世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

市場原理導入と 沖縄サトウキビ の将来

2006年07月16日 | Weblog

14日、2,007年度の「サトウキビ政策支援」が内定した。沖縄の農家にとってはサトウキビが基幹作物であり栽培農家は全農家の7割を占める。しかもサトウキビ畑は全耕地面積の5割に当たる。特に離島は生活の大半がサトウキビに依存している。いよいよ来年07年度以降、サトウキビの最低生産者価格が廃止され市場原理が導入される。取引価格が市場に委ねられる。価格が決定する翌年12月までは手取り価格は分らない。従って従前の確かな数値が担保されない事に関係者は困惑している。生産農家の手取り価格は「取引価格」ブラス「交付金」の合算となる。つまり最近の販売価格の最高額4,540円に交付金の16,320円合計額「20,860円」となる。平均価格の現行維持が推移するものとしての単純計算である。現今は相場の急変はないものと推測されるので現行の手取額を下回る事はないと予測している(政府関係省庁)。しかも石油高騰の代替としてバイオエタノールの需要も見込める追い風もある、と関係者は力説する。更に交付金は手取額の8割を占めるので価格変動が経営に与える影響は少ない、と不安を払拭する。沖縄農業の大半を占めるサトウキビは近年、100万トンを下回っている。最盛期の178万トンを境に下降の一途を辿っている。05~06年期は67万9,419トンである。あれやこれやと勘案しながらも市場原理の導入で世界を相手に競争しなければならない現実に直面している。政府の施策を受けながら自助努力も更に要請される。例の「サトウキビ増産プロジェクト基金」を活用し生産基盤の強化を図り生産農家、製糖工場、県、JAが一丸となって取り組む事が沖縄農業にとっては喫緊の課題である。農家や関係者の意識改革が全ての始まりである。 (云十年前の農家の子孫)

 


喧しい中東情勢と連動する日常経済!

2006年07月15日 | Weblog

レバノンとイスラエルの報復攻撃が後を絶たない。ますます悪化の一途を辿っている。中東情勢に憂慮する国々や心ある世界の民は即時、中止、終結を切望する。長年の瑕疵を引き摺り因果の発端を克服し思想信条を乗り越えて一日も早い停戦・終結を望む。全ての戦争・紛争の被害者は子供・女性・老人等の市民であり犠牲者も多い。甚大な被害のターゲットも弱者の彼等である。パレスチナや今回のイスラエル、レバノンの不穏な中東情勢は世界経済にも連動し悪影響を与えている。一部、無傷や恩恵にあずかる国もあるにはあるが直接の原油高騰が日常の生活に打撃を与えている。ニューヨーク市場・東京市場では原油先物相場が最高値を更新した(14日)。湾岸危機以来の最高値に迫る情勢が憂慮されている。大手の石油元売りでは15日の今日から石油製品(ガソリン、軽油)の卸価格が1㍑当たり2.4円値上げする。他の元売り社も8月から1㍑当たり3~4円の値上げの予定である。レギュラーガソリンの全国平均小売価格は1㍑当たり137円。湾岸危機時の142円に迫る勢い。卸価格が小売価格に上乗せすれば最高値更新は確実とされている。大手元売りがそうでも下請け中小企業は価格転嫁が困難で政府の支援が待たれるのが現状である。石油関連製品も軒並み高騰が確実視されるので消費者の私達の台所を直撃する事になる。世界の動きが、事件・事故が、直接に卑近な私達の日常生活を脅かしている現状ではニュースから眼が離せないのが現実である。遠方への用事も徒歩で、という事になるのか、はたまた「健康づくり」の積りで"歩け歩け"で事を済ます事になるのか各自の思案の為所である。・・・

 


