~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

顔で弾く・・?

2012年02月15日 13時06分42秒 | その他音楽

ここのところ、結構マジメに練習してます。

「してます」というよりは、「することができます」と言ったほうがいいですかね(笑)。

<昼間家族がいない><寒いし天気悪いので外出していない><差し迫った悩みや事件が今のところない>

の三拍子そろってます。

実はこういう日々というのは、一年のうちではほんのわずかな日数なので、集中できるときにやらなければあとで後悔します。

今年80歳の黒井千次氏(芥川賞選考委員を今回を最後に退任)は、

<残された時間とやるべき仕事を考えて、なるべく集中してエネルギーを分散しないように心がけて>おられるそうです。

『文藝春秋』によると、そしてこうおっしゃってます。

「ただ、途中で終わることを恐れてはいけません。何かを完成させようという心がけは大事ですが、人間はいつ死ぬか自分ではわからない。生きている途中で死ぬのだから、途中で終わることは人間にとって自然なことなんです」

私は、高齢でもないし、芸術家でもないし、なにかを完成させなければならないという使命もないので、この言葉を真に理解するのは無理ですけど、

「生きている途中で死ぬ」のだけは、おそらく人間として同じだと思うので、

「なるべく集中してエネルギーを分散させないように」は心がけていきたいな、と思っております。

 

・・・・・・とめずらしくマジメに語ったところで、さらにマジメに語ってみたいと思います(笑)。

 

先日の「ピアノを弾くからだ」というセミナーでのことですけど、

講師の先生が「ピアノは予測して鳴らす楽器です」と言われました。

「打鍵をしたら、そのあとはもうビブラートもなにもかけられない。次の音、次の音と準備して弾かなければならない」ということでした。

で、そのときに一緒に話されたのかどうか忘れてしまいましたけど、

「ピアニストが(顔面に)表情がでるのは、次の音を探している、こういう音を出そうと準備しているから」(ちょっと言い回しは違ったかもしれません・・・)

ということもおっしゃいました。

今となっては、当たり前のように感じる内容なんですけど、以前だったら「そうなんだ~、へ~~」ときいたかもしれません。

数年前、ボチボチコンサートに行き始めたころ、とにかくピアニストの「手」をみようと思って、

ステージに向かって左側の席に必ずすわっていました。

しばらくその位置を続けておりましたが、そのうち「ペダルをみよう」と思って、すごく前方の、ステージ向かって右側にすわるようになりました。

この位置にすわると顔もよく見えるので、おもしろくなってそのうち表情ばっかり見るようになりました(笑)。

(ちなみ今は、ホールど真ん中、または若干後方、響き重視で座席をとっています。)

表情はテレビで放映されるリサイタルものでも、必ずといっていいほど映るので、ひところは曲そっちのけで見入っていたのですけど、

無表情の一方で、あふれるような音楽を演奏するかたは別として、

たいがいは、音がでる一瞬前とか、フレーズのなかで和声が変わっていくときに、表情の変化が顕著です。

それを数多く見ているうちに、こちらもだんだんと予測がついてくるわけです。

たしかにひとりひとり違うことは違うのですけど、求めている音の方向が一緒(似ているならば)、

表情や視線の送り方は、ほぼ同じといってもいいほど。

絵の達者な方なら、それをもとに楽譜に「顔記号」を書き込めるかもしれません(笑)。

 

ピアノよりもおそらくほかの楽器のほうがわかりやすくて(ピアノは横向きなので、ちょっと見えづらい)、

一番わかるのは声楽、あと管楽器、弦楽器となるように思いますけど、

当然楽器によっても表情が違うので、それもまた面白いです。

ピアニストではランランとか、

バイオリンだと(若いころ)のクレーメルだとか、

独特の表情をされるかたもありますけど、

共通するのは「演奏に酔って」ああいう顔になっているのではなくて、

「顔で準備して音を出している」ということだと思うんですよね。

演奏者本人が意図してやっているかどうかはわかりませんけど。

 

