日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

お茶の水古今物語~“学生街の喫茶店”は何に姿を変えたのか?

2010-08-12 | マーケティング
“あの頃”お茶の水散策の続きです。

お茶ノ水と言えば、私が高校~浪人時代には喫茶店がけっこうあったと記憶していたのですが、今はなんとその数の少ないこと。ほとんどの店の名前は忘れてしまったのですが、ハッキリ覚えているのは、駿河台出口の駅前交差点を渡ってまっすぐ駿台予備校方向に行った右側に「舟」という結構大きな喫茶店があったことです。しかしながら今は見当たらず。ビルに姿を変えてしまったのか、どこがその場所であったのかさえ分かりませんでした。

あとは、駿台予備校近くにあった「レモン」。確か画廊が経営しているお店だったと記憶しています。絵とか飾ってあって、芸術系学生の憩いの場的感じで高校生には敷居が高く浪人生には似つかわしくない、というムードで「大学生になったらおいで」と言われているような印象がありました。その場所に「レモン」はありましたが、「レモンビル」になっていてお店の「レモン」はイタリアン・レストランのようでした。なんかイメージ違うなとこれまた少々落胆でした。

「他には?」と駅からの道々、かなり入念に探してみたのですが、喫茶店そのものがほんどない。「えーっ?そんなバカな」ですよね。ガロの「学生街の喫茶店」じゃないですが(ふる~)、「♪学生でにぎやかなこの店の片隅で聞いていたボブ・ディラン・・・」といった感じのお店が、そこここにあったと記憶しているのですが、本当にないのです。その歌「♪あの頃の歌は聞こえない、人の姿も変わったよ、時は流れた~」と続くのですが、歌が聞こえないどころか店が跡形もないのです。どうしちゃったのでしょうか?歩くうちに、「確かこの辺に・・・」「確かここを曲がった奥に・・・」と店があったと思い当たる場所がいくつも出てきたのですが、皆そこには共通してある別の業態が店を構えていました。何だと思います?居酒屋です。しかもチェーンの。学生街は驚くほど居酒屋だらけになっていたのです。

昔は個人経営の居酒屋はポツポツあったものの、駅前の一等地とか学生でにぎわう通りとかにはあまりなかったと思うのです。そもそも、今から30年以上も前の話ですからチェーンの居酒屋と言うモノ自体がせいぜい「養老の滝」とかぐらいしかなかったようにも思います。それに居酒屋って、サラリーマンのオヤジが集う場所的印象でしたから、学生街にはあまりなかったんですよ、たぶん。学生街と言えば喫茶店が、マーケット的に見て一番商売になりそうな飲食だった訳で、超定番だったのです。ところが、喫茶はドトールに代表される安価のセルフカフェにまず圧迫され、その後はスタバに代表されるシアトルスタイルのおしゃれなセルフカフェの乱立とともに姿を消さざるをえなかったのでしょう。

そうなると外食系としてセルフカフェに勝てる業界はと言えば、利益率の高いアルコール系飲食である居酒屋、しかも資本力にモノを言わせ徹底したコストダウンをはかりつつ多店舗展開で拡大を続けるチェーン店であるわけで、90年代あたりから続々学生街の一等地に進出してきたという訳なのでしょう。昔は明治大学の学生もお茶ノ水では飲まなかったと思うんですよね。これは想像ですが、だいたい新宿とかに出ていたのではないかと・・・。今は学生の飲み屋も「安・近・短」?これだけ安居酒屋が乱立していれば、地元で飲んでるのかなと思います。

昔、駅前丸善書店並びに、三~四階建ぐらいの洋風の城を模した喫茶店がありました(名前は忘れました)。お茶の水界隈ではけっこう存在した名曲喫茶のひとつだったと記憶してます(たぶん)。実は今もこの目立つ建物はありまして、「1軒みっけ!」と思ったのですが、近くで見てみると各階にそれぞれ別の店が入った「居酒屋ビル」に中身を変えていたのです。あの建物のまま居酒屋チェーンの雑居ビル化ってどうなのよと、ちょっと寂しいですね。

