日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№58 ~ ルーツとトレンド、絶妙のバランス感覚

2009-01-11 | 洋楽
今年最初の“ユルネタ”は、〈70年代の100枚〉その58です。

76年秋、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がリリースされ巷の話題をさらっていた頃、地味ながら別の意味でアメリカを象徴するバンドのアルバムもチャートを賑わしていました。スティーブ・ミラー・バンド。当時日本でも人気爆発のイーグルスとは対照的に、彼らは国内ではほとんど注目されていませんでした。

№58     「鷲の爪/スティーブ・ミラー・バンド」

ギター&ボーカルのスティーブ・ミラーを中心として60年代後半にデビュー。当初、スティーブ・ミラー・ブルースバンドを名乗っていたことからも分かるように、主にR&Bを基調としたどちらかと言えば渋めのナンバーが中心のバンドでした。初期の一時期には後にAORの旗手となるボズ・スキャッグス(スティーブの高校の同級生)も在籍していましたが、まだまだ大きな成果を残すには至らず短期間で脱退しています。

彼らが大きくブレイクするきっかけをつかんだのは、73年のアルバム「ジョーカー」。アルバム・タイトルナンバーが、ジワジワとチャートを上昇し思いがけず全米№1に輝いたのでした。ブルースを基調とした至って地味でありながら、自然体でメロディアスな一面が大いにウケたのでした。スティーブがこの路線をさらに押し進め、制作に2年以上の歳月をかけて練り上げリリースしたアルバムがこの「鷲の爪」です。このアルバムからは、B1「テイク・ザ・マネー・アンド・ラン」B2「ロックン・ミー」A2「フライ・ライク・アン・イーグル」の3曲が立て続けにヒット。特に「ロックン・ミー」は、「ジョーカー」に続く2曲目の全米№1ヒットを記録し、彼らの人気を決定づけたのでした。

このアルバムが大ヒット(最高位全米2位)し、今だに彼らの代表作として語り継がれているのには理由があります。単なるR&Bではなくポップな要素を含みながら、でも単なるポップにならない、ルーツを明確にしつつもトレンドを見事にミクスチュアさせたオリジナリティがそこにあるからです。例えて言うなら、弊社が生産者が明確な地元妻沼産の野菜を使って人気の洋風懐石を作るみたいな感じでしょうか(ん?)。

先のシングル3曲にもR&Bのムードは感じさせられますが(30周年アニバーサリー版には、3曲のオルタネイト・バージョンが収録され、この点がより明確に分かります)、極めつけはB5「スウィート・マレー」でみせるもろブルース、A5「ダンス・ダンス・ダンス」でのもろカントリーを打ち出した曲づくり。カバーもふるっていて、サム・クックのB3「ユー・センド・ミー」なんてホント泣かせる選曲と演奏です。長年にわたる下積み時代の地道なルーツ音楽に浸った活動があればこそ、可能たらしめたスタイルに違いないのですが、この彼らの流行を追うばかりでない音楽的出生地を自信をもって見せるごまかしのなさが、彼らの最大の魅力であるのです。

このアルバムのヒットの余勢を駆って、次作「ペガサスの祈り」も大ヒットします。しかしヒットシングル「ジェット・エアライナー」や「ジャングル・ラブ」は、スティーブが曲作りに加わらない言わばバンドのルーツに依らない単なるポップ・ソングに過ぎませんでした。こうしたヒット狙いの路線変更やバンドのスタジアム級ヘッド・ライナーへの変貌等、この時期以降数年間の産業ロック化の波に飲み込まれたかのような展開は、明らかに今音楽史を振り返る際の彼らの評価を下げる要因になってしまったのです。

今彼らは原点に立ち返って、R&Bを基調としデビュー作から「鷲の爪」あたりまでのルーツ探訪的ライブをアメリカ国内で地道におこなっているようです。このスタイルこそあるべき彼らそのものです。今こそ大人のライブ・ハウスで、バーボン片手に見てみたいアーティストですね。今年あたりぜひビルボード・ライブに呼んで欲しいものです。