子供の観た史跡旧跡「摩文仁家の墓」

2006年07月14日 | Weblog

「なんて大きな墓なんだろう」。墓の周りはアカ木とガジュマル、そしてススキに囲まれています。南風原町の大名公民館の側にセメントを敷いた道があります。そこを登っていくと宮城原があります。そこに「摩文仁家の墓」があります。この墓は昭和45年7月14日に県の文化財(建造物)に指定されました。ぼく達は文化財が語る歴史を知る為にこの"摩文仁家の墓"まで来たのです。先生に何故、県の指定になったのか、意味を尋ねてみました。「それは、一応、古い歴史があるから、ということだけど、この墓の造りが珍しいので県の指定になったのだよ」。「先生!それならこの墓の中に眠る人は誰なんですか」。「えっとね、第二尚氏10代目の尚質王の第二子「弘毅」(こうき)の墓として造られたんだよ。」と話してくれました。僕たちは、ますますこの墓に興味を持ちました。「先生!さっきね、墓の造りが珍しいとおっしゃったけど、どこが珍しいのですか」。「外面は平たい墓と同じ形をしているけど、この墓の内面は砂岩を刳り貫いて家の様な造りになっているんだよ。」・・・ぼくは先生からこの事を聴くと中に入ってみたい気持ちになりました。沖縄には、それぞれ面白い特長をもった墓が、たくさんあるんだな、と思いました。そして、この「摩文仁家の墓」の所有者、摩文仁朝功(まぶに ちょうこう)さんにも、お会いして、もっと、いろんなお話を聴いてみたいな、と思いました。 (6年 G)

沖縄には、ずいぶん、違った形のお墓があります。およそ7種類ぐらい在ると言われています。祖先の文化を訪ねてみる手掛かりとして、お墓も大事な役目を果たしているのです。 (父 G)

 <学習の手引き>・・・7種類ある墓の形式を調べてもなさい。博物館、図書館の資料で調べられます。


知られざる史跡旧跡 天の岩戸伝説秘める 伊平屋!(2)

2006年07月13日 | Weblog

カリブ海に浮かぶヨット、サーフィンに負けじ衰えじと豊饒の海はシーマン達を招く。海流の激しい野哺海峡(のほかいきょう)は絶景を堪能しながら釣りの醍醐味に浸る人々で、ごった返す。200メートル余の伊平屋(野哺)大橋はエメラルドグリーンの透き通った海底が真近に見える場であり周辺の海域は乱舞する魚類達の宝庫で恰好の釣り処である。釣りキチにとっては食指が出る又とない海峡であり大橋である。青ブダイやオーマタ、クサバー、ミーバイ等々が、よく釣れる。東シナ海側の海は遠浅で海水浴を楽しむ観光客・地元民・子供達で夏場は、ごった返す。季節を問わず年中、漁 貝拾い・魚釣りも堪能できる。沖縄でも一、ニに数えられる観光名所である。知られざる名所旧跡が数多あり近年でも未発見・未発掘の旧跡が発見・発掘される事も、屡(しばしば)ある。王朝(王腑)時代から歴史の島であり王室の出自は伊平屋・伊是名が始祖である。因みに第一尚氏王統の始祖は「伊平屋島」の "尚巴志王" (「屋蔵大主」の孫)であり第二尚氏王統の始祖は "伊是名島" の "尚円王" である。歴史の因果は、この小さな島に由来する事が多い。東海岸を巡って中央部に近づくと我喜屋(がきや)と前泊(まえどまり)にさしかかる。海岸沿いに第一尚氏王統の始祖の父「屋蔵大主」(やぐらうふぬし)の墓があり由縁ある祭祀の人々で年中、香が絶えない。その他、史跡・名所・旧跡の歴史散策・散歩は、この島「伊平屋島」に限る、と言っても過言ではない。一度と言わず何度でも訪れる価値がある現代の避暑地・避寒地、オアシスであり桃源郷でもある。貴方・貴殿の訪問を待っているはずだ。・・・


知られざる旧跡 天の岩戸伝説秘める 伊平屋!(1)

