日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

坂東英二氏に見る“ダメ謝罪広報”解説

2013-11-12 | 経営
宮藤官九郎脚本の「謝罪の神様」なる映画が公開された途端、番宣かと思うほどダメな謝罪会見が相次いでいます。みずほ銀行、阪急阪神ホテルズ、板東英二。とにかく皆さん、謝罪が下手くそです。みずほ銀行、阪急阪神ホテルズのお話は散々書いてきたので、ここでは板東英二氏のケースを中心に書きますが、下手くそな謝罪会見のどこがダメかの基本は同じです。

まず最大の問題点は、見ている誰もが確信している「悪意」の存在を認めようとせず、詭弁により言い訳がましい答弁に終始する点。「カツラが経費で落ちると思っていた」「税務当局との見解が違った」って、問題はそこじゃない。ポイントはあなたに「悪意」があったが否かです。謝罪は「悪意」に対しておこなわれるべきであり、「欲の皮が突っ張っていました」「私が間違っていました」「これから心を入れ替えます、ごめんなさい」、それが謝罪の基本なのです。「悪意」を認めない謝罪会見は、あんこのないあんぱんみたいなものです。

また謝罪の場で、相手に突っ込みを次々入れられるようではそれは正しい謝罪ではないのです。突っ込みの原因は大抵「言い訳」や「他人のせい」です。私も銀行員時代に経験をしていますが、お客さまからのクレームに対して、「ごめんなさい、でも…」等の物言いは、かえって事をややこしくするだけであったり、より一層こちらの印象を損ねることになるのです。

「申し訳ございませんでした。すべてこちらの責任です。責任者として心よりお詫び申し上げます、何卒お許しください」。仮に多少の言い分があったとしても、下手に言いがましいことを言うのならきれいさっぱりとお詫びに徹することが謝罪の基本ではないのでしょうか。この基本に忠実であることこそ、謝罪の極意ではないのかと思うところです。

第二に謝罪のタイミングの問題。坂東氏の場合、だんまりを決め込んで約1年。ほとぼりが冷めるのを見計らって、「そろそろお許しください」っていうのは、どう見ても印象が悪いでしょう。謝罪すべき不祥事が起きたなら、即座に本人、企業の場合には責任者が公の場に出てお詫びをする必要があるのです。もちろん何の後ろめたさもないのであれば、その旨をハッキリと公の場で断言すればいい。逃げ、隠れは誤解を生んだり、必要以上に悪い印象を与えたり、良い事は何ひとつないのです。

最近の謝罪会見におけるメディアの袋叩き姿勢にも問題は多々あるとは思いますが、叩かれることを恐れて本人が逃げ回ったり、トップの登場を温存したりすることは、余計にメディアや世論を刺激してしまいます。堂々とする者には突っ込みを入れにくく、コソコソとする者には思いっきり突っ込みを入れたくなる、弱い者いじめ的なメディアの性質も十分に知っておく必要があるのではないでしょうか。

第三に、これはどうでもいいことですが、坂東氏が会見で見せた“泣き落とし”って古すぎます。謝罪をする者が自己の勝手な事情に思いを巡らせて“お涙ちょうだい”をやっても、当事者の様々な経緯を知り得ていない者にとってはむしろ興ざめであり、泣くことによる同情やプラス効果はほとんどないと思います。企業の不祥事謝罪会見では涙の会見はあまり目にしませんが、仮にあったとしてもビジネスの場での涙は、むしろ「泣けば済むのか」「泣くぐらいならはじめからやるな」といった冷たい反応を呼び起こし、確実に逆効果になると思います。

いずれにしても、ビジネスシーンにおいてもプライベートな人間関係においても、謝罪の失敗は致命傷になりかねません。このところ連発する下手くそな謝罪会見を見るにつけ、日頃からの「謝罪広報」に対する心構えの大切さを痛感させられるに至り、遅ればせながらこの“番宣”に乗せられて映画「謝罪の神様」を見てみようと思った次第です。

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