

 

wiki

サイドワインダー・ミサイルを翼の下に装着した偵察型「クーガー」。
ノーズの下にカメラのためのカヌー型レドームがあり穴が開いているのが見えます。

写真偵察型の「クーガー」は全部で110機製作されました。

また「パンサー」と比べていただければ一目瞭然ですが、「クーガー」は
空中給油のためのブームを鼻面というかフロントから生やしているのが特徴です。

冷戦時代になって、空中給油の必要性を感じたアメリカ軍は、空中給油の方法を模索しましたが、
その段階で実験的にこのスタイルのブームをつけられたのが「クーガー」でした。

これは1950年台半ば、空中給油の実験を行なっているところで、
A3D-2「スカイウォリアー」が F9F-7「クーガー」に給油しています。

空中給油の方法には二種類あって、こちらはドローグと言う小さな漏斗のついた
給油パイプをタンカーが伸ばし、給油を受ける側はその漏斗にプローブを差し込む

ドローグ&プローブ方式

です。
この方法は小型機に限られます。
大型の飛行機への給油はもう一つの方法、直接相手の給油口にパイプを挿入する、

フライングブーム方式

で行われます。

フライングブーム方式でC-141に給油中のKC-10
なるほど、どちらも大きいですね。

KC-10は空中給油と輸送の専門機で、愛称は「エクステンダー」
その意味は「拡張するもの」。

何をエクステンドするかというと、そこはやっぱり

「給油する機体の滞空時間」

でしょう。

そう豪語するだけあって?KC-10は副給油装置として、小型機に給油できる
プローブ・アンド・ドローグ方式の給油装置1基も装備されています。

つまり、給油相手によってアタッチメントをつけ替えたりする必要がなく、
アメリカ軍の規格に準じた、いずれかの空中給油装置を持つ航空機であれば、
ほぼ全ての航空機に対して給油が可能となっているエクステンダーなのです。

ただし、ドローグとブームの両方式を同時に用いることは不可能だそうです。

大きな飛行機だと給油機から出されたプローブを受け取るのは難しいのかもしれません。
プローブ式で受ける方が小さいと、こんなに一度に給油ができます。

あー可愛い・・・・(萌)

クーガー正面から。

思わずかっこ悪っ!という言葉が出てしまうわけですが、
やっぱり後からつけたのでノーズが全体のシェイプをまずくしてるという感じ。

真正面からこうしてつくづく眺めると、やはりこういう改装を重ねた機体は
造形的にどこか無理があるという気がしてしまうんですね。

個人的意見ですが。

そして、空中給油が導入されようとしていた頃に、実験として
このような長〜い給油プローブを
つけてみたものの、無駄に長すぎて、
タンカーから伸ばされる小さな傘をキャッチするのは
結構チャレンジングだね、
という話になり(たぶんね)、いつの間にかそれ以降
の給油プローブは
クランク型の短いものになっていったのではないかとわたしは想像します。

だいたいタンカーから出てくるあの傘を受け止めるのに、こんなに長い必要あります?


向こうに見えるのはおなじみ、

 Grumman A-6「イントルーダー」 Intruder 艦上攻撃機

戦闘機でも爆撃機でもなく、艦上攻撃機は地上、あるいは洋上の目標物を
爆撃するのが主任務です。

攻撃型のイントルーダーは「侵入者」という意味ですが、
この電子戦機型は、

プラウラ=「うろうろする人」

その後継型は、

グラウラー=「唸る人」

であるのはもうこのブログ的におなじみですね?

ところで、イントルーダー・プラウラー&グラウラーには、
他と見間違えようのない特徴的なツノがおでこに付いています。

これって、実は空中給油のための給油ノズルなんですよ。

 ツノを使用しての給油例。
スーパーホーネットから燃料を補給される「プラウラー」です。

それにしてもこれ、どうして小さい方が大きな方に給油をしてるんでしょうか。
そもそもホーネットが他の飛行機に給油することがあるとは知りませんでした。

しかしこうしてプラウラーの給油シーンを見ると、「クーガー」の
給油プローブの長さって、
いかに意味がなかったかわかるような気がしますね。

給油のことだけ考えるならこの形が一番リーズナブルなんじゃないかしら。

ただしこのツノをデザイン的に了とするかどうかは全く別問題です。

この時ちょうど塗装をし直すか展示をやり直しているらしく、
足場が組まれ
周りに近づけないようにロープが張ってありました。

「イントルーダー」は全天候型の攻撃機としてデザインされており、
ナビゲーション・コンピュータを、攻撃のために搭載していました。
そのおかげでベトナム戦争の時、北ベトナムの奥地に入り込む危険で複雑な任務にも
最適な選択を行い的確な攻撃で相手に効果的な打撃を与えることができたのです。

A-6は1990年代になって F/A-18 「ホーネット」が登場するまで 
中型爆撃機の主流として活躍し続けました。

その近くには同じツノ族の「プラウラー」もいました。

Grumman Aerospace EA-6B Prowler 

プラウラーは先ほども言ったように電子戦機で、「スカイナイト」
「スカイウォリアー」の後継機として1971年に置き換えられたものです。

ベトナム戦争からイラク、アフガニスタンまで、「プラウラー」も
後継のF/A-18ホーネットが登場するまで電子戦機の主流として広く配置されました。

ところで、今の戦闘機とかって空中給油のプローブはどうなってるの?

