◎ジェイド・タブレット-01
◎出生と乳児の時期
人は死んだ直後に神を見るチャンスが与えられている。その後何度かよりよい転生先を選ぶチャンスがあり、最終的には転生先をより絞った形で出生する子宮を選択し出生してくる(チベット死者の書)。そうは言っても転生する子宮を選択できるフリーハンドを持っているのは、相当に発達した人物のみであり、大方は過去のカルマに応じて選択の余地なく生まれてくるようだ。この説では受胎シーンと出生シーンが分かれているが、受胎シーンまで説明しているスピリチュアリストはパラケルススなど少ない。
まさに生まれようとする時、赤い火の玉である精霊が入って来る由(玉鏡/人魂/出口王仁三郎)。
こうして出生した乳児は幼き帝王である。泣きさえすれば、世界は何でも欲求を充足してくれる。
帝王と言っても全知全能の覚者というわけではない。釈迦もイエスもOSHOバグワンも長じてから悟りを開いたのであって、生まれながらにして覚醒していたのではない。仮に覚醒していたとしてもそれは、無意識であって、意識的ではない。
だから、覚醒のことを老いたる赤子、白髪の子などと呼んで単なる赤ん坊と区別する。
ただし人間というものは、貴重なものであって、神あっての人だが、人あっての神という部分がある。それは三身論などでその理屈を見ることができる。
また釈迦は、誕生後すぐに七歩歩いて天上天下唯我独尊と言ったと伝えられるが、それは、宇宙には自分以外に何物も存在せず、かつすべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した観念の遊戯であることを象徴している。
インドの聖者ユクテスワによると、
『このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。』
(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P70から引用)
※サティヤ・ローカ:第七身体
ユクテスワは世界を遊戯と見ているが、この七歩とは七つの次元、七つの身体のことである。
この見方からすれば、出生した乳児というのは、誠に世界の帝王と呼んで差し支えないのだと思う。