(1)奥が深い話
大相撲夏場所は、いよいよ白鵬が単独トップに立ち、横綱が視野に入ってきました。
白鵬の強さは独特で、朝青龍の強さとは別のものです。
朝青龍の相撲は速く・鋭くというものですが、白鵬の相撲は、相手の攻勢を受け止め、相手の力を吸収してしまうものです。相撲用語では「懐が深い」と称するものです。背が高く、腕が長い力士は「懐が深い」力士になる「素質」がありますが、背が高く、腕が長い力士すべてが「懐が深い」力士となれるわけではありません。それが不思議なところです。
おそらく、相手との間合いを計るタイミングとか感覚とかに特別の才能を必要とするのでしょう。白鵬はものすごく背が高いわけでもなく、ものすごく腕が長いわけでもないのに、「懐の深さ」が余計目立ちます。
白鵬の直接の先輩を探せば、昭和の大横綱・大鵬に行き着きます。相手の突進の勢いを吸収して何もさせない、という「懐の深さ」の点で、白鵬は大鵬と瓜二つです。
さて、これからは世間どこでも使われることばを紹介します。「奥が深い」ということばを耳にしたことがあると思います。例えば、「テニスはずいぶん長く続けているけれど、続ければ続けるほど、奥が深いことがわかってきました。」というように。こういうセリフをよどみなくいえるようになれば、その人はその道(この場合は、テニス)の達人だといえます。
よく見ると、この人は「奥が深い」ということばを使って自分の技量を自慢しているのですが、そのいやみが表に出ません。「奥が深い」ということばには「いやみ消し」の効用があります。
一度このことばを使ってみることをお勧めします。
「料理は毎日の日課だけれど、なかなか奥が深いのよ。」
「マージャンに運がつきものといいますが、実際は奥の深いゲームだと思います。」
「ブログはただ書き散らすものだと思われがちですが、実は奥の深いコミュニケーション手段だとわかってきました。」、などなど。
私は料理の達人です、私はマージャンのプロです、私は一端(いっぱし)のブロガーです、ということをいやみなく婉曲に表現することばが「奥が深い」ということばです。
横綱昇進が決まったときに、白鵬がインタビューに答えることばに注目しています。「日々稽古していますが、ますます相撲の『奥の深さ』に驚かされています。ますます精進してまいります。」
このようなセリフが出てくれば、この力士は横綱の自覚が備わっていると判断して間違いないでしょう。
本当に日本語は奥が深いですね。エヘン。 (2007/5)
(2)スピードと「キレ」
朝青龍がついに休場しました。近いうちに引退に追い込まれそうです。残念なことです。
朝青龍の相撲は速く・鋭くという特徴がありましたが、別のことばでいえば、スピードと「キレ」が朝青龍の相撲の最大の特徴です。
立ち合いの速さ、相手をいなす技がスピードと「キレ」の本性ですが、朝青龍ほどのスピードと「キレ」を兼ね備えた力士を探せば、直近では、千代の富士でしょうか。朝青龍と千代の富士、どちらが偉大な力士であったか、という疑問には、どちらともいえないと答えるよりほかありません。
さらにルーツをたどれば、「栃若時代」の栃錦と若乃花の二人に行き着きますが、朝青龍と千代の富士の2力士は、スピードと「キレ」の面では、栃錦と若乃花を凌駕しています。
さて、話変わって、ボストン・レッドソックスの松坂大輔投手が18勝目を賭けた試合での投球には目を見張りました。ストレートのスピードが素晴らしいのみならず、球が打者の前でホップするように見えたのです。ソフトボールにおける「ライズボール」のように、打者の前で「浮き上がって」いました。これが球の「キレ」なのかと分かりました。
相撲においても野球においても、スピードだけでなく、「キレ」がいかに重要かということを知らされました。 (2008/9)
(3)国際化と鎖国化
