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No624-2土本監督特集トークその2~大津撮影監督、小林監督に山根さんが迫る~

監督の水俣第1作『水俣 患者さんとその世界』(71年)は、
患者さんたちの遺影から始まる。
遺族が故人の写真を前に、発病から死までの経過を
証言する。

撮る前に、何をどう撮るのかについて、
監督と大津キャメラマンとで打ち合わせするのか、
との山根さんの問いに、大津さんは、
前夜、飲みながら、どの家に行こうという程度は決めておくが、
細かい打ち合わせはしていないと答えた。

とにかく、訴訟している家を全部撮ることに決め、
遺族に話を聞き、遺影を撮ることから始めた。
家族の信頼がないと家の中に上がれないし、仏壇にお参りもできない。
亡くなった方だけでなく、家族も水俣病になっていたことが多かった。

はじめは、インタビュアーの土本監督を
画面の中に入れて撮るつもりはなかった。
当時、マイクも取材者の影も画面に映ってはいけないという考えが主流。
大津さんは、出たとこ勝負で、
どこまでカメラが相手の懐に入れるのかが勝負だったという。
カメラをひいてみたら、案外とよかった。
土本監督が聞いている姿も様になっていた。
取材している部屋の片隅に、魅力的な甕(かめ)があり、
それも入れて撮りたいと思っていた。
家のたたずまいも生活の中にあるからで、
自分で考えながら方向をさぐりあった。

土本監督が目指したのは、
相手から何かを聞き出すのではなく、相手に語らせること。
何を話すかではなく、
どういう状態でしゃべっているのかを伝えること。
水俣の映画は、いわば模索の映画だったらしい。
運動の映画というよりも、運動を越えたところにある雰囲気。

軽症の患者さんより、重症の患者さんを撮ることのほうが大変。
胎児性の子供を撮るには、それ以上に、撮る側に心の準備が要る。
姿としては、写っているかもしれないが、ちゃんと撮れていないことに
なりかねない。
ユージン・スミスが、写真を撮った胎児性水俣病患者の上村智子さんを
監督は最後まで撮ることができなかった。

できあがった映画のラッシュを地元で公開し、
それを観て、興味を持って、
患者さんの方から「撮りに来てくれ」と声をかけてくれることもあった。
一人ずつ個別に関係ができていき、深みが生まれていった。

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<感想>

うまくまとめられず、すみません。

ドキュメンタリーをどうつくっていくのか
どんなふうに撮るのか、カメラの向こうの人にどんな思いで接していくのか、という
撮る側の“思い”のありように迫る議論は、とても興味深いものだった。

土本監督がカメラマンの大津さんと
アップで撮るのか、引いた構図で撮るのかを
撮る前に相談していなかったというのは、驚きだった。

小林茂監督は、学生時代にこの映画を観て、水俣に行こうと決意され
人生が変わったとおっしゃっていた。
授業はそっちのけで、映画の自主上映会に向け資金やカンパ集めに
奔走し、いろいろな人の縁で、水俣へ、ドキュメンタリーの世界へと導かれ、
『阿賀に生きる』のカメラを担うことになる。

ドキュメンタリー映画は、人の人生を変える力があるのだと
あらためて実感した。
まさに観る者の心の中で、今、生まれつつある映画だと思った。

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