日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

嗚呼、ソニーに春まだ遠し…

2012-04-17 | 経営
遅ればせながらソニー企業説明会の話です。同社平井CEO体制下初の企業説明会が12日に開かれましたが、その内容は失望感を禁じ得ないものでした。
(説明会の概要「AV Watch」⇒http://av.watch.impress.co.jp/docs/news/20120412_525839.html)

新体制のスタートの“門出”会見でありかつ5200億円と言う巨額赤字を公表した翌日でもありましたが、内容的には従来路線踏襲と具体性欠如の“がんばります宣言”タイプの説明に終始していたように思います。2月にストリンガー前CEOに引導を渡し、過去にない危機感を持ってバトンを引き継いだはずの平井ソニーですが、危機感は抽象的な言葉以外まだ十分に戦略に反映されていないようで残念な印象をぬぐえません。翌日の市況が軒並み上昇に転じている中、同社の株価が独歩安傾向にあったのは、そんな市場の失望感の表れであったと思われます。

不満足な内容の代表格は何と言っても最大の赤字部門である、エレキ部門の再建策。説明会でもグループの最優先課題をエレクトロニクス事業と位置づけ、「これを建て直し、再生から成長へつなげることが、私に与えられた最大の責務と認識している」と立て直しの最重要ポイントとして取り上げられていながら、提示されたものに目新しさは感じられなかったのです。

具体的には、最大の“病巣”であり8年で累計7000億円の赤字を計上した「テレビ事業の黒字化策」。その中身は、「液晶パネルの調達方法の変更などによるコスト圧縮」や「有機ELに関する他者との協業も視野に入れる」という表現に留まり、前向きな立て直しを実現するとの実感は得られずじまいという、なんとも不完全燃焼な内容でした。

かつての花形事業も8年連続赤字を続け会社の足を引っ張る状況にあり、コスト削減や他力本願の再建策しか見当たらないのであるなら、いっそのことやめてしまった方がいいのではないか…。素人考えにも、そう思わざるを得ない状況にあるのだと思います。「2012年度に○○が実現できなければ、事業撤退を決断する」ぐらいの期限を切っての思いきった決意表明が、社外的にはもとより社内を刺激しソニーイズムを覚醒させる観点からも欲しいところではないのでしようか。

平井CEOは今組織の頂上に登りきったばかりです。ならば、その登った直後に見える風景を自身が見慣れてしまう前に、いかに自分が抱いたイメージを元に変革に着手していくかこそが重要なはずであります。ところが再建を委ねられたトップが、就任間もない段階で最大の課題点に関し、従来路線踏襲を感じさせる策しか出せていない。これでは「ソニーが抱える課題解決を、着実にスピーディーに実行していく。それがソニーを変える唯一の道」との氏の言葉とは裏腹に、いささかもスピード感を感じさせるところがないという自己矛盾を既に起こしているわけで、これではあらゆる説明に説得力を欠くことになってしまうのです。

業績不振時のトップ交代の目的は、外部コンサルティングチームの導入と同様「ゼロベース思考」であらゆる過去の流れをスピード感を持って見直すことにあります。この点が業績好調時のトップ交代との最大の相違点でもあるのです。委員会設置会社で社外取締役中心の同社取締役会は、業績不振に対して「ゼロベース思考」で見直しをかけなくては先はないとの判断から、当初会長兼CEOとして“院政”を目論んでいたストリンガー前CEOを強引に更迭したのではなかったのでしょうか。平井CEOが本当にご自身に与えられた役割を正しくご理解いただいているのか、いささか疑問に思わざるを得ないところです。

個別説明に関する具体性の乏しさもまた、さびしい限りでした。象徴的であったのは、新経営体制について「ソニーの新経営体制が目指すのはOne sony、OneManagement」と形ばかりのキャッチを掲げる姿。悲しいかな、私にはどこまでもイメージ戦略でソニーのブランドの復権をはかろうとしているかのようにも感じられました。エンタメ部門出身トップの宿命であるのかもしれませんが、これは出井時代以来根づいた“技術のソニー”を捨て“虚構のソニーブランド”に頼る悪しき風習からの脱却が、いまだにできていないことの象徴のように思えてなりません。

総括すれば、思い切った決断と初動が目に浮かぶ具体性を持った再建策の提示を期待していただけに、実にさびしく物足りないものを感じさせる企業説明会であったと思います。一言で言うなら、対処療法的戦術説明に終始し新体制下のビジョンや戦略が明確になっていない、今の我が国の政治をみるような印象でした。日本を代表する企業として、ソニーの復権はモノづくり日本の復権を意味するものでもあり、是が非でも頑張ってほしいところではあります。しかし残念ながら、桜に新芽が吹くこの季節に、ソニーにはいまだ春の足音すら聞こえない、そんな印象を深くする新リーダーの船出の会でありました。

東電破たん処理決断で、大飯原発再稼動に待ったを!