2006年07月12日 | Weblog

マリンブルーの大海原を快適な船旅を満喫しながら伝説の地「伊平屋島」へ。夢に観た現代の避暑地! "離島 伊平屋!" 。 沖縄本島今帰仁村の運天港(うんてんこう=台風時の避難港として最適湾)から北へ大波小波・静寂な波風を切って快走する醍醐味は 生きている実感 を堪能させる。遥か遠方に微かに浮かぶ薄灰・セピア色の島連山は正に現代の桃源郷だ!目指すは50分前後の時間を要して入港。純白の白砂に素足を投げ出す。想像するだけでワクワク・ドキドキの連続だ。波飛沫を揚げて疾走する500トン余の「フェリー伊平屋」は新造間もない旅客船である。自家用車を積み、 友と社員と、はたまた家族と旅する一時(ひととき)は公私の憂さを晴らす 忘却の空白帯! 年数度の旅路が 生を感得する 絶好の機会! あっという間の上陸。見上げる眼前には "虎ず岩"(とらずいわ)が旅客を歓待する。旅館・ホテルのマスターが柔和な眼差しで出迎え,旅人を歓迎する。旅装を解いた一行は島一周の観光に出かける。目指すは沖縄最北端の地 田名(だな=字名)北端の「クバ山」!・・・原生林のクバの木の単一林山。神の宿る神聖な御嶽。・・・「クマヤー」(天の岩戸伝説の岩山穴)。宮崎県のそれと比肩される本家本元の誉れ高い天の岩戸。その昔、藤井ていかんが「天の岩戸」は沖縄の伊平屋に在る、と発表したので江戸時代の国学者 本居宣長を激怒させた逸話は、つとに有名である。樹齢350年余の老木の「念頭平松」も人気スポットの一つだ。西海岸沿いの「ヤフェー」(海上の小岩山)も夫婦の契り深い伝説を秘めた悲話がある。ぐるっと巡ってターム(地名=戦後間もない頃、数軒の家族が居た)を越え我喜屋(がきや)西方から南端の島尻(しまじり)へ辿り着く。そこは伊平屋のコートダジュール ヨネ岬 の白浜だ!!・・・次回に続く。

 


知られざる歴史発掘 北谷街道旧跡 散策!

2006年07月11日 | Weblog

国道58号線の中央部に位置する北谷町は、去る沖縄戦の上陸地点。そのなだらかな地形は海から陸への恰好の好条件地だった。緩やかな東部、東シナ海沿いの平らな西部が海上から陸上への移動地として条件が揃い選定された。その昔、戦争前は稲作の生産地として有名だった。沖縄最大の稲作地帯「羽地たーぶっくゎ」と並び称される "北谷たーぶっくゎ" は沖縄の民の食を満たし貢献した。近年、基地の町の汚名を返上し「美浜ハンビータウン」として生まれ変わった。若者の人気ナンバーワンのスポットとして、その地位を不動のものにしている。・・・

○王朝時代・・・明治・大正時代・・・国道58号線の伊佐浜(いさはま=字名)から砂辺(すなべ=字名)までの6キロは王腑時代の公道「宿道」(しゅくみち)だった。中部方西海道{なかがみほうせいかいどう}西宿{いりじゅく}側になる。当時の 宿道 の東宿側は東方面になる。

○西宿全体の道路概容・・・首里城(始点)→浦添間切(ウラソエまぎり=今の村)→北谷→読谷山(今の読谷村)→恩納村(おんなそん)→名護(ナゴ市)→羽地(なねじ、今の名護市の一部)→大宜味(おおぎみ村)→国頭と今帰仁(今の今帰仁村)→本部(もとぶ=今のもとぶ町)。大正4年(1,915年)・・・浦添から今帰仁までの 西宿 を改修して頑丈な道路を完成。その後の命名は "国頭街道" (くにがみかいどう)と呼称する様になった。大正9年(1,920年)に県指定の「県道」となった。―那覇~名護―・・・

○アメリカ統治時代・・・昭和16年(1,941年)の大東亜戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争・沖縄戦(それぞれの意味呼称があるが割愛)開始から敗戦・終戦の終了後、米軍による沖縄統治が開始。―那覇~名護―の道路を基盤に「軍道1号線」を建設。軍用専用の道路となった。その他、戦後間もなくアスファルト道路が敷かれ舗装された 軍号1号線 及び 13号線(現国道329号) 等は米軍各基地を結ぶ重要な道路となった。日本祖国復帰前のそれ等の管理は米軍地区工兵隊=DEの技術者があたっていた。他の重要な道路は琉球政府(日本祖国復帰前の呼称)が維持管理にあたっていた。市町村の管理道路は昭和27年(1,952年)琉球政府の援助を受けて運営にあたった。北谷の基幹道路の旧政府道24号線(現県道24号線―桃原謝苅線―)は昭和33年(1,960年)改修工事終了し北谷の発展に大きく貢献した。北谷の道路の整備は昭和47年(1,972年)の日本復帰後から本格的に始動した。

