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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

NHK問題は公共放送の必要性議論に展開すべきと思う件

2014-02-07 | ニュース雑感
NHKの話を書いておきます。
会長である籾井氏の慰安婦に関する発言に続いて、経営委員である長谷川三千子氏、百田尚樹氏の発言が問題視されています。長谷川氏、百田氏は経営委員にふさわしくない、と。

なぜそんなことを言われるのか、NHKが公共放送だからです。公共放送とは何か。NHKのホームページにはこのような記載があります。
「公共放送とは営利を目的とせず、国家の統制からも自立して、公共の福祉のために行う放送といえるでしょう」

というわけでNHKの経営委員については、「公共の福祉に関し公正な判断をすることができる、広い経験と知識を持つ」人との規定がなされており、この規定に照らして、籾井会長も長谷川氏も百田氏もふさわしくないのではないか、との意見が続々出されている訳なのでしょう。

ではNHKが公共放送でなければ問題になることもない。ならばいっそ公共放送としてのNHKをやめて民間放送に移行したらいいんじゃないのか、と考えたりもするのは私だけではないはずです。そのあたりの疑問にも、NHKは一応答えてくれてはいます。

<以下引用>
公共放送は必要であると考えています。
① 公共放送の使命や役割は、視聴者のみなさまからの受信料をもとに、放送の自主自律を貫き、質の高い多様な番組や正確で迅速なニュースを全国で受信できるよう放送することで、民主主義社会の健全な発展と公共の福祉に寄与することです。 NHKは、市場原理だけでは律することのできない公共性を強く意識し、特定の利益や視聴率に左右されずに放送事業を行っています。
② NHKの番組には「大河ドラマ」や「紅白歌合戦」のように視聴者のみなさまの関心の高い番組だけでなく、教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、 市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。また、緊急災害時に大幅に編成を変更し、ニュース・報道番組を放送する ことなどは、スポンサーの意向に左右されずに行うことのできる公共放送ならではの役割です。
③こうしたことは、税金で運営される国営ではなく、広告収入による商業放送でもなく、視聴者のみなさまに負担していただく受信料で成り立つ公共放送だからこそ実現できるものと考えています。
④東日本大震災からの復興、長引く経済の停滞、急速に進む少子高齢化など、日本が数多くの課題を抱える中、国民の生命・財産を守り、視聴者の判断のよりどころとなる信頼できる情報や番組をお届けする公共放送の役割は、ますます重要になっていると考えます。
⑤また、放送と通信の融合が一段と進み、さまざまな端末を通して多種多様なコンテンツを誰もが自由に利用できるようになる中で、最新の技術を活用して利便性を高め、信頼されるコンテンツをお届けすることも、新しい時代の公共放送に求められる責務と考えます。
平成24年度からの3か年経営計画「豊かで安心、たしかな未来へ」の中でも、こうした考えを明記しています。


さて、どうでしよう。これを読んでみて「なるほど確かに公共放送は必要だ」と思いますでしょうか。
まず①。
「NHKは、市場原理だけでは律することのできない公共性を強く意識し、特定の利益や視聴率に左右されずに放送事業を行っています。」
現実にはそれができていないということが、会長、経営委員人事ひとつをとっても明確に分かってしまうから今回問題になっているわけですよね。

②については、
「教育番組や福祉番組、古典芸能番組など、 市場性や視聴率だけでは計ることの出来ない、重要な役割を担うものが多くあります。」
これだって誰の判断。NHKの主観が必ずや入るものでもあって、逆に民営化して政府が必要と考える教育番組や福祉番組、古典芸能番組を、番組枠を買って放送したほうが税金を使う分だけ余程国民の監視の目が行き届くのではないでしょうか。政府スポンサーの放送を民間放送局のコンペで争う方が、より安価にいい番組制作ができるようにも思います。
さらに、
「緊急災害時に大幅に編成を変更し、ニュース・報道番組を放送する ことなどは、スポンサーの意向に左右されずに行うことのできる公共放送ならではの役割です。」
東日本大震災の時を振り返ってみれば、民放各社の対応にスポンサーの意向が邪魔をしたという印象はほとんどないと思っていますが、どうでしょう。

③は、以上のような考え方で見てみるなら、全然そうは思いませんが…。
④は言っていることの根拠がなんら示されておらず、勝手な論理で自己の必要性を述べているだけではないかと思いますが…。
⑤は民営化したらできないのでしょうか。この部分にしても、必要があれば政府が予算化して本当に必要なものを国民の審判の下で実行したほうがよほど透明性が高いように思うのですがいかがでしょうか。

さらに、今回の人事問題は籾井会長の「政府が右なら左と言うわけにはいかない」発言に端を発して、長谷川氏百田氏を含めて「首相よりの人事だ」との批判もありますし、メディアの政治利用リスクを回避する意味からも、今の公共放送としての運営には問題があるのではないかと思うのです。

