日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

「保身」行為を「ブラック」呼ばわりして、教育現場を粛清したらどうか

2013-01-25 | 経営
「ブラック企業」の定義を考えていて、ふと思ったことを徒然なるままに書いてみます。

「ブラック」と言う言葉はなぜ企業関係だけに使われるのか。「ブラック企業」の他にも、「ブラック経営者」とか「ブラック営業」とかも言われます。何を思ったのかというと、「ブラック高校」とか「ブラック校長」とか「ブラック教師」とか教育現場に関しては、いわゆる“袖の下”的行為以外ではあまり「ブラック」という表現は使われないなと思いまして。

なぜでしょう?
企業は営利団体であり、「悪いことをして金儲けをしている」ということが世間一般の「ブラック」の定義になっていると言うことなんでしょうか。“袖の下”的行為は学校関係でも「ブラック」と言われることからも、「営利」がキーワードかなと思えるところです。

でもよくよく考えると、学校そのものは営利団体ではないとしても(私学場合は事情が違いますが…)、大阪の桜宮高校の一件にしても、教師の「体罰」自体が要は強い運動部を作って顧問としての自分の評価を高めたいと言う個人的な「営利」に違いないわけで…。

学校としてその事実を知っていながら見てみぬフリをしていたというのも、校長や教頭が自分に罰点がついて先がなくなることを恐れた保身であって、これだって個人的な「営利」です。

相変わらず各地で一向に無くならない「イジメ」の問題にしても、事が起きていつも争点になるのは、「学校の見て見ぬフリ」、「隠蔽体質」です。コレも皆、突きつめれば教師たちの「保身→個人的“営利”」なワケです。教育の現場こそ、「保身」から出た「個人的“営利”」目的などというものはあってはいけない最大の「コンプライアンス違反」であるはずなのにです。

企業が本当は「ブラック」でも何でもないのに、やや流行語のように「ブラック」「ブラック」と呼ばれているのは、やや行き過ぎの感もあり決して感心できる風潮ではないのですが、半面、世間で「ブラック」と言う言葉が頻繁に使われ、「ブラック=コンプライアンス違反=退場」という暗黙のルールが成り立つことで、少なくとも企業には営利活動において「ルールを守る」という一定の抑止力にはなっているのではないかなと思ったりもするわけです。

学校、教師と言う存在は古くから「エライ存在」と位置づけられ、治外法権的な扱いを歴史的に受けてきたせいなのか、世間の見る目が甘く、学校、教師側にもどこか「俺たちはエラいんだ」的な思い上がりがあって、「体罰」や「イジメ」で世間を騒がすような事件が起きても、“喉元過ぎれば”でどうも改善がなされない、そんな気もするのです。

橋下大阪市長がとった入試中止の措置を巡っては、喧々諤々、賛否両論が世間を騒がしていますが、民間企業にルール違反があった場合に「業務停止」「営業停止」は当たり前の措置です。どうも学校にそれを求めてはいけないかのような風潮も感じます。今回の件に関しては、橋下市長の対応に賛同です。

「生徒の立場はどうなる」という意見もありますが、民間企業の「業務停止」でも「そのサービスを受けている人への影響」は当然存在するのです。
(人によっては教育とサービスは類が違う言われるかもしれませんが、私はそれこそが教育現場に対する不要な思い上がりを助長することにもなるのではないかと思ったりもします。この議論は本筋からそれるので、ここではこの程度にとどめます)

何が言いたいのかというと、学校教育における教師の「保身=個人的営利」行為に対して、企業と同じく世間の監視の目を強化し現場の教師たちにそれは「コンプライアンス違反」であるとハッキリと意識させることが、現場の自己浄化機能を有効にさせる唯一の道であるのかなと。

そのためには、やや下世話な話に聞こえるかもしれませんが、学校関係にも「ブラック高校」「ブラック校長」「ブラック教師」という言葉を遠慮なく使って、日常的な世間の監視の目を強化するべきなのではないか、と思うのです。「ブラック」であることは、「コンプライアンス違反」であるというです。すなわち、学校も教師も、もっと「コンプライアンス」を理解ししっかりと意識するべきなのです。

日本の企業のモラルがバブル経済崩壊以降、格段にアップしたのは「コンプライアンス」というものが、90年代後半以降、企業経営者だけでなくその組織構成員にまで広く意識され徹底されるに至ったからに他なりません。「体罰」や「イジメ」が、現場の隠蔽体質によって一向に撲滅方向に向かわないのは、教育現場の「コンプライアンス意識」の欠如に他ならないのです。

教育現場の「コンプライアンス意識」欠如の改善をめざして、意識させやすく「コンプライアンス違反」を指摘する手段として、誰にも分かりやすい表現である「ブラック」という言葉を使って、経常的な監視の目を強化し日々反省を促してていくべきであろうと思った次第です。

昨日、大阪市と大阪府の両教育委員長が市長、知事の面前で、自己の正当化をという「保身」から、あろうことか“なじり合い”をしたとか。さしずめ、このニュースあたりからメディアは「ブラック教育委員長同志が、保身目的のブラックな痴話喧嘩」とでも評して大々的に報道してあげて欲しいものです。