さて、本論に入ります。少し長くなりますが、一気に載せます。
(4)再び、世界史とは?
高校の「世界史」の授業では、多くのことを教えられましたが、それでも、多くのことを教えられないまま終わった、という感も否めませんでした。それは、いわば当然で、あらゆる地域の古代から現代までを網羅して授業するためにどれだけの授業時間を確保すれば足りるかを考えれば、容易にわかることです。
そもそも、「世界史」とは何か、を考える必要がありそうです。
一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史を仮に「一国史」と名づけますと、「一国史」の学習は、その地域、その民族、その国のアイデンティティを理解するために必須でしょう。「バルカン半島の歴史」、「ユダヤ民族の歴史」、「日本史」などを思い浮かべればわかります。
それに対し、「世界史」とは何であるべきでしょうか? 単に、他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶのでは、「世界史」とはいえないのではないでしょうか? 私の疑問はここにあります。
ともすれば、日本人の学ぶ「世界史」が、西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史になりがちで、東アジアを「極東」と呼ぶ見方や、植民地拡張の時代を「大航海時代」と言い習わす歴史観を植えつけるのに貢献してきました。
西洋中心=ヨーロッパ中心の歴史観を覆す「世界史」学習のパラダイムの変革が必要です。その方法論を次回から述べたいと思います。
(5)「交渉史」としての世界史
他の地域、他の民族、他の国家の「一国史」をいくつか学ぶ「世界史」を脱して、新しい「世界史」像を作りたい。切実にそう思います。
まず、ある地域、ある民族、ある国家と他の地域、他の民族、他の国家とが対立し交流する様を描き・理解する「交渉史」が欲しいと思います。
一例として、中世の地中海を舞台にしたイスラム勢力とキリスト教勢力との対立と相互浸透を挙げましょう。
前に、大学の「世界史」の入学試験問題の一つを見ました。
「問い。次の文章を読み、具体的史実に照らして、100字以内で、解説せよ。『地中海を挟み、長らく対抗していたイスラム勢力とキリスト教勢力の関係は、15世紀を迎え、ようやく一つの決着を見た。』」
解答の一つとして:
「地中海沿岸からヨーロッパ南部を侵略したイスラム勢力に対して、11世紀以降数次の十字軍を
中東に派遣するなど、キリスト教勢力が反攻に転じ、ついに1492年、スペインのグラナダ城を開城させ、イスラム勢力からのレコンキスタ(国土回復)を実現させた。」を挙げました。
実は、この解答は、キリスト教勢力に立った見方に過ぎません。イスラム勢力に立てば、自ずから別の解答があるでしょう。ところが、イスラムの考えを学んで来なかった私は、イスラム勢力に立った中世地中海史がわからないままです。これまでの世界史教育に大きな欠陥があるといわざるをえません。
一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことこそ「世界史」にふさわしいのではないでしょうか?