今回の籾井会長、長谷川、百田両委員の問題発言に端を発したNHK問題は、単なる人事の適正不適正を問うことにとどめるべきではなく、公共放送の必要性と存続リスクという観点からしっかりと議論すべきなのではないかと思います。事業仕分けの際にもしっかりとした議論がなされなかったNHKの民営化議論を、今こそ膝を詰めてするべき時であると、声を大にして申し上げたいと思います。

シャケ弁がニジマス弁に?“ごった煮”食品表示ガイドラインの不可解

2014-02-04 | ニュース雑感
すいません、私事でガタガタしてしまい、更新がしばらくお留守になってしましました。書きたいネタもいろいろ溜まっているのですが、まずは食品表示ガイドラインがらみのお話を少々いたします。

消費者庁が昨年12月に公表したメニュー表示のガイドライン案について、外食業者や消費者団体などとの意見交換会が開かれたそうで、席上様々な要望が出されたそうです。細かい内容はどうでもいいのですが、要は消費者庁と言えどもやはりお役人さんの仕事はいわゆる“お役所仕事”に尽きるようです。意見交換会で話題に上った代表的な例である、シャケ弁当やすしネタのサーモンなどに使われることが多い「サーモントラウト」を「シャケ」ではなく「ニジマス」と表示せよ、のガイドにいきなり外食関係者が面食らったように、このガイドラインの目的がどこにあるのかの認識不足を感じさせられます。

そもそも今回の食品表示の問題は何が発端で何が問題視されているのか、その点をしっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。目的は大きく分けて2点あります。ひとつは、高価なブランド食材を低価格の類似食材で代用することの非にスポットが当てられてられ、メニュー偽装として騒がれた高級食材の表示ルール化。黒豚とか、伊勢海老とか、但馬牛とかそういったブランド食材はどこまでその表示をすることが許されるのか、そこのガイドラインをしっかり作ることがポイントになります。

いまひとつは、昨今急速にクローズアップされてきた食の安全性の観点からの食材表示の厳正化です。これは言ってみれば、表示と違うものを食べさせられるリスク回避の問題です。例えば巷でよく言われている、「回転寿司のネタって、表示通りのものなんてほとんどない」などという話。「鯛」と言われて出されているネタが、確かに鯛の仲間ではあるもののその魚の顔を見たら誰も鯛だとは思わないものだったりというのが、本当にそれでいいのかという問題です。

少なくともこの2つのポイントについては、別々の議論によってガイドラインが設けられるべきものであろうと思われます。前者について言うなら、例えばメニュー偽装の定義をまずはしっかりおこない、その上で例えば「高価な食材を故意に安価なもので代用すること」とでも定義されるとするなら、「高価なもの=ブランド食材」を一覧にした上で個々の表示ルールをまず明確化するとか、あるいは新規ブランド食材の登録制度を設け登録をされた食材は定められた種類、あるいは産地や製法によるものに限定するなどの取り決めをおこなうなど、の制度整備がガイドラインの前に必要になるのではないでしょうか。

後者に関しては、まずは守るべき「安全性」の定義が明確になされる必要があり、例えば鯛の仲間をすべて「鯛」と表示することがその定義に照らして問題があるのかないのかその点をまずは明らかにすること。その上で表示ガイドラインが必要な食材は何であるのかを固め、食品素材安全表示ガイドラインを前述のブランド食材ガイドラインとは別に、作成する必要があるのではないかと思うのです。

「シャケ」と「ニジマス」の表記問題は、どの観点からその表示が必要なのかそれすら明らかにされずに、いきなり「サーモントラウト」は「ニジマス」と表示すべしと言われたも同然で、外食関係者が面食らうのも無理のない話なのです。九条ネギもシャケも成型肉もごった煮状態でガイドラインを作って、「思いつくのはこんなところです。こちらからは以上です」みたいな提示では、言われたからとりあえずガイドライン作りました状態のお役所仕事そのものであり、消費者に向くべき消費者庁のあるべき仕事とは到底思えない気がしております。

消費者庁様、そのあたりを今一度自己の使命に照らし考え直されてみてはいかがでしょうか。

「特別警報」発令!その時銀行は?

2013-09-18 | ニュース雑感
台風18号による被害の関連で先月30日の運用開始以降今回初めて出された「特別警報」に関して、さまざまな問題が取り上げられています。私は、過去の仕事のからみから思い当たるこの問題に関する懸念材料を提起しておきたいと思います。

「特別警報」は、「「警報」の発表基準をはるかに超える数十年に一度の大災害が起こると予想される場合に発表し、対象地域の住民の方々に対して最大限の警戒を呼びかけるもの」と規定され、気象庁が発表しそれを受けて都道府県から市町村への通知および市町村から住民・官公署に対する周知が義務づけられました。

