POWERFUL MOMが行く!
多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 教会の建築様式は、バシリカ式(バジリカ式、長堂式)、ロマネスク式、ゴシック式、ルネサンス式、バロック式と移り変わっていきます。つまらないですが、建築様式の暗記法を考えました。「しばし、遠いローマで自由に過ごし、午後は昼寝して、何とか頑張ろう。」 日本からは遠いイタリアのローマに観光に出かけていって、仕事の毎日から解放されますが、観光で疲れるので昼寝をして、体力を保ち、十分に観光地を見て廻ろうという意気込みを宣言しています。

 しばし→し(四世紀)ばし(バシリカ)
 遠いローマで→とおい(十一世紀)ローマで(ロマネスク)
 自由に過ごし→じゆうに(十二世紀)すごし(ゴシック)
 午後は昼寝して→ごごは(十五世紀)ひるねして(ルネサンス)
 何とか頑張ろう→なんとか(十七世紀)がんばろう(バロック)

 17世紀にローマは本格的なバロックの時代を迎えます。バロック建築は、空間を建築物だけではなく、彫刻や絵画などでも構成し、演劇的空間とも言うべき複雑で多様性に富んだものにする建築様式です。その様式を装飾が過剰とみた後世の人たちががポルトガル語で「Barocco(歪んだ真珠)」と呼んだ蔑称に「バロック(伊:Barocco、英・仏:Baroque)」という建築様式を表す言葉が始まると言います。

 その時代に、生まれた場所はみなローマではありませんが、ローマに惹きつけられてローマで活躍した3人の天才が現れます。画家のカラヴァッジオ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ、Michelangelo Merisi da Caravaggio、ミラノ(北イタリア、Milano)生まれ)、彫刻家のベルニーニ(ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、Gian Lorenzo Bernini、ナポリ(南イタリア、Napoli)生まれ)、建築家のボッロミーニ(フランチェスコ・ボッロミーニ、Francesco Borromini、Francesco Castelli、ビッゾーネ(現スイス、Bissone)生まれ)です。



 ベルニーニとベッロミーニはライバルであり、聖堂建設を巡り、対立を深めます。その2人の運命を左右したのは、パトロンでした。パトロンとは、日本語の持つ意味とは異なり、芸術家などを経済的に支援し、後ろ盾となる資産家や実力者という存在でした。ベルニーニは、枢機卿シピオーネ・カッファレッリ=ボルゲーゼ(Scipione Caffarelli-Borghese、1576年~1633年)や教皇ウルバヌス8世(Urbanus V、在位:1623年~1644年、本名「マッフェオ・ヴィンチェンツォ・バルベリーニ、Maffeo Vincenzo Barberini」)の庇護を受け、その才能を大きく開花させます。しかし、ウルバヌス8世が亡くなって教皇インノケンティウス10世(Innocentius X、在位:1644年~1655年、本名「ジョバンニ・バッティスタ・パンフィリ、Giovanni Battista Pamphili」の時代になると、後ろ盾を失ったベルニーニに代わってボッロミーニが表舞台で活躍し始めます。

 ベルニーニは、1598年に生まれ、1680年(81歳)に亡くなった長命な芸術家で作品を多数残しましたが、ボッロミーニは、1599年に生まれ、1667年に自殺で亡くなります。67歳でした。それでも、当時としては長命なのかな。それに対し、カラヴァッジオ村の「ミケランジェロ・メリージ」は、この2人よりも30年ほども早い1571年に生まれます。「バロック絵画の先駆者」と位置づけされるように、バロックが花開く17世紀の初め、1610年に旅の途中で亡くなったのです。激情型の性格であったカラヴァッジオは喧嘩がもとで殺人を犯し、逃避行を続けていたのでした。38歳でした。1610年に亡くなったのですから、今年(2010年)は没後400年になります。

 東京都美術館では、「ボルゲーゼ美術館展」(1月16日~4月4日)が開催されています。京都国立近代美術館では、2009年10月31日~12月27日に開催されていました。「ボルゲーゼ美術館展」にベルニーニの大理石による彫像「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像」(高さ78cm)が展示されています。

 ボルゲーゼ枢機卿は、教皇パウルス5世(Paulus V、在位:1605年~1621年、本名は「カミッロ・ボルゲーゼ、Camillo Borghese」)の甥であり、1605年にローマ近郊に広大な敷地を購入し、教皇庁の迎賓館としても使われた白亜の館「ヴィラ・ボルゲーゼ」を建てます。これが現在の「ボルゲーゼ美術館(Galleria Borghese)」となっています。シピオーネ枢機卿が尽力して、教皇パウルス5世からカラヴァッジオの恩赦を獲得するのですが、カラヴァッジオはローマに戻る途中に亡くなってしまいます。




