少し寒さが感じられますね。
でもまだ大丈夫。
こんにちわI権禰宜です。
さて本日は忘れた頃の実美卿(というか明治維新)のお話。
・・・「いい加減に早く話を進めろ!」との声が各方面から聞こえてくるような・・・ドキドキ。
・・・でもマイペースでいきます(笑)もう少しですからお付き合いください。
征韓論に敗れて参議職を辞した西郷大将は、後進の若者を育てるべく郷里・鹿児島へと退きました。これを慕う薩摩出身の将兵も大量に帰郷し西郷のもとに集ったため、鹿児島は半ば西郷大将を中心とする独立国と化してしまうことになりました。
この頃より、維新によって存在意義を失った士族(武士)たちの反乱が相次ぎます。
明治維新は武士たちによって成し遂げられた日本史上における一大変革ではありましたが、皮肉にも維新によって必要無くなったのもまた武士たちでありました。
明治7年:佐賀の乱
明治9年:神風連の乱
明治9年:秋月の乱
明治9年:萩の乱・・・
各地で士族たちが明治政府に対して反乱をおこすものの、何れも近代装備と圧倒的な物資を誇る官軍によって鎮圧されていきます。
そんな敗北続きの士族達の最後にして最大の期待の星が
陸軍大将・西郷隆盛でした。
西郷自身はあくまでも事を起こすつもりは無かった様ですが、血気盛んな西郷党の幹部達や東京の政府高官達はそのように見てくれるはずもありません。
明治維新最大の元勲にして最大の実力者・西郷隆盛は既にその存在自体が脅威でありました。
やがてその緊張状態がついに爆発。明治10年2月、西郷隆盛は挙兵。ここに日本最後の内戦・西南戦争が勃発します。
↑出陣する西郷大将の図(当時の外国の新聞の挿絵)
「あの西郷大将が挙兵」との情報は瞬く間に全国に広まり、各地から政府に不満を持つ士族達が駆けつけます。このため西郷軍は3万の軍勢に膨れ上がりました。
これは、佐賀の乱が1万人、神風連の乱が150人、秋月の乱が300人、萩の乱が200人という事を見れば、西郷軍の規模がいかに大きく、また影響力があったかが分かると思います。
3万という大軍で気勢を上げる西郷軍は鹿児島から北上を続け、官軍の一大拠点・熊本に襲いかかります。
この時、熊本を守備していた人物が谷干城という将軍でした。
↑谷少将(当時)
谷将軍は土佐(高知県)出身。同郷の坂本龍馬に深く心酔し、かの新撰組首領・近藤勇が流山で捕縛された際、近藤を龍馬暗殺の主犯と見做し、斬首(打ち首)・梟首(さらし首)という過酷な刑をもって遇したほどの豪傑です。
そんな豪傑肌の猛将が司令官で、さらに籠るは名城・熊本城。流石の驍勇で鳴らした薩摩隼人といえども容易に城を陥落させることは出来ず、西郷軍は時間ばかりを消費することとなります。
この間中央からは続々と官軍の増援が送り込まれ、その数はおよそ10万となり、西郷軍は数の上で圧倒的に不利な状況となってしまいます。しかも官軍は当時最新の兵装を整え、旧式の兵装であった西郷軍を装備の面でも上回っていました。
数で圧倒、装備も段違い。西郷軍にとってまさに圧倒的に不利な情勢。それでも西郷軍が暫くの間互することが出来たのは、やはり主体が武士だったからでしょう。
官軍兵士の大半は明治初年の徴兵制度によって徴集された平民兵士が主でした。
いかに数が多くて最新武器で装備を固めても、ほんの10年前まで武器すら扱ったことのない平民兵士にとって裂帛の気合で襲い掛かってくる侍はやっぱり怖いのです。
これに頭を悩ませた政府が思いついたのが
「武士が怖いなら武士に戦わせればいいじゃない」
という発想でした。
こうして編成されたのが
われは官軍わが敵は 天地要れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従う兵は 共に剽悍決死の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起こせし者は昔より 栄しためしあらざるぞ
敵の亡ぶるぞれまでは 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死する覚悟で進むべし
・・・の軍歌(といっても厳密には警察の歌ですが)でおなじみの
警視庁抜刀隊です。
もちろん相手は屈指の強兵で知られる薩摩隼人。並みの武士では歯が立ちません。
そこで政府はまた思いつきました。
「薩摩人が強いなら薩摩人を使えば良いじゃない」
・・・・・・・・・・・・・・・。
↑奮戦する薩軍・桐野少将と官軍・野津中佐。共に薩摩人。奥に抜刀隊。
この薩摩藩出身者を主力とした抜刀隊は、同士討ちに近い形ながらも大きな戦果を修めていきます。
特に
「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ 田原坂」
・・・の民謡で知られる田原坂の戦いでは多大な損害を払いながらも、官軍の勝利に貢献しました。
田原坂の敗北以降、西郷軍はじりじりと後退を始め4月の後半には熊本城攻略を断念。戦線は南部九州へ移ることになっていきます。やがて西郷軍は八代、人吉、大口でも敗北を重ね、宮崎方面の戦線も瓦解するなど次第に追い詰められていきます。そしてついに9月には鹿児島へと退きました。
鹿児島に追い詰められた西郷軍の兵力はわずかに400名。これに対する官軍は10万近く。もはや勝敗の趨勢は明らかです。
そして9月後半。ついに官軍の総攻撃が開始。城山に篭っていた西郷は愈々死を決し、側近の別府少佐に首を打たせてその波乱万丈の生涯に幕を下ろしました。享年51歳(数え)。
西郷の死を見届けた桐野少将、村田新八、別府少佐ら幹部たちもそれぞれその日のうちに運命を共にし、西郷軍は壊滅。ここに日本最後の内戦・西南戦争は鎮圧されました。
西郷の死はまさに「巨星墜つ」であり、全国の士族たちに「西郷大将で駄目だったのなら武力で政府を打倒するのは不可能」との認識をさせるのに充分でした。事実その後の士族たちは武力での抵抗を断念し、自由民権運動へと身を投じていくことになります。
維新の大英雄・西郷隆盛。
戦後は一切の官職を褫奪され、賊魁として扱われていましたが、帝国憲法発布の際、西郷の人柄を殊のほか愛された明治天皇の特別の思し召しにより大赦がなされ、その名誉が回復されました。
↑旧無格社・南洲神社(鹿児島市)
現在では鹿児島をはじめ各地の南洲神社の祭神として祀られ、今でも「西郷どん」として慕われているのは周知の通りです。
さてこのように大きな損失を蒙りながらも維新最大の試練を乗り越えた明治政府は以後富国強兵を推し進め、日本の近代化を成し遂げることになります。
しかしそんな明治政府に早くも次の悲劇が襲い掛かるのでした・・・。つづく。
あれ?実美卿が一度も出てきませんでした・・・・・。
I権禰宜