主な周知ルートは以下の通りです。
1 気象庁 → 住民(報道機関の協力の下行う)
2 気象庁 → NHK
3 気象庁 → 都道府県、消防庁、NTT東日本・西日本(地震動以外)
4 気象庁 → 海上保安庁(地震動・噴火以外)
5 気象庁 → 警察庁(噴火・大津波のみ)
6 都道府県 → 関係市町村長
7 警察庁、消防庁、NTT東日本・西日本 → 関係市町村長
8 海上保安庁 → 航海中および入港中の船舶
9 NHK → 公衆
10 市町村長 → 住民・官公署

さて私が気になるのは、銀行の問題です。この周知ルートに銀行あるいは監督官庁である金融庁の記載がない点はいささか気になるのです。

銀行は免許業務であるが故に監督官庁の認可なくしては営めない事業であり、届け出た営業日、営業時間は、その銀行の一存で事前承認なく変更することは認められません。例えば、銀行のある支店が改造工事などのために、やむを得ない事情が生じて営業時間を変更しなくてはならない場合でも、必ず事前に当局(金融庁)許可をとる必要があり、その許可は事前に利用者への周知徹底がなされ一切の混乱が発生する懸念がないことが前提条件になります(このような手続きを必要とする大義名分は「金融秩序の維持」であります)。

一方、5月に法制化され8月30日に運用スタートした「特別警報」ですが、この発令に伴い銀行が営業時間を急遽変更したり休業したりする可能性があると言う旨の通知は、私が取引する銀行からは今のところどこからも案内がありません。各銀行のホームページも見る限り本件に言及しているものは、見当たらないように思います。

なんでこんなことを申し上げるのかと言えば、とにかく銀行と言うところは融通のきかないお役所文化が服を着たみたいところでして、このままだと、例え「特別警報」が出されたとしても、津波のようなすぐに逃げないと明らかな危機が迫ってくるというような場合以外は、営業時間中に当局の許可なしで店のシャッターを下ろして営業を終了させるなどということがとてもできるとは思えないからです。

支店「大雨特別警報が出されたのですが…。店を閉めて避難してもよろしいでしょうか?」
本部「当局の許可なく営業時間中に店を閉めることはできませんから、今金融庁に確認しますのでそのまま支店で待機していてください」
支店「かしこまりました」

「特別警報」発令時のこんな会話が容易に想像できるところです。このようなやり取りがもし銀行の現場でおこなわれてしまうなら、せっかくの警報の発令により「命を守る行動」を求められていながら、役所的な対応に安全確保のチャンスを奪われてしまうかもしれません。そんなことあり得ないだろうと、思われるかもしれませんが、「特別警報」が超法規的行動まで容認されるものであるとでも事前アナウンスされていないなら、上記のようなやりとりは十分に考えうるのです。

たまたま台風18号の「特別警報」は銀行休業日であったから事なきを得ていますが、逆に言えば初めての「特別警報」発令が銀行休業日に出されたものであったからこそ、「特別警報」に対する銀行の現場対応という問題が、次に向けた改善策や教訓にならずに埋もれてしまうリスクを感じるわけです。金融当局ならびに、銀行関係者は早急にこの問題への具体的な対処を検討し利用者も含めたステークホルダー向けアナウンスをすることで、「特別警報」に対する銀行対応についての共通認識を早急に作り上げる必要を感じています。

福島第一汚染水漏れが消費税上げに与える影響~再度言う、東電の破綻処理を急げ!

2013-08-21 | ニュース雑感
東京電力福島第一原子力発電所の貯蔵タンクから汚染水約が漏れていたとの報道。またか。もうどうしょうもない。収束に向かうどころか、エンドレスな問題発生スパイラルに陥った感の強い原発事故処理。この状況下で政府が目論んでいた「参院選自民圧勝→柏崎刈羽原発なし崩し的再稼働」のシナリオは崩れ、柏崎刈羽の再稼働メドは立たなくなったと言っていいでしょう。

柏崎刈羽原発の再稼働のメドが立たないなら、東電の再建計画そのものに赤信号が灯るわけですが、東電はお盆期間中の今月13日に、金融機関に対して柏崎刈羽再稼働を見込まずに今期の黒字を確保する見通しを示したとか。いかなるマジックかと思いきや、来年1月以降現状からさらに8.5~10%の料金値上げを見込んでのものだそうで、呆れてモノが言えません。また利用者負担ですか。冗談じゃない、株主責任も貸し手責任も問われないまま、さらなる利用者への責任おっかぶせってなんて絶対に許してはなりません。図々しいにもほどがあるってものです。

株主である政府はもういい加減、東電に引導を渡したらどうなんでしょう。ここで、東電を破綻処理したら金融機関の不良債権問題が一気に噴出して消費税上げが出来なくなる、だから今はダメだとそんな思惑が見え隠れしますが、ここでまた問題を先延ばしして、消費税上げ後に東電の破綻処理をおこなうならそれこそ国民経済は再びどん底に陥れられる危険だってあるのです。97年金融危機下での消費税2%上げが招いた長期デフレ不況は、今度は5%上げだけに前回以上の大きな形で再来する可能性だってあるのですから。