お茶の水話、もう一丁ぐらいいけそうですね。

お茶の水古今物語~林立する楽器店はなぜ商売になるのか

2010-08-11 | マーケティング
「村田クンシリーズ」にコメントをいただいた「87」さん、ありがとうございます(彼の同級生=先輩ですね?)。

先週末は所用がありまして久しぶりにお茶の水に行ってきました。お茶の水と言えば村田クンとよく学校帰りにブラブラした懐かしい街です。その後も予備校時代に毎日通った街でもあり、用事を済ませた後に“あの頃”を訪ねてひとりぶらついてみました。まず、驚いたのは、「駿河台の坂道ってこんなに楽器屋さんが多かったっけ?」と言う点。たしかにイシバシとか下倉とか楽器屋がいくつかあったのは記憶にあるのですが、道の両側をこんなにも軒を連ねていたとは思えないのです。高校時代はバンドをやっていましたたから、けっこう楽器を冷やかしにイシバシあたりには行った記憶があるのですが、これは驚きだなと。ある意味秋葉原の電器街以上のものがあるように思いました。

何が驚きかと言うと、こんなに楽器屋さんが軒を連ねていて皆商売になっていると言う事が驚きな訳です。秋葉原だって今やヤマダやコジマに押されて、家電販売を生業とする店舗はむしろジリ貧状態。近年はPCに端を発した“おタク向けビジネス”が、すっかり街の事業ドメインになっており、古くからの事業ドメインである家電販売業は同業店舗の集積がむしろ減少するパイの食い合いを産み、もはやつぶし合いの様相を呈しているのです。お茶の水の林立楽器店はそうはならないのでしょうか?当然、お茶ノ水の楽器屋さん間にも激しい価格競争はあるでしょうから、よほど需要が伸びていない限りはやはりつぶし合いのジリ貧が待っているように思うのです。でもさにあらず・・・。

理由を考えてみると、商品サイクルが長く在庫回転率が悪くとも不良在庫は発生しにくいこと、楽器の原価率が低いであろうこと、は想像できるところですが、それ以上に彼らを力強く支える理由がマーケットに存在するように思います。我々時代に比べて少子化の影響で確かに若年層の楽器演奏人口は減少の一途にあると思います。しかしながら、それ以外の層の楽器需要が意外に伸びているのではないでしょうか。そうですいわゆる“ギター小僧”“バンド小僧”OBの連中です。我々の高校時代に40代以上のオヤジ層で楽器をいじったりバンド活動をしたりなんていうのは、ごくごく稀なケースだったじゃないですか。ところが今はどうでしょう?子供も大きくなって生活も安定して、“昔取った杵柄”とかなんとかで「オヤジバンド」をはじめる連中の何と多いことか。オヤジバンド・コンテストなんてものもあこちで催されるようになり、やりがいも手伝って中年バンド・ブームが定着してきていると言ってもいいと思うのです。

しかもオヤジは、高校生に比べて金持ってますから。昔はなかなか手が出なかったギター・エフェクターの“大人買い”とか、ギブソンやフェンダー等憧れの海外ブランド・ギターの衝動買いとかもバンバンある訳で、この業界は実は20~30年前に比べるとかなりマーケットが大きくなっていると言えるのではないでしょうか。それと、秋葉原の主流ビジネスが家電からPC関連に移った最大の要因は、おタクの存在です。要するにPCやゲームのマーケットには相当数のオタクが存在しており、彼らの「好きなモノには金に糸目をつけない」という行動特性が安定的な需要を支えている訳なのです。楽器もPCほどではないにしても、マーケット比率的にそれなりの規模のオタクは存在する訳で、これが資金力のある中年層中心と考えるならかなり肥沃なマーケットであると言えるのかもしれません。

