アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

第10回口頭弁論における差間正樹さんの陳述書

2014-09-06 12:32:20 | 日記
アイヌ遺骨返還請求訴訟第10回口頭弁論(札幌地裁、2014年8月1日)における原告・浦幌アイヌ協会・差間正樹さんの陳述書は、北大開示文書研究会の以下のサイトで読むことが出来ます。
http://hmjk.world.coocan.jp/trial/trial20140801.html

陳述書には、ご自身がアイヌ民族として差別されてこられたことが述べられています。また、浦幌地区から先祖の骨が持ち去られたことを知り、毎年その骨に対する慰霊祭が北大で行われているのを聞いて、ご自身も参加するようになったこと、けれども、その当時、遺骨がプラスチックの箱に入れられていたこと、慰霊祭の時間中も隣の建物のクーラーの室外機の音がぶんぶん鳴って祈りの言葉も聞き取りにくい状況だったことが証言されています(神聖な祈りをしていることへの配慮がなかった)。
 ウタリ協会総会で批判したところ、翌年には遺骨すべてが白木の木箱に入れなおしてあったことに不思議な気持ちになったと。
 地元議会で北大の研究者の盗掘による質問をして自治体の姿勢を問うこともされながら、地元で慰霊を切望し浦幌から持ち出した64体の遺骨の返還を訴えています。
 わたしも、まだご遺骨(恐らく複数)が青いプラスチック製の箱に入れられているままの記憶があります(恐らく写真も)。そのご遺骨はその後、丁重に収められているのでしょうか。
 
 アイヌ遺骨返還請求訴訟ニューズレターの最新号 NO.10号(8/31発行)も、以下にUPされており、差間さんの陳述や、過日、紋別で行われた出前講座(7月19日)の報告等が掲載されていますのでご覧下さい。
http://hmjk.world.coocan.jp/newsletter/kokanu_ene010.pdf

なお、浦幌でも出前講座を来る10月11日(土曜日)に開催予定です。後日、詳細を北大開示文書研究会のウェブに載せます。


浜で釣った魚(ギンポ?) 煮付けはいまいち。調べると天ぷらがいいらしい。


昨日、突然、二風谷のTさんが留萌までおいでになり、ある相談を受けました。そのために、改めて萱野茂さんの『アイヌの碑』(朝日新聞社)を読み直していたら、二つのことに目が止まりました。

ひとつは、萱野茂さんと姉のとし子さんが1940年3月から二ヶ月間、留萌の鰊場(にしんば)に、出稼ぎに来たという下り(P96)です。
海に出る仕事ではなく、「カネブン橋本」というみがき鰊の製造工場で生鰊を加工する仕事をされたようです。茂さんが13才の時ですから、今の中学1年生の年齢です。このとき、ひと月ほどシャモの家に住み込み、その家のお爺さんに意地悪をされたことも。茂さんにとっては、留萌はわるい想い出の地だったようです。生前の萱野さんとは何度かお会いしていますが、留萌から来たということで気分を悪くされていたのかも….
「かねぶん橋本」関連で、今も関係者がいるかどうかを調べていますが、今のところ見つかりません。

もうひとつ、二風谷は度々、訪ねているところですが、沙流川の上流にある上貫別(かみぬきべつ)というところの話(P46ff)。上貫別は沙流川河口から約50kは慣れており、二風谷に比べると春は遅く、秋も二週間ほど早く霜が降りる土地で、湿気も多く痩せ地のため農耕に適さないなど悪条件の土地なのだそうです。それにも関わらずアイヌが住んでいるのは、新冠地方のアイヌが、御料牧場用地にと住むところを奪われて村ごと強制移住させられたからだ、と。
以前から、新冠から強制移住させられた歴史を聞いていましたが、移住地が二風谷の奥だとはじめてつながりました。
「シャモはいやがるアイヌを脅し、まるで足蹴するようにして新冠を追い出した」(萱野)こと、強制移住させられたアイヌが自然環境の悪い土地でたいへんご苦労されたことが証言に基づき記されています。

アイヌであるために差別を受け、いじめにあい、強制移住をさせられたこの歴史を忘れてはならないでしょう。
そのような苦しい歴史の中で、わたしの出会うアイヌ民族のお一人おひとりはご苦労されつつも懸命に生きておられます。


留萌っ子たちも自慢している留萌の夕日

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