 この3人の作品を1日で鑑賞しようとするならば、「ナヴォーナ広場(Piazza Navona)」に行ってみるのもいいでしょう。広場の中央には、4つの大陸を流れる大河、インダス川(アジア)、ナイル川(アフリカ)、ラプラタ川(南アメリカ)、ドナウ川(ヨーロッパ)を擬人化した彫像4体がオベリスクの周りに配され、噴水となっている「四大河の噴水、Fontana dei Quattro Fiumi」があります。この彫像は、ベルニーニによって造られたものです。



 ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは、313年です。ユダヤ教のラビ(宗教的指導者)であったナザレのイエスが形式主義に陥ったユダヤ教から離脱し、弱者の救済を訴えて布教活動を展開し、ユダヤ教徒との対立を生み、処刑されて亡くなります。紀元30年前後の頃だったと言います。イエスの教えは、やがてユダヤ人を離れ、ユダヤ人以外の中へと広がっていきます。2~3世紀になるとローマの都市生活者の中にキリスト教の信者が増えていきます。ローマのアグネス(アニェーゼ、Agnese di Roma)は、291年にローマの上流階級のキリスト教徒の一家に生まれます。

 きれいな女性に育ったのでしょう。ローマの長官の息子に見初められてしまい、しつこく言い寄られます。アグネスは、自分はすでに天上の花婿と結ばれているからと言ってこれを退けます。彼女がキリスト教徒であると知った長官は、アグネスを全裸でローマの街を引き回しますが、奇跡が起こり、髪がみるみる足元まで伸び、全身を覆います。アグネスは、娼家に送られてしまいますが、天使が現れてアグネスを輝く光で包み込み、人々の目から隠します。長官の息子が再び強引に迫りますが、待っていたのは「自分の死」でした。アグネスは「魔女」として「火刑」に処せられますが、炎はアグネスを襲わず、刑吏を襲います。それでも結局、首を刎ねられて亡くなります。

 アグネスは聖人に叙せられ、聖堂が建設されます。それが「聖アグネス聖堂(Chiesa di Sant'Agnese、チエーザ・ディ・サンタニェーゼ)」です。アグネスの骨はローマのサンタニェーゼ・フオリ・ラ・ムーラ聖堂(Complesso monumentale di Sant'Agnese fuori le mura「壁の外の聖アグネス記念堂」)に、頭蓋骨はアグネスの墓があるカタコンベの上に建てられたサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(Chiesa di Sant'Agnese in Agone、サンタニェーゼ聖堂)にそれぞれ保存されていると言います。サンタニェーゼ聖堂は、その正面を「四大河の噴水」に向けています。

 サン・カルロ・アッレ・クワットロ・フォンターネ聖堂の設計で有名なボッロミーニは、このサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会のファサード(建築物の正面。フランス語に由来する。英語の“face”と同じ)も設計しています。

 「サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会」の裏手から東に数分のところに「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂(Chiesa di San Luigi dei Francesi、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会)」があり、その左奥にあるコンタレッリ礼拝堂にカラヴァッジオによる「聖マタイと天使(San Matteo e l'angelo)」、「聖マタイの召命(Vocazione di san Matteo)」、「聖マタイの殉教(Martirio di San Matteo)」の三部作があります。



 その一つ「聖マタイと天使」は、縦長の絵で、3m×2m(295×195cm)の画布に描かれた油彩です。マタイは出現した天使を目撃し驚愕しています。カラヴァッジオの絵は、実に演劇的で「絵画」でありながら、「映画」をストップモーションで見ているような感覚にとらわれます。

 2007年に製作されていたイタリア・フランス・スペイン・ドイツの合作になる映画「カラヴァッジョ 天才画家の光と影(原題:Caravaggio)」がカラヴァッジオ没後400年記念として、2010年2月13日(土)より「銀座テアトルシネマ」でロードショー公開されます。1986年に製作されたデレク・ジャーマン監督になる映画「カラヴァッジオ」とは趣の違う映画です。「聖マタイの召命」などの名画誕生の秘密が描きこまれているようなので、是非時間を作って見に行きたいものです。

(参考) 「イタリアへ」-「カラヴァッジョ」を見に、「110オープン」バスで

              (この項 健人のパパ)

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