◎英邁にして光輝ある王の卓越した教え
悟り後の修行というのは、禅で言われるのだが、チベット密教の『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』という文章を読んで、悟り後の修行・聖胎長養の狙いについて、気づかされるところがあった。
禅の十牛図では、第三図見性(見仏、見神)が最初の悟りにあたり、これから悟後の修行が始まる。第八図の一円相(ニルヴァーナ)で悟り後の修行が完成する。
一方チベット密教では、母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させるという修行を行うのだが、これについて説明したのが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』。母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させる修行は、悟り後の修行と言えるように思う。
禅の十牛図で言えば、母の光明(原初の光)は牛にあたる。子の光明は牧童にあたる。牧童はやがて牛と合体し、その際に牛だけが残るのでなく、牛は消えて牧童だけが残るが、それは大悟ではない。大悟(一円相)では牧童すらも消える。
見性に該当するのは、チベット密教では母の光明(原初の光)の目撃。これは、肉体死のプロセスでも見られ、くしゃみでも見られ、深い冥想でのトランスでも見られる。目撃した後が悟り後の修行であるが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』では、その三つの要点を説いている。
第一の要点は、リクパそのものに直接導かれる。
※リクパ:母の光明(原初の光)。
第二の要点は、唯一これだけであると決定する。
※これとは、母の光明(原初の光)と子の光明とが合体した意識。
第三の要点は、湧きおこる思考の解脱をはっきりと確信する。
※湧きおこる思考の解脱:浮かび上がる執着・嫌悪、幸福・哀しみ、思考など湧きおこるすべてのものは、意識にいかなる痕跡も残さず消える(解脱する)。
この三つが、悟り後の修行の心構えなのだろうと気がつかされるところがあった。
悟り後の修行というのは、禅で言われるのだが、チベット密教の『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』という文章を読んで、悟り後の修行・聖胎長養の狙いについて、気づかされるところがあった。
禅の十牛図では、第三図見性(見仏、見神)が最初の悟りにあたり、これから悟後の修行が始まる。第八図の一円相(ニルヴァーナ)で悟り後の修行が完成する。
一方チベット密教では、母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させるという修行を行うのだが、これについて説明したのが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』。母の光明(原初の光)を見て後に、子の光明と合体させる修行は、悟り後の修行と言えるように思う。
禅の十牛図で言えば、母の光明(原初の光)は牛にあたる。子の光明は牧童にあたる。牧童はやがて牛と合体し、その際に牛だけが残るのでなく、牛は消えて牧童だけが残るが、それは大悟ではない。大悟(一円相)では牧童すらも消える。
見性に該当するのは、チベット密教では母の光明(原初の光)の目撃。これは、肉体死のプロセスでも見られ、くしゃみでも見られ、深い冥想でのトランスでも見られる。目撃した後が悟り後の修行であるが、『英邁にして光輝ある王の卓越した教え』では、その三つの要点を説いている。
第一の要点は、リクパそのものに直接導かれる。
※リクパ:母の光明(原初の光)。
第二の要点は、唯一これだけであると決定する。
※これとは、母の光明(原初の光)と子の光明とが合体した意識。
第三の要点は、湧きおこる思考の解脱をはっきりと確信する。
※湧きおこる思考の解脱:浮かび上がる執着・嫌悪、幸福・哀しみ、思考など湧きおこるすべてのものは、意識にいかなる痕跡も残さず消える(解脱する)。
この三つが、悟り後の修行の心構えなのだろうと気がつかされるところがあった。