2012-04-13 | ニュース雑感
前回の続き的にもう一丁です。

大飯原発の再稼働決定を急ぐ政府。今世間で問題になっているのは、「安全性の確保」に確証が持てない状況下でなぜ再稼働を急ぐのか、です。前回エントリーで申し上げたように、「再稼働」に関しては票勘定にも直結する諸々の既得権者とのしがらみがあることは明白。これは時間をかけてシロアリ”退治をしていくほかにないのでしょう。ただ「急ぐ」という点に絞りその理由を正すことに関しては、“シロアリ”になし崩し的に逃げ道を作らせないためにも、今問題視することの優先順位はもっとも高いと思います。

なぜ急ぐのか。この夏の関西電力の電力供給が不足するとされるからというのがその最大の理由ですが、他社融通などを最大限考慮することで実際には問題ないと言う意見も多々聞かれています。それが現状確実性のあるものであるか否かは分かりませんが、国民の安全性の確保という問題は何をおいても最優先で考えられるべきものであり、専門家をしても安全性の確保に確証が持てない現状では、原発はなきものとしていかに夏を乗り切るかの方策を考えるのが筋であり、政府も関西電力もいっぱしの大人であるならその程度の判断は容易につくはずなのです。

なのに再稼動を急ぐ、どうみても急ぎ過ぎというのはおかしいわけです。そこで「急ぐ」のには別の“大人の理由”があるはずだ、ということで考えられるのが前回エントリーで申し上げた「東電再建計画の前提条件となる原発再稼動の必要性」です。要するに、官僚・民間問わぬ“シロアリ”軍団に囲まれた政府は、自己の利益を優先しなんとしても東電を破たんさせずに再建させなくてはならないという“不退転の決意”に至っているわけです。そのためには、再建計画の提出が迫る中、急いで原発再稼働の既成事実を作り上げておかなくてはいけない、という図式になるのです。

となれば安全性の確保が間々ならない状況下で、原発の再稼動を思いとどまらせる方法はただ一つ。政府が今このタイミングでこそ、東電の破たん処理を決断すること以外にありません。この問題は何度となく当ブログのエントリーでも申し上げてきました。実質破たん状況にある民間上場企業を株主責任も貸し手責任も問うことなく、政府の手によって再建支援をするということは著しく市場原理を損なうことであります。さらにフリー・フェア・グローバルを旨とする国際社会のルールから見れば、至ってアンフェアなこのやり方は我が国の国際信用力さえも損なうことになると思うのです。

株主であり貸し手である公共性を帯びた大銀行団は、政府の資本注入を前提として利用者に対する背反行為ともとれる追加融資をおこない、経団連会長は東電は民間活力を損なわないためにも政府が経営関与せずに再建支援すべきであるなどとのたまう。結局、政府の保護下にある日本古来の独占的電力ビジネススキームに群がる“シロアリ”軍団が織りなす茶番劇に無責任政府が踊らされ、国民生活の安全性が脅かされる状況になるつつあるわけです。もう一度申し上げます。諸悪の根源は既得権者だけが守られる東電の延命策です。

国民の目を巧みに欺きつつ、ずるずると行きかけた東電の政府による再建支援。大飯原発再稼動を不自然に急ぐというリスク行為としてその悪影響が表面化した今こそ、政府の責任において被災者保護を法的にカバーした上での破たん処理、分割売却、発電・送電分離等による我が国電力事業の再構築を決断すべきであると思います。まずやるべきは、東電破たん処理への着手です。政府は国民生活を守るのか、それとも既得権者のみを守るのか、すべてはこの決断で明らかになるでしょう。メディア各社も、今こそ政府に決断を迫るべくこの問題を力強く論じるべき時であると思います。

原発再稼働へ突き進ませるビジョンなき“政治屋的判断”

2012-04-12 | ニュース雑感
政府による関西電力の大飯原発の再稼働に向けたGOサインが、週内にも出されるそうです。私は原発の専門家ではないので、その安全性についてとやかく申し上げる立場にありません。なので、前回エントリーでも取り上げた本来あるべき「政治的判断」と現政権が下そうとしている「政治的判断」のかい離という観点から、原発再稼働に関する問題点を探ってみようと思います。

今回の原発再稼働論議は、政府の「政治的判断」を前面に押し出しての強引な展開から隠したハズの「再稼働ありき」姿勢が透けて見えてしまう、という点が最大の問題であると感じています。「政治的判断」を再稼働の判断基準にするのであれば、前回のエントリーでも申し上げた通り、政治がどのようなビジョンを持ちそれに基づいて現状に対する判断をいかに下すのかが明確でなければならないハズです。

今一度「政治」に関する橋下大阪市長の分かりやすい定義を引用します。
「国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める。その上で、喫緊の課題への対応策からとりあえずこうさせて欲しいと説明をする。これが政治だ」。

個人的に同意できるこの定義に沿って考えるなら、仮に原発を再稼働するとしても「政治」は、まず日本国の将来像を考える中でのエネルギー政策に関して明確なビジョンを提示し、その上で現状電力不足もありうるという状況を踏まえた暫定措置として具体的な安全対策を前提に一時的な再稼働を決断するべきです。それができてはじめて「政治的判断」により再稼働へ導いたと言えるでしょう。

ではなぜ今回、「政治的判断」ならぬ“政治屋的判断”とも言えそうないい加減な「判断」により、再稼働への道を突き進んでしまうのか。関西圏における夏の電力不足が喫緊?いやそれはあくまで表向きのお話でしょう。原発を再稼働させなくてはいけない最大の理由は、関電ではなく東電にあるとみています。

東電救済の前提条件として現在策定中の再建計画は、国が資本注入をしてもしっかりと利益を出してこれを返済しつつ企業再建を果たすというシナリオが前提になっています。東電はつぶされまいとして必死に再建の絵を描いている訳ですが、早期に利益を出しての企業再建に信ぴょう性を持たせる計画づくりは「料金の値上げ」と「原発の再稼働」が前提条件にならざるを得ない模様です。しかもこの計画の提出と政府の承認はリミットが迫っている。だから今、急ぐ理由が見えないまま大飯原発再稼働に突っ走る以外にないのでしょう。

原発の再稼働なくして東電の再建計画は成立しない。ならば常識的には、福島第一の先行きさえ見えない現状下で原発の再稼働による世間の波風を避け、東電の再建計画は白紙化して破たん処理を検討したらいいと思いませんか。現政権の“政治屋的判断”が介入しないなら、そう結論づけられてしかるべきなのですが、どうも政治家ならぬ“政治屋”さんはそう単純にはいかないようです。

そこでその理由をさぐるべく、「風が吹いたら桶屋がもうかる」式に少し考えて想像してみます。東電の再建計画が成立しないなら、国による再建支援はとん挫する。国による再建支援がとん挫するなら、東電は破たん処理を余儀なくされ株主責任や貸し手責任が問われることになる。株主責任、貸し手責任が問われるなら、株主責任や貸し手責任を問われた膨大な者たちの恨みつらみが選挙票に影響する。それじゃ困るということになる。

しかも金融機関は不良債権が急増し、国としての対策が必要になる。金融機関対策が必要になって血税資本注入だなんだとなれば財務省が矢面に立たされる。それは困ると賢い財務官僚が東電を破たんさせた場合の最悪シナリオを政治家に提示して、国家危機をにおわせ脅しをかける。するとトロい政治家はまんまと東電再建ありきの結論に行き着いてしまう。これが今回の原発再稼働を後押しする「政治的判断(=政治屋的判断)」の大きな根拠に違いない、と私は思っています。

もちろんそれがすべてはないでしょう。原発ありきで我が国のエネルギー政策がここまで進んできた以上、株主や貸し手以外にも原発が再稼働しないと困る人や企業が世にたくさんいることは想像に難くない訳で、来るべき総選挙を視野に入れた場合今以上に票を逃がすようなことはしたくない、そんな民主党代表としての総理の別の「政治屋的判断」も多分に働いているのではないかと。

すなわち以上を総括すれば、既得権益堅持にからむ票の力学と官僚主導が世にはびこることで“政治屋的判断”が生まれおかしな結論に導かれてしまう。ハッキリ言って日本の政治が腐りきっていることが今更ながらよく分ってしまうのです。だからこそ邪悪な流れを断ち切るためにも今、政治主導を標榜したはずの現政権は、福島第一の悲劇を日本の現在のエネルギー政策の過ちとするのか否か、それを受けて今後の我が国エネルギー政策をいかに描くのか、明確なビジョンの提示が必要なのです。そのビジョンの下で、今をどうするのかが指し示されるのなら、“政治屋的判断”が入る余地のない原発再稼働議論が展開されるはずなのですから。

ビジョンなきところは様々な利権がツケいる隙だらけ。従い、ビジョンなきリーダーシップは邪(よこしま)なモノになりがち。原発再稼働の動きを巡る今の政治のあり様からは、企業経営にも通じるそんな真理を改めて痛感させられる次第です。

橋下市長が主張する「政治と行政の違い」こそ、政治は問われるべき

2012-04-10 | その他あれこれ
BLOGOS掲載の橋下大阪市長と池田信夫氏の激論を、大変興味深く読ませていただいています。両者のやり取りの中で、私が先週書き留めた「立法府・行政府」について思うところに関するポイントを、橋下市長がとても分かりやすい表現で述べているので、抜粋・転載させていただきます。

「やれることはやるのは行政だ。目の前のカネが足りないからとりあえず消費税アップと言うのは、国のかたち論、地方分権論、道州制論の本質論を踏まえないいかにも行政的な思考。これは行政マンのやること。政治家のやることではない。国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める。その上で、喫緊の課題への対応策からとりあえずこうさせて欲しいと説明をする。これが政治だ。(BLOGOS掲載4月9日の橋下市長ツイートより抜粋)」

たまたま私は先週、「レバ刺禁止令」の話にからめて政治と行政の役割の違いの話を書かせていただきました。レバ刺を食べる習慣のない私がその禁止令に噛みついたわけでは決してなく、原発再稼働問題にも共通する問題として、行政的判断に流されたまま国民生活に係るような物事を決めるべきではなく、あるべき「政治的判断」をしっかりと働かせるのが政治の役割であるという趣旨で、立法府と行政府の役割の違いを再認識する重要性を述べたつもりでありました(レバ刺と政治の役割を結びつける違和感が一部読み手にはあったのか、レバ刺禁止令そのものをけしからんと言っているかに受け取られたお門違いなコメントまで頂戴して、正直面食らいました)。

レバ刺の問題は誤解を生むのでこれ以上触れませんが、前エントリーも含め私が今の政治に欠けているものとして常々申し上げているところは、橋下氏が語るこの部分であります。例えば被災地復興や原発再稼働の問題について政治は、「政治的判断」の意味を正しく理解した判断をしっかりと行うべきであると思うのです。すなわち、被災地復興の具体策を検討する前に、原発再稼働の是非を戦わせるその前に、必要な「政治的判断」とはいかなるもので「行政的判断」とどう区分けされるのかというしっかりした定義付けをおこなった上で、政権はあらゆる国民生活に係る重要事項に関して確固たる「政治的判断」を提示するべきであるということです。

「政治的判断」が立脚すべきは、橋下氏が述べる「国のかたち論からあるべき論をきっちりと固める」ことであり、これはまさにビジョンの提示に他なりません。企業経営においても自社の将来をどうしたいのかを、トップが社員に対して提示することは、企業を正しい成長過程に導く必須条件であります。今の政権にはこの部分が全く抜け落ちてしまっている。震災復興の問題に関してなら、復興後の日本をどうしたいのか、原発再稼働の問題に関してなら日本のエネルギー政策の将来像をどうしたいのか、そういった各国民生活に係るビジョンを明確に提示した上で下す判断こそが「政治的判断」であり、それこそがまた国民を引っ張っていく政治の在り様であるはずです。

今の政治は、ビジョンが抜け落ちた行政の延長に他ならず、このことがまさしく「官僚の言いなり」と言われる所以でもあるのです。橋下市長の個々のビジョンが正しいが否かの問題は別として、氏のコメントは政治と行政の違いを全国民が強く認識し政治に何を求めるべきかを十分理解した上で厳しい目を向けるべきであるということを強く訴えるものとして、とても意義深いものであると感じた次第です。

“レバ刺禁止問題”は、原発再稼働問題にも通じる「政治判断」を定義する好機

2012-04-05 | ニュース雑感
厚生労働省は食中毒を防止するため、飲食店が生の牛レバー(肝臓)を「レバ刺し」などとして提供することを法的に禁止する方針を決めた。小売店が生食用として販売することも禁じる。専門家でつくる厚労省の薬事・食品衛生審議会の部会が同日、提供を禁止すべきだとする見解をまとめたため。厚労省は近く内閣府の食品安全委員会に諮問。答申を受け、6月にも食品衛生法の規格基準に提供・販売を禁止する項目を盛り込む。違反すれば「2年以下の懲役か200万円以下の罰金」が科される。(ニッカンスポーツ・ドットコムより抜粋)

