◎舟橋は、地獄の渡しか、極楽の渡しか?
謙翁と言えば、一休(周建)が17歳から21歳の多感な修行時代に師事した和尚で、その死に際して自殺未遂までしたほどの大物覚者。謙翁は、師匠妙心寺の三世、無因禅師が印可(悟りの証明書)を授けようという仰せに対して、謙遜して受けなかったので謙翁という。
作家が人物評伝を書く場合、その人物が部屋の隅に立って、「そうではないよ」と教えてくれることがあるという。一種の観想法の極み。水上勉の一休もそういうことがあったのだろうか、謙翁の雰囲気のわかる水上勉の古文の創作文が、「一休/水上勉/中央公論社P42-43」にあり、謙翁の真実の姿がありありと偲ばれるほどだったので、これを現代文に試訳してみる。
『17歳の時、雲知坊の随行で建仁寺に参ったが、夏であって、今のような橋ではなく、20艘の丸木舟を並べた舟橋であった。
すると船より嬰児の泣く声がする。足を止めて覗いてみたところ、やせ細って骨ばかりの着物の破けた女が背中と腹を見せて子と伏せている。子供は足なえで、病気のようで、飢えているのか泣き声に力なく、女の腹にむしゃぶりついて乳をまさぐるが、しぼんだ乳房にあばら骨が浮き出ており、ただのけぞっているのが、大層あわれである。
雲知坊が、「女は盲目だが、おぬしは見たか?」と。
周建、「私も見ました。」
雲知坊、「女は飢え死にするだろうが、子のあわれなことはいうまでもないが、女のさとり顔であったのは、もはや今生に欲もないものと思われる。
舟橋は、地獄の渡しか、極楽の渡しか?」
周建、黙して答えず。
帰途再び舟橋を渡ったところ、件の船に母子の姿なく、川岸に乞食たちが集まって合掌する者がいて、その中に僧が一人いた。
この僧は年齢ははっきりしないが、髪を伸ばし衣破れ、かけた絡子がぼろぼろなので、ただ僧形の乞食と見えた。いぶかしみながら近づいてみたところ、岸辺にむしろを敷いてしゃれこうべに見えたのは、朝舟橋で見た女と嬰児だった。
心寒くなって走って戻って、僧堂に入るやいなや、
雲知坊、「あの僧は、西金寺の謙翁である。」
周建、「謙翁って誰ですか?」
雲知坊、「貴殿は知らなかったのか?その師匠は、関山一流の禅を継承している花園(妙心寺)の無因の後継者(嗣法)である。師の印可も謙遜して受けなかったから謙翁という。それは道号である。」
周建は急いで賀茂川に戻ってみたが、件の僧の姿がなかったので、その足で西金寺に入った。謙翁は周建を一目見て、眼光尋常ならざるを察して、入門を許された。』
謙翁は西金寺にあって、門を閉じて誰も寄せつけず、その宗風は孤高嶮峻であった。それがゆえに、ぼろぼろの今にも壊れそうな貧乏寺だった。
一休が20歳の時に、謙翁が彼に「私の法財はもうすべてお前に与えたが、私には印可がない。だからお前を印可しないのだ。」と一休の悟りを認めた。
一休が21歳の12月、その心酔する謙翁和尚が亡くなったが、葬式をしようにも金がなく、ただ心だけで喪に服するのみであった。
受け止め切れぬ衝撃に茫然とした一休は、西金寺から大津、石山寺へと彷徨い、やがて瀬田橋に着いて、川に身を投げようとしていた。虫が知らせたのか一休の母の使いの者が、ここに追いつき、入水を思い止まらせた。
このあまりにも純粋なエピソードには、後年の男色女色に溺れつつ、衆善奉行諸悪莫作の基本線を逸れない自由自在の覚者一休の原点をうかがうことができる。
またこの餓死した女の悟り顔は、ダンテス・ダイジが、インドの街路で飢え死にした若い女の表情に光明を見たのと同じ。