日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

企業や家庭の危機を救うカギ、「主」の責任感を思う

2010-11-22 | その他あれこれ
とある芸能ネタです。妻を自殺で亡くされた方を悪く言うつもりはないのですが、商売柄とても気なることがあったので一言書かさせていただきます。

「妻を自殺で亡くされた」で一部の方はピンとくるでしょうが、俳優の松平健さんのお話です。数年前にマツケン・サンバで突然ブレイクして、その頃再婚されたのがこのたび亡くなられた妻で元女優の松本友里さんだったそうです。その辺の事情は詳しくないので他にお譲りしますが、たまたまテレビをつけていて耳にした松平さんの妻の自殺とその原因たる病気に関するコメントにひっかかるものがありました。故松本さんの病は精神疾患だったようで、周囲に「死にたい」と漏らすこともあったとか。もちろん医師の治療は受けていたのでしょうが、このたび松平さんが出されたコメントにあったのは「気持ちが通じる医師とめぐり合う事がなく、残念な結果になってしまいました」というものでした。私には瞬間的に「なぜ、これを言うのか」「これは全く要らない一言ではないか」と思わされました。

もちろん詳しいことは存じ上げないというのが大前提ですが、このコメント悪く言えば「責任転嫁」ではないかと思えたのです。ご本人に仮にそんなつもりはなかったとしても、必要のない一言から、妻の死の原因が医師にあるかのような言い分であるともとれるのです。このコメントを聞いた担当医師はどう思うでしょう。「えっ?我々のせいなの?」と思うのではないでしょうか。松本さんの親族はどう思うでしょうか。「なんで、医者との巡り合いの話なの?」とは思わないでしょうか。これを企業経営に置き換えてみれば、よく分かると思います。会社が倒産した際に、責任者たる社長が株主等への説明会見の場で、「いいコンサルタントに巡りえなかったのも、残念なことになった原因です」と回答したとしたら、どう思うでしょうか。ほとんどの関係者は、「なんて無責任な経営者だ」「こんな経営者だから会社はつぶれるんだ」と思うのではないでしょうか。

「主(あるじ)」が常に問われているのは「主」であるが故の「主としての責任」です。言い方を変えれば、「主としての責任」ある行動をとっているか否かは「主」である以上、常に問われる訳です。少しでも「人のせい」にする気持ちがなかったか、「主としての責任」をしっかり全うしているか否かは、ちょっとした言動からはからずも露呈してしまうということなのです(松平さんの場合、先のような発言が出ることは仮に意識的に「医師のせい」にはしていないかったとしても、「主」としての責任感は足りなかったということになるではないかと思います)。不祥事の謝罪会見等でのマスコミとの何気ないやとりから、経営者が馬脚を現すことになるのはまさしくこの事例に他なりません。

何か重大な事件が起きた時に「自己の責任」を「主」が常に感じながら行動を取れるか否か、この点こそが家庭や企業を救えるか否かの分岐点になると思うのです。問題が起きた時に「主」として気をつけたいことは、「誰かのせいにしないこと」です。問題が起きると言う事実に対しては、その責任はすべて「主」にあるのです。先の例で言うなら、もし問題の発生の原因を少しでも「よい医者にめぐり合えなかったから」「コンサルサルタントが役に立たなかったから」と思うなら、それは「主」としては大きな誤りであると思うのです。「医者任せ」「コンサルタント頼り」にしたご自身にこそ責任あるのですから(コンサルタントが無責任な姿勢で仕事をしているという意味ではありません)。

私は経験上から、企業経営がうまくいくか否かの95%以上は経営者次第であると思っていますし、おそらくそれは正しい見方であるとも思います。特に中小企業の場合、例外なく経営者次第で会社は良くも悪くも変わるのです。家庭も同じです。「主」の善し悪しこそが家庭の善し悪しを決めると言ってよいでしょう。企業も家庭も、「主」にとって立場上必須の最も大切なことは「責任感」ある行動に相違ありません。企業で言うなら、「経営者」が例え不景気の時代でも、少しでも自社の不調を時代のせいや政治のせいにするようなことがあるなら、もう企業としては先がないと思ったほうがよいぐらいです。重大な事件が起きた時に、「主」が「なぜそうなったのか」と自己立場上の「責任」を大前提として対応を考える、それが出来るか否かで企業や家庭の運命は大きく変わると思うのです。芸能ネタのちょっとしたコメントから、改めてそんなことを思った次第です。