◎いったい俺は何者で、どこにいるのだ
スーフィの逸話から。
『23-大都会の愚か者
人間は眠っている。目覚めなければならない。いろんな目覚め方があるが、正しい方法はひとつだけである。これはその目覚め方が正しくなかった愚か者の話である。
ある愚か者が巨大な街を訪れたとき、通りにあふれる夥しい人々の群れを見て、頭が混乱してしま った。これだけ大勢の人々の中にいると、朝、目を覚ましたとき、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうかもしれない。そう考えた愚か者は、夜、宿屋で眠りにつくとき、自分を識別する目印 として、瓢箪を足首に巻きつけた。
それを見ていたいたずら好きの男が、愚か者の足から瓢箪をはずし、自分の足にくくりつけて眠りについた。愚か者は目を覚ましたとき、瓢箪を目にして、そこに寝ているのは自分なのだと思った。しかし次の瞬間、彼は叫びながら、その眠っている男に襲いかかっていった。「おまえが俺なら、いったい俺は何者で、どこにいるのだ!」』
(スーフィーの物語 ダルヴィーシュの伝承/イドリース・シャー/平河出版社P92から引用)
大学生の頃、故郷での長い夏休みを終えて上京し、新幹線を降りて電車に乗った瞬間、見知らぬ他の乗客が沢山いるのに驚いて、多数の「見知らぬ人に取り囲まれている」ことの違和感を感じさせられたものだった。
それは、後年さる体験の中で、自分が誰だかわからない、どこにいるのかわからないという認識状態を実感することになり、さらに深みを増した。その状態は、数時間で終わったが、自分は一体何者かという状態は、万人の心理の基層に存在しているものだろうという実感を得た。
あえて七つの身体論で言えば、個ではあって個人ではあるが、社会性がない状態であって、コーザル体というそれ自体がコスモスであるような個の極みというような極まった感のある状態とはとても思えなかった。
この『大都会の愚か者』は、自らの足首に瓢箪をつけるが、そのような心理状態に至って、やむなく自分のアイデンティティを自分で確認するためにそうしたのだろう。他人はいるのだろうが、自分が誰だかわからないという厄介な状態である。
いたずら男は、その瓢箪を奪って自分の足につけて、更に愚か者を混乱させる挙に出た。愚か者は、元の俗人の意識に戻るか、その直観から悟りに進むか、混乱に止まり発狂・自殺に行くかと、いくつかの選択肢があるのだろう。
私は、そんな風になった際、ひどく困惑したが、悟りのさの字も思わなかった。今思えば、バーナデット・ロバ-ツという女性の、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に近かっただろうか。いや自分はなくなっていないが、神もなく、その時はまだ準備ができていなかったのか。
参考: