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多忙な中でも,美味しい物を食べ歩き,料理を工夫し,旅行を楽しむ私の日常を綴ります。
 





 新約聖書を構成する福音書には「マリア」という名の女性が複数登場します。ナザレのイエスが布教活動を行った時代にはよくある名前であったのでしょう。イエスを産んだ女性の名がマリアですし、ダン・ブラウンの小説「ダ・ヴィンチ・コード」でイエスの子を産んだとされた女性(「マグダラのマリア」)もマリアです。その他にイエスが蘇生させた「ラザロ」に2人の姉がおり、その1人もマリア(「ベタニアのマリア」)です。さらに「ヨハネによる福音書」の記述によれば、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹でクロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、佇んでいた」(19章25節、Now there stood by the cross of Jesus His mother, and His mother’s sister, Mary [the wife] of Clopas, and Mary Magdalene.)とあります。

 コプト語で書かれている「ピリポによる福音書」(正典には含まれない)によると、「3人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは母マリヤと母の姉妹と主の連れと呼ばれていたマグダラであった。母の姉妹と母と主の連れはみなマリアであった」(There were three who always walked with the Lord: Mary, his mother, and her sister, and Magdalene, the one who was called his companion. Her sister and his mother and his companion were each a Mary.)とあります。



 ヴァチカン美術館所蔵のカラヴァッジオの描く「キリストの埋葬(Deposizione nel sepolcro)」があります。3m×2m(300cm×203cm)の縦長の油彩です。磔刑で亡くなったイエスをゴルゴダの丘の麓の墓へ埋葬する場面です。画像は上半分です。女性が3人描かれています。大きく悲しみ、天に助けを求めているのがマリアの姉妹で「クロパの妻マリア」、修道女の姿をして我が子を抱きしめようと手を広げているのが「母マリア」、豊かな髪を後ろでまとめ悲しみに耐えているのが「マグダラのマリア」です。このマグダラのマリアは日本の街角でも見つけられそうな雰囲気を持っています。カラヴァッジオの描く人物には親近感が感じられます。

 イエスの遺体を引き取ったのは、「アリマタヤのヨセフ」と「ニコデモ」でした。ニコデモはパリサイ派で最高法院の議員であったのですが、イエスに共鳴した人物だったそうです。アリマタヤのヨセフは「金持ちで(「マタイによる福音書」)、身分の高い議員(「マルコによる福音書」)で、イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた(「ヨハネによる福音書」)人物だったそうです。この作品でイエスの足を抱えているのがニコデモで、身体を支えているのがアリマタヤのヨセフなのだそうです。



 イタリア北部の「ヴェネト州(regione Veneto)」の都市「パドヴァ(Padova、Padua)」にはイエスの母マリアとイエスの生涯を扱ったジョットの描く連作壁画があります。「スクロヴェーニ礼拝堂」の四方の壁は壁画で埋まっています。右側の壁上部から始め、時計回りに3周して、背面の「聖霊降臨」で終わる全部で38場面から構成されています。場面31から場面34は、「尋問を受けるキリスト 」、「いばらの冠をかぶされ、むち打たれるキリスト」、「十字架の道行き」、「磔刑(La Crocifissione)」、「キリストの死への哀哭(il Compianto sul Cristo morto)」と続きます。

 場面31は、「尋問を受けるキリスト」です。共観福音書(共通する記述が多く、同じような表現もみられる正典とされた福音書)の1つに「マルコによる福音書」があります。この福音書はイエスの死後30数年ほど経った西暦65~70年頃に書かれたものとされています。マタイによる福音書もルカによる福音書もこのマルコによる福音書を下敷きに書かれたようです。その「マルコによる福音書」第15章第1節~第15節を引用してみます。

 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議を凝らした末に、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した。ピラトはイエスに「あなたがユダヤ人の王であるか」と尋ねた。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。

 祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを赦してやることにしていた。ここに、暴動を起し人殺しをして繋がれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。群衆が押しかけてきて、いつもの通りにしてほしいと要求し始めたので、ピラトは彼らに向かって「おまえたちはユダヤ人の王を赦してもらいたいのか」と言った。それは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためであることがピラトにわかっていたからである。

 しかし、祭司長たちは、バラバの方を赦してもらうように群衆を煽動した。そこでピラトはまた群衆に「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」と言った。群衆はは、また叫んだ、「十字架につけよ」。ピラトは「あの人は、一体どんな悪事をしたのか」と言った。すると、群衆は一層激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを赦してやり、イエスを鞭打った後、十字架につけるために引き渡した。