・・・・・でも、ハイフェッツみたいに、「顔は静止画像」みたいなのもカッコいいかも・・・です(笑)。


シューベルトとカルメン

2012年02月15日 00時39分02秒 | その他音楽

いい加減、娘ネタはやめとこうと思ったのですが、ひとつ引っかかっていたことがあり、やむなく連続第3弾(笑)。

今、娘はバイオリンでラッキョウ・・・じゃなくて、ガッキョウの時を弾いてます。

ご承知のとおり「楽興の時」と書き、シューベルトとラフマニノフの曲が有名ですけど、シューベルトの方です。

もともとこれはピアノ曲で、詳しくいうと「作品94」の3曲目にあたる曲です。

この曲↓

http://youtu.be/ub_Dx0yXQIE

(原曲はヘ短調ですが、バイオリンのテキストでは嬰へ短調になってます。)

先日これをちょこちょこっと練習して、楽譜を閉じるときにこう言ったんですね。

「これねえ、<カルメン>にいいよ」

・・・・・・・??・・・・・・・・・

わかったようなわからないような。

ちょっと哀愁を帯びててロマ風といえばそう思えないこともないですけど、私自身考えたこともなかったので「そうかなあ?」と思ってそのままにしてました。

で、今日なんとなく思い出して、wikipediaで調べてみたんですね。 

<4分の2拍子。6曲中最も知られている。シューベルトの存命中から愛好され「エール・リュス」(ロシア風歌曲)として有名であった。三部形式で左手の単調な伴奏を背景に右手が重厚な和音を歌う。NHKラジオ放送「音楽の泉」の主題曲としてもおなじみ。編曲次第では野卑な感じを与える。映画「カルメン故郷に帰る」でも用いられた。レオポルド・ゴドフスキーがこの曲をより複雑にした編曲を残している。>

 

ビゼーのオペラとは関係ないですけど、<カルメン>、かすってました(笑)。

あれですよ、国産初の「総天然色映画」 ・・・・・高峰秀子さんの。

私は1回見たことは覚えてますけど、、この中で「楽興の時」が使われていたのかどうかは記憶にありません。使われていたのが、果たしてオリジナルだったのか、それとも事と次第によっては「野卑な感じを与える」(?)編曲だったのかどうか。

編曲でなくても、この曲は弾き方によって、相当違った感じになると思うんですよね。

冒頭に出てくる左手の弾き方で、右手の運命は決まるとも言える(笑)。

 

ついでといってはなんですが、ゴドフスキーによる編曲版はこちらです。(これまた嬰へ短調になってます)→http://youtu.be/uBfBv1jOyD8

 

ところでこの曲、子どものころは「モメント ミュージカル」という題名で覚えておりましたので、ある日いきなり「ガッキョーの時」という漢文みたいな名前に遭遇してびっくりした記憶があります。

「楽興」ってなんか画数が多い・・・・(逃)。


お話ざんまい

2012年02月12日 13時11分04秒 | 家族・友人等

週末、漢字も計算もせずに、なにか読んでいるか、さもなくばなんかしゃべっている娘。

「ワルキューレって何人?8人?9人?ブリュンヒルデ入れると何人?」

・・・・・・知らんわ・・・・・(汗)

「三銃士ってほんとは4人じゃないの?ダルタニアン入れると」

・・・・・・そうなん??・・・(泣)

「シェークスピアの4大悲劇ってなに?」

・・・・・それならば、考えればわかるかも・・・・・というわけで、

私「えっと、まず『マクベス』でしょ?」

娘「うん」

私「『ハムレット』?」

娘「だよね」

私「ところで、ハムレットってどんなスジだったっけ?・・・ハムレットのお父さんが死んで、お母さんがお父さんの兄だか弟だかと結婚したら(弟だよっ!とつっこまれる)、実はその弟がお父さんを殺した犯人で、それを知ったハムレットが復讐しようとするけど、誤って自分も死んでしまう・・・・・・だよね」

