日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№29 ~ Who?The Who 

2008-07-05 | 洋楽
待ちに待った単独来日公演決定!ストーンズ、ツェッペリンに対抗しうる唯一の現役ビッグネーム、ザ・フーの単独来日公演が遂に11月に実現します。と言うわけで、英国の歴史的大物バンド〈70年代の100枚〉にいよいよ登場です。

No.29   「フーズ・ネクスト/ザ・フー」

ザ・フーを中学時代の大関少年に教えてくれたのは、またまた年上の同級生ムラタくんでした。彼はビートルズ、ストーンズの正しい楽しみ方から、ブルーズ(この発音が正しいとさかんに彼は言ってました)、カントリー、トラッド・フォークの聞き方まで、いろいろなことを教えてくれました。そんな彼の“イチオシ”ロックバンドがザ・フー。「パープルなんてアホバンド」「ツェッペリンはまだましだけど、フーに比べたら、テクと哲学の点で雲泥の差」とよく言ってましたっけ。

そして「入門盤」として聞かされたのがこの「フーズ・ネクスト」(71年、全米第4位)でした。私は彼から借りたレコードを聴いて、その締まった演奏とかっこいい曲の連続に、いきなりぶっ飛びました。とにかく、まず驚いたのは演奏の凄さ。ギタリストが一人のバンドとはとても思えない点もさることながら、狂気のドラムと個性丸出しのベースには圧倒されっぱなし。「こんなすごいバンドが、なんで日本で無名なの?」と本当に不思議に思ったものです。ホント当時日本では、「フーって誰?」状態でしたから。

今思えば、理由は簡単です。
当時の音楽メディアへの露出は、ひとえにレコード会社の洋楽担当のプロモーション次第でした。大手の東芝EMI、CBSソニー、ワーナー・パイオニアの御三家は、資本力にものを言わせて常に大々的なプロモーションを展開していましたが、ザ・フーは悲しいことに弱体洋楽部門のポリドール所属。ほとんど目立ったPR活動もない訳で、結果70年代の日本では常にマイナーなロック・バンド扱いだったのです。

そんな訳で、当時はフーの情報などほとんど日本には入ってきていませんから知る由もなかったのですが、実はこのアルバム、ロックオペラ+映画+ステージの一大プロジェクト「ライフ・ハウス」の頓挫によって埋め草的にリリースされたアルバムだったのです(「フーズ・ネクスト」=「フーの次作」という投げやりなタイトルに、プロジェクト頓挫の落胆がうかがえます)。後から思えば、大量の「ライフ・ハウス」用楽曲から選りすぐった9曲でアルバムを再構成したことが、この超名盤生んだ訳で、まさに“ケガの功名”って話だった訳です。

当時としては斬新だったであろうシンセのシーケンサー的使い方などは、今聞くとちょっと時代を感じさせたりもしますが、どの曲も作曲・編曲のピート・タウンゼントの才能全開といった素晴らしい出来です。特に、彼らの代表曲であるB4「無法の世界」(全米15位)は、これぞザ・フーといえる名演。

B3「ビハインド・ブルー・アイズ」(全米34位)は、この曲にインスパイアされて、ツェッペリンが「天国の階段」を作ったと言われる、ロック・バラードの名曲です。その他A2「バーゲン」B1「ゲッティング・イン・チューン」など、どれをとっても「どうだこれがザ・フーだ!」という曲が連発の、捨て曲なしの代表作です。立ちション後の4人と言うジャケット写真も、いかにも彼ららしくイカしてます(「無法の世界」ってことですかね?)。

さてさて、最後に来日話。04年「ロックオデッセイ」出演で初来日を果たし、梅雨明け直後7月下旬炎天下の横浜で、「無法の世界」の雄たけびをロジャーと一緒に絶叫できたあの至福の時から早4年。ドラムのキースもベースのジョンもこの世にはいないものの、ピートのギター+ロジャーのボーカルは、まちがいなくあのザ・フーでした。11月の単独公演、関東では、横浜アリーナ、武道館、埼玉スーパーアリーナの3連発です。チケット発売は12日。今から気合いを入れて初冬を待ちたいと思います。