アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

アートマンから中心太陽(ブラフマン)へ

2023-09-23 18:51:30 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-5

(2022-06-26)

 

第七身体について、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の散文で『私は終わって、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。』(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P73から引用)と述べているが、これは、ダンテス・ダイジのオリジナルではなく、ユクテスワの見方でもある。

『このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。』

(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P70から引用)

※サティヤ・ローカ:第七身体

ユクテスワも世界を遊戯と見ているのだ。踊るシヴァ神。踊り念仏者たち。

さて、この七つの身体に屹立するカイヴァリヤ。これが、「釈迦が生まれてすぐ七歩歩いて、天上天下唯我独尊と唱えたことだ」と気がつく人は少なくないだろう。七歩とは七つの次元、七つの身体のこと。ダンテス・ダイジやユクテスワのレベルにおいて初めて意味がとれる“天上天下唯我独尊”を仏教全宗派の信者に、黙ってしゃべらせるというのは、なかなかの趣向である。

ダンテス・ダイジは、上掲書の図版でクンダリニーたる一直線の光輝くエネルギーが中心太陽ブラフマンに突入するシーンを図示している。

すなわち、個人であったメンタル体が全体たるアートマンに化し(個人たるコーザル体がアートマンの光線であったことに目覚める(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P101参照)、そのアートマンの光線がブラフマンなる中心太陽と合一する。この段階の次に唯我独存のカイヴァリヤ図が置かれ、最後にモクシャ(実在・意識・至福)が置かれている。

 

これにて第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性は、さらに明らかになった。

 

この後、ダンテス・ダイジは、自分の肉体に帰還するという、宇宙飛行士も腰を抜かすような“死からの再生”まで図示している。

覚醒、悟り、神人合一などと、ともすれば観念的にとらえられがちな体験は、実は体験とはいえない体験であることを示したのだ。

 

OSHOバグワンは、どの部分をサマーディと言っているのだろうか。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-7

◎冥想の効用のない部分-6

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七つの身体-ケン・ウィルバーの俯瞰

2023-09-23 06:43:37 | チャクラと七つの身体neo

◎悟りと迷いの混在

(2021-10-19)

 

ケン・ウィルバーは、著書アートマンプロジェクトで、自分の「近似的な自己感覚10段階」を、ヴェーダンタや、カバラの十球や、スイスの心理学者ジャン・ピアジェの発達段階説、フロムやリースマンの自我のタイプ説、仏教唯識説などと並行に比較した表を作っている。スタニスラフ・グロフは、LSDを用いたセラピーで知られる。これは後に非合法化され貴重な実験となった。図はその一部に七つの身体軸を加えてみたもの。

これをみると、ピアジェなどの説には、アートマンとブラフマンの窮極の段階がない。窮極の段階がない体系は、それが心理体系だろうが存在体系だろうが不完全なものだが、それを排斥せず、堂々と載せているところにケン・ウィルバーの懐の深さを感じさせる。

ケン・ウィルバーは懐が深かったゆえに、その説のインパクトは薄れ、今逆にあまり評価する人が少ないのだろう。また窮極の段階を持たない学説は、宗教的には不完全なものだが、心理学者は、別に問題だとも思っていないのだろう。

覚者の側からすれば、窮極を悟った人も、それに至らず迷いにある人も差はない。だが、世の人々の大半である迷いにいる人が、道元の言う修証一如(修行も悟りも同じ)と嘯くのは、間違いである。

ケン・ウィルバーは、覚者として、迷いの学説と悟りに至っている説を並置したのだ。迷いの学説をも評価したのだ。だが、学会や世間にそのような「悟りや迷い」という視点は乏しい。

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ジェイド・タブレットについて

2023-09-23 06:14:40 | ジェイド・タブレット

◎自序

 

ジェイド・タブレットでは、ライフ・ステージ別の窮極に至る道と天国希求以降のポイントを説いてみる。

古来、神仏に至る冥想のステージは様々な段階として説かれ、冥想の深浅高低は、多くの宗派で説き尽くされてきた。いずれも、迷い(マーヤ、無明)から悟り(神仏・ニルヴァーナ)に至る段階を説いているのだが、アメリカの覚者ケン・ウィルバーのように悟り段階を持っていないステップ説まで披歴するようになっては、訳の分かっていない人はますます困惑することとなり、世の混乱は極まれりと言うべきだろう。

そこで、瞑想とか宗教にほとんど知識がない青少年や大人を念頭に、日々の冥想が世界平和と真の幸福をもたらすものだという流れを、簡単に書いてみるものである。

その中でキーポイントは、である。愛は永遠の価値があるが、かそけく簡単に壊れやすいもので、自分から主張する強引さとは無縁である。

冥想の深浅高低-1(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1)
冥想の深浅高低-2(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2)
冥想の深浅高低-3(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3)
冥想の深浅高低-4(原始仏教の分類1)
冥想の深浅高低-5(原始仏教の分類2)
冥想の深浅高低-6(原始仏教の分類3)
冥想の深浅高低-7(原始仏教の分類4)
冥想の深浅高低-8(原始仏教の分類5)
冥想の深浅高低-9(原始仏教の分類6)
冥想の深浅高低-10(冥想の縦軸と横軸)

冥想十字マップ-1(定とサマーディ(三昧)の違い)

冥想十字マップ-2(チャクラと七つの身体への対応)

 

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