F/A-18ホーネット空中給油(KC-30A)・オーストラリア空軍 - F/A-18 Hornet Aerial Refueling, Australian Air Force
 

 
今はプローブを内蔵して必要な時だけ出してくるんですね。
やっぱりブームが外に出てる必要ってなくね?長い必要はさらになくね?
ってことでこういう形に落ち着いたのかと。
 
 

続く。


ホエールと呼ばれた「スカイウォリアー」〜空母「ミッドウェイ」博物館

2018-07-05 | 航空機

空母「ミッドウェイ」の見学、メインデッキにあるギャレーやメス、
医療施設であるシックベイなどの乗員の生活空間などの見学を終わりました。

順路を進んでいくと、外側の階段に続いていました。
階段を登っていくとそこがハンガーデッキ階に当たるところです。

ハンガーデッキ階の高さに当たる踊り場に、ライフラフトが展示してありました。

Life Laft とは日本語で救命いかだです。

型番はMark 6 、25名用で、万が一「総員退艦」の号令がかかった時、
乗員の脱出のためにはこの筏が167隻用意されていました。

それはフライトデッキ(飛行甲板)の下に特別にマウントされていて、
人力で、あるいは自動的、海面に落下すると、もしくは
20フィート以上沈む前に放たれるしくみになっていました。

つまり、人力で海面に落とせなかったラフトは、たとえ船と一緒に沈んでも
6m沈むとそれだけが切り離され浮上することになっていたのです。

それはご覧のようなカプセルになっていて、自動的に展開する救命いかだ、
非常食、サバイバルキットが一式含まれており、要救助者が
救助されるまでの間、命をつなぐことができるようになっています。

子供が見ている写真の上にある茶色いのが救命いかだです。
これが広がって二十五人の男が乗ることができるのか?
と不思議になるくらい小さく収納されていますね。

それが一旦展開すると、この上の図のようになるのです。

膨らませるためのホースはもちろん、上部に覆いをすることもでき、
内部には電気を点灯することもできました。

レーダー探査にかかりやすいようなスクリーンが備えてあり、
どういう仕組みかはわかりませんが、錨まで下ろすことができます。

構造的には海から上がってきやすいように、下図右側に
「ボーディング・ハンドル」がついていて、これを掴めるようになっています。

8番と14番は食べ物と水。
喧嘩にならないように(多分)一人1パックずつになっています。

水をかい出すバケツ(一番左)、4番は鏡ですが、これは信号に使うためのもの。
6番はホイッスル。

映画「タイタニック」でロウ機関士のボートが救いに来た時、朦朧としながらも
ローズはボート漕ぎ手死体からホイッスルを取って吹き、助けを呼んでいましたね。

7番はサバイバル用の毛布ですが、とても薄いもののようです。
そして面白い!(本人たちには面白くもないですが)と思ったのが10番。

何とこれ、外からはわかりませんが

サバイバル・フィッシング・キット

つまり非常食を食い尽くしてもまだ助けが来なかった場合、
これで釣りをして飢えをしのいでくださいというわけです。

ファーストエイドのキットももちろんありますが、特に
12番は酔い止めの薬です。

空母の乗組員がいきなり筏で波に揺られたら酔うかもしれない、ってか?

そして13番は「シーダイマーカー」。
海に放り込むと一帯が蛍光緑に染められて上空からの認識を容易にします。

というわけで、もう至れり尽くせりなので、一度くらいはこの救命いかだでの
サバイバルを経験してみるのもいいかな?という気にさせてくれますね!

というのはもちろん冗談ですが、これらの同梱品や工夫などは、船の沈没と
海上での漂流を経験した人から意見を聞いて作られていると思われます。

ところで皆さん、昨年公開された映画「パシフィック・ウォー」ご覧になりました?

 どうして日本の配給会社はわざわざ「インディアナポリス」という原題を
こんなつまらん題に変えてしまったのかとわたしは大変不満ですが、
それはともかく、この映画、邦題の「パシフィック・ウォー」がいかに
内容からみてピントが外れているか、ってくらい、ストーリーが

「艦が撃沈されて海に漂流し、鮫の恐怖に怯えながら救出を待つ」

シーンに重きが置かれており、戦争映画というよりウェイトでいうと
パニック映画、サバイバル映画と呼ぶべきかもしれません。

(もちろん、わたしはそれは皮相的な見方であって、本質はやはり
戦争映画であると思っており、近々これについても書く予定です)

映画で沈没から逃れた「インディアナポリス」の乗員がつかまって
漂流する「ラフト」、これは周囲が浮きになっていて、
チェーンの張られたところに乗るという仕組みです。

