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「山椒大夫」小説と映画のこと~山積みの新聞から2~

「光沢(つや)のある、長い安寿の髪が、鋭い鎌の一搔(ひとかき)にさっくり切れた。」
小説「山椒大夫」で、安寿が弟の厨子王と一緒に芝刈りを願い出て、
女のなりを捨てる場面。
新聞の日曜版の一面にこの一節が取り上げられていて、
一読した後も、この場面が気になって頭から離れない。
実家から何冊か持ち出した日本文学全集の中に、あったので、読んでみた。

映画『山椒太夫』(溝口健二監督1954年)は何度か観たので、覚えていたが、
森鴎外の原作小説をかなり膨らませていると知った。

安寿の入水場面も、小説にはない。
「山椒太夫一家の討手が、此坂の下の沼の端で、小さい藁履(わらぐつ)を一足拾った。それは安寿の履であった。」
これだけである。
でも、これだけで、もう涙が出てくる。

小説の最後もすばらしい。
短い文章でたたみかけるように情景を写しとっていく。

つい最近の新聞の夕刊に、
「小説はメッセージを伝えるものではありません。
ある体験を読者に差し出すものです。
今この現在に、破滅が同居するように存在している世界の感覚。
そこに住む人々を書けたらと思っていました」
と作家の星野智幸さん(『焔』という短編集を出版)のインタビュー記事が載っていた。
小説も映画も、文字や映像をとおして、
ひとつのカタルシスを、どこまで読み手や観客の心に、深いイメージでもって刻み込んでいけるか、
ということなのかもしれない。

山椒大夫の話に戻れば、「溝口健二の人と芸術」(依田義賢著)によれば、
溝口監督は、『山椒大夫』(脚本:八尋不二・依田義賢)の映画を、
「子供じゃ困るのですがね、子供でなくやりたいのですがね」といって、
花柳喜章(30歳頃)や香川京子(23歳頃)が起用されたそうだ。(姉弟を兄妹に変更)
地蔵尊の守り本尊を、映画では、救世観音像にしたり、
最後についても、
「盲いた母の絶滅なあわれな姿(このシーンは、全く、肌寒く思うほどの凄惨なすぐれた描写でした)に厨子王が逢って、原作では地蔵菩薩の守り本尊で、眼が開くのですが、これをとらず、盲のままにおいた冷酷な扱いをしたのは、仏教説話めくことを、おそれたものと言えます」、
「溝さんは、眼が開いてもいいよと言ったのです。ですが、『それを納得させるように、描けますか。描ける自信があれば結構ですよ』と言って、ついに、とらなかったのです」
とあります。
この映画を観たのは何年も前ですが、眼があいたかどうかは覚えていませんでしたが、
最後、海の波打ち際のロングショットの長回しは忘れられません。

一つの世界をどんなふうに差し出すのか。つくりての思いに少しでも近づけたらいいなあと思う今日この頃です。

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