○現在の道路状況・・・復帰後の昭和47年 軍道1号線 は日本の道路となり「国道58号線」と生まれ変わった。新生道路の誕生である。沖縄の発展は大動脈「国道58号線」によって齎され地域産業に大きく貢献した。

●歴史の大きな流れや表街道の営為・遺蹟を伝承するのも大事な使命であり同時に名もなき小さな地域に眼を転じ、そこに営々と生き永らえた庶民の暮らしや生活の生き様を発掘し伝えていくのも後世に先人の歩み・遺跡を伝承するのも現代の私達に与えられた使命である。歴史を観る視点を変える事によって例の様な「道路」から切り込む歴史が新たに観えてくる。

付記:「宿道」(しゅくみち)・・・王腑時代、首里城と地方の番所(村役場)を結ぶ公道・・・(北谷町発行パンフ参照)


子供の観た史跡旧跡「大城按司の墓」

2006年07月10日 | Weblog

「ずいぶん変わった形をした墓だなあ。」馬天(地名・・・ばてん)から新里(地名・・・しんざと)のをぬけ、親ケ原(地名・・・おやけばる)に向かう曲がりくねった坂を登ると手前の右手にアスファルト道があります。そこを真っ直ぐ行くと「大城按司の墓」(おおしろあじのはか)と書かれた標柱が建っていて、その後に「大城按司の本墓」が在ります。墓は西側を向いていて西南の方向に"大城城跡"が在ります。北西には"稲福遺跡"が在ります。この墓に葬られた人は墓の西南にある大城城の城主で三山時代(南山、中山、北山・・・666年前)勢力の大きな豪族の一人だったとの事です。墓の形は"切り石積み"で四角な石室の上に円形の屋根が乗っかった形をしています。ぼくは、いったい、この形の名称は何だろうかと思い先生に聴いてみました。「この墓の名称は"ボントー墓"と言って、琉球・沖縄の代表的な「破風墓(はーふーばか)」、「亀甲墓(かめこうばか)」、「かご墓」のどれにも属さない独特の墓だよ。」と教えてくださいました。でも、何故この様な形の墓を建てたのだろうか、と調べて見ました。「田名真章家」が伝えるところによれば「島添大里按司」(しまぞえおおざとあじ)に攻め滅ぼされた時、「大城按司」の自害した首を持った部下が遠くへ落ちのびる事が出来ないで"按司の首"の周りに石を積み上げて、今の様な形にした、との事です。(6年 B)

墓は明治25年に改築されました。首の形が墓になったり、亀の形が墓になったりするので不思議です。現在は昔の人達の造った墓の形を受け継いでいますが新しい墓の文化を築いていきたいものだと思います。 (父 B)

<学習の手引き>・・・「大城崩れ」で有名な歴史上の人物の墓です。「大城崩れ」とは、いったい何なのか調べてみましょう。

 


仕事しないでブラブラ 親の子に言う当然の文言!

2006年07月09日 | Weblog

日本的 甘えの構造 の最たるもの。許す社会に責任はないのか?!子が親を 親が子を殺す!?  殺人という名の流行現象? 頻繁に起こる度に神経が麻痺し又か で済ましてしまう風潮。他人事だ!私の家族・親戚には起こりっこない。そういう構造が蔓延している社会が恐ろしい。マスコミもメディアも通り一遍に取上げるだけで次の事件・事故にシフトする。その度に遣り切れない思いがする。発端の経過事実と分析の羅列だけでなく有効と思われる対策!二度と起きない様な対応を提示できないものかと思案する。痛切に思う。識者は個々に持論を述べられる。・・・現日本社会の病根の帰結・顕現。市場原理の成れの果て。市場経済へ急速な進捗の歪みの投影。節制なき規制緩和の当然の結果。見通しなき官から民への移行断行。数値による成果主義の評価等々と直接間接及び遠因の然らしめるところ、だと断じる。  ・・・どこの親でも子を案じて言う。子は小言だと受け止める。過去に何千何万という類似の親子の事例が幾多もあった。だのに、この事例・事件だけが特殊なのか稀であるのか(事件後の偽装工作までしている。親に対する子の情が微塵もないし感じられない。この子に惨殺された親が哀れで悲しい!!)。底辺・底部では、どの親子でも思い止まっている。事件にならない。当事者の24歳は大学生でも立派な大人だ。通常では思慮分別のつく大人だ。事後の事態がどうなるのかの思慮不足?!想像力の欠如?!咄嗟の切れた行動!カッとなって遣った!・・・云々。自分の親だから他人は口を挟むな!・・・等々。そういうスタンスは社会では絶対に通用しないし許されない。真摯に自覚すべきだ。道連れのつもりで殺してから後で自分も自殺を図る(成功したためしがない)。甘えるな!と一喝したい。恫喝したい。社会は凝視しているのだ。(申し訳ないが、やるせない思いで綴っているのだ)。もう分析はいいし要らない。ムーブメントを起こす時期(とき)に来ている!対症療法でもよいではないか。初めに行動ありき!だ。小さな行動の積み重ねから大の良き対策は見えて来る。小さな輪の運動を地域から、コミュニティーから興し、次第に一大ムーブメントへと繋げていく。巻き起こしていく。そういう行動が、運動が、今、必要なのではなかろうか。・・・

