◎容赦なく、苛酷で、世知辛い
お国ぶりで、宗教戒律や道徳律の規制の厳しい国では、現実にはあるものでもあってはならないという建前を優先し、まるでないかの如く行われる国がある。それは、キリスト教をバックボーンとする近代西欧文明国全般に見られる特徴である。
これに対して、あってはならないかもしれないが、どんな醜悪で、不道徳で、俗悪なものであっても、あるものはあるという見方をとる国がある。それは中国が代表的である。
中国では、民衆も指導者もそのような見方をしているからと言って、それが究極の幸福により近いといえば、必ずしもそうではない。
ジョン・ブロフェルドが、北京在住の満洲族の道教の栄道士に世界の見方を問うた。
『平静さが音楽や感情への最善のアプローチであるとすれば、概念に関連する問題の場合にはそれがもっと評価されてしかるべきである。私のように皇帝独裁体制下で大きくなった若者は、人民政府という観念に大喜びした。後年、悪漢一味が権力を握ると、いまは亡き皇帝の慈悲を涙とともに思い返すのだ。私は覚えきれないほどたくさんの革命と戦争を経験してきたから、自信を 持ってこう言うのだ。
「事物が本来あるがままの姿とは異なったものであってほしいと思うのは、不必要に自分を苦しめる結果になる。私は七十四歳のこの年になっても、あの六年そこそこの幸福だった時期を回顧 できる。その時期は、日本軍の中国占領という暗黒時代に始まった。暴虐と死が横行し、短くもあれば長くもあった混乱の時代で、私はずっとそれを憎悪していた。
「しかし、あるとき突然、悟りをひらき、心の束縛から解き放たれた。善悪は一枚の硬貨の両面の名称にすぎず、両方ともに受け入れるか、ともに拒絶するかのどちらかでなくてはならない、という悟りである。
「一瞬にして、私は生涯の病――つまり範疇の病である――-から回復した。我々の苦痛の大半は、あれやこれやのものに望ましいとか憎らしいとかのレッテルを貼ることから派生している、という認識によって、この病が癒されたのである。
「人間にもともと備わっているこれらの苦痛や悲痛は、たとえレッテルをはがしても、依然としてそのままに存続する。だが、いったん我々が現実的であろうと決心し、現在または将来そこに存在するものを、そうであるべきはずのものの一部として受け入れると、たちまちにして悲痛は 悲痛でなくなるのだ。」』
(道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P340-341から引用)
人は本来、善に生き、天国的に生きるべきである。
ところが幼少からネガティブな環境に育つと、なかなか天国的に生きる気分にはなりにくい。一般に、長じていろいろ理不尽な事、不条理でつらい目にあうことを繰り返していくうちに、世の中には地獄的なものもあるものだと気がつく。
世の中には、天国的なものも地獄的なものも存在しているが、それを表立って認める社会と認めない社会がある。中国は認める社会であって、あるものはあるのだと認める4千年の歴史である。
栄道士には、あるものはあると認める率直さはあるが、その目は外部に向けられている。あるものはあると認めることが知性で行われているようである。だが、その目が自分に向けられていれば、このようにすまして訳知りには語れないのではないかと思う。
また今の中国に見るように社会全体があるものはあると認める社会は、容赦のないものであって、苛酷な社会である。世知辛いのだ。