更なる ときめきを求めて!

「七色唐辛子+一味唐辛子の会」は、卒業しました。

感涙に咽びました。

2015年09月29日 | 日記

 27日、中秋の名月が、新国立劇場の屋根の上に、冴えざえとした光りを放ち、孤高に掛っていました。朝鮮王国最後の梨本宮方子皇太子妃も、生涯を捧げられた韓国で、何度となくこの月を愛でられたことでしょう。

 彼女の数奇な運命の実話をもとにした、創作オペラ「ザ・ラストクイ-ン」が、日韓国交正常化記念特別企画として、新国立劇場で初演されました。涙なしには見ることが出来ませんでした。方子妃の葬儀のことは、新聞やテレビで、覚えていますが、今回のオペラから、当時の日韓の状況、激動の時代の流れに翻弄される個の姿が忠実に再現され、改めて平和の大切さを思いました。時代の犠牲者でありながら、二つの故郷の「和」を願い、誠を貫かれた李ギン殿下と方子妃の崇高な思いを、日韓両国の多くの人に知って欲しいと強く思いました。今年は 9月4日、ロ-タリ-での日韓親善会議への参加等、韓国とのご縁のある年になりました。

 1916年、15歳の方子妃は、ご自身の婚約を新聞紙上で知ることになったそうです。書は方子妃の直筆。

 

 

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5 コメント

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政略結婚 (ばら)
2015-09-29 19:28:43
 10代でまだ恋愛が何たるや、結婚とは何かを知らないまま、大人たちが決めた相手と結婚する。政略結婚って残酷ですね。運良く心が通い合う相手と巡り会えればいいのですが、ほとんどはそうでないと思います。

 方子さまは、異国で言葉の問題もあったでしょうね。でも夫となる方と素晴らしい関係を結ばれた。

 お二人の人生を創作オペラにしたことを、モリリンさまの記事で初めて知りました。より多くの方に見ていただけるといいですね。地方でも公演していただけるとありがたいです。
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観てみたいです (エトワール)
2015-09-30 00:12:08
我々の母たちから聞いたりできる時代の政略結婚。もちろんこの方は母より30歳以上年上ですが、昔語りのように母たちは皇族の方々などの国と国とのつながり(しかも当時は日本が上目線でしょ?)の犠牲となった女性の話など母の母から聞き私にも教えてくれました。
まぁ、最初は犠牲者的でも意外と夫となる方が良い方で幸せに暮らされた方も多いという話でしたが、日本人は見える世間が狭すぎた。
今でもまだ、狭いと感じはしますが、私もぜひこの舞台は観たいと思いますので、また調べておきます。
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架け橋 (生駒嶺)
2015-09-30 08:22:58
主演の田月仙(チョンウォルソン)さん自身在日コリアン2世で韓国公演では在日の歌手として好奇の眼で見られ、日韓どちらでも異邦人と感じられたことがおありで、でも在日だからこそ日本の歌も韓国の歌も自分の歌として歌えると二つの祖国を持つ誇りになられたとか、新聞に書いてありました。
方子妃も11歳で半ば人質のように日本に連れてこられた李垠(イウン)殿下も日韓の犠牲者。戦後朝鮮王族の身分も資産も失い、帰国も難航し、現大統領の父君の大統領時代にようやく帰国がかなったのだそうですね。
夫君が亡くなられた後も帰国せず韓国の障害児の為に働かれ最後は韓国のオモニ(母)とまで呼ばれた方。
我々は彼女の苦労と努力を未来に繫げなければいけませんね。
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訂正 (生駒嶺)
2015-09-30 08:26:23
すみません。最後文字化けしていますね。
未来につなげなくてはなりませんね。です
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みなさま、いつも謝々 (モリリン)
2015-09-30 11:23:53
日韓併合の時代。10歳の李ギン(日本読み)皇太子は、伊藤博文に連れられて日本へ。陸軍士官学校へはいられたそうです。ギン殿下は、母から「さざれ石」を渡されたとありました。亡くなるまで大切にされ、石は真っ黒になっていたとか。終戦後、ふるさとへの帰国を願うも、李承晩大統領に帰国を拒否され、終戦18年後、帰国がかなった時は病に伏した状況で病院へ直行。あとは、生駒嶺さんお仰るとおりの舞台でした。
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