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No1121『眠れる美女』~“生”につなぎとめる何か~

20回以上も入退院を繰り返し、
「生きてても何にもいいことなんてない」と叫び、
リストカットを繰り返す。
教会で賽銭を盗もうとしたり、
病院前で、出勤してくる医者に朝食代を恵んでくれと頼んで、
懐から出された財布をひったくろうとしたり、
追い詰められた存在の女、ロッサは麻薬中毒患者。

生きててもどうしようもないと叫んで、
リストカットをして、入院させられた病室の窓から
衝動的に飛び降りようとする。
若い医師パッリドが、駆け付けてそれを止める。
「死ぬ自由がある、死なせてくれ」と叫ぶロッサに、
「目の前で人が自殺しようとしたら止めるだろう」
「人間愛(人類愛)だ」と叫ぶ。

この二人の病室でのやりとりがすごい。
死にとらわれた人間と、
止めようとする人間、
視線がぶつかりあい、
交わす言葉が火花を放つ。

医師の、人間としてのあたたかい思い、出さずにはいられないやさしさが、
いつしか、ロッサに伝わって、
すこしずつ、ロッサが変わっていく。
投げやりで、
何もかも切り裂くような、攻撃的な目つきをしていた表情が、
どこかおだやかで、落ち着いたものに変わっていく。

ベッドの傍らで、眠り込んでいる医師を見たら、
いまだ死神がまとわりついていたとしても、死ねなくなる。
窓からとびおり、生に別れを告げる一歩が踏み出せなくなる。

眠り込んでいる医師の靴をそっと脱がせて、
ベッドに戻り、布団にくるまる彼女の仕草のなんとすてきなことか。
そうして、いつしか二人が見つめ合う。
なんとも心に残るラストだ。
このとき、窓の外からなんとなく聞こえてくる街の音、早朝の光、
ロッサの目力にくぎ付けになる。

イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ監督が
今回、テーマにしたのは、尊厳死。
脳死状態で、20年近く経つ女性を
両親は安らかに死なせたいと願う。
しかし、カトリックが強いイタリアでは、尊厳死も自殺に近いとされ、
「殺すな」と反対運動が起こる。

何が正しいのか、簡単には答えは出ないが、
片方の考え方だけを正論だと断定し、反論を許さないような社会はゆがんでいる。
尊厳死をみとめようとする者たちをヒステリックに断罪するだけの風潮は危険だ。

尊厳死という形で、命を終わらせることが果たして暴力なのか。
映画は、明快な回答を描くことはない。

でも、
生きることに疲れ果て、傷ついた手負いの者に
医師のあたたかい思いが一瞬でも伝わり、
二人の間に、何かが生まれたと思える。
ロッサのこころに何かが芽生えたと思える、
そんな可能性を示唆したラストが、希望を感じさせてくれる。
力強い生への肯定…。

薬物患者にかかわるとろくなことはない、
退院しても、すぐまた元通りになると冷たい言葉をはきすてる医師もいる中で、
ロッサを放っておけないパッリド医師の存在は、なんとも心に残る。

何かが通じ合う…。
そんな瞬間は、人生で、あんまりないけれど、
ひょっとしたら
一度ぐらいは、あるかもしれない。
すれちがいでもいいから、そういう瞬間があると
人間生きててよかったと思えるのだろうか。
そんなことを考えた。

人間というのは、およそひとりでは心細くて
生き延びにくい生命かもしれない。
だから、みな、結婚して家族を持って、自分を生につなぎとめておくよう、
大事な絆をつくっておくよう、生まれついているのかなとも思った。

今朝はベロッキオ監督の作品をフィルムで観れる最後のチャンス、
『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』の、あの世界が待っていると思うと
朝、目覚ましが鳴ったら、めずらしくも、はっきりと意識が覚めた。
こういうこともあるらしい。

どこで自分のエンジンが入ったり、切れたりするのか、自分でもわからない。
でも、こういう、言葉を超えて、思いが伝わるような力強い映画に出会えると、
いつでもアクセル踏めるといいなあと思うから、
人間って、ゲンキンなものだ。

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