大相撲秋場所は白鵬の優勝で幕を閉じました。朝青龍の休場後、孤軍奮闘して土俵を盛り上げていた、その姿に頭が下がります。白鵬も朝青龍もモンゴル出身の力士です。
大相撲に外国人力士が増えてきました。増えすぎると困るというので、日本相撲協会は外国人力士をすでに制限していると聞きます。何とおかしな規制でしょう。
外国人力士が増えてきた背景には、優れた身体能力を持つ外国のアスリートを手っ取り早く相撲に導入したいという相撲界の考えがあります。それが成功すると、今度は、外国人力士の数を抑制する。まるで、日本相撲協会は外国人力士を「琵琶湖のブラック・バス」のように扱い始めました。
日本相撲協会のもう一つの「錦の御旗」は、「相撲は日本の神事」だというわが国古来の考えです。それはその通りかもしれませんが、外国人力士に「日本の神事」を押し付けようとしても無理があります。外国人力士から見れば、相撲はスポーツの一競技であって、そこで自らの身体能力を発揮することで、ファンを引き付けているわけです。
「スポーツ」か「神事」か。どちらを取るか、日本相撲協会は迫られています。別のことばで表わすと、「国際化」か「鎖国化」か、となりましょうか。「国際化」を推進するのであれば、外国人力士の制限は撤廃しなければなりません。一方、「日本の神事」を尊重するのであれば、「鎖国化」する方が良いでしょう。
相撲界はそのどちらかを選ばなくてはなりません。私の考えは、どちらでもいい、ただし、どちらかに徹底してもらいたい、というものです。
柔道の例があります。
国際化を進めた結果、柔道は完全に国際スポーツとして認知されるに至りました。フランスの柔道人口はわが国のそれを凌ぐほどだといいます。
しかし、「国際化」とは、日本の言い分がそのままでは通りにくくなることでもあります。青色の柔道着などは、日本が反対しても、採用されました。
「スポーツ」と「神事」は互いに矛盾することを肝に銘ずるべきでしょう。 (2007/9)
大相撲夏場所は、いよいよ白鵬が単独トップに立ち、横綱が視野に入ってきました。
白鵬の強さは独特で、朝青龍の強さとは別のものです。
朝青龍の相撲は速く・鋭くというものですが、白鵬の相撲は、相手の攻勢を受け止め、相手の力を吸収してしまうものです。相撲用語では「懐が深い」と称するものです。背が高く、腕が長い力士は「懐が深い」力士になる「素質」がありますが、背が高く、腕が長い力士すべてが「懐が深い」力士となれるわけではありません。それが不思議なところです。
おそらく、相手との間合いを計るタイミングとか感覚とかに特別の才能を必要とするのでしょう。白鵬はものすごく背が高いわけでもなく、ものすごく腕が長いわけでもないのに、「懐の深さ」が余計目立ちます。
白鵬の直接の先輩を探せば、昭和の大横綱・大鵬に行き着きます。相手の突進の勢いを吸収して何もさせない、という「懐の深さ」の点で、白鵬は大鵬と瓜二つです。
さて、これからは世間どこでも使われることばを紹介します。「奥が深い」ということばを耳にしたことがあると思います。例えば、「テニスはずいぶん長く続けているけれど、続ければ続けるほど、奥が深いことがわかってきました。」というように。こういうセリフをよどみなくいえるようになれば、その人はその道(この場合は、テニス)の達人だといえます。
よく見ると、この人は「奥が深い」ということばを使って自分の技量を自慢しているのですが、そのいやみが表に出ません。「奥が深い」ということばには「いやみ消し」の効用があります。
一度このことばを使ってみることをお勧めします。
「料理は毎日の日課だけれど、なかなか奥が深いのよ。」
「マージャンに運がつきものといいますが、実際は奥の深いゲームだと思います。」
「ブログはただ書き散らすものだと思われがちですが、実は奥の深いコミュニケーション手段だとわかってきました。」、などなど。
