アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

北大路魯山人が出口すみの書を激賞す

2023-07-26 06:49:54 | 古神道の手振りneo

◎よがかわり てんかむるいの へたなじをかく

(2019-06-02)

 

北大路魯山人は悟っていたかどうかは知らない。毒舌、傲岸不遜だったから未悟だったのだろう。

彼は、明治末、朝鮮、中国国内を旅行、滞在し、書道や篆刻を学び、書家であり、篆刻家であり、加賀料理を極め、織部の作陶家であった。

彼の父は、彼が生まれる前に他界。京都の巡査のもとで育てられ、尋常小学校を出ると丁稚奉公した。いわゆる不条理の陰を出生直後から負うという、覚者によく見られる生い立ちである。

昭和30年陶工としての人間国宝を辞退。これには、イチローの国民栄誉賞を遠慮する心情と通底するところがあるのかもしれない。

 

さて出口すみは、王仁三郎の細君。王仁三郎は折に触れ自分の字よりすみのほうが良い字を書くと評価していた。

 

戦後、備前焼の金重陶陽(人間国宝、大本信者)のところに北大路魯山人が備前焼研究のため逗留していたのだが、床の間に仮名で「よがかわり てんかむるいの へたなじをかく」という掛け軸のあるのを発見。

北大路魯山人は、これほどの字を書く人が今の世にいるということが不思議だとして、亀岡まで彼女に会いに行った。後に北大路魯山人は、北鎌倉の自邸の床の間に彼女の手紙を表装して、来客にそれを自慢していたという。

北大路魯山人は彼女の字を天衣無縫と評している。

 

「よがかわり」は、敗戦。本守護神、本来の自己、第六身体は、もともと「てんかむるい」以外のなにものでもない。

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書と気合

2023-07-26 06:27:26 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎一刀艮(とど)めを刺す場合の意気と気合が必要

 

女優吉岡里帆は、書道八段で常時筆ペンと便箋を持ち歩いている由。PC、タブレット、スマホの時代になって、若い人の書く字が昔の人よりきたなくなったとは、よく言われる。私は悪筆なので、若い人たちのそれを言う資格はないが、妙齢の美女のメモの字が拙いのは少々がっかりもする。その点で吉岡里帆の心映えには、少々見上げるものがある。

 

というわけで、能筆で鳴る出口王仁三郎が水墨で達磨図を書いた。画ではなく書について彼の書道論を捜してみたのだが、ないので、画に関しての文章を上げてみるが、書道の精髄とはこのようなものであろうことはわかる。

『前代未聞の水墨大達磨を描きたる体験

一、調子の外れる事は意外の意外甚だし。

二、肉細なれば貧弱に見ゆ。

三、肉太にても矢張り貧弱を感ず。

四、一筆描きの本意として一線一点にも、有つてもよし、無くても好しと見るべき無用の筆は、一筆描きとして働きの真価なし。茲に於て、一筆描無二の大作品としては実に体験家以外に到底判るものにあらざるを断言して憚らず。又仮に試みたる画師のあるべきも、容易に成功し得ざりしなるべし。

 之を貧弱に流れず、権威ある剛健作に近づかさんには、

 第一全身の気合を固め、線を引くに一分刻み毎に腕の力を押込むること。

 急転直下脱兎の気合なるべき事。

 腕で描くといふよりも体力にて描き、殊に開眼の一点はカハセミの魚をねらつて飛び込む時の気分を要す。一投墨の真諦この辺に存するなり。

 如何に肉太の筆を用ゆるも只の勇気は紙上に上走り、決して剛健の力と権威は紙上に躍如たらず。要は一刀艮めを刺す場合の意気と気合を必要とす。

 快心の作に近づきて苦心体得上茲に告白するものなり。』

(月鏡/大画揮毫について/出口王仁三郎から引用)

 

彼の書道論には、自我を離れた筆こそ最高であってこれを「愚筆」と称しているのがある。すなわち出口ナオ出口スミの筆こそが小野道風、菅原道真、弘法大師を越えるものだとしているが、筆がすべったのだろうか。

『日本で書道の大家と云へば小野道風、菅原道真それに弘法大師の三人であるが、三人共まだ拙筆の域を脱していない。その点になると開祖様のお筆先の文字は一見甚だ拙いやうに見えるが、既に愚筆の境地に達した大文字である。二代の書もさうだ。

愚筆の文字は必ず筆の中心が働いてゐる。筆の心で字が書かれてゐる。弘法大師の文字は筆の中心から少し離れたところがある。愚筆の文字は稽古したからと云つて、又書こうと思つて書けるものではない。本当に自我を離れて、自然に筆を動かすやうな境地にならないと書けるものではない。知名の士の書の中に、一見甚だ上手な書を書いてゐる人があるが、大抵は技巧が上手な丈で愚筆の境地からは甚だ遠いものが多い。』(『神の国』昭和10年(1935年)9月号 拙筆と愚筆/出口王仁三郎から引用)

 

書とは、肚(丹田、スワジスターナ・チャクラ)と気合で書くものだとは、門外漢からすれば意外だが、一道専心とはそういうものだろう。

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