世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

子供の観た 自由民権運動の先駆者 謝花 昇

2006年07月02日 | Weblog

六年の社会科で自由民権運動について勉強した時は、あまり興味がありませんでした。ところが夏休みに先生と一緒に謝花 昇の銅像を観に行き説明を聴いているうちに 謝花 昇自由民権運動で苦労しながらも郷土沖縄の為に活躍している事を知りました。謝花は明治15年第一回県費留学生として沖縄では、はじめて農学士になり今の東京大学を優秀な成績で卒業しました。それから帰郷して農業の技師となりました。その当時、農民や一般の人達の利益も考えず自分の思うままの政治をしていた 奈良原県知事に 謝花は果敢に対抗しました。それは「杣山問題」です。 「杣山」とは、 「農民が木を植え自由に利用できる共有の山林の事」です。その当時、失業士族が大きな社会問題になっていましたので、奈良原知事杣山を、その人たちに開墾させようと計画しました。開墾を希望したのは本土の商人や尚泰王の三男 尚順 などの金持ちの人達だけでした。この開墾の責任者が 謝花 昇 だったのです。彼はこの計画が一部の金持ちの人達だけの利益になる事、又、開墾より水害の原因にもなると考え反対しましたので奈良原知事は彼を、この職から、はずしてしまい、思うままの開墾をしました。その為、杣山は官有林になり農民は自由に出入りが出来なくなり困ってしまいました。この様に杣山事件で負けた謝花は、県庁を辞め 当山久三新垣弓太郎 などの仲間と「沖縄時論」という雑誌を発行して奈良原知事の悪い政治を止めさせようと国会にも働きかけました。又、沖縄県民代表を国会に送り出そうと 参政権運動 にも力を入れました。しかし、奈良原知事の妨害にあって頭が狂い発狂して44歳の若さで、この世を去ってしまいました。ぼくは悔しくなり無念の思いで、いっぱいになりました。 (6年 G)

謝花 昇は沖縄の自由民権運動の父と言われています。その当時は一部の特権階級の人達だけが選挙権があったのです。民意が反映されない差別を受けていた沖縄の私達の祖先の事を思いやると胸が締め付けられる思いです。もう、そんな世の中は二度と来ない様に私達が頑張らなければならないと思います。 (母 G)

<学習の手引き>・・・謝花 昇の伝記や資料から沖縄の近代史を調べると戦前の沖縄の過酷な様子が、よく分ると思います。調べて見ましょう。