確かにこれだと海水が入ってきて転覆する心配はないですが、
ずっと下半身が海に浸かりっぱなしというのは、大変な苦痛だと思われます。

Survivors of USS Indianapolis floating in rubber rafts at sea and being rescued 

この実際の映像には、1:12あたりに救出した後のラフトが固まって
浮いているのが映っています。

「インディアナポリス」はご存知のように帝国海軍の潜水艦に魚雷を受け、
命中からわずか12分で沈没しています。

乗員は1,199名のうち約300名が攻撃で死亡し、
残り約900名のうち生還したのはわずか316名。

ほとんどは5日後に救助が完了するまで、救命ボートなしで海に浮かんでおり、
水、食料の欠乏、海上での体温の低下、これらからおこった幻覚症状、
気力の消耗などで亡くなりました。

この映画やディスカバリーチャンネル(多分”シャーク・ウィーク”という季節シリーズ)
など「インディアナポリス」沈没を扱った媒体でサメが演出として過剰に語られたため、
大多数がサメの襲撃の犠牲者になったかのように思われているようですが、
おもな原因は救助の遅れと体力的限界が死亡の原因だと言われています。

つまり、例えばこのようなラフトがあれば、「インディアナポリス」の
生存者は二倍くらいに増えていたかもしれないのです。

それにしてもこの映像の冒頭で「インディアナポリス」の出航シーンがあり、
舷側の乗員たちがくまなく映し出されていますが、その人々の
三人のうち二人はこの後亡くなったのだと思うと、観ていて切ないです。


さて、そこから階段をもう一階上がると、いよいよフライトデッキです。
「ミッドウェイ」はいつ行っても見学者が多く、どの写真にも人が
バッチリ写り込んでしまうのですが、いなくなるまで待っている時間もなく、
常におかまい無しに撮ってしまいました。

都合のいいことに、アメリカ人の夏場での野外におけるサングラス着用率は100パーセント。
ネットにアップするにあたって目隠しをする必要もないのでありがたいです。


それはともかく、デッキに出るとそこは艦尾側でした。
ここから航空機を見学していくことにします。

まず最初に遭遇するのはご覧の「スカイウォリアー」。

EKA-3 Skywarrior スカイウォリアーまたは”ホエール”
ダグラス・エアクラフトカンパニー

電子戦機であり「タンカー」であると説明があります。
この場合のタンカーは空中給油機と考えていいでしょう。
設計者はエド・ハイネマン。あーすごくこの名前聞いたことがある。

いかにもな感じのするユダヤ系技術者。

ちなみにハイネマンがグラマンで設計した飛行機は以下の通り。

やっぱりこの中の最高傑作はドーントレスとスカイホークでしょうかね。
よく聞くからという以外なんの根拠もなく言ってますが。


スカイウォリアーは空母で運用する飛行機としてはもっとも大型の機体で、
その大きさゆえ一般的には「ホエール」という呼び名があったそうです。


どうしてこの大きな機体を空母で運用しなければならなかったかというと、
当時の技術では小型の核爆弾を製造することができなかったからです。
この時代、米ソの航空機が核爆弾を積んであっちこっちウロウロしていたという話を
以前別の機会にお話ししたことがありましたが、「ホエール」もまた
その戦略爆撃機の一つとしてデザインされたため大きかったというわけです。

広い範囲のセンサーとジャマーを搭載した電子戦機の一つでしたが、
結局のところもっとも従事した任務は「フライング・ガスステーション」としての、
つまり空飛ぶガソリンスタンド、空中給油任務でした。

飛行中の航空機に飛びながら給油するのが空中給油で、
スカイウォリアーのバスケットボールのゴールのような給油ノーズを
給油する飛行機に連結して行いました。

The US Navy's twin jet A3 'Sky warrior' provides mid air refueling to the bombe...HD Stock Footage

あまり画質は良くありませんが、ベトナム戦争時代の給油シーンが見つかりましたので
貼っておきます。

ちなみに体は大きい割に、スカイウォリアーの定員は3名です。

この機体は「ミッドウェイ」で運用されていたようですね。
脚を格納するスペースが横についていて面白いのでアップで撮りました。

Belly landing NAS ATSUGI A-3B 胴体着陸Slide photograph Bu.147666


厚木でまだこの航空機が現役だった頃、胴体着陸したことがあったようです。
飛んでいるところも写っていますが、この脚格納庫に
きっちりと脚が収まっている(でもハッチは開いている)様子を
2:10あたりで見ることができます。

艦尾には乗組員の等身大パネルが設置されていました。
いたるところにこのような人が立っていて、セルフィーに活用されている模様。
アメリカも今日びは「インスタバエ」だらけです。

ちなみにこの写真に撮られている人はモデルなんかではありません。

現在もアメリカ海軍に勤務している、空母艦載機の搭乗員です。
特にかっこいい人を選んで写真を撮ったのだと思いますが、
このパイロットも、ブルース・ウィリス系のイケメンです。



これからは、ハンガーデッキに展示されている艦載機をご紹介していきます。
実は本当に自信のない分野で、またとんでもないことを書いてしまうかもしれませんが、
そこはそれ、どうかご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。

<(_ _)>

 

続く。