付記:独断と偏見の拙い持論としての根本的提案・提起(自分ではそう思っている)を後日、開陳したいと思う。


現状・実状等の現実と理念上の観念との乖離!

2006年07月08日 | Weblog
有り体に言えば "理想論" や「理念上の観念」は公的にも私的にも屈託なく現実を遊離した文言で開陳できる容易さがある。心情の起伏なく吐露できる。しかし一旦緩急があり現実ともなれば、そうもいかない。今回の北朝鮮のミサイル発射がそうである。内外に多大の波紋を投げた。瀬戸際作戦とか何時もの常套手段だ、とか幾多の疑問難問を世界に突きつけた。その対策に顕である。外交が自国の利益と勘案して駆け引きの場である事は世界の常識である。賛成、反対、玉虫色、緩衝地帯も全て、その範疇にある。今回は日本外交が真価を問われる事態に遭遇した。国連の場で先導的役目を担い加盟15カ国を日本の意図に賛同させるか否かの、それこそ瀬戸際外交を余儀なくされている。当初から予想された中国とロシアが「決議」に不賛成。拘束力のない「議長声明」で妥結する。その何れかに選択を迫られている。今夕か明9日に結論がずれ込む可能性がある。翻って、ここ沖縄では嘉手納基地に「パトリオットPAC-3」の配備が現実問題となった。これ以上の過密負担と基地機能の強化はゴメンだ、というのが沖縄県民の本音である。拒否したら 北の事だ。 ミサイル着弾 が現実となる可能性がある。否定もできないジレンマに立たされている。「理想上の観念」と現状としての "現実" との乖離に混乱しているのが実状だ!海の向こうの他人事で済ましていた事態が我が身の切実な現実となった。近海の漁に出た漁船が、船舶が、帰港して来る。日々のニュースに釘付けになる。そういう光景は今までになかった。異様な事象が日常茶飯事となり生活を脅かしている。個々の思考の試練の時期である。・・・


北朝鮮のミサイル発射と各国の思惑・駆引!

2006年07月07日 | Weblog

イラク攻撃・殲滅より先に北朝鮮の転覆・壊滅を優先すべきだった。米国民主党議員の指摘である。結果論として言えるかも知れないが歴史にifは禁物であり常識である。国連安保理の日本側の提案に必然且好意的に受け止め賛同を表している多数の国の中で中国、ロシア、韓国が不賛同を表明。イランの核開発と石油に絡む利害の相違で米国とロシアは対立。米国が不快感を示している反米の中南米と中国は資源外交を推進・展開している。米国と日本は日米同盟で強固な関係を構築。そういう複雑に絡み合った網の目を、どう解し大同団結に持っていくのか、日本の今回の提案・命運が懸かっている。拒否権を発動し日本の意図を反故にする。大義名分的には法的拘束力のある「決議」ではなく、拘束力のない「議長声明」で妥協するのではないのか、と予測される。果たして、その国連安保理の措置が北朝鮮に威力を発揮するのか疑問でさえある。今回の件でも反対表明の一環として考えられるのが直接的に利害関係を共有する東北アジア3国=中国、韓国、ロシア=は陸続きで直接、接しており仮に米国のミサイル攻撃を受けたら多くの北朝鮮の「難民」が怒涛のように3国に流れ込む。そういう構図が描かれる。現実味のある説得力ある論理である。翻って大国としてのメンツある中国の胡錦濤国家主席は「朝鮮半島に緊張をもたらす、いかなる行動にも反対する」と表明。ロシアのプーチン大統領は北朝鮮のミサイル発射の理由・弁明に対し重要な プーチン語録 を表明した。曰く、 『「失望した。このような行為は正常とはいえない。」、「文明国であれば、事前に(ミサイル発射の)実施場所などを通告している。」、・・・「ある国の権利は、他国の権利を侵害する形で実現されてはならない。」・・・』等々である。特に ”ある国の権利は、他国の権利を侵害する形で実現されてはならない。” に全ては言い尽くされている。北朝鮮のミサイル発射の 「大義」 はプーチン大統領の指摘に、どう反論できようか?