娘「それ間違ってないけど、中が全部抜けてる(怒)。・・・・・えっと、旅の一座に頼んで毒殺の芝居をやってもらうんだよ。それを見ていた叔父(王)が、気分悪くなって『ちょっとトイレ』みたいになって、やっぱりあいつが犯人だ、と思うんだよね。あるとき、カーテンのかげにいた人を叔父王だと思って刺したら、それは恋人のお父さんで、恋人(オフィーリア)は気が変になって川で死ぬ。ハムレットは絶望するんだけど、剣の試合の時に叔父王を殺す。でも自分も剣に塗られた毒が回って死んでしまう」

私「あ、そうか。であとはなんだっけ?『オセロ』だよね」

娘「そうそう」

私「あとは・・・・『リア王』、『ロミオとジュリエット』??・・・あれ?リア王って悲劇?喜劇?娘が三人いて・・・・あああ~忘れたorz  」

娘「たしか悲劇なのに四大悲劇に入ってないのがあったんだけどな~。なんだっけ?」

 

・・・・・というわけで調べてみました。もうシェークスピア全然記憶になく(恥)

悲劇なのに四大悲劇に入ってないのは、『ロミオとジュリエット』でした。

wikipediaによると

<テキスト中には過剰なまでの冗談や乱暴な語句、猥談的やりとりが見受けられ、ファルス(卑俗的笑劇)としての要素が、シェイクスピアの他の悲劇作品よりも明らかに強い。>

なんだそうです。

そうなんだ~、いや、そうだった~!

娘に質問されなかったら、一生思い出さなかったですよ(たしかにかつて記憶した覚えがあります)。

 

娘の今のお気に入りは『マクベス』だそうな。

ちなみに私の小3のときのお気に入りは『ハムレット』で、お楽しみ会で芝居までいたしました(大汗)。

これくらいの時期に、シェークスピアって意外にヒットするのかもしれません。戯曲はいくらなんでも難しすぎますから、ラム姉弟の『シェークスピア物語』ならささっと読めて楽しいかも。


耳が良いとか悪いとか

2012年02月12日 01時04分14秒 | その他音楽

「耳が良い」というのはどういうことなのか・・・って考えることがあります。

広い意味でいうと、

レストランで隣席のつぶやき声を聞き取った・・・・、とか

金庫のダイアル式カギの合うところがわかった(それって何の役の立つのか?)・・・・、とか

虫の鳴き声が何種類も聴き分けられる・・・・・・、とか

いろいろあると思うんですけど、そういうことではなくて、

「音楽をやっていて<耳が良い>」とはなんなんだ?ということです。

正直、そんな難題、私になんかわかるもんじゃありません(笑)。

相対音感があればいいのか、絶対音感があればいいのか、きれいな音や汚い音がわかればいいのか、・・・・・う~ん。

なんでそんなことを考えたかといいますと、

私自身が、非常にアバウトな耳の持ち主だからです(汗)。

たぶん「ピアノ」での単音はだいたい聴き取れます。重音、和音もある程度はわかると思います。

それなりの時間楽器を触ったり聴いたりしているので、おそらくどういう音がきれいなのか、汚いのか・・もだいたいわかると思います。

ですが、人の声になるとまるっきりといっていいほど音程がわかりません。たぶんアカペラだったら(それがきちんとした音程で歌われていたとしても)、楽譜には書けないんじゃないでしょうか?