もう一つの例を挙げましょう。
世界の近代史は植民政策の歴史であったといってもいいすぎではありません。ヨーロッパを主体とする近代国家が、中南米・アジア・アフリカの諸国を植民地にしていく歴史が世界近代史です。
フィリピンのセブのマクタン島に、マゼラン到達の記念碑が立っています。マゼランとは、いうまでもなく、ポルトガルの冒険家・航海者で、初めて大西洋を西に向かって横断することに成功したことで有名です。そして、その足で、太平洋を西に進み、フィリピンにまで到達したのです。そこで、マクタン島の領主ラプ・ラプとの戦闘で命を落としました(1521年)。
マクタン島のマゼラン到達の記念碑は面白い構造になっています。一面には、ラプ・ラプがマゼランを迎え撃って、これを倒したと記しています。もう一面(つまり、裏面)には、マゼランがフィリピンにまで到達したものの、ラプ・ラプと戦って破れた、と記しています。この記念碑が象徴するように、一つの史実には二つの側面からの見方がありうるのです。その両面の見方を理解しない限り、「世界史」を正しく把握することにはなりません。
植民政策の歴史は、これまで、あまりにも、植民者=ヨーロッパの側からの記述に偏っていました。中南米・アジア・アフリカからの見方を付け加えて、植民政策の功罪を理解すること、これが「交渉史」としての「世界史」を学ぶ意義だと思います。
(6)近代の官僚制
一つの史実に対して、二つの、あるいはそれ以上の地域、民族、国家が対立し交流する「交渉史」を学ぶことが「世界史」にふさわしいのではないか、と申しました。もう一つ、別の角度から問題を提起してみます。
歴史にはそれを突き動かす原動力があります。すでに見たように、産業革命とそれに続くフランス革命などのブルジョワジーによる革命は近代を刻印するものです。しかし、各国の近代化の過程は互いに似ているところと似ていないところがあります。それはなぜか、考えてみる価値があります。
一般的にいえば、ブルジョワジーは近代国家の形成と運営を自ら行わず、その任を官僚に委ねました。その結果、各国に強大な「官僚制」が生まれました。これが似ているところです。フランス革命以後のフランスはその典型です。また、イギリス・ドイツなどのヨーロッパ諸国もこれに倣いました。
わが国でも、明治以来の「富国強兵」の国つくりを託されたのは、官僚です。政府のナンバー2かナンバー3の大久保利通を半年以上も欧米に派遣して、それらの国情をつぶさに視察させ、欧米の法制度や国民掌握術などをわが国に輸入させました。その結果、わが国は急速な近代化を成し遂げます。
しかし、「官僚制」にも影の側面のあることがやがてはっきりしてきます。
1914年と1918年のロシア革命で、ロシアに社会主義政権が誕生しました。多くの人の夢を乗せた国作りがロシアで始まりました。
ところが、まもなく、社会主義政権を牛耳るのが、ほかならぬ官僚たちであることが誰の目にも明らかになりました。国民、人民、大衆、といろいろことばはありますが、これらの人たちの生活を守り、生活程度を上げていく任務を担っていたはずのソ連政府の官僚が、自らの特権を擁護することに汲々とするとするようになりました。
やがて、1989年の「ベルリンの壁」の崩壊に伴い、ソ連も解体の憂き目に遭いました。当然のことでした。
ソ連時代のロシアには、「サービス」という概念がありませんでした。「サービス」を提供しなくても、誰でも同じ賃金が得られる「悪平等」の考えに、官僚が染まってしまったからです。
同じような事態は中国でも見られます。1948年の中華人民共和国の成立以来、中国を指導してきたのは、中国共産党とその教えを実行する官僚群でした。官僚たちは国の近代化に貢献するとともに、賄賂・腐敗の温床にもなってしまいました。
このように、資本主義社会と社会主義社会とを問わず、「官僚制」は近代国家に不可欠の統治機構であるようなのです。その反面、強力な統治機構の「負」の側面が必ず現われることに注意すべきです。
(7)わが国の場合
さて、翻って、わが国を見てみると、明治政府は近代化のピッチを上げるために、官僚制をフルに活用してきたことはすでに見た通りです。以降、「優秀な官僚」という神話がわが国を闊歩してきましたが、海外への領土拡張という軍部に意向には抵抗する術がありませんでした。よくよく考えてみますと、「官僚」とは何かに仕える存在です。ブルジョワジーに仕えていた官僚が、仕える相手を軍部に変えたにすぎない、とみなすこともできます。
