◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-5
(2022-06-26)
第七身体について、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の散文で『私は終わって、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。』(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P73から引用)と述べているが、これは、ダンテス・ダイジのオリジナルではなく、ユクテスワの見方でもある。
『このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。』
(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P70から引用)
※サティヤ・ローカ:第七身体
ユクテスワも世界を遊戯と見ているのだ。踊るシヴァ神。踊り念仏者たち。
さて、この七つの身体に屹立するカイヴァリヤ。これが、「釈迦が生まれてすぐ七歩歩いて、天上天下唯我独尊と唱えたことだ」と気がつく人は少なくないだろう。七歩とは七つの次元、七つの身体のこと。ダンテス・ダイジやユクテスワのレベルにおいて初めて意味がとれる“天上天下唯我独尊”を仏教全宗派の信者に、黙ってしゃべらせるというのは、なかなかの趣向である。
ダンテス・ダイジは、上掲書の図版でクンダリニーたる一直線の光輝くエネルギーが中心太陽ブラフマンに突入するシーンを図示している。
すなわち、個人であったメンタル体が全体たるアートマンに化し(個人たるコーザル体がアートマンの光線であったことに目覚める(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P101参照)、そのアートマンの光線がブラフマンなる中心太陽と合一する。この段階の次に唯我独存のカイヴァリヤ図が置かれ、最後にモクシャ(実在・意識・至福)が置かれている。
これにて第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性は、さらに明らかになった。
この後、ダンテス・ダイジは、自分の肉体に帰還するという、宇宙飛行士も腰を抜かすような“死からの再生”まで図示している。
覚醒、悟り、神人合一などと、ともすれば観念的にとらえられがちな体験は、実は体験とはいえない体験であることを示したのだ。
OSHOバグワンは、どの部分をサマーディと言っているのだろうか。
◎冥想の効用のない部分、ある部分-7
◎冥想の効用のない部分-6