世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

知られざる歴史発掘 北谷街道旧跡 散策!

2006年07月11日 | Weblog

国道58号線の中央部に位置する北谷町は、去る沖縄戦の上陸地点。そのなだらかな地形は海から陸への恰好の好条件地だった。緩やかな東部、東シナ海沿いの平らな西部が海上から陸上への移動地として条件が揃い選定された。その昔、戦争前は稲作の生産地として有名だった。沖縄最大の稲作地帯「羽地たーぶっくゎ」と並び称される "北谷たーぶっくゎ" は沖縄の民の食を満たし貢献した。近年、基地の町の汚名を返上し「美浜ハンビータウン」として生まれ変わった。若者の人気ナンバーワンのスポットとして、その地位を不動のものにしている。・・・

○王朝時代・・・明治・大正時代・・・国道58号線の伊佐浜(いさはま=字名)から砂辺(すなべ=字名)までの6キロは王腑時代の公道「宿道」(しゅくみち)だった。中部方西海道{なかがみほうせいかいどう}西宿{いりじゅく}側になる。当時の 宿道 の東宿側は東方面になる。

○西宿全体の道路概容・・・首里城(始点)→浦添間切(ウラソエまぎり=今の村)→北谷→読谷山(今の読谷村)→恩納村(おんなそん)→名護(ナゴ市)→羽地(なねじ、今の名護市の一部)→大宜味(おおぎみ村)→国頭と今帰仁(今の今帰仁村)→本部(もとぶ=今のもとぶ町)。大正4年(1,915年)・・・浦添から今帰仁までの 西宿 を改修して頑丈な道路を完成。その後の命名は "国頭街道" (くにがみかいどう)と呼称する様になった。大正9年(1,920年)に県指定の「県道」となった。―那覇~名護―・・・

○アメリカ統治時代・・・昭和16年(1,941年)の大東亜戦争・第二次世界大戦・太平洋戦争・沖縄戦(それぞれの意味呼称があるが割愛)開始から敗戦・終戦の終了後、米軍による沖縄統治が開始。―那覇~名護―の道路を基盤に「軍道1号線」を建設。軍用専用の道路となった。その他、戦後間もなくアスファルト道路が敷かれ舗装された 軍号1号線 及び 13号線(現国道329号) 等は米軍各基地を結ぶ重要な道路となった。日本祖国復帰前のそれ等の管理は米軍地区工兵隊=DEの技術者があたっていた。他の重要な道路は琉球政府(日本祖国復帰前の呼称)が維持管理にあたっていた。市町村の管理道路は昭和27年(1,952年)琉球政府の援助を受けて運営にあたった。北谷の基幹道路の旧政府道24号線(現県道24号線―桃原謝苅線―)は昭和33年(1,960年)改修工事終了し北谷の発展に大きく貢献した。北谷の道路の整備は昭和47年(1,972年)の日本復帰後から本格的に始動した。

○現在の道路状況・・・復帰後の昭和47年 軍道1号線 は日本の道路となり「国道58号線」と生まれ変わった。新生道路の誕生である。沖縄の発展は大動脈「国道58号線」によって齎され地域産業に大きく貢献した。

●歴史の大きな流れや表街道の営為・遺蹟を伝承するのも大事な使命であり同時に名もなき小さな地域に眼を転じ、そこに営々と生き永らえた庶民の暮らしや生活の生き様を発掘し伝えていくのも後世に先人の歩み・遺跡を伝承するのも現代の私達に与えられた使命である。歴史を観る視点を変える事によって例の様な「道路」から切り込む歴史が新たに観えてくる。

付記:「宿道」(しゅくみち)・・・王腑時代、首里城と地方の番所(村役場)を結ぶ公道・・・(北谷町発行パンフ参照)