福島第一の原発事故処理の見通しが立たない、すなわち東電原発再稼働のメドが立たないということは、再建計画そのものの破綻を意味するのであり、この計画を認めた政府はその責任において被災者保護を最優先とした東電の破綻処理を早急に進めるべきではなのです。そして破綻処理が国内経済に与えるマイナスの影響をしっかりと見極めながら、消費税上げのタイミングを再検討する、その間に議員定数の見直しや徹底的な公務員改革を先行させて財政支出の圧縮を徹底する、私はそれこそが本来あるべき政策の道筋なのではないかと思うのです。

今回の汚染水漏れに端を発する目の前の状況に目をつぶって消費税上げだけを優先するなら、東電の利用者は原発再稼働に替わるいわれのない値上げでまた苦しめられた上に、消費税もアップしてダブルパンチ。さらに、消費税上げ後に「やっぱりダメでした」で東電の破綻処理がスタートするなら、さらにデフレ不況が追い打ちをかけるというまさしく負のスパイラル。国民経済の観点からみても、消費税は上げたものの税収は増えずと言う最悪の結果が待っているのではないかと思います。

もう東電をこれ以上延命させることは、大株主の大手企業や大口債権者である大手銀行以外にとっては何のプラスもありません。消費税上げを前に、一刻も早い破綻処理をと今一度声を大にして叫んでおきましょう。誤った東電の扱いのおかげで、苦しめられるのが株主でも貸し手でもない我々一般国民であっていいはずがないのですから。

四万十市で41℃を記録~「日本一暑い街」は名誉か不名誉か?

2013-08-12 | ニュース雑感
本日、四国の四万十市で最高気温41度を記録し、我が熊谷が07年に作った40.9度を塗り替えて観測史上最高気温となりました。拙ブログのタイトルにも入っているので、この件さっそく取り上げておきましょう。

メディアからも何本も電話が入りました。「四万十市に抜かれちゃいましたが、いかがですか?」って。第一報を聞いた時には、「あー抜かれたか」って確かにちょっと残念な気がしたのは否定できないところです。でもよくよく考えると、「日本一暑い街」はある意味メディアによって必要以上に連呼された不名誉な冠であって、それを脱がせていただいたことは嬉しいと受け止めていいのではないかと思っています。

思えば私は06年に熊谷に転居してまいりまして、翌07年に「日本一暑い日」を経験しました。確かに生まれも育ちも東京である自分にとっては、大変な暑さの連続で、転居の際に連れてきた東京育ちの家電たちは次々とお亡くなりになりました。07年が冷蔵庫、09年がエアコン、10年はテレビ。すべて8月に突然壊れるという、明らかな“暑害”でした。

メディアの報道も「日本一」の冠を授かった07年を境に、一気に過熱しました。梅雨明け、猛暑、異常気象…理由はどうあれ、あらゆる高気温ネタ取材はまず熊谷へ。駅前ロータリーは連日各局のテレビカメラが行きかい、道行く市民もテレビニュースのインタビューには慣れっこと言った感が強くなってきました。

しかし07年以降そんな夏を幾度か過ごす中で、徐々に気がつかされたのは、「暑い=熊谷」は決してプラスに働いていないということでした。メディアはおもしろおかしく取り上げてくれ、はじめは「我が街がテレビに取り上げられた」と喜んでいた市民がだんだん慣れっこになっていくにつれ、「なんか変だぞ」と一部の人間は気がつき始めたのでした。

「HOTな街をHOTな食べ物で元気にしよう!」と構想を重ね昨年立ち上げた街おこしプロジェクト「くま辛」は、実はそんな思いから生まれたものでした。毎年毎年夏が来るたびに、「暑い、暑い」とばかり取り上げられ続けた熊谷は、気がつけば「日本一行きたくない街」になっていたんじゃないのかと。

小職は飲食店主たちに賛同を呼び掛け、市も巻き込んで、「暑いから行きたくない街」に定着しつつあったこの街を「暑いけど行きたい街」にしようよと立ちあがったわけです。約60店舗というこの街に規模としてはたくさんの加盟店が集まった陰には、店主の皆さんの間に行くのを敬遠される街のままでは先行きに希望が持てないという、相当な危機感が募っていたのだと思います。

別に本気で責める気はないのですが、やはりメディアの影響力って大きいですね。友達に「遊びに来ませんか」と夏にお誘いすると、決まって「涼しくなったらね」と避けられてしまうわけで、「それじゃ毎日ここで暮らしている僕らは何者?」って感じにもなってしまいます。そんな折々に、「不名誉な日本一」をメディアのおかげで随分と印象付けられてしまったものだなと思うわけです。

報道する側のメディアに悪気はないんでしょうけど、知らず知らず悪影響を及ぼしてもいるんだっていうことにも、これを機にちょっと気がついてもらってもいいのかなとは思います。でも全然気づいていないみたいです。次々と入る「日本一陥落」に対してコメントを求める電話に、「かえってよかったんじゃないですか。メディアにかぶせていただいた不名誉な冠がようやく外れるわけで」と答えると、決まって皆さん「はー、そうですか…」とピンとこない様子で実に残念そう。きっと「本当に悔しいです!」と力一杯言って欲しいのでしょうね。