世界の耳目を集める 北のミサイル発射(2)!?

2006年07月06日 | Weblog

―・・・現時点での問題点を列挙すると・・・―

◎「テポドン2号」を打ち落とせる 「迎撃ミサイル」 はない。

◎「ノドン」→日本へ。

◎「スカッド」→韓国へ。

◎「テポドン2号」→米国へ。計算しつくされた着弾地点(相手を揺さぶるに最適の場所)に発射・着弾している(7発。予備3~4発を用意。未発射)。

▲日本単独では効果が→薄い。

▲国連決議→時間が長引く。<中国>、<ロシア>の説得が困難。北朝鮮は、その事を見据えているし見通している。・・・今回の大胆な行動の背景・・・。

▲韓国の現政権→苦境に立たされジレンマに陥っている(現政権内部に北のエージェントが潜入。政権内部の混乱を画策している)。

▲北の金融封鎖先(例の<マカオ銀行>は中国の支配下にある)の実効に疑義。

○「先軍政治」・・・軍部と文民との乖離(軍部{保守派と改革派}の暴走が政権内部の崩壊の危機を招く。クーデターの可能性を示唆)。

○「マンギョンボ号」の入港封鎖の経済的効果に疑義。

○その他、多々。

■対策として幾多の案が出ているが、<帯に短し襷に長し>で有効な対案はないのが現状の様だ。その一案として・・・国連の安保理の決議を得て執行するのに<中国>と<ロシア>の説得が難しい現状では 日米を中心とした「有志連合」で経済封鎖をする、との対案も一部の識者から提出されている。

■米国の次のターゲットは イラク崩壊後 のイラク滞在兵の去就と費用捻出。イランの核問題。北朝鮮問題。・・・等々。

■北の最大の恐怖は「イラク殲滅」の二の舞をみないか、という事である。現北朝鮮を米国が「ミサイル攻撃」をして来るのではないのか、という恐怖である。一部の識者は絶対に有り得ない、と言明しているが、これ又、未知数である。有るとも無いとも言えないのが現時点での現状ではなかろうか。・・・

何れにせよ民主主義の日本では官民同等に意見具申が出来、開陳できる事が他国よりも一際、抜きん出た民主国家の社会である、と思う。そういう国家の日本を今後も持続的に堅持していきたいものだと願う。(平均的思考の帰結)

 


ミサイル発射 賭けに出た 北の今後を注視!

2006年07月05日 | Weblog
国際社会から非難を浴び、その渦中にある北朝鮮のミサイル発射の波紋の行方は不明である。特に我が国日本の対応が世界の注目を集めている。小泉首相が締結した「日朝ピョンヤン宣言」に抵触し重大違反を 北朝鮮 は犯してしまった。日本のみならず アジア全域 、特に 東アジア や 不安定の弧 連動する世界に及ぼす影響は計り知れない。何故?の疑問に答える前に「北の事」である。それなりの「深い読み」があってのことだろう。世界からパッシングされ自国に不利になる事態は招かないスタンスが北の「常套手段」だ。しからば何故に暴挙とも受け止めかねない今回の発射に踏み切ったのか、正確には誰も言い当て得ないであろう。不可解でさえある。・・・でも然るべき幾多の予測は出ている。6カ国を超えて直接、米国と直に交渉のテーブルに着く。金融凍結の解除に打開の道を得る。経済逼迫の打開を 死の商人 として中東にミサイルを輸出する。その性能の向上と技術の開発であり、その一環としての試射である。或いはミサイル発射後の 米国の 迎撃ミサイル の性能を打診する・・・等々。百花繚乱の噴出である。的を得たものが幾程あるかは知らないが考えの想定内にはあるだろう。マスコミや民放も関係のある然るべき場所に特派員を派遣し逐一、独自の報道を非公式に伝えている。受け手の私達は参考として勘案しながらも 「公式の政府見解」 を待ちたい。特に極東最大の沖縄「嘉手納基地」からは偵察機やミサイル関連の戦機が航行、飛行し 情報収集 に当たっている、という。国連機関との連携や経済等の処置を施行し日本政府として最善の「対処法」を講じてほしい、と要望する。