お茶ノ水を歩いていて、そんなことをちょっと考えさせられました。
お茶の水古今物語はもうひとネタありましたので、それは次回に。

「70年代洋楽ロードの歩き方19」~パワーポップ2

2010-08-08 | 洋楽
今回はアメリカ産のパワーポップに着目してみます。

60年代アメリカで英国ビートルズに対するパワーポップのルーツ的存在と言えば、ビーチ・ボーイズやモンキーズ(彼らは作られたアイドルと言う点でも、ある意味重要なルーツかもしれません)でしょう。70年代アメリカに登場したパワーポップは、ビートルズ(特にポール・マッカートニー)の影響をストレートに受けた英国産とは一味違う、独自のパワーポップが生み出されたのでした。その代表格がラズベリーズです。

ラズベリーズといってピンとこない方、「あのエリック・カルメンが在籍した」と言えば「なるほど!」と思っていただけるかと思います。「ゴー・オール・ザ・ウェイ」「明日を生きよう」「レッツ・プリテンド」「トゥナイト」・・・、ビッグヒットこそないものの72~75年頃にかけてスマッシュヒットを連発。日本ではむしろ本国以上の人気を集めていたかもしれません。中でも「レッツ・プリテンド」のメロディアスな甘さは、極め付けと言っていいでしょう。この曲は後にあのベイシティ・ローラーズをはじめ、多くのフォロワーにカバーされ、まさしくパワーポップの名曲として君臨してます。彼らはメンバーチェンジを経て75年に解散してしまうのですが、リーダーのエリック・カルメンはソロでラズベリーズ以上の成功をおさめます。ソロでは名バラード「オール・バイ・マイ・セルフ」が有名で、バラード・シンガーの印象が強いのですが、「すてきなロックンロール」「恋をくれたあの娘」「ヘイ・ディニー」など、パワーポップ路線の佳曲を何曲も書いてもいるのです。

ラズベリーズの解散後、その後を継いでアメリカン・パワーポップの雄になったと言えるのはチープ・トリックでしょう。やや、バブルガム・アイドル的な印象が強いのですが(アメリカでの出世作ライブ「at武道館」は黄色い歓声で埋め尽くされています)、77年日本でのデビューヒット「甘い罠」をはじめ、「サレンダー」「ドリーム・ポリス」「ヴォイシズ」と日本でも大ヒットした数々の曲はどれも、ロックとしてのB級加減は否めないものの、かなり魅力的なパワーポップであることは保障付きといった感じです。代表曲を1曲選ぶなら断然「甘い罠」。音楽評論家の渋谷陽一氏が自身のラジオ番組で彼らを紹介したのがキッカケで、アメリカよりも先に日本でブレイクしたという逸話を持っています。それにしても「チープ・トリック=安っぽい仕掛け」とは、あまりにパワーポップ的なネーミングです。

さらに79年彗星のごとくアメリカに登場したパワーポップ・バンドがいます。ザ・ナック。デビュー曲の「マイ・シャローナ」を、いきなり全米チャートのトップに6週連続で送り込んだというパワーポップ界一のツワモノです。恐らくパワーポップに分類されるアーティストが、全米チャートを制覇したのは先にも後にもこのナックだけではないでしょうか。彼らはあの、スウィートやスージー・クアトロを世に出した、マイク・チャップマンがプロデュースしたバンドあり、そう言われてみるとラズベリーズやチープ・トリックとは一線を隔すどことなく英国的な香りがするバンドであるのです。デビュー曲の鮮烈さから、一般的には一発屋であったかのように思われがちですが、実は他にも「グッド・ガール・ドント」「ベイビー・トークス・ダーティー」のヒットがあるのです。まぁでも彼らには「マイ・シャローナ」にまさる曲はないですね。

