以前から、気になって仕方ないのが、ハンス・フォン・ビューロー。
リストの娘コジマと結婚し、夫婦でワグナーを信奉。がしかしコジマはその後ワグナーの妻になり、ビューローのほうは、ワグナーのもとを離れてブラームスの支持者になったという・・・・。
「ドイツ3大B(バッハ・ベートーヴェン・ブラームス)」や、「ベートーヴェンの第10番(ブラームスの第1番交響曲を称して)」など、の名言もビューローのものと言われているし、
ベルリン・フィル初期の常任指揮者だし、ピアニストとしてもリストの弟子ですばらしい腕前だったというし、ほんとに偉大な方であったのですが、
聴衆を啓蒙せねばという意識のあまり、お客さんを閉じ込めたままベートーヴェンの第9番を2回続けて演奏した・・・・とかいう、「そ、それはほんとですか?」なエピソードも残されているようです。
以下、wikipediaからの略歴。
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9歳でフリードリヒ・ヴィーク(クララ・シューマンの父)にピアノを師事。ライプツィヒ大学で法律を学びながらも音楽の道を選ぶ。ピアノ演奏でフランツ・リストに賞賛され、その知遇を得る。リストが庇護していたリヒャルト・ワーグナーにも心酔し、指揮を学ぶ。ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初演。当時、ドイツ・オーストリアの音楽界はワーグナー派、ブラームス派に二分され、両者の確執が激しかったが、ビューローは、当初はワーグナー派の代表的存在であった。
1857年、リストの娘コジマと結婚、2子を儲けるが、やがてコジマはワーグナーと恋愛関係に陥り、1866年にコジマはワーグナーと同棲に至る。1869年にビューローはコジマと離婚するが、コジマはその間にもワーグナーとの子を、1865年イゾルデ、1867年エーファ、1869年ジークフリートと3人生んでいる。この後、ビューローはワーグナーから離れてブラームスとの親交を深め、その作品を積極的に取り上げるようになる。ただし、ビューローはワーグナーへの信奉から、コジマの不倫を暗黙のうちに了承していたともいわれ、この間の経緯については諸説がある。
1880年、マイニンゲン宮廷楽団の指揮者。このころ、リヒャルト・シュトラウスを見出し、助手としている。リヒャルト・シュトラウスの手紙によれば、ブラームスの交響曲第4番の初演時には、ブラームスが指揮をし、ビューローが大太鼓、リヒャルト・シュトラウスがトライアングルを担当したという。1882年に創立されたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。現在、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団には、ビューローの名を冠した栄誉賞がつくられている。
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そうですか~、ヴィークの弟子だったんですね。
それにしても、ブラームスの交響曲第4番初演時の話はすごい。
<ブラームスが指揮をし、ビューローが大太鼓、リヒャルト・シュトラウスがトライアングルを担当したという>
・・・・ぜいたくすぎる。