かろうじて歌をききとっているのは、それに伴奏があって、伴奏の音でおよそがわかるからです。

なので、「視唱」ということはできても、「聴唱」をやらせたら、ほぼオンチです。楽譜が頭に浮かばないと、音の高さがわからないということになります。

その程度の耳なので、ブランクが10数年あったのちにピアノを再開したところ、「どの音もド」まではいかないとしても、「どれもハ長調」くらいのレベルしか聴き取れなくなっていたんじゃないかと思います。

結局、教育やトレーニングによって、かろうじて保たれていた耳なんでしょう。

 

さて、楽器が違うから・・・と言ってしまえばそれまでですけど、

弦楽器の音程も私にはよくわかりません。

名手の音程は問題ないのでなんともないですけど、そうでない場合、ピタッとハマってない音程の場合、

それがいったい低いのか高いのか、聴けば聴くほどわからなくなります。

基本的にキマッていてある音だけが低いとか高いならわかりますが、たとえば「ドレミファソラシド」とぱっとスケールを聴いたときに、

最初のドからして低いのか、ドは大丈夫でミとラだけが低い(あるいは高い)のか、そうなるともうなにがなんだか・・・です。

これもある程度慣れなんでしょうけど。

今日娘のヴァイオリンのレッスンで、先生が短六度の微妙にずれた音程をいくつか弾かれて、

「これくらいはいいけど、これくらいになると外れてるとかわかる??」と質問されるわけです。

娘は、「あ、下が低すぎる」とか「それはヘンすぎ」とか言って笑ってるんですけど(自分が弾くと「ヘンすぎる音程」のオンパレードなのにもかかわらず)、

私には笑うほどはおかしくないわけです。まして、おかしいと思っても、上が変なのか下が変なのか瞬間にはわからない(汗)。

そうでなくても、モスキート音聴こえなくなってるお年頃なので、ヴァイオリンのような倍音のでる楽器の聴こえ方は若いころとはずいぶん違ってきているはず。

耳そのものが劣化してきているのはまあおいといて、

「多少狂ってても、仕方ないか」で年何回かの調律で弾いているような楽器を弾いているのと、

毎回チューニングして、ひとつひとつの音程を正確に求められる楽器を弾いているのとでは、やっぱり変わってくるのかなあ~と思ったりしました。

いや、ほんとに耳の良い方は、ピアノ弾きであっても、弦楽器の正確な音程がお分かりになると思うし、またやろうと思えば出されると思うのですけど。

 

私としては、これ以上の劣化をなんとか止める努力すると同時に、もうちょっと弦楽器音に慣れないといけないですね。


同じ曲でも・・・・

2012年02月09日 17時15分22秒 | その他音楽

昨日の書きました、ブラームスの弦楽六重奏第1番の第2楽章なんですけど、

いろいろな動画を見つけました。(ひとつはよっしー^^のパクリですけど・・・・汗)

もともと、ヴァイオリン2人、ヴィオラ2人、チェロ2人が正しい編成ですが、次のようなものが・・・

 

〇人多すぎ?バージョン・・・・・・(箇所によって人数の増減があったりして、ダイナミックになってます)

 

〇ふたりでしみじみバージョン・・・(語りあってるような雰囲気でしょうか)

 

原曲はまたの機会に(笑)。


今週前半のこと2(レッスン)

2012年02月08日 17時08分48秒 | レッスン&セミナー

今日のレッスンは、5月のコンサートで弾こうと思っている曲、11曲のうちから、私としては「メジャー曲」と思っている曲をもっていきました。

ブラームス「主題と変奏 作品18 ニ短調」

です。

これは弦楽六重奏曲作品18の第2楽章を、クララの41歳の誕生日(1860年9月13日)プレゼントとして、

ブラームス自身がピアノソロに編曲したものです。ちなみにこの時ブラームスは27歳(1833年5月7日生)。

弦楽曲としてはメジャーなんですけど、ピアノ曲としてはあまり弾かれないというか、弾く必要がないというか・・・(汗)。

いや決して弾かれてないわけではないですよ。カツァリスもCD出してますし、最近リリースされた日本人ピアニストのCDにもこれが収録されたものがありますし。

7年前、どういうきっかけだったか忘れましたけど、ヘンレ版の中にこれを見つけ、練習してコンペでも弾きました。

超・・・難しかった(泣)。

読譜はそこまで難しくないのですけど、弦楽器6本で響き合って成り立っている曲なのですから、ピアノで弾くと、全然それらしく聴こえない。もちろん自分の腕の問題が大部分ではありますけど、自分なりにスコア見ていろいろ工夫し、楽譜が書き込みだらけになっても、「ああ、そういえばあの曲か」程度にしかならない。いくらブラームス自身がピアノソロに書き換えたとしても、それって「自分が最近書いた曲をクララに知ってほしい」という程度だったのでは?・・・という思いがしました。