<70年代洋楽ロードの正しい歩き方~パワーポップ2>
★パワーポップを正しく知るアルバム★
1.「ラズベリーズ・ベスト~フューチャリング・エリック・カルメン」
パワーポップはやはりベスト盤で。彼らは近年ベストCDが数種類出ていますが、オリジナル・ベストはこれです。レコード時代のものなので曲数は少ないですが、デビューからメンバーチェンジを経て解散まで代表曲は全て収録。エリックのその後のソロ展開もイメージしてか、「アイ・キャン・リメンバー」なんていう組曲的なナンバーも入っています。オリジナル・アルバムでは、「サイド3」がおすすめ。一般的に評価は高くないのですが、バンドしてのまとまりが出てきた時期でバッド・フィンガーともイメージがダブる“パワーポップ・バンド”の正しいあり方がそこにはあるように思えます。

2.「ザ・ベスト・オブ・エリック・カルメン」
こちらはエリック・カルメンのソロになって以降のベスト盤です。確かに「オール・バイ・マイセルフ」は荘厳な印象の名曲ですが、他のメロディアスでキャッチーな曲の数々はやはり“パワーポップの旗手”的な彼の資質を感じさせるのに十分なものがあります。オリジナル・アルバムで聞くならば、満を持してリリースされたソロ第一弾「サンライズ」でしょう。「サンライズ」~「素敵なロックンロール」~「恋にノータッチ」~「オール・バイ・マイセルフ」と続くアナログ盤で言うところのA面は圧巻。彼の才能に脱帽です。

3.「グレイテスト・ヒッツ/チープ・トリック」
90年代に出された彼ら初のベスト盤です。代表曲とともに未発表トラックのビートルズのカバー「マジカル・ミステリー・ツアー」やプレスリーの「冷たくしないで」、ファッツ・ドミノの「エイント・ザット・ア・シェイム」を、彼ら的パワーポップに料理したナンバーがけっこうイケています。彼らの音楽は、ビートルズ的要素とヤンキーノリのアメリカン・ポップの要素をうまく取り入れた、アメリカン・パワーポップといった趣です。オリジナル・アルバムではやはり「at武道館」。テクニック的なものを競わないパワーポップにおいてはライブアルバムが少ないのですが、その意味でも貴重な存在です。「甘い罠」~「サレンダー」と続くB面のくだりは、まさしく「これぞパワーポップ」です。

4.「ゲット・ザ・ナック/ナック」
ベスト・アルバムが90年代に出されてはいるのですが、沢山ヒットがある訳ではないので、やはり衝撃のデビュー作を聞くべきでしょう。「マイ・シャローナ」「グッド・ガールズ・ドント」をはじめとして、どれも2~3分台のこれぞパワーポップという“チャップマン・サウンド”のナンバーにあふれています。改めて取り上げますが、よく言われるパワーポップとグラムロックの隣接度合いを検証する格好の題材でもあるのです。

ルース大使の平和式典出席を、日米は次のステップにつなげよ

2010-08-06 | ニュース雑感
広島で原爆投下の8月6日に毎年開かれている平和記念式典に、アメリカのルース駐日大使が米国政府代表としてはじめて正式に出席しました。

ルース大使の主席に関しては、米国の原爆投下に対する「謝罪の言葉」があるか否かが注目をされ、今回はそれがないと分かった段階から国内各方面では謝罪すべきではないかとの声も聞かれていました。確かに戦争を早期に終結させるためとはいえ、核兵器を使用して多くの命を奪ったアメリカの過去の選択は今の時代の人類の反省に立って考えれば人道的に許されないことであることは間違いなく、被爆者やその遺族を中心とした方々が正式なアメリカ政府の謝罪を求めることは間違った行動とは言えないとは思われます。しなしながら、戦争はそれを容認し武力抗争に出た段階で勝った国も負けた国も結局は“敗戦国”であり、戦争をおこした愚かさはアメリカ、日本それぞれが対等に責めを追うべき問題でもあるのです。全ての犠牲は戦争を起こした両国に責任がある、そう考えるなら「原爆の投下」についても単にアメリカだけにその責任があるとは言えないと思えるのです。

