アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニを上げるのは危険

2023-07-24 05:59:55 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性

 

youtubeでクンダリーニで検索すると多数の動画が上がって来る。まるでクンダリーニが目覚めたり、クンダリーニが上がることがよいことであるかのように。「クンダリーニ覚醒」という言葉を使っている例も多いが、クンダリーニが上がることが大悟覚醒ではない。

クンダリーニが上がるとは、霊道が開くということであり、それはチベット密教の学識経験者であるクショグ・ワンチェンが、霊的なものへのコンタクトを適切な指導なくして行うことの危険を指摘しているとおりであり、生兵法は大怪我のもとであり、知らぬが仏である。

クンダリーニ・ヨーガに取り組むに際して、あなたはこの人生も次の人生も賭ける準備ができているのか、すべてを棄てる覚悟ができているかが、入門時に問われる。

 

わりとその辺に無頓着に見えるOSHOバグワンもそこは説明している。

『ある友人が尋ねている。

「クンダリーニを目覚めさせるのは、危険なことなのでしょうか?もしそうであれば、 どのように危険なのでしょうか。また、危険があるのなら、どうしてクンダリーニを目覚めさせなければならないのでしょうか」

 

クンダリーニの目覚めには、多大な危険がともなう。実のところ、自分にとって人生と思えるものすべてが失われてしまう危険性がある。クンダリーニが目覚めると、人はそれまでとは 異なった人間となる。すべてが変化する。すべてがだ!

関係性、感情、世界といった、昨日まで馴染みのあったもののすべてが変わってしまう。変化をもたらすものは、すべて危険だ。

石炭がダイヤモンドになるには、石炭としての生命を断たねばならない。だから危険性は非常に高い。が、それは石炭としての危険にすぎない。石炭がダイヤモンドになるのは、それが石炭として消え去って初めて可能だ。 おそらくあなたがたは、ダイヤモンドと石炭とは、本質的にはまったく違わないことを知らないだろう。もともと、両方とも同じ元素に属している。ダイヤは非常に長い歳月を経るうちに、石炭が変化したものだ。化学的にいえば、石炭とダイ ヤモンドは基本的に何ら違いはない。しかし石炭がダイヤモンドになりたかったら、石炭のままではいられないし、非常に危険な状態に直面することになる。

同じように、神を求めて道を歩んでいく人も、危険に直面する。その人は、人間として死ぬことになる。河も海へ合流する時には、大きな危険に直面する。その時、河は消え去る。それを避けることはできない。だが「危険」とはどういうことなのか? それは消滅だ。消え去る覚悟、死にゆく覚悟のある者だけが、神へ至る旅へと向かうことができる。』

(奇跡の探求Ⅰ/和尚/市民出版社P120-121から引用)

 

クンダリーニが半端に覚醒あるいは上昇して、生活できなくなったり、統合失調症と診断される例は、気をつけて見ていればあるものだ。密教、古神道、道教内丹、西洋錬金術など広義のクンダリーニ・ヨーガに分類されるものには、そういう危険性がついて回る。

その道はモバゲーのように経験値を上げてレアアイテムをゲットして行けば必ず覚醒ステージに上がるというようなものではなく、クンダリーニが目覚めれば、経験値はおろか人間としてのすべてが失われる危険性がある。

 

霊界が出てくるものを読めば、何百年も霊界のある場所に人知れず囚われている人を見かける話などが出てくるものだが、その人の肉体はどうしているのだろうかと想像すると、そういう事故が発生したせいなのだろうかなどと思う。

唐代伝奇の猜娘(せんじょう)離魂のエピソードは禅の公案にもなっているのだが、5年も寝たきりの猜娘とは、そういう類のことだったのではないかとも思う。

また向精神性薬物の使用でそういうことが起こる可能性があることも知られている。

あらゆる手法がフリーハンドで可能であってそれが、メリットばかりを強調する動画やプレゼン資料などでネット配信される現状というのは、それを説いているのが正師かどうか検証する手段も判断する能力も自分にない以上は、慎重に構えるべきなのである。

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