当時ついていた先生は一生懸命指導してくださいましたけど、ブラームスが特にお好きなわけでも、弦楽器にお詳しいわけでもなかったので、たぶんご迷惑かけただろうなあ・・・って思います。

その後一回だけ、「ブラームス大好き」とおっしゃるH先生にレッスンをしていただいた折、「あなたは今指で鍵盤を押しましたね。気で押してください」といった、衝撃的なアドバイスを頂戴しました。

その後その意味をつらつら考え、またライブで(原曲の)六重奏を聴いたり、子どもたちが弦楽器を始めたり、・・・といろいろな経験も加わって、

またやってみようかという気になりました。・・・はい、無理を承知で。

幸いといってはアレですけど(笑)、現師匠はブラームスお好きですし、室内楽にも通じておられる。

ほんとのところ下心は・・・「師匠、弾いてくださいっ!」です(笑)。

もちろん、弾いてくださいましたよ(レッスン曲はいつも全部を弾かれますけど)。

でもそれで満足する私ではなく・・・

「こっちも弾いてくださいっ!」

取り出したのは、同曲弦楽六重奏のスコア。・・・・・・ヒドイ弟子だ(笑)。

なんでそんなことをしたかというとですね、私わりにスコアを弾きます。シンフォニーはさすがに難しいですけど、

室内楽はなんとかできなくはないです・・・もちろん、よろよろヘロヘロですけど。(この時、ハ音記号が譜読みのテキです。)

で、なにを一番感じるかというと、「譜面の景色」が違うということ。

ピアノの楽譜(編曲譜)だとごちゃごちゃっと見えるんですけど、スコアになると、たとえ同じような内容だとしても、とても美しかったり、さびしかったりします。

こういうとき自分でも「道楽の極みだな~」と思ってしまい、果たして自分はピアノが好きなのか、弦楽器が好きなのか、譜面が好きなのか、さっぱりわからなくなるわけですけど(笑)、

まあいいや・・・道楽です(殴)。

そういうわけで師匠に道楽におつきあいいただいたわけです。

やっぱりどこか違ってくるんですね。

聴いていても、それが手に取るようにわかります。ああ、六重奏なんだ・・・って思うわけです。

ピアノ譜だと伸びにくいような音も、視覚的影響も大きいのだとおもいますが、次の小節まで鳴り続ける。

このテイストを維持しつつ、ピアノ譜を見て仕上げていくというのは、やっぱり私には相当難しいことですけど、

実は、こういう曲を手がけるというのは、私にはすごく効果的といいますか、やる気がでるんですね。

どういうことかというと「レガートをイメージしやすい」。

・・・・・というわけで、今夜は一部分だけこっそりバイオリンで挑戦してみます(笑)。

 

けっしてのぞいてはいけません。聴いてもなりません。・・・・・・たぶん石になります。


今週前半のこと1(セミナーなど)

2012年02月08日 15時36分04秒 | レッスン&セミナー

今週は日曜日からこっち、かなり「ピアノ」な毎日を過ごしてます。

・・・・・いやその・・・・「練習してる」というわけではなくて・・・・(汗)

日曜はHピアノ社にコンクール入賞者演奏会を聴きにいき、

月曜は「ピアノを弾くからだ」というセミナーを聴きに行き、

火曜は大人の生徒のレッスンの時間に、ふたりでしゃべり倒し(汗・・・・内容はすべて音楽のことなので、私自身も勉強になるのですが)、

本日水曜は、自分がレッスン受けてきました。

 