戦争の犠牲になった方々のお気持ちは察して余りあるものの、「過去の責任を追及すること」や「過去の過ちに対する謝罪を求めること」よりも大切なことは、いつまでも人々の記憶から消し去れない不幸な過去の出来事を、当事者である日米が協力していかにして将来に活かすか、いかに「過去の過ちを二度と起こさせないか」ではないでしょうか。その点から見て今回のルース大使の式典出席は大きな前進であり、日本政府はあらゆる手だてを講じつつこれを次につなげていく努力することこそが求められるのではないかと思うのです。

日本には、広島とともに原爆の被害を受けた長崎、米軍の上陸で大量の死者を出した沖縄、日米両軍が不毛な死闘を繰り広げた硫黄島など、戦争の愚かさを今に伝える多くの“戦争の詰め跡”が存在しています。政府は国としてもっと積極的に広島や長崎が世界に平和をアピールする機会をお膳立てをするべきでしょうし、未だに自衛隊が“占拠”する硫黄島などは早急に平和利用に動くべきであると思うのですが、いかがでしょうか。そのような動きを活発化させる中で、同じ“戦争の敗戦国”であるアメリカの積極的な協力を引き出していくことが重要なのではないかと思うのです。

一般的に何事においても「問題解決」の重要なポイントは、過去の過ちの「責任追及」や「謝罪強要」ではなく、「再発防止」にこそあるべきなのです。すなわち「問題解決」に向けてすべきことは、「二度と同じ過ちを起こさせない」そのためにどうするかにつきるのです。日米は過去にもっとも愚かな戦争をした“敗戦国”として、「戦争のない世界」を実現するべく、手に手を取り合って今回のルース大使の式典出席を次のステップにつなげて欲しいと思います。

※広島の「平和記念式典」ですが、「平和」は世界にいまだに戦争や核兵器が存在する以上、「記念」すべき状況ではなく「祈念」すべき段階にあるのだと思います。その意味では、「平和記念式典」の名称よりも「平和祈念式典」とした方が世界に向けたメッセージ力も強くなるように思います。

訃報~“Tokyo Joe”今野雄二氏自殺に思う「栄光の日々」と「老いらくの悲哀」

2010-08-03 | その他あれこれ
評論家の今野雄二氏(66)が、代官山の自宅で自殺され亡くなられたそうです。

今野氏と言えば、一般的には11PMの映画紹介コーナーの“コンちゃん”で知られる方ですが、我々世代の洋楽ファンにとっては海外情報が少ない時代のロンドン文化コメンテーターとして、スウインギング・ロンドンからグラム・ムーブメントに至る60~70年代前半の音楽およびファッションに関する英国文化の情報提供者として忘れられない人物であります。特に日本初の洋楽文化番組「リブ・ヤング」では、ブレイク前の愛川欣也氏とともに番組進行役を務め、当時来日したTレックスのマーク・ボランやデビッド・ボウイを相手にインタビュアーを務めたり新着のロンドン情報を流したりと、当時の海外最先端文化にあこがれる若者たちから羨望のまなざしを持って迎えられた“新文化人”でありました。

私なんぞが洋楽聞きはじめの70年代前半の洋楽界は、ビートルズ、ストーンズ以降クラプトン、ツエッぺリン、パープル、ボウイ、Tレックス、エルトン…と圧倒的英国優勢下にあり、そんな当時に英国と日本を頻繁に行き来し最先端カルチャーを自分の体験で語る姿には、正直少なからずあこがれたものです。特にエルトン・ジョンとは親交が深く、彼の誕生パーティに呼ばれた際のあまりに楽しげな写真入りのエピソードなどをレコードのライナーノートで読むにつけ、「早く大人になってこんな仕事がしたいものだ」と思ったものでした(訃報に接し思わず昔のレコードを引っ張り出して彼のライナーを読み返してしまいました)。他にも、加藤和彦氏との交友の延長から、プロデューサーのクリス・トーマス(加藤ミカをトノバンから寝取った男です)経由でロキシー・ミュージックとも大変親交が深く、リーダーのブライアン・フェリーが書いた「Tokyo Joe」(キムタク主演ドラマ「ギフト」主題歌)は彼がモデルであったと言われています。