私は料理の達人です、私はマージャンのプロです、私は一端(いっぱし)のブロガーです、ということをいやみなく婉曲に表現することばが「奥が深い」ということばです。
横綱昇進が決まったときに、白鵬がインタビューに答えることばに注目しています。「日々稽古していますが、ますます相撲の『奥の深さ』に驚かされています。ますます精進してまいります。」
このようなセリフが出てくれば、この力士は横綱の自覚が備わっていると判断して間違いないでしょう。
本当に日本語は奥が深いですね。エヘン。 (2007/5)
(2)スピードと「キレ」
朝青龍がついに休場しました。近いうちに引退に追い込まれそうです。残念なことです。
朝青龍の相撲は速く・鋭くという特徴がありましたが、別のことばでいえば、スピードと「キレ」が朝青龍の相撲の最大の特徴です。
立ち合いの速さ、相手をいなす技がスピードと「キレ」の本性ですが、朝青龍ほどのスピードと「キレ」を兼ね備えた力士を探せば、直近では、千代の富士でしょうか。朝青龍と千代の富士、どちらが偉大な力士であったか、という疑問には、どちらともいえないと答えるよりほかありません。
さらにルーツをたどれば、「栃若時代」の栃錦と若乃花の二人に行き着きますが、朝青龍と千代の富士の2力士は、スピードと「キレ」の面では、栃錦と若乃花を凌駕しています。
さて、話変わって、ボストン・レッドソックスの松坂大輔投手が18勝目を賭けた試合での投球には目を見張りました。ストレートのスピードが素晴らしいのみならず、球が打者の前でホップするように見えたのです。ソフトボールにおける「ライズボール」のように、打者の前で「浮き上がって」いました。これが球の「キレ」なのかと分かりました。
相撲においても野球においても、スピードだけでなく、「キレ」がいかに重要かということを知らされました。 (2008/9)
(3)国際化と鎖国化
大相撲秋場所は白鵬の優勝で幕を閉じました。朝青龍の休場後、孤軍奮闘して土俵を盛り上げていた、その姿に頭が下がります。白鵬も朝青龍もモンゴル出身の力士です。
大相撲に外国人力士が増えてきました。増えすぎると困るというので、日本相撲協会は外国人力士をすでに制限していると聞きます。何とおかしな規制でしょう。
外国人力士が増えてきた背景には、優れた身体能力を持つ外国のアスリートを手っ取り早く相撲に導入したいという相撲界の考えがあります。それが成功すると、今度は、外国人力士の数を抑制する。まるで、日本相撲協会は外国人力士を「琵琶湖のブラック・バス」のように扱い始めました。
日本相撲協会のもう一つの「錦の御旗」は、「相撲は日本の神事」だというわが国古来の考えです。それはその通りかもしれませんが、外国人力士に「日本の神事」を押し付けようとしても無理があります。外国人力士から見れば、相撲はスポーツの一競技であって、そこで自らの身体能力を発揮することで、ファンを引き付けているわけです。
「スポーツ」か「神事」か。どちらを取るか、日本相撲協会は迫られています。別のことばで表わすと、「国際化」か「鎖国化」か、となりましょうか。「国際化」を推進するのであれば、外国人力士の制限は撤廃しなければなりません。一方、「日本の神事」を尊重するのであれば、「鎖国化」する方が良いでしょう。
相撲界はそのどちらかを選ばなくてはなりません。私の考えは、どちらでもいい、ただし、どちらかに徹底してもらいたい、というものです。
柔道の例があります。
国際化を進めた結果、柔道は完全に国際スポーツとして認知されるに至りました。フランスの柔道人口はわが国のそれを凌ぐほどだといいます。
しかし、「国際化」とは、日本の言い分がそのままでは通りにくくなることでもあります。青色の柔道着などは、日本が反対しても、採用されました。
「スポーツ」と「神事」は互いに矛盾することを肝に銘ずるべきでしょう。 (2007/9)