月曜のセミナーでは、2時間めいっぱい、多量の情報を得ることができて、講座料金(会員なので1500円)から言って、とてもお得感ありました。

ピアニストであり、教師でもいらっしゃるK先生の講座だったのですが、あくなき探究心といいますか、

女性ピアニストのぺダリングをなんとか見てやろうと、アルゲリッチの譜めくりに志願されたり、

導入期の小さい子どもに、実験的に新しい指導法を試みられたり、

大人の生徒さん5人(40~50歳台の初心者、小学校まで非常によく弾かれてその後やめられた方、小学校の2年くらいでやめてしまった方、だらだらとずっと続けておられる方、ほかの楽器をやったことはあるけどピアノはまったくの初心者)を条件を決めて教えられたり、

これまでいろいろな国の30数人の先生に指導を受けたり、

と、その行動力と好奇心に恐れ入りました。

よく授業とか講義は脱線部分や余談の方がおもしろく、そっちばかり記憶に残っている・・・ということがあるものなんですけど、

ならば、肝心なことが印象に残るように脱線部分や余談に「仕込めば」いいわけで(いうのは簡単ですけど、やるのは難しいことですが)、

K先生は講演慣れされているということもあるでしょうけど(スケジュールをHPで拝見したなら、2月はびっしり連日、全国での講演が入っていて驚きました)、

大量の情報をアウトプットされながら、話の濃淡というか、脱線や余談の生かし方が上手いかただと感じ入りました。

 

(2につづく)

 


突破口はどこに・・・

2012年02月06日 02時14分38秒 | その他音楽

なんとなくネットサーフィンしておりましたところ、

「みなさん、コンサートに足を運びましょう!」というブログに行き当たりました。

書いておられる方はクラシックの演奏家ではないのですけど、とにかく、「ライブ命」のそのジャンルにおいてでさえ、「ほんとにお客さんが集まらない。まずは生徒が聴きにこない。<自分の生徒が>というわけでもなくて、たくさん生徒がいる友人たちでもほんとにコンサートには来てくれないらしい。。。」

・・・・みたいな内容でした。

ふうむ。。。

コンサートに行くというのは、お金も時間も労力もいることですので、なかなか難しいのは確かです。

私は最近でこそしげしげ行きますけど(多いときは月に8回くらい)、

子どもが小さいころはまったく行けませんでしたし、パートもしてない専業主婦だと、たとえ時間があったとしても一回数千円のコンサートに月に何回も足を運ぶ・・・というのは、かなり心もフトコロも痛みます。

加えて東京にいたころは、いくら行きたいコンサートがあったとしても、チケットが高いし(もちろん無料や安くで質の良いコンサートもたくさんあったのですけど)、

会場までが遠かったり、帰宅時に駅から自宅までが物騒だったりとか、いろんな理由で、行きづらいものがありました。

では逆に今なぜ行くかといいますと、

〇知リあいが出演する

これが一番大きい理由。次に

〇チケットが(関東にいたときほど)高くない

最後に

〇往復が楽

となります。

もちろん、海外からのアーティストも聴きに行きますし、たまには値の張るチケットのこともあるし、県外に遠征して聴くことがないわけでもないですが、

基本的にはこの3つです。

 

反対にめっきり減ったことがあります。それはCDの購入です。

これは申し訳ないけど激減です。タワレコやHMVで、安いCDを束で買っていたころとはまったく変わってしまいました。

「買わなくてもとりあえずどんな曲かぐらいは、動画サイトで視聴できる」というのは大きいです。

それはもちろんありますけど、もともと録音よりもライブ好きだったので、コンサートに行けるようになったら、そちらでおなかいっぱい・・・というのはあるかもしれません。

コンサートというのは、たとえば、そこまで大きな病気でなくても、

鼻水が出る、咳がでる、トイレが近い、

足が痛い、腰が痛い、

家族の誰かが具合が悪い、

携帯切っている間になにか起こるかもしれない状況にある、

となると、行けなくなったり行く気がしなくなると思うので、「行けるときに行っておこう」という気持ちはあります。

いやあ、そう考えると大変なことですね、コンサートに行くのって。

ということは、開催側になったときは「いかに、そこを突破してきて、足を運んでいただけるか努力する」になりますし、さらに「次も足を運んでいただけるように魅力的なものにする」もあります。