第二次世界大戦に敗北した日本は戦後の復興に向かうことになりますが、そこで再び、官僚が活躍しました。国土の復興・民心の鼓舞に果たした官僚の力は無視できません。
しかし、戦後の復興を終え、高度成長を果たした今、官僚の「負の側面」が指摘されるようになりました。それを一言でいえば、官僚の「上から目線」が国民の批判にさらされ始めたのでした。国を思う気持は人一倍強い官僚ですが、国民に対しては、上から指導する癖が抜けないのです。
「テクノクラート」ということばがあります。特定の技術分野の専門家で、その分野では並ぶものもいない存在です。例えば、発電の分野における原子力発電の専門家、など。今では、ITの分野におけるIT専門家もそうかもしれません。これらの「テクノクラート」は、官僚制の生み出した官僚の双生児です。
また、わが国には、「労働貴族」ということばもあります。これに見合う英語があるのかどうか、わかりません。「労働貴族」とは、労働組合幹部のことで、経営者と渡り合う経験を積むうちに、いつのまにか、労働者を上から見る習慣を身につけ、生活ぶりも貴族のようになった人たちのことです。
官僚、「テクノクラート」、「労働貴族」の三者に共通するのが、国民を上から見る目線です。
近代国家が、国を問わず、また、体制を問わず、官僚制に支えられていることを見てきましたが、果たして、国と国の間に、また、体制と体制との間に、「官僚制」に質的差があるのか、を知りたいと思います。
長々と書いてきましたが、このような、国と国、また、体制と体制、を比較する「比較史」が、新しい「世界史」のテーマであるべきではないか、というのが私のいいたいことでした。
(8)「交渉史」と「比較史」
これまで「世界史像の組み換え」と題して述べてきたことをまとめます。
一つの地域、一つの民族、一つの国家の歴史をたどる「一国史」は、その地域、その民族、その国家のアイデンティティを理解するために必須です。日本人にとっての「日本史」、セルビア人にとっての「バルカン半島史」、イスラエル人にとっての「ユダヤ民族史」を例にとれば、それは明らかです。
一方、ある地域、ある民族、ある国家の人びとが「世界史」を学ぶということはどういう意味があるのでしょうか?
例えば、イギリスに留学する人がイギリスの「一国史」を学びたがったり、セルビアを旅行する人が「バルカン半島史」を知りたがったりするのは、あくまでも他の地域、他の民族、他の国家の歴史としての「一国史」を知るということに止まります。
そのような他国の「一国史」といわゆる「世界史」とは異なるはずだ、と私は言いたい。
そして、本当に学んで意味のある「世界史」とは、複数の地域、民族、国家が互いに作用を及ぼしあう「交渉史」と、歴史を突き動かす力が地域、民族、国家ごとにどのように違うのか・あるいは似ているのか、を検討する「比較史」とではないかというのが私の仮説です。
「交渉史」(相互作用=英語の interaction=の歴史、といったほうが私の言わんとするのに近いかもしれません。)の例として:
1. 中世地中海世界を舞台にした、イスラム勢力とキリスト教勢力との争い
2. ヨーロッパ諸国による植民政策の中南米・アジア・アフリカ諸地域に及ぼした影響、
を挙げましたが、さらに、
3. 小麦・香料・花卉などの東西にわたる伝播と交易
4. インドに発祥した仏教の東漸
など、興味あるテーマが多くあります。
「交渉史」のキモは、影響を及ぼした側と影響を受けた側とを等しく見る眼を養うこと、と、両者の相互作用を学ぶことにあります。
また、「比較史」の例として:
5. 近代国家における「官僚制」の比較
が重要なことを指摘しました。他にも、例えば:
6. 封建制から資本主義への移行に当たって、イギリス・フランスなどのヨーロッパ「先進」諸国と、ロシア・日本などの「後進」諸国との間で、どのような違いがあったか
7. 宗教と政治との関わり方について、イスラム教・キリスト教・仏教とで、どのような違いがあるか
など、興味あるテーマは数多くありそうです。
「比較史」においても重要なことは、比較的なじみのない側の見解に耳を傾けることではないでしょうか? それこそが、「世界史」を学ぶ意義だと思います。繰り返しになりますが、「世界史」とは、一つの歴史事象を複数の眼で見てみることだと思います。そのことによって、物事を多角的に見て判断する訓練ができるのだと思います。 (終わる。2010/3-4)
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