このニュースを受けて今週、「レバ刺禁止令」の是非についてが焼肉ファンの間でけっこうな話題になっているようです。そもそもの事の発端は、昨年4月に発生した生の牛肉を調理したユッケにより5人が死亡した焼き肉チェーン店の集団食中毒事件。厚労省は昨年10月、生食用牛肉の提供基準を厳格化し、ユッケより食中毒件数が多い生の牛レバーについても規制を検討していたところ、牛の肝臓内部から重症の食中毒を起こす恐れがある腸管出血性大腸菌O157が見つかったため、と言います。調査に頼ったこの決定、正しい対処と言えるのでしょうか。

個人的には、レバ刺には必ずしも大腸菌O157が含まれるというものではない以上、即提供・販売禁止にするというのはいかがなものかと思っています。生モノに食中毒はつきものであり、フグの肝のように明らかな毒物の提供を禁止するのは分かりますが、管理当局がそのリスクを知らしめ認識させ自己責任において食べることに何の問題があるのか、全く理解不能なのです。これまで、我が国で何十年と食用に供してきた食べ物であり、たまたま昨年の事件を発端として食品衛生上の管理問題が浮上したがための今回の措置。いきなりの「禁止令」に、焼肉ファンが戸惑うのも納得であります。さらに、このような安易な決定は、新たな問題発生の懸念があることも考えなくてはいけません。

リスクのあるものを管理対策を飛び越えてとりあえず廃止するというやり方は、「管理」の観点から言えば一番楽な方法ではありますが、管理者の管理放棄以外のなにものでもありません。納得性の乏しい「禁止令」の弊害は、「闇取引」という形で必ず現れます。そういった取引可能な“闇”を作り出せば、その暗躍者として反社会的勢力の“食いぶち”を作り出すことにもなるのです。つまり、「200万円以下の罰金」という取引リスク価格を公が決めることで、“闇レバ刺”がその基準に照らし合わせられた高値で取引され暴力団の新たな資金源になるという可能性も考慮しなくてはいけないのです。

さらにもうひとつ、禁止されたものをあえて欲しがるという人間心理にも新たな問題が潜んでいます。「ニーズ」があればそこに「闇」であれ提供者が現れることは自然の流れであり、今回の「一律禁止」という手抜き対応により衛生面での明確な取り扱い基準が提示されないことから、先の反社会的勢力等が扱うケースも含めO157以外の取扱衛生面の原因による不要な食中毒などの被害者が出る可能性も否定できません(もちろん、法で禁止されている以上、欲しがる奴や食べる奴が悪いとはなりますが)。すなわち、食中毒を減じようとして出した「禁止令」が、かえって別の問題事象の発生率を高めてしまうリスクもあるのです。

このようにちょっと考えただけでも、厚労省の薬事・食品衛生審議会の部会の調査結果だけではレバ刺「禁止」の可否を安易に判断できない問題が存在することが分かります。さらにネット上で「禁止」に動揺してさまざまな意見を寄せる愛好者や取扱業者など、長年日本的食文化としてレバ刺に親しんできた“関係者”の思いや彼らが望むことも多く存在するわけで、これらにも一定の斟酌を加え単に調査結果だけに因らない最終結論を導き出す必要があるのではないかと思うのです。

調査により、リスクの存在が明らかになったものを即「禁止」するというのは、責任回避的風潮の強い官庁文化の表れでもあり、本当に「禁止」すべきか否かはその先での調査結果にとどまらない総合的なリスク検討や国民の要望や文化の観点からの可否検討等「政治判断」があってしかるべきなのではないでしょうか。議会は立法府として省庁のいいなりになるのではなく、ひとつひとつの問題に、「政治的判断」としてしっかり「総合的な判断」を下す責任があると思うのです。

今回の「禁止令」の可否問題は、表面上は取るに足りない食べ物の話にすぎません。しかしその実、「原発再稼働問題」にも相通じる、「安全性の判断」は省庁等専門部署の役割ではあるがそれをもって国民生活に影響を及ぼすような法制化に係る「継続可否」の最終判断とすべきではないこと、法制化に至る「継続可否」は行政府の「安全性判断」を受け総合的見地から最終決定する「政治判断」によりおこなうべきであること等、行政府と立法府の本来の役割の明確化が問われる重要な問題であると感じる次第です。