一方、お客さん側のときは「行きたいものに行けるよう、心身ともに元気で、かつ他での無駄遣いをしないようにしよう」ということになりましょうか。

 

とても今は「良い時代」とは言えませんから、それがいっそう厳しい状況にあるわけで、

どっちの側に立っても「まずは生活が大事」になってしまいます。

「生徒」としては、たぶん・・・ですね(私にもかつて覚えのあることではありますが)、

「たまたま聴きに行ったライブを見て(あるいは子どものレッスンを見ていて)、自分もなにか楽器をやってみたいと思って始めてみました。

楽しくてハマっていくうちに、レッスンもいいものを受けたくなるし、いい楽器もほしくなる。でも自分に使えるお金は限られているので、・・・・・演奏会には行けなくなってきた」

ということはあると思います。

「ライブを聴かなければ」というのはみんなわかっていると思います(おそらく)。

優先順位ですねえ~

たぶんそれは、子どもの習い事でも同じことかと・・・。

 

難しいです。

でも、誰かが少しずつ動かしていかないと、なにも変わらないような気もします。


寝起きに浮かんだこと

2012年02月04日 10時53分17秒 | 見る・読む

今日土曜は、いっさいなんの予定もない一日ですので、おおいに寝坊しました(ぜんぜん珍しくないことですが)。

ゆっくりと覚醒していく過程でなんだか変なことが頭に浮かんでくるんです。

・・・・・立ちションするおじさんをずーっと見てない。いったいいつから見てないのだろう・・・・

朝からすみません。自分でもなんでそんなことが浮かんだのかわけがわからないです。

で、その想念の手ざわりというか感触を確認していて、あることに思い至りました。

昨晩、某書店で、例の芥川賞受賞作を立ち読みしたのです(時間がなくて半分だけ・・・もちろん10日発売の文芸春秋は買います)。

立ち読みがひさしぶりだから、立ちションがどうこうというハナシではありませんよ。

ふたつの受賞作のうち、びっくり会見を開かれたT氏のほうの作品ですけど、

これがどうも、記憶のかなり深いところに触ったらしいです。

私よりずいぶんの年下の方なのに、どことなく自然主義とかそういう古いタイプの純文学を彷彿とさせる内容と書き方と思いましたし、内容は性的な描写が多かったのですけど、

とにかくどこかに触った。・・・・・で、立ちションです(殴:わけわかんなくてすみません。あまり内容詳しく書くのもなんですし。)

この作品に描かれたもの・・・・濁った川、汚臭、そんなものから、そういえばかつてそんな光景があったな、と思ったのですね。

考えてみたら今の日本は見た目けっこうきれいになってきたような気がします。

昔は汚れているところははっきりしていて、河がにごっているとか空が黒ずんでいるとか見た目でもあきらかでした。

ワルは路上にいましたし、「ここは危険地帯」ということもある程度はっきりしていた。

今もそういう部分がないわけではないですけど、

きれいだと思っていた空気が実は目に見えないものによって汚染されていたり、

安全なところだと思っていたところがキケンだったり、

見た目が真実を裏切っていることが実に多いんだなあ・・・・という印象がどこかに残っていて、

寝起きに頭にぐるぐる「立ちション」が浮かんだんでしょうねえ。

 

全部読みもしないで読後感もなにもないわけですが、

超ひさしぶりに読んだ小説、なかなか深いところにキました。

「猥雑な光景を描く」ことに私個人的に大変興味があるわけですけど、

そのあたりにズボっとはまりましたね。(生理的に受け付けない方もあるかもしれません)。

 

というわけで続きはまたいずれ。