アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

2019年9月16日開催 旭川アイヌ民族フィールドワーク報告 その3

2019-11-14 10:47:50 | 日記

榎森進さんの講演の続きです。今回もメモ調に内容を紹介します。

(前回のまとめ:幕末までアイヌ民族は幕藩制国家の統治外に位置付けられていた)

 

明治4年11月、新政府が「北海道」の開拓政策を立案するに当たって重視したお雇い外国人・アメリカ農商務長官ホーレス・ケプロン(Horace Capron)が黒田清隆開拓使次官に宛てた報告書の中で、参考としてアメリカに於ける土地取得に関する例を紹介している。それが、昭和12年に発刊されている『新撰北海道史、第6巻、史料2』に掲載されている。日本の歴史学者は今までまったく論じてきていない。このことを初めて紹介したのが市川守弘弁護士(『アイヌの法的地位と国の不正義―遺骨返還問題と{アメリカインデイアン法}から考える{アイヌ先住権}―』寿老社、2019年4月)だ。わたしも見落としてきた。

初期合衆国とアメリカインデイアンとの関係(19世紀)は、一般に合衆国の連邦政府とアメリカインデイアンの各部族(tribe→法的には、国家と同等の主権を有している)との条約締結が行われた。これらの条約で連邦政府が土地を買い上げて連邦政府側の「公有地」として取得し、その上で植民者達に土地を分けていた。二段方式をしていた。アメリカの場合はまず形式的な条約をきちっと結んでいた(実際は破っていくんだけど)。ケプロンはこのような法律内容の見本を示しているのだから、北海道はそれと同じことをすべきだった。

 (以下のフレーズは当日のレジュメから)

 しかし、明治政府はケプロンの参考意見を無視し、アイヌ民族との交渉をすることなく、近世末までアイヌ民族の居住地域であった旧「蝦夷地」に早期に移民を入植しただけでなく、ケプロンが「北海道」の開拓事業に関する意見書を提出した明治4年の翌5年には、「北海道土地売貸規則」と「地所規則」を公布して、1人に付10万坪以内の土地を和人に払い下げ、アイヌ民族はその対象外とした。この規則により明治18年(1885)迄に和人に払い下げられた土地は、「売り払い」2万9239町歩、「無償付与地(工業用)」7768町歩、計3万7007町歩に達した。

 釧路にある「松浦武四郎蝦夷地探検像」とても小さいものでした。

日本政府は、当時、アイヌは国家を作っていなかったと言う。しかし、私見では、17世紀後半(つまりシャクシャインの戦い)は、アイヌの地域社会がまとまった時期だ。松前藩はこの時期にアイヌの地域集団を分断していった。そのためにアイヌの地域のつながりは弱くなっていくが、実体としては場所請負制度というアイヌにとっては労働力として働かされた制度だが、しかし(明治2年に廃止されるが)、場所ごとに「乙名」(人工的に和人が付けた役職ではあるが地域のアイヌの長)が存在していた。そして、静内から釧路に至るまで、アイヌ集団の婚姻関係も交流もあった。広範な地域でひとつのまとまったグループが存在していた。各コタンの上に部族連合体が存在していた(その後に松前藩や幕府の権力でバラバラにされた)。そうすると、明治初頭にはアメリカ方式を示されていたのだから真面目にすると新政府の役人と旧場所毎の役アイヌ達と「条約」を結ぶことも可能であった。

それを踏まえると、旭川の近文では川村さんのご先祖がリーダーであって、現在も御子孫がいらっしゃるわけですから、そういう方達とお話をして、先住民族の権利をどういう風にしていくか会議を持つことは可能だと考える。ほんとうに政府側が先住民族の権利に関する国連宣言に基づいて真面目に考えるとすれば、このことは全く不可能ということではないと考える。

  

以下、当日のレジュメより、ケプロンによる3種の土地制度の内容を紹介

ケプロンが紹介したアメリカの3種の土地制度

「聯邦ニ於テ地所ヲ分與スルノ律例三條アリ。又許多あまたノ補法アリ。参考ノ爲メ左ニ附述ス。

土人ノ法(ホーム、ステット、ロー)、此法ニ依レバ、移住者其土着スベキ區ノ地所掛リニ銀拾元ヲ納ムリノ外、他ノ失費ナクシテ、公有地ノ一區、卽チ一百六十「エーカー」(「一エーカー」ハ「千二百十坪」)ヲ受ケ、以テ眞實ノ地主トナアルヲ得ベシ。蓋けだシ、律例上要スル所ノ箇條アリ。曰ク、移民者ハ六ヶ月内ニ親シク其地所ニ移リ、五ヶ年間連綿茲ニ居住セザル可カラズ。相當ノ家屋ヲ造リ其他各種ノ改良ヲ為すサザル可カラズ。而シテ、二ヶ年ノ末ニ至テ其箇条を盡ク實踐シタルヲ證スルトキハ、政府ヨリ之ニ免狀卽チ地券ヲ附與ス。

 

先得ノ法(アクト・ヲフ・ブレエンムシオン)

此法ハ、前條ノ諸箇条ヲ實踐シタルモ、事故アリテ地所掛リニ報知セザリシ者ヲシテ、下地は一「エーカー」ニ付一元廿五錢、上地ハ二元半の定額ヲ政府ニ納メ、以テ其地ヲ有スルノ權利ヲ得セシムル者ナリ。

 

第三條ハ拍賣ヲ以テ現金ニ公地ヲ賣與スルノ法ニ係ル」とある。

(「ホラシ・ケプロン初期報文摘要」『新撰北海道史、第6巻、史料2』、ルビは榎森)。 

これでフィールドワーク報告を終えます。

 

 

 


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