アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダ自体の中に没入する近道

2023-07-20 06:30:32 | 開拓されるべき地平たち

◎只管打坐からの身心脱落との類似

 

OSHOバグワンが、クンダリーニ・ヨーガのことをクンダという世界全体・宇宙全体(生の世界も死の世界も含む)に、個人が肉体からスタートして、一歩一歩徐々に進んで行く迂遠な道であると、簡単に説明している部分がある。80億もの個々人は、それぞれ自分のクンダリーニのエネルギー・コードに沿って上昇し、世界全体で見れば少なくとも80億本以上のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)が束になってニルヴァーナであるクンダに向かっている構図である。各人は、クンダ到着時には、自分の岸に到達したと思い込んでいるが、その岸は実はすべてを含む一つしかない大洋の岸である。

 

個々人のクンダリーニのエネルギー・コード(霊線)を船と表現し、究極であるクンダのことを岸と呼ぶ表現は、道教にも古神道にもあって、インド独自のものではない。仏教でも到彼岸などと言う。

 

このクンダリーニ・ヨーガの道は、迂遠ではあるが、進捗していることがわかりやすい。これに対してOSHOバグワンは近道である『クンダ自体の中に没入する』冥想法があることを説明している。これは近道だが、近道だから簡単だということでなく、かえって困難であるとも言っている。

 

『これまで話したことはないが、もうひとつの道がある。 クンダリーニの目覚めのために一般化されていることを説明してきたが、クンダリーニはクンダ、つまり池全体のことではない。これは個々に話さなければならないものだが、もうひとつ別の道がある。世界でもごく少数の 人しかこの道をとらなかったが、それは私たちがよく知っているクンダリーニを目覚めさせる道ではなく、クンダ自体の中に没入していくものだ。それはエネルギーの一部を目覚めさせ、 それを成長のために用いるようなものではなく、クンダつまりは原始のエネルギーの貯水池に、自分の意識をそっくりそのまま溶け込ませてしまうのだ。その場合には、どんな新しい感覚も目覚めないばかりかいかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸する。その場合人は直接、神あるいは至高なるものに遭遇し、それを体験する。

クンダリーニの目覚めを通じて起こる最初の体験は、魂のものだ。それとともにあなたは、自分の魂が他の人の魂とは別個であることを知る。 クンダリーニの覚醒によって成就した人々は、普通、複数の魂の存在を信じる。彼らは、この地上に生ける存在と同じだけの魂があり、すべての人は別々の魂を持っていると言う。

 

だがクンダの中に直接没入した人々は、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もないと言う。多くのものではなく、一なるものだけが存在すると言う。なぜならクンダに身を没入することで、自分自身のクンダと溶け合うばかりでなく、すべてのクンダ、集合的な宇宙的なクンダと溶け合うからだ。クンダはひとつだ。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社p353から引用)

 

このように『クンダ自体の中に没入する』冥想法とは、魂は存在せず神のみが在る、神以外に何もなく、さらにどんな新しい感覚も目覚めず、いかなる超感覚体験もなく、魂の体験さえも完全に逸するということ。つまり只管打坐からの身心脱落では、超能力、霊能力が目覚めないことが知られているが、まさにそれと同じではないかと考えられる。

西洋錬金術も漸進型の前途遼遠な道だが、「近道」があることは言及されてはいるが、それがどんなものか説明されたものを見たことがない。

このクンダ自体の中に没入する近道が、只管打坐であることを証明するには、神人合一体験のある者が只管打坐で身心脱落することで確認できると思うが、一生で二度神人合一することであり、容易ではなく、これまた次の時代に証明されることを期待するテーマである。

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