66歳の自殺の陰に何があったのでしょうか。その昔栄光を極めた者の“老いらくの悲哀”であったのか、この春に同じく自殺した加藤和彦氏の死とどこかイメージがダブったりもします。しかも彼は、その筋では“おカマのコンちゃん”としても知られ、老いゆく自身の容姿への絶望感が彼を死に追いやったとしたら、あまりに悲しい末路であると思えてなりません。折しも先週末の31日には件のブライアン・フェリー率いるロキシー・ミュージックが来日し、「フジ・ロック・フェスティバル」に出演しています。同じ時代を共に歩んだロック・ヒーローのいまだ変わらぬ活躍ぶりが、かつての“Tokyo Joe”である彼の心に何か「鬱」な思いを去来させたのでしょうか。あまりに偶然とは思えないこのタイミング。人の「栄光」と「老いらく」の落差とその悲哀に「人の本当の幸せ」とは何であるのか思わず考えさせられずにはいられない、そんな複雑な思いを抱かされた訃報でありました。

過去のご活躍に感謝の念を込めつつ、心よりご冥福をお祈り申しあげます。

2人のスタッフを死に追いやったテレビ“報道ショー”の倒錯に終止符を

2010-08-02 | ニュース雑感
日本テレビ記者の秩父取材死亡事故は、テレビ取材のあり方の根本を考えさせられる事件であったと思います。

今回の事件について、「日テレはけしからん」とか「責任問題だ」とかを問う以前の問題として、なぜ事件は起きたのかという根本的な問題を考える必要があるのではないかと思っています。その際に今一度考えなくてはいけないのは、「報道とは何か」という問いかけです。「報道」とは、政治・経済動向や世間一般に起きている事件や事故に代表される重要情報を、より客観的な立場で広く一般人に伝えることではないかと思います。その代表が新聞を中心とした活字メディアです。そもそも「報道」は、江戸時代の瓦版の時代から活字メディアとして生まれ、活字メディアとして発展してきました。その発展の過程において、挿絵が取り入れられたり、写真が取り入れられたりといった視覚面での変化はあったものの、主役が活字であると言う点では長い新聞報道の歴史において変わることなく来ているのです。

一方、今回問題の渦中にあるテレビ媒体はどうでしょう。テレビは活字媒体に比べれば圧倒的に歴史は浅く、視覚に訴えるという活字とは全く異なる媒体の特性もハッキリしています。また、新聞と異なり一般の民間テレビ局は視聴料をとらずにスポンサーに電波を切り売りするビジネスモデルで発展を遂げた結果、勢い娯楽媒体として視聴率競争を身上とする存在となったのです。すなわち、取材に基づいていかにして客観的事実を早く正確に伝えるかという新聞とはその成り立ちからして異なっており、いかに視聴率が稼げるイコール視聴者が喜ぶ映像を入手し放映するかという点こそがテレビマンの使命であるのです。報道番組と言えども、スポンサーがついている限りにおいては、視聴率争いを背負わされた“報道ショー”“報道バラエティ”であり、その番組スタッフはいかにいい映像がとれるかを常に競っている訳なのです。