四万十市さんはこれから大変ですね。しばらくはメディアで取り上げられる機会も増えて、街の人たちは「おらが街は有名になった」と嬉しく思うことでしょうが、それもつかの間、マスメディアが連呼する「日本一暑い街」という不名誉な冠が観光客を遠ざけてしまうのじゃないかなと。暑いことだけでも大変なのですが、「日本一暑い」と言われ続けるのも実は大変な重荷なのです。

熊谷は往年のキャンディーズ風に言えば(例えが古くてすいません)、今日を境に「普通の暑い街」になれたわけで、これからも「普通の暑い街」としてのHOTな街おこしは続けていくわけです。でも、これを機に全然メディアに取り上げられなくなっちゃったりすると、やっぱりキャンディーズのように「普通の生活」にもの足りなくなって、やっぱり「日本一」に戻りたーいってなっちゃうのかな。

追伸:あっ、ブログのタイトル、どうしますかね。「日本一熱かった街」?「日本で二番目に熱い街」?

来年の消費増税は2%がよろしいと思う件

2013-08-09 | ニュース雑感
来年4月の消費税の導入に向けその可否を決定する材料集めとして、安部首相は有識者50人へのヒアリング実施を指示したそうです。

現状、4月の消費税導入に対する意見はかなり割れています。当然、国際公約でもある財政再建に向けた財源確保の観点から、この期に及んでの白紙撤回、無期延期はあり得ないのですが、予定通りやるべきか、内容を見直ししてやるべきか、一定期間様子見をするべきか、その3通りぐらいに意見は分散しているようです。

予定通り導入派は「97年の消費税導入時とは経済環境が違うので、導入による景気悪化懸念はない」をその理由に掲げているようです。確かに、97年当時は金融危機の真っただ中で、消費増税は駆け込み需要によるその後の消費の落ち込みが一層の景気低迷をもたらす結果になったわけです。しかし今回、あの時は景気下降線、今は景気回復途上であり大丈夫と言えるのか、ちょっと心配な気がしています。

97年はさておき、今回と同じ3%増税であった我が国に消費税が導入された89年を振り返ってみたいと思います。この当時はバブル景気の頂点にあった時期で、増税にとってはこれ以上ない環境であったと思われます。税率は3%。実はこの3%が消費意欲旺盛なあの時期にあっても、実質GDP成長率は7%台(88年)から5%(89~90年)台に低下させ、そのままバブルの崩壊を迎えました。もちろん、消費税がバブル崩壊をもたらしたわけではありませんが、消費者心理に及ぼす影響の大きさは見逃すことはできません。

私は常々、消費者こそが景気を動かす最大の力を持っていると感じています。企業がいかに一生懸命努力して、良質な物やサービスを提供しようとも、消費者の購買意欲が冷める方向に流れ必要以上のモノを買わないならば景気は確実に下向きになるのです。私がなぜ89年消費税導入前後のGDP成長率の話をしたかというと、あの好景気においても3%という数字が持つプレッシャーは相当なものであるということをお分かりいただきたいのです。

「3」という数字がもつ力にも着目する必要があると思います。「石の上にも3年」「3人寄れば文殊の知恵」等々、「3」は人々の中で何か力を持つひとつの区切りとして意識される単位であるように思います。プレゼンの秘訣などでよく語られる「ポイントを3つで示せ」とか、「実例は3つあげろ」とかいうのも、「3」という数字がそれなりの存在感をもって人の心理に働き掛ける力があるからではないでしょうか。

こんな考えから、あくまで感覚的なお話ではありますが、私は「3」という数字が持つ力強さを考えると、今のまだ決して底堅いとはいえない景気回復状態においては、消費増税の上げ幅3%はちょっと心理的に重たいのではないかと思うのです。バブルの頂点時でさえ成長率を下方に2%鈍らせた3%の増税です。景気下降線の97年は増税タイミングとして論外であり、2%であっても深刻な心理的ダメージを与えたわけですが、増税予定通り導入派が言う「97年と状況は違うから今回は大丈夫」というのは、今回も上げ幅が同じ2%ならという条件付きで成立することという気がしてなりません。

今の環境下で3%は重たいです。日本経済研究センターがまとめた4~6月の民間エコノミスト40人のGDP成長率予測集計では3.43%と、第一四半期の4.10%を若干下回り景気回復力は決して力強くはなく予断を許さない状況であることをうかがわせます。この状況下で3%の増税をするなら、消費者心理への影響による消費の冷え込みは大きく、一気にマイナス成長に転じるのは確実でしょう。そしてその後緩やかに回復基調に戻すとしても、1年半後にまた2%の増税が控えているので決定打的に景気の腰を折ることになるのではないかと懸念されるところなのです。

