◎乾いた道あるいは近道
(2017-10-28)
禅でもヨーガでいうところの大脱身は意識せられている。
道元の師匠たる天童如浄も道元もその体験とはいえない体験のことを身心脱落と言う。
そして唐代の禅僧鏡清和尚の
『出身は猶お易かるべきも、脱体に道(い)うことは還って難し(出身猶可易、脱体道還難)』。
これは、大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しいということ。
これは、碧巌録第四十六則に見える。
大脱身あるいは、中心太陽への突入がそんなに簡単なはずはないが、「猶お易い」と断言しきるのは、それを既に経た者だけに許された言い回し。
クンダリーニ・ヨーガにおけるニルヴァーナと禅のニルヴァーナは、ニルヴァーナそのものに違いはないが、還ってきてからが相違があり、西洋錬金術などでは、そのことを『乾いた道と湿った道』あるいは『(普通の)道と近道』と表現しているのではないかと感じられる。
禅のほうが『乾いた道』『近道』なのだろう。
『以心伝心』『不立文字』は、出身・脱体という身心脱落を経て、初めて意味が通ずる。悟っていない者が、その真髄を『以心伝心』『不立文字』と語るのは嘘だが、悟った者がそれを言うのは真実。
※鏡清道怤(八六八~九三七):雪峰義存の法嗣(悟った後継者)
碧巌録第四十六則:
鏡清が僧に問う「門外は何の音だ?」
僧「雨だれの音です。」
鏡清「人はひっくり返っている。自分を見失って物を追う。」
僧「和尚自身はどうなんですか。」
鏡清「かろうじて自分を見失わずに済んだわ。」
僧「かろうじて自分を見失わずに済んだとは、いったいどういう意味ですか」
鏡清「大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しい」