そこで今回の事件で私が言いたいのは、テレビの“報道番組”は新聞等活字メディアが脈々と作り上げてきた本来の意味での「報道」とは全く違うのだということを今一度問いなおす必要があるのではないかと言う事なのです。犠牲になった二人のテレビマンは、日曜夕方の“報道番組”「バンキシャ」の取材で現地入りしたといいます。彼らの目的は、番組に必要な“絵になる映像の入手”以外になく、これはもう本来の「報道」とは全く別次元の行動であったと言わざるを得ないと思います。すなわち、ここでハッキリ認識しなくてはいけないことは、2人は“報道の正義”に倒れたのではなく、“報道ショー”という“テレビのビジネスモデルの犠牲”になったということなのです。「報道」では真実を求める“報道の正義”から、やむなく危険を冒す行動に出ざるを得ない場面があるのも事実です。しかしながら、テレビクルーの取材活動は“報道の正義”ではなく“報道ショー”のスポンサーを喜ばせるための視聴率争いに勝つ「映像入手活動」に過ぎず、そこには危険を冒す理由は全く存在しませんし、また危険を冒させてはいけないはずなのです。

テレビ局は自身の媒体の特性を今一度よく考え、テレビの発展とともにその存在感を増してきた“報道ショー”が本来の「報道」とは異なる特異なビジネスであると再認識した上で、その取材活動のあり方を根本に立ち返って検討すべき時に来ているのではないかと思うのです。“報道の正義”と“テレビのビジネスモデル”の倒錯の末、行きすぎた取材をおこないテレビ界ビジネスの犠牲になった二人のテレビマンの死。この死を無駄にしないためにも、業界全体の問題としてこの事件を真摯に受け止め、「報道」と“報道ショー”の違いを明確化し「テレビ報道取材行動指針」を作成するなどの再発防止に向けた改善策を講じるべきであると心から思って止みません。

「70年代洋楽ロードの歩き方18」~パワーポップ1

2010-08-01 | 洋楽
さて、グラムの次はパワーポップです。

はじめにパワーポップとは何かですが、70年代に登場した60年代のビートルズに代表される明るくメロディアスな甘めのロック・ミュージックとでも定義されるのでしょうか。個人的には“ビートルズ・フォロワー”と言うよりもむしろ、“マッカトニー・フォロワー”といった印象でくくれそうなポップ・ロック・アーティストの総称であると思っています。この系統は日本人好みなのか、日本でも結構人気を博したアーティストがたくさんありあます。具体例をあげてみれば、「ああなるほど、あの感じね」とご理解いただけると思いますので、さっそく具体例を・・・。

まずはポール・マッカートニー直系のバンド、バッド・フィンガー。もともとビートルズのアップル・レーベルから、マッカートニー作の“元祖パワーポップ”「カム・アンド・ゲット・イット」のヒットで世に出た彼ら。その後も順調に“マッカトニー・ライク”な曲作りで次々をヒットを放っていったのです。代表作はアルバム「ノー・ダイス」と「ストレート・アップ」。シングルでは「カム・アンド・ゲット・イット」以外でも、「嵐の恋」「ディ・アフター・ディ」「メイビー・トゥモロウ」あたりがパワーポップ系の名曲です。“マッカトニー・ライク”な曲を書くのは主にギターのピート・ハムとベースのトム・エヴァンス。ニルソンのカバーで有名なあの名曲「ウイズアウト・ユー」も、実は彼ら二人の共作になるのです。

バンドにはもう一人のソングライターであるギターのジョーイ・モランドがいて、彼はかなりソリッドなロック志向であったので、アルバムでは必ずしも甘いパワー・ポップ系の曲ばかりではありませんでした。90年代に突如リリースされたライブ盤「ディ・アフター・ディ・ライブ」等を聞くと、ある時期以降はステージではかなりモランド色が強く、バンド内に不協和音生じていたことをうかがわせもします。結局彼らはマネージメント・トラブルに端を発した、バンドをとりまくいざこざに巻き込まれ、遂にはノイローゼに陥ったピート・ハムの自殺というなんともやり切れない結末でバンドは終焉を迎えてしまうのです。その音楽性とは裏腹の暗く沈痛なバンド・ストーリーをたどったのでした。しかしながら、ポール・マッカトニー直系の“元祖パワーポップ・バンド”として、後世に残した功績は決して小さくはないのです。