中田 現役引退 余韻残した "男の美学" 完了!

2006年07月04日 | Weblog

幼少からサッカーボールと共に明け暮れた日々。一時もボールから離れた日はなかった。サッカーを友に&共にして歩んで来た日々。小中高と抜群の成績で日本中に名を轟かせた。Jリーグ入りしてからも、その技には益々磨きが懸かった。ヒデの愛称で親しまれ、世界の中田になってからも技量は衰えることなく更に磨きが懸かり円熟味を増した。その中田が突然の引退表明。日本中が度肝を抜かした。即座に号外が出た。それだけの名声と技とスポーツに賭けた闘争心の持ち主だった。中田よ!何故?早すぎるのではないのか?・・・29歳は、まだまだ現役で活躍出来る年頃だ!疑問符はサポーターのみならず誰の脳裏をも掠めた。・・・後日談だが・・・聴くところに拠ると、もう半年も前から「2,006年W杯ドイツ戦」を最後に現役からの引退を決めていた様だ。プロ10年!足かけ20年余のサッカー半生に一区切りを付け、 ”新たなる自分探しの「人生の旅立ち」” を決意した、という。中田には中田の考えがあり "人生の旅路" がある。自分のホームページで表明した文章を拝読した。その行間に溢れた "思いの丈" は読む人を、感動の輪の中に、坩堝に、誘った。有り体に言えば、その道で、一つの、一分野の、 "心と技" を成し、全うした人は、それなりの「引き際」を見定めている。ボロボロになってから引退する人。もう少し、と "惜しまれながら" 引退する人。その「心象模様」は分らないが、中田は『引き際の "男の美学" 』を優先した。全うした男だ。野球の新庄もしかり。・・・男には男の "生き方" があり "美 学" がある。「有終の美」を如何に飾るか、完了するかは、人、夫々の価値観や美学のしからしむところ。中田よ! "ありがとう" !日本のサポーターと、仲間と、後輩に、 "勇気と闘争心とやる気の根性" を与えた。その功績は大なるものがあり不滅だ! "あるがとう!中田!ありがとう!" 君の前途に、君の新たな旅立ちに、中田・ヒデの、今後の言動や動向に、注目していきたい。

 


日・中・韓・ロ 文明観 相違理解が全ての前提!

