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No624-1土本監督特集トークその1~大津撮影監督、小林監督に山根さんが迫る~

今年9月に神戸映画資料館で開催された
「水俣」シリーズの土本典昭監督の特集上映のゲストとして
大津幸四郎さん(監督、撮影監督)、
小林茂さん(監督、撮影監督)が来られて、
映画評論家の山根貞男さんを聞き手にトークがありました。
ドキュメンタリー映画の真髄に迫る
とても興味深いお話でしたので、ご紹介します。

土本監督は、担当していたテレビ「ノンフィクション劇場」で
たまたま水俣病をとりあげることになり、
『水俣の子は生きている』(65年)を撮る。
風景を撮るつもりで雲を眺めたりしていたところ
ある患者さんのおかあさんが、
人に断らないで撮るのかとすごく怒った。
撮られていいことなんかないと撮影を拒絶されたことが
監督にとっては大きなきつい体験となる。
自分が“撮る”側に値する人間かどうか悩み、苦しみ、
死ぬほどつらい思いをしたそうだ。

1969年、熊本出身のプロデューサーを通して
熊本水俣病を告発する会から、
きちんとした映画をつくりたいとの話を受ける。
しかし、前回のテレビの件があり、大いに悩む。
ちょうどそのとき、
渡辺京二(著書『逝きし世の面影』)さんから
患者の人たちは、病気になる前、もともとは漁師で
海を相手に仕事をしていた人たちだから
おおらかでおもしろい人たちだといわれ、
「人間が撮れるのでは」と思ったそうだ。

70年の5月、監督は、
患者さんたちと一緒に厚生省に座りこみに行き、
捕まって留置所に入れられる。
ちょうどその前、大津カメラマンが、
ハンセン氏病の患者さんの作品を撮ろうとして療養所に住み込む。
しかし、撮ることで逆に社会から排除されてしまい、
差別を助長してしまうのではないかと思い、撮れないと諦めた。
その時に大津さんが感じたことは
患者というのは表の顔で、
ちゃんと「人間としての生き方を持っている人たち」だということ。
生と死の間で苦しみ、
運動を通じて、再び生き返っていったゆえの強さを感じた。
そんな自らの経験を大津さんは土本監督としゃべったそうだ。

それまで土本監督は、
共産党で活動した後、新左翼として『パルチザン前史』も撮る。
そのときの堅苦しい組織と違い
「水俣病を告発する会」は、個人が誰でも簡単に入退会でき、
患者さん本位の、緩やかで自由な組織体であった。
そのことも土本監督を興味をひいたそうだ。

そういった、いろいろなことが絡み合って
70年、土本監督は、水俣病を告発する会が
東京から熊本まで、カンパを集める巡礼の旅に出た時、
カメラを持って一緒に旅に出て、
そのまま、水俣の患者さんの家、旧家に住むことになる。

土本監督が常日頃口にしていたのは、「映画でことを起こしたい」
ということだった。

<つづく>
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