この流れをくんだ次なるパワーポップの雄は、パイロットです。彼らのプロデュースを手掛けたアラン・パーソンズが、実はビートルズのフランチャイズであるアビー・ロード・スタジオのエンジニアであったという流れがあり、その意味ではバッドフィンガー同様にある意味ビートルズ直系の“正当派”パワーポップ・バンドであったと言っていいかと思われます。74年にシングル「マジック」が英米で大ヒット。キャッチーなメロディとハンドクラップを巧みに使った跳ねるようなアレンジで、一躍日本でも人気者になります(余談:当時「マジック」が気に入ってレコ屋に走った私が店員に「パイロットのマジックありますか?」と尋ねたら、「うち文房具は置いてないよ」と言われたという笑い話があります)。

その後も「ジャニュアリー」「コール・ミー・ラウンド」など、実に教科書的なパワーポップの傑作を次々にリリース。個人的には史上最強のパワーポップ・バンドであると思っています。3枚目のアルバム「モーリン・ハイツ」では、クィーンを世に送り出したロイ・トーマス・ベーカーのプロデュースでややハードに転身しハンド・クラップを封印。しかしながら、「カナダ」「ペニー・イン・マイ・ポケット」等は従来と変わらぬメロディアスさで、パイロット健在を印象付けました。彼らもその後は、マネージメント・トラブルに起因する、バンド内不協和音から相次いでメンバーが脱退するなど不幸に見舞われ、結局4枚のアルバムを残して解散してしまいます。しかしながら、日本での彼らの人気は根強く、一昨年には遂に再結成→初来日公演が行われ多くのパワーポップ・ファンで盛り上がったのでした。めでたし、めでたし。

<70年代洋楽ロードの正しい歩き方~パワーポップ1>
★パワーポップを正しく知るアルバム★
①「ベスト・オブ・バッドフィンガー/バッド・フィンガー」
アップル時代の代表曲をすべて網羅したベスト盤です。彼らのパワーポップ・バンドとしての曲作りの力量知るには最適でしょう。ワーナー移籍後の後期ベスト盤「ベスト・オブ・バッドフィンガーVOL2」を併せて聞けば、代表曲に関しては完璧です。こちらには、加藤ミカが日本語で不思議な語りを入れる「誰も知らない」や、マネージメント・トラブルでお蔵入りになったアルバム「ヘッド・ファースト」収録の「レイ・ミー・ダウン」などという佳曲も聴けます。オリジナル・アルバムで、抑えたい向きには「嵐の恋」をフィーチャーした「ノー・ダイス」がジャケットの良さも含めてピカイチでしょう。
②「A'S B'S/パイロット」
パワーポップはベスト盤で聞くのが基本かと思いますが、現在入手可能な彼らのベスト盤はこれくらいでしょうか。タイトル通り、彼らのすべてのシングル盤のAB面を網羅した企画盤です。代表曲以外も例えB面ソングでも侮るなかれ。どれもこれも、最強パワーポップ・バンドの名前に恥じないポップ優等生的水準の高さを見せつけてくれます。素晴らしい。こちらもオリジナル・アルバムで抑えたい向きには、パワーポップの決定版で「マジック」「ジャスト・ア・スマイル」をフィーチャーした1作目「パイロット」がおすすめ。ロイ・トーマス・ベイカー制作の3作目「モーリン・ハイツ」、アラン・パーソンズに手戻りした最終作「新たなる離陸」(「ゲット・アップ・アンド・ゴー」はハンドクラップ復活のパワーポップの名曲です)も捨てがたいです。パワーポップに関心のある方は、このバンドは全アルバム必聴ですね。