 ピラト(ポンテオ・ピラト、Pontius Pilatus)は、ローマ帝国の第5代のユダヤ属州総督(在任:26年~36年)です。福音書におけるピラトは、イエスに対し同情的な人物として描かれていますが、これは初期キリスト教会が親ローマ的で反ユダヤ感情を抱いていたことの反映なのだそうです。総督には裁判権があり、ユダヤの祭司から告発を受け、自らユダヤの王と名乗り人民を扇動したという罪状でイエスを磔刑に処します。



 場面32は、「荊の冠を被され、鞭打たれるイエス」です。「マルコによる福音書」第15章第16節~第20節を引用します。

 兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、荊の冠を編んで被らせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼をし始めた。 また、葦の棒でその頭を叩き、唾をかけ、跪いて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣を剥ぎ取り、元の上着を着せた。それから、兵士たちはイエスを十字架につけるために引き出した。



 場面33は「十字架の道行き」です。「マルコによる福音書」第15章第21節~第24節を引用します。

 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。イエスをゴルゴタ(その意味はしゃれこうべ)という所に連れて行った。イエスに没薬を混ぜた葡萄酒を差し出したが、お受けにならなかった。イエスを十字架につけた。籤を引いて、誰が何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。

 没薬(もつやく、Myrrh)は、ある樹木から分泌される樹脂のことです。香として焚いたり、鎮静薬、鎮痛薬としても用いられていました。古代エジプトではミイラを作る際に遺体の防腐処理のために使用されていたともいいます。聖書では、東方の三博士がイエスに捧げた3つの贈り物の中に没薬があります。 また、イエスの埋葬の場面では遺体とともに没薬を含む香料が埋葬されたとされます。




 場面34は「イエスの磔刑」です。「マルコによる福音書」第15章第25節~第39節を引用します。

 イエスを十字架につけたのは、朝の9時頃であった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」としるしてあった。また、イエスと共に2人の強盗を、1人を右に、1人を左に、十字架につけた。こうして「彼は罪人たちの1人に数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスを罵って言った。「ああ、神殿を打ち壊して3日のうちに建てる者よ。十字架から降りて来て自分を救え」。

 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって代わる代わる嘲弄して言った。「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架から降りてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。昼の12時になると、全地は暗くなって3時に及んだ。3時にイエスは大声で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。

 そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った。「そら、エリヤを呼んでいる」。 1人の人が走って行き、海綿に葡萄酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」。イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスに向かって立っていた百人隊長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った。「まことに、この人は神の子であった」。




 ラテン語の「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)」の頭文字をとると、“INRI”になります。これは「イエスの磔刑」の際に十字架の上に掲げられた「罪状書きの文」であり、イエスの磔刑を描いた絵画にはイエスの頭上に“INRI”という文字が記された札や銘板が描かれたり、ヨハネによる福音書19章19節~22節には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。」とあることから、紙に多くの文字が書かれているものもあります。

  ルーヴル美術館所蔵のイタリアの初期ルネサンス期の画家(パドヴァ派)「アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna」の描く「キリストの磔刑 (Crocifissione)」の部分です。67cm×93cmの板に描かれたテンペラ画です。ルネサンス期には、ラテン語の罪状書きのみが描かれ、単にINRI と略していることが多いのだそうです。




 ベルギーに近いフランスの都市「リール(Lille)」にはパリのルーブル美術館に次ぐ、フランスの第2の美術館「リール市立美術館(リール美術宮殿、Palais des Beaux-Arts de Lille)」があります。そこにバロック時代のフランドル出身の画家「アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)」の描く「キリストの磔刑 (The Crucifixion)」があります。400cm×245cmと縦長の大きな絵画で画布に油彩で描かれています。罪状書きは、「ヨハネによる福音書」に従って、多くの文字が書き込まれています。

 イエス、ヨセフと母マリア、マグダラのマリアの頭が三角形を描くように配置されています。十字架にすがって泣き崩れているのが長い髪を特徴とする「マグダラのマリア」です。正典福音書におけるマグダラのマリアは悪霊に憑かれた病をイエスによって癒され、磔刑に処されたイエスを見守り、その埋葬を見届け、復活したイエスに最初に出会ったとされるのみなのですが、イエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの「髪」で拭ったとされる「ベタニアのマリア」と混同され、「髪」がその特徴とされます。



 場面35は「キリストの死への哀哭」です。母マリアは青や紺色の衣やマントを着て描かれるのに対し、マグダラのマリアは緑色の下衣、朱色のマントを描かれることが多く、イエスの足を持つのがマグダラのマリアです。ジョットの描くマグダラのマリアも長い髪を垂らしています。「マルコによる福音書」第15章第40節~第47節を引用します。

 遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。彼女らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。そのほかに、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

 すでに夕方になったが、その日は安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスの身体の引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。

 ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百人隊長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。百人隊長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。ヨセフは亜麻布を買い求め、イエスを取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤは、イエスが納められた場所を見届けた。


 この続きはまた次回に。

              (この項 健人のパパ)

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