アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

三歳

2023-09-25 03:05:33 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-01 

◎三歳

 

三歳の子供には全能感があふれている。ところが、三歳の頃、人は神の喪失を感じるのではないかと思わせる印象がある。自分の実感として、確かに3歳の頃は、神と一体であるみたいな、全一性のような、全く問題のない状態にあったように思う。ところが5、6歳になって、何か得体の知れぬ喪失感を、常に全人的に感ずることになって、明らかにあったはずのあの充実感、全能感が、どこをどう探してみても見つからないという虚脱を毎度おぼえた。

このような神の喪失感を、フロイトの弟子にして、ニーチェから求婚されたルー・アンドレアス・ザロメは、『私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、神の喪失なのである。』(ルー・ザロメ回想録 自伝文庫/ルー・アンドレーアス・ザロメ/ミネルヴァ書房P1から引用)と語る。

 

3歳を過ぎて万人ほぼ一斉に神を喪失するが、それからの神への再アプローチは各人に任されている。神への喪失に直面するということは自分自身に出会うということであり、堅氷を見つめ打ち破って行くことに取り組むということである。

また3歳以前の子供が、自分の前世はこれこれで私が誰それの生まれ変わりなどと語ることもあるが、それは神の喪失という決定的な事件に比べれば、前世記憶の披歴という超能力ではあるが、些細なものだと思う。

(出口王仁三郎の随筆集の玉鏡の再生に以下の故事がある。

『王仁三郎の長男六合大(くにひろ)の葬儀に当り王仁は遺骸に向つて「大本は男の子は育たぬのであるから、今度は女の子に生れてお出で」と言った。

すると、満一年後尚江が生れ、彼女が三歳の時、背負って六合大を祭つてあるところにつれて行くと、突如背中から

「ここには私を祭ってあるのだ、私は六合大さんの生れ替りじゃ」と叫び出したので、王仁もゾツとした。』)

 

『森の中をさまよう三歳の童子』という言葉が、ダンテス・ダイジの著作中に漠然と脈絡もなく出てくる。これは、説明がないだけに三歳の全能感と神の喪失の始まりという決定的なスタートを宿しているように感じられるのだ。

三歳は、自分では流暢な表白の能力はないが、『三歳』にからんで、以下の3つの逸話を挙げてみる。

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