世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

子供の観た史跡旧跡「大城按司の墓」

2006年07月10日 | Weblog

「ずいぶん変わった形をした墓だなあ。」馬天(地名・・・ばてん)から新里(地名・・・しんざと)のをぬけ、親ケ原(地名・・・おやけばる)に向かう曲がりくねった坂を登ると手前の右手にアスファルト道があります。そこを真っ直ぐ行くと「大城按司の墓」(おおしろあじのはか)と書かれた標柱が建っていて、その後に「大城按司の本墓」が在ります。墓は西側を向いていて西南の方向に"大城城跡"が在ります。北西には"稲福遺跡"が在ります。この墓に葬られた人は墓の西南にある大城城の城主で三山時代(南山、中山、北山・・・666年前)勢力の大きな豪族の一人だったとの事です。墓の形は"切り石積み"で四角な石室の上に円形の屋根が乗っかった形をしています。ぼくは、いったい、この形の名称は何だろうかと思い先生に聴いてみました。「この墓の名称は"ボントー墓"と言って、琉球・沖縄の代表的な「破風墓(はーふーばか)」、「亀甲墓(かめこうばか)」、「かご墓」のどれにも属さない独特の墓だよ。」と教えてくださいました。でも、何故この様な形の墓を建てたのだろうか、と調べて見ました。「田名真章家」が伝えるところによれば「島添大里按司」(しまぞえおおざとあじ)に攻め滅ぼされた時、「大城按司」の自害した首を持った部下が遠くへ落ちのびる事が出来ないで"按司の首"の周りに石を積み上げて、今の様な形にした、との事です。(6年 B)

墓は明治25年に改築されました。首の形が墓になったり、亀の形が墓になったりするので不思議です。現在は昔の人達の造った墓の形を受け継いでいますが新しい墓の文化を築いていきたいものだと思います。 (父 B)

<学習の手引き>・・・「大城崩れ」で有名な歴史上の人物の墓です。「大城崩れ」とは、いったい何なのか調べてみましょう。