年賀状を出した相手からは自分宛てにも送られたか、届いたか、検索し
値定めをした。さもしい根性とは思ったが本音である。折角、此方は出してやっ
たのに届いてない。あ奴!と思ったのはリタイヤ前の事。もう今はどうでもい
い。年季が入ったからだろうか。・・・それとも諦めなのか、悟りの境地に入った
からなのか定かではない。それにしても相手を思い浮かべながら名前と記述内
容で値定めをしている。心に響く年賀の文は、やはり、心を打つ。自分の出し
た年賀状は読み応えがあったかどうか反省する事、しきりである。パソコンの
故障で、今年は、やむなく手書きにした。元々、筆不精である。それに拍車が
掛った。やっと、数十枚、認めたものの読み返してみたが訂正はしなかった。
相手はどう受留めたか気になったがそのままにした。しばらくして平常心に戻っ
た。全国一律の形式的既定文だけは極力避けた。拙い文でも自分の文章で認
め、出した。さて一年に二度の音信が親戚、知人、友人の絆になればそれでよ
い。暑中見舞い、と年賀状だ。この二度の便りが疎遠にしている現状の穴埋め
になればそれに越こしたことはない。来年まで、しばらくは話題が尽きないだろ
う。遠い親戚より近い他人、とはいうものの、やはり血縁は越し難いものだ。今
後も大事にしていきたい。・・・