以前ここに書いた通り、『文藝春秋』を買って、田中氏の受賞作品を読みました。
性的かつ血なまぐさい作品で、自分の中の「血」や、自分のおかれた「環境」への筆力が凄かったので、
何世代か前の「重たい小説」を感じたのですが、
どうも氏は、パソコンで書かれているわけではなく、原稿は手書きらしい。この『共喰い』は最初、10~20枚ほどの下書きをしたのだけれど、途中で「あ、これはだめだ」とほぼ全部捨て、全部で3回書き直しをされたとのこと。
この「質量」はなるほど、手書きのものであるな・・・・と妙に納得。
別に手書きでないと軽いとかいうわけではないのですけど、なんとなく違うんですよね。どこがと言われるとものすごく困るんですけど(汗)。
また、「これだけ暴力的な描写があるということは、どれだけヒドイ人生を送ってこられたのだろうか~・・」とつい凡人の発想をしてしまうのですけど、氏はこう語っておられます。
<・・・・自分のなかにないものを書いていきたいですね。暴力を描くにしても、決して自分のなかに暴力が内包されているわけじゃないし、周りに暴力を振るう人間もいない。無理に意識して書こうという気もありませんが、自分のなかにあるものでなく、ないものに対して目を向けていきたいと思っています。>
・・・・・そうなのか、なるほど。経験したことでないと書けないとなると、書けることはだんだん狭まってくるわけで。
この小説では、細かい釣りの描写がやたら出てくるので、「どれだけ釣り好きなん?」と思ってたのですが、実際は釣りはまったくされないそう(子どものころはやっていたそうなのだけど)。
もちろんよく調べたり、詳細に想像されてこそのリアルな表現なのでしょうけど、「経験してしまうからこそ逆に表現がつまらなくなる」ことも、もしかしたらあるのかもしれません。
私はある時期からどちらかというと経験主義というか現場主義で(笑)、
それは、恋愛にしても、結婚にしても、出産にしても、子育てにしても、
「もし経験していなかったらわからなかったかも」ということだらけだったからなんですけど、
それはとりもなおさず、自分が想像力と感受性の乏しい人間であったからなのであろう・・・と最近では思っております。
早い話が「痛い目にあわないとわからない」(殴)。
なので、病とか死とかこれから経験するであろうことについても、「なってみないとわからない」。
ここのところ、文学や音楽について考える機会が多いです。
作者や作曲家の生活史を調べて「・・・だからこういう作品を残したのだ」とついつい考えてしまうのですが、
テキは(いや敵じゃないけど)、そんなモノサシで測れる程度の人間ではあるまい、
生活と無関係とはいわないけれど、個人の経験値を超えたものでなければ、何百年いや何千年の時を生き続ける作品は残せないはず・・・とも思うわけです。
・・・・・と、芸術に仕えるしもべですらない、一愛好家としては、あらためて畏怖の思いを禁じ得ません。