2006年07月03日 | Weblog

吾が日本国の文明・文化の形成に多大の影響を与えた隣国の中国、韓国とは、歴史的にも現代でも切っても切れない深い関係にある(卑近な例では民間ベースの活発な経済交流。国レベルの政経交流は今後の最大の課題ではあるが・・・)。現今ではロシアを含めて3国とは「日米同盟」と同じくらいの比重で対等に付き合わなければならない。四方、海に囲まれた「島国日本」は国境線を気にすることなく独自の文化を形成してきた(韓国、中国の影響を受けながらも・・・)。――(石器・土器・縄文~明治・近代・現代までの日本という島国内の紛争は"内輪もめ"に過ぎないと思うが)――アジア大陸、ヨーロッパ大陸等の国境線を意識しての争奪戦は常に自国の領土拡大を念頭に置いての明け暮れだった。戦争・紛争の絶えなかった大陸文明・文化は過酷な(又は温暖な)気候・風土に拠っても左右され形成されてきた。善意的には「大陸的・・・」という響きには "大らかさ" とか "ものの見方・考え方の大きさ" とかを象徴した。日本のような "島国的・・・" というイメージは "矮小化されたものの見方・考え方の狭さ等" を示唆した?・・・翻って現代では、どう考えたらいいのか、特に国レベルの "外交" というカードを切る側面からは、どう捉えるべきか?・・・内外の識者の論考を参考にしての私の結論を披瀝する。  ””― 『国境線と領土拡大 過酷な気候・風土』 ―それが人間形成に与えた影響、その渦中で形成された強かな性格、そういう諸々の要素が縦横無尽に入り乱れて形成された「強靭かつ強かな性格(狡さ)」・・・。一言で言えば『全ての交渉ごとは大き目に ―"ふっかける"― が常道』という事に尽きる。1の値も初めから10や20に設定してから交渉に臨む。「駆け引き、交渉は、その "常套手段" の範囲内で行われる。相手(国境線のある線引きされた大陸国)との交渉ごとは・・・『値切って値切って、粘って粘って、"相手の譲歩" を引き出す事』に限る。民間レベルでも国レベルでも特に一国の「外交」は、そういうスタンスで当たるべきだと思う。「謙譲の美徳」は一昔前の当時の社会風潮には機能したが現今では "相手次第" である。そのスタンスを忘れると取り返しのつかない事態に遭遇する覚悟を持つべきだ。「国際法」云々を持ち出す法治国家の面目を全面にだす様な対応では相手の "思う壺" 、"裏の裏" を懸かれるのがオチだろう。「正攻法」に徹した "お人よしの日本人" の美徳は時と場合に拠りけりである。当面の交渉ごとは『 "ふっかけ" 文明・文化』に、どう対応・対処していくかに懸かっている。その「ふっかけ」を見通しての交渉に、どういうカードを切るかに懸かっている、と思う・・・””   拙い私の結論である。

 


子供の観た 自由民権運動の先駆者 謝花 昇

2006年07月02日 | Weblog

六年の社会科で自由民権運動について勉強した時は、あまり興味がありませんでした。ところが夏休みに先生と一緒に謝花 昇の銅像を観に行き説明を聴いているうちに 謝花 昇自由民権運動で苦労しながらも郷土沖縄の為に活躍している事を知りました。謝花は明治15年第一回県費留学生として沖縄では、はじめて農学士になり今の東京大学を優秀な成績で卒業しました。それから帰郷して農業の技師となりました。その当時、農民や一般の人達の利益も考えず自分の思うままの政治をしていた 奈良原県知事に 謝花は果敢に対抗しました。それは「杣山問題」です。 「杣山」とは、 「農民が木を植え自由に利用できる共有の山林の事」です。その当時、失業士族が大きな社会問題になっていましたので、奈良原知事杣山を、その人たちに開墾させようと計画しました。開墾を希望したのは本土の商人や尚泰王の三男 尚順 などの金持ちの人達だけでした。この開墾の責任者が 謝花 昇 だったのです。彼はこの計画が一部の金持ちの人達だけの利益になる事、又、開墾より水害の原因にもなると考え反対しましたので奈良原知事は彼を、この職から、はずしてしまい、思うままの開墾をしました。その為、杣山は官有林になり農民は自由に出入りが出来なくなり困ってしまいました。この様に杣山事件で負けた謝花は、県庁を辞め 当山久三新垣弓太郎 などの仲間と「沖縄時論」という雑誌を発行して奈良原知事の悪い政治を止めさせようと国会にも働きかけました。又、沖縄県民代表を国会に送り出そうと 参政権運動 にも力を入れました。しかし、奈良原知事の妨害にあって頭が狂い発狂して44歳の若さで、この世を去ってしまいました。ぼくは悔しくなり無念の思いで、いっぱいになりました。 (6年 G)

謝花 昇は沖縄の自由民権運動の父と言われています。その当時は一部の特権階級の人達だけが選挙権があったのです。民意が反映されない差別を受けていた沖縄の私達の祖先の事を思いやると胸が締め付けられる思いです。もう、そんな世の中は二度と来ない様に私達が頑張らなければならないと思います。 (母 G)

<学習の手引き>・・・謝花 昇の伝記や資料から沖縄の近代史を調べると戦前の沖縄の過酷な様子が、よく分ると思います。調べて見ましょう。