財政再建が待ったなしの状況下でないなら、本当は平均的消費者レベルにおいて景気回復および好景気を実感できるところに来てから3%の増税に踏み切るべきなのでしょうが、増税引き延ばしが「日本売り」にもなりかねないと懸念が広がる現状においてはそれも難しいと。ならば、まず現時点では消費者心理に大きな影響を与えない水準での増税幅に抑えて、「国内を冷まさず国外からの批判を受けず」の増税で前進の舵を切るべきなのではないかと思うのです。

以上のような観点から、結論として来年はひとまず2%の消費増税が落としどころではないかと思います。その先10%に向けた追加増税幅とタイミングは2%増税の結果を見てからさらに慎重に決めるのがよろしいかと。景気の流れをつくる最大要因は一般消費者心理であるとの観点から考え、そんな感じでいかがでしょうか。

政治家の国語力とメディアの読解力が引き越した「ナチスに学べ事件」

2013-08-03 | ニュース雑感
「ナチス・ドイツに学べ」と言ったとされた麻生発言が大問題として引き続き話題になっていますが、麻生氏の本意はどうだったのでしょうか。

氏の発言の全文が公表されたので何度か読み返してみました。しかし何が言いたいのか分かりにくい!イライラしながら全体を通して読みこんだ上で考えるに、どうやらナチス・ドイツのくだりは「国民を蚊帳の外に置いて、なし崩し的に憲法を改悪したナチス・ドイツの手口をまねよ」と言っているのではなく、中身をさておいて護憲だ軍国化だとワイワイ喧騒の中で議論をするのではなく静かに落ちついて憲法改正議論をすすめるべき、という意味で言ったものであるように解釈できるのです。
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html

もちろん歴史的に見ていかなる考え方を持ってしても、手本にすべき例としてナチス・ドイツを挙げること自体が間違っているのであり、その点はいかんともしがたい麻生氏の大失言ではあります。しかしながら、よく発言を読み込んでみると、問題はむしろ考えられない例示の仕方をした政治家の最低レベルに満たない麻生氏の国語力のなさに尽きるのではないかと思えました。その意味において、分かりにくい発言の主旨をしっかりとくんで読み込むなら、国際的に問題視される類の失言であったのかどうか、私はいささか疑問に感じるところでもあります(もちろん、麻生氏の肩を持つ気はさらさらありませんが)。

とするならば、ナチス・ドイツのやり方を礼賛する恐ろしき発言であるとか、日本の右傾化、軍国化を示す発言であるといった海外からの批判はどうやら見当違いであり、その部分は日本国政府を代表する人間の発言の真意を伝える意味からも、政府として麻生氏の発言に関する一部解釈に大いなる誤りがあると反論すべき部分ではないかと思うのです。

では、そもそも先に挙げたような過激な外国世論はなぜ起きたのかと考えてみれば、恐らくは日本のマスメディアのミスリードが引き起こしたものに違いないのです。麻生発言を受けて、「麻生副首相が、改憲はナチス・ドイツに学べと発言」といった記事が配信され、さらにはその見出し記事を元に関係各国の要人にコメントを求めるといったマスメディアの取材拡散が次々と情報のうねりになって、国際的な麻生バッシング、日本バッシングになったとは言えないでしょうか。

そもそもは国語力ゼロで余計な発言をする本人が一番悪いのは確実ではありますが、その発言の本意を読み込めない読解力で、自国を国際的な批判の渦に陥れたマスメディアの報道もまた大きな問題であると思います。そしてそれがもし仮に意図的におこなわれたものであるとするなら、売国行為と言われても仕方のない報道にあるまじき由々しき行為であるでしょう。

なぜ報道が意図的であったならと申し上げたかと言えば、奇しくも麻生氏が今回問題となった発言の中で、靖国参拝に関してこんなことを言っていたからです。
「昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。」
考えようによっては、こんなことを言ったものだから言われたマスメディア側が、「あーそうですか、我々のせいですか。それじゃもう一丁」って言うんで報復行動にでも出たかのような流れとは思えませんでしょうか。

故意の報復であるか否かは証拠がないのでさておきますが、単なるバカな政治家の失言で済ますべき問題が日本国政府を国際的な批判に晒されるという必要以上に問題を大きくした責任は、間違いなくマスメディアにあると思っています。読解力不足の誤解かあるいは曲解かいずれであるにしても、メディアは自己の報道のあり方に関していま一度襟を正す必要があるのは間違いないと思いますが、いかがでしょう。

それにしても麻生氏の話は何をおっしゃっているのか、何が言いたくてどんな例え話を引き合いにしているのか本当に分かりづらい。漢字力だけでなく、本当に国語力がない方であったということが改めてよく分かりました。そこで各政党の皆様に一言、政治家センセの候補者選びの際には、最低限の国語力の有無について事前試験で合格した方のみをお選びになって欲しいと思います。国のリスク管理として極めて重要な問題なのですから。

よくは存じ上げませんが、土屋アンナさんの舞台中止騒動って要は子供のケンカでしょ?

2013-08-01 | ニュース雑感
土屋アンナさんの舞台中止騒動が話題です。私は芸能ネタのことはよく分かりませんが、なぜ小さな舞台ビジネスを巡って「訴訟だ」「反訴だ」と必要以上に過激な話になっているのか。川崎重工業の社長解任とも相通じる組織においてもよく見られるコミュニケーション不足、あるいはコミュニケーション拒絶による意見対立の悪しき表面化という問題があるように思えています。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/08/01/kiji/K20130801006333500.html

意見対立時におこなうべきことは、まず事実関係を一にした上で当事者同士間での徹底的な話し合い以外にありません。十分な事実認識の共有もしないまま、一方的に席を立つことはコミュニケーションの拒絶であり、問題の解決とは確実に逆方向に向かうモノであると理解すべきところでしょう。今回の件でどちらが先に席を立つような言動をしたのかは定かではありませんが、「法的手段も辞さない」とか「弁護士を通してください」とかの一方的な拒絶文言は、一見大人の振る舞いのように見えながら、実は事を悪化させるだけの子供の仕業にすぎないのです。

どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか、私は存じ上げませんが、自分たちの意見対立の収束努力を怠り荒っぽい結果に導かれることが第三者に迷惑が及ぶと言うことを考えないことも大問題でしょう。川崎重工業の件に学ぶなら、組織内部でコミュニケーションによる解決がはかられずに社長を解任して恥をかくのは勝手ですが、統合話を一方的に白紙撤回された折衝相手三井造船の立場どうなるのかと言う問題は残ったわけです。

今回の件もまた同じ。一番の迷惑は舞台を楽しみにして前売券を購入していたファンの方々でしょう。ファンあってのエンタメ・ビジネスであるということを少しでも考える大人の配慮があったなら、原作者、演出者、出演者全て一堂に会しての当事者間での徹底議論がもたれてしかるべきだったのではないかと思います。安易に「法的措置」「弁護士を通じて」などの血の通わないコメント合戦に平然と持ち込むようなコミュニケーション障害気味な興行主にもタレントにも、私は明るい未来を感じません。

個人的にはどうでもいい問題ですが、コミュニケーション不足による無用な問題発生はいろいろなところにあるなと実感した次第です。

郵政=アフラック提携は金融市場の健全化を損なう対米目くらましである件

2013-07-25 | ニュース雑感
本日の日本経済新聞1面トップは「郵政・アフラック提携」の記事。見出しを見た瞬間に非常に違和感を覚える記事でありました。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDF2400X_U3A720C1000000/

本文中にもあるのですが、郵政はこれまで第三分野保険に関しては傘下のかんぽ生命が日本生命と提携することで独自のがん保険の開発をすすめてきています。それがここにきて全く想定外の方向へのかじ取りを見せた形です。その裏にあるのはTPP日米交渉の事前協議における米国側からの「政府が出資する日本郵政グループが自由に新商品を出せば公正な競争を阻害する」という旨の注文です。要するに、国営郵政が日本生命との提携の下で新がん保険を販売するなら、その信用力を背景として他の既存金融機関が扱うがん保険の販売を圧迫し公正、公平な競争原理が損なわれる恐れがある、という主張であります。

これは表向き古くから国内の金融機関が主張を続けてきたものと同様であり、過去に郵政の早期完全民営化によるイコールフッティングの実現を通じた健全な市場原理の導入をすべきとの流れが、小泉改革における郵政民営化路線の実現につながった流れと一致しているわけで、国営郵政とアフラックとの全面提携という流れには小手先の対米目くらまし的違和感を覚えざるを得ないのです。

現在の郵政を巡る情勢は、民主党政権下の連立与党であった国民新党亀井静香氏の暴挙により、郵政民営化路線が大きな後退を余儀なくされました。これはひとえに集票マシンとしての全国特定郵便局長会を手なずけるための私利私欲党利党欲以外の何ものでもなく、改革の趣旨、我が国における市場経済の健全な発展を旨とした改革の趣旨を全く持って無視する許しがたい暴挙でありました。

当初の小泉改革案では、ゆうちょ、かんぽは09年度から10年度の間に上場させ、17年9月末までにその全株式を完全売却することとされていました。ところが、上記の暴挙により09年郵政民営化の手続きを凍結する法律が可決され、さらに12年には全株売却(完全民営化)と義務付けられていた部分が努力規定に後退したのです。もちろん株式売却資金を東北復興の財源とする狙いから2015年の株式上場を目指す流れはあるものの、改正法案での政府保有株の売却限度はその3分の2と定められ、完全民営化、イコールフッティングの実現に向けた道筋は全く明らかにされていないのです。

事の流れや本筋をしっかりと捉え本論に戻るならば、TPP日米交渉の事前協議における米国側からの保険業務に関する要請に対するあるべき回答の方向としては、国内生保をソデにしての国営郵政と外資保険販売との提携強化であるべきではなく、ゆうちょ、かんぽの上場および政府所株の全額売却による完全民営化スケジュールの提示であるはずなのです。その場しのぎの米国企業への優遇策を提示することで、あるべき市場経済の健全化を後回しにするという政治的判断は、どう考えてもおかしいとしか言いようがありません。加えて、政治的判断の犠牲になりとばっちり的に提携白紙撤回とされる日本生命の立場はどうなるのでしょう。

TTPにおける対米主要分野の交渉を有利にすすめたいという意図はもちろん理解できます。しかしながら、政治的折衝ごとに市場経済の健全化を犠牲にしかつ個別民間企業に犠牲を強いるような国家主導の金融機関政策こそ大問題であり、国営金融機関の問題点はこういうところにこそあるのです。今回の郵政のアフラックとの全面提携公表は、日本の金融市場の公平・公正な競争の下での健全な競争原理を国の力で大きく妨げるものであると考えます。

今回のような本質的な問題にフタしたままで、政治主導のおかしな小手先戦術を繰り出すことはあってはなりません。国債を主な運用先とする国営郵政のあり方について、国のリスク管理の観点から再度議論を重ねたうえで、異常な存在である巨大国有金融機関の早期完全民営化による健全な金融市場の形成を切に望むところです。

かわいそうな松井秀喜氏と、またも露呈した国民栄誉賞のバカバカしさ

2013-04-02 | ニュース雑感
長嶋茂雄氏、松井秀喜氏への国民栄誉賞の同時受賞が内定したそうです。

長嶋氏への本賞授与に関しては、世間では以前から多くの人が「いつ実行されるのか」と新たな受賞者が出るたびにイライラを募らせていた問題でもあり、また2月に故大鵬関に本賞が授与された際には拙ブログでも栄誉賞を故人に授与することの無意味さと長嶋氏への早期授与を訴えかけていたところでもあり、ひとまずよかったと思える授与であるかと思います。
「国民栄誉賞、長嶋茂雄氏への授与はいつ?」(2月15日「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」)

しかし昨日来、このニュースが伝えられるや物議を醸しているのは、松井氏への同賞授与の件です。世論の盛り上がりを受けてどうやって早期に長嶋氏に本賞を授与するべきか、政府自民党が人気取り策の実行に向けひねり出した苦肉の策が、今回の松井氏の引退を機にした「師弟同時受賞」だったわけですが、果たして松井氏にそれだけの資質があるのか否か。いささか苦しいところであり、世論の“炎上”も分からなくはありません。

松井氏には罪はないのですが、どう考えてもこれまでのスポーツ選手の同賞受賞者からみて見劣り感は否めないところです。同じ日本人大リーガーで比較をしても、日本人の大リーグでの活躍の道を切り拓いた元近鉄バッファローズ→LAドジャースの野茂英雄氏を差し置いての選出は「?」マークが5つは軽く付くところでしょう(最右翼はもちろん大リーグで多くの記録を作っているイチロー選手ですが、本人が現役での受賞を固辞しているため、本論からは除外されます)。

松井氏の大リーグ時代の輝かしい足跡と言えば、ヤンキース時代のワールドシリーズMVPぐらい。これとてシーズンMVPならともかく単なるシリーズ表彰であり、大リーグ時代のシーズンタイトルはゼロなのです。日本国内では本塁打、打点各3回、打率1回のタイトルをとっており十分一流選手ではあるものの、国民栄誉賞レベルからみてどうかというなら、本塁打、打点、打率各5回、うち3回は三冠王という落合博満氏の成績に遠く及びません。もちろん、落合氏に本賞を授与せよと言うつもりは毛頭ありませんが、長嶋氏のように成績以外にこれといった何かがあるわけでもなく、成績も普通の「一流」という人を授与対象とするのは、本人がかわいそうなだけではないかと思うのです。

松井氏の立場に立てば、「師弟同時受賞」などと書きたてられては、断るに断れない状況に追い込まれているのは明らかで、本当に気の毒です。政府は世論の流れを勘案して、賞の権威を保つ意味からも(権威を持たせようという意識が政府側にあるならばの話ですが)、松井氏への授与は見送るべきではないかと思うのです。本人および長嶋氏の了解も取った上で、形上は「本人からの強い辞退の申し入れがあり、長嶋氏のみのへの授与となった」ということで丸く収まるのではないでしょうか。

今回の授与はとにかく「長嶋氏に早く同賞を授与したい」という焦りから生じた完全な勇み足でしょう。また2月15日のエントリにも書きましたが、確固たる授与基準なしに時の内閣の人気取り策として運用されていた国民栄誉賞のバカバカしさを一層明確にしてしまった今回の事態をもって、いよいよこの賞の廃止を含めた抜本的な見直しを本格的検討すべき段階に入ったのではないかとも思えるところです。この賞を継続するのなら明確な基準を設けるか、毎年1回定例授与として世論調査を参考にして受賞対象を絞り込むとか、なんらかの仕切り直しを早急に検討すべきであると、再度申し上げておきます。