八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

テレビ収録ありました!

2018年08月25日 14時50分29秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物
こんにちは、酉権禰宜です。
本日午後より、武田鉄矢さんが出演されているテレビ番組の収録がありました。


曲里(まがり)の松並木


武田さんが好きな人物「坂本龍馬」が、この黒崎の長崎街道を通って長崎に
向かった事や、その際立ち寄った「桜屋」のことなどを宮司が武田さんと
一緒に歩きながら説明しました。


江戸時代から残っている2本の松の内の1本


放送日が決まり次第又連絡したいと思います。
ご期待ください!
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黒田家と岡田宮

2014年03月07日 14時49分31秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日も微妙に寒い一日です。

こんにちは。禰宜です。

さて、昨日はひびしんホールにて「歴史探訪講座」が行われましたので、宮司とともに行って参りました。

お題は「黒崎宿について~春日神社と黒田二十四騎を中心に~」。

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いのちたび博物館の学芸員・守友隆先生が講師でした。

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講演では、黒田家と黒崎にまつわる最新の研究成果などをじっくりと御講話頂き、とても興味深く聴講させていただきました。

さてさて、神武東征ばかりが注目されがちな岡田神社ですが、古記録を調べてみると黒田家の崇敬も篤かったことが分かります。

当社の江戸時代後期の記録から、黒田家より奉納されたものをざっと御紹介すると・・・

明和5年(1768年)黒田継高、神額奉納(現存)

安永3年(1774年)黒田治之、石灯籠奉納

寛政3年(1791年)黒田斉隆、御幕奉納

文政2年(1819年)黒田斉清、狛犬奉納(現存)

嘉永4年(1851年)黒田斉溥、神額奉納

等々・・・他にも藩主の参拝や初穂料の奉納、さらには社殿の造営や修繕があったようです。

折りしも今年の大河ドラマは黒田如水が主役。

黒田家に縁の深い黒崎もこれを機会に町興しを・・・と行きたいところです。

禰宜

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今年初のK権禰宜

2013年01月11日 12時34分05秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

こんにちは。

あけましておめでとうございます、今年初のK権禰宜です。

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今年のどんど焼きは1月14日です・・・。

何度もブログでアップしていますが、ビニール等の袋はお持ち帰りください。

また、みかん・橙等は外してから持って来てください。

今日もたくさんの方がしめ飾り・御守等を納めに来られました。

なかにはこんな子供達もしめ飾りを納めに来ました。

保育園に飾っていたしめ飾りを皆で納めて、ありがとうございましたと大きな声で言っていました。

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とても微笑ましい光景ですね。

納め終わったら、皆でまた列を組んで戻って行きました。

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子供たちの見本となるよう、また、この子供達が大人になってもどんど焼き行事が続けられるように、我々大人がルールを守って、ビニール等は持ち帰る!みかん・橙等は外す!を徹底していかなければいけませんね。

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三条実美⑬

2011年08月26日 15時41分28秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日も夕方は雨が降っております。

最近多いですよね。こんにちは。I権禰宜です。

さて。

忘れた頃に三条実美卿・・・というより明治維新のお話。

半年ぶりの更新ですが・・・今回で最終回です。

前回(http://blog.goo.ne.jp/okadaguu/d/20110215

明治10年に勃発した西南の役は維新最大の功臣・西郷大将の自刃でその幕を閉じましたが、それからわずかの後、新政府の事実上の最高指導者であった大久保卿も凶刃に斃れ、明治政府は成立10年にして最大の実力者2人を相次いで失ってしまいます。

この西郷・大久保の死後に台頭してきたのが

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伊藤博文です。

伊藤は日本の近代国家への道に必要不可欠な憲法制定など数々の制作に指導的役割を振い、明治18年には内閣制度を整えついには初代の内閣総理大臣に就任するに至りました。

この伊藤の首相就任と共にひっそりと政治の表舞台から去った人物がいます。

それが誰あろう

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このお話の主役・三条実美卿でした。

内閣制度の発足と共に太政大臣の役職は廃止となったため、実美卿は新たに創設された「内大臣」というポストに就任します。

内大臣という役職は、後に強力な発言力を有するポストになるものの、新設されたてのこの時期はハッキリ言ってしまえば「実美の為の名誉職」でした。

維新回天以来、(名目上とはいえ)長く政府の最高官を務めてきた実美卿に対してのこの仕打ちに、左右の者は断固政府に抗議すべしと声を荒げましたが、実美卿は静かに「これは国家の為の事である。私の事では無い」と諭し、粛々と内大臣の職に就いたのでした。

こうして政界の第一線から退いた実美卿でしたが、実はまだ・・・もう一度だけ政治の表舞台に帰って来る事となります。

それが明治22年、時の首相・黒田清隆の辞任を受け首相の座が空席になった際、実美が内閣総理大臣を兼任する事となったのです。

あくまでも暫定的(日本の歴代内閣には含めない場合が多い)な、そして2ヶ月間という短期間での首相在職ではありましたが、このときの実美卿は間違いなく大日本帝国の内閣総理大臣であり、「三条首相」と呼ばれる存在でした。

この2ヶ月間を以て三条実美の政治の表舞台での活動は終了します。

明治24年、死の床に就いている最中、特別の思し召しによって正一位を与えられました。

生前に正一位を与えられたのは日本史上わずか6名(他に藤原宮子・橘諸兄・恵美押勝・藤原永手・源方子)この三条実美が生前授与の最後の人物となります。

正一位を与えられた同日、実美は55歳の生涯を閉じ、国葬の礼をもって送られました。

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やがて京都御所の傍に鎮座する別格官幣社・梨木神社に祀られ(祭神は三条実美とその父・実万)、現在でも京都御所傍で鎮まられています。

さてさて。

長々と・・・延び延びと語ってきた三条実美のお話もようやく終わりました。

「名前は知っているけど・・・いまいち何をした人かわからない・・・」

世間での三条実美の印象はそのようなものが(恐らく)多いかもしれませんね。

しかし人の一生は多分にドラマティックです。

興味がある方はあまり知られてない人物の生涯を調べてみるのも楽しいかもしれませんよ!

・・・よかった・・・

完結できた(笑)

I権禰宜

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三条実美⑫

2011年02月15日 13時30分30秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

ようやくお天気は回復したようです。

こんにちわ。相変わらずのI権禰宜です。

さて今日は珍しくも月に2回目の三条卿のお話(というか明治初年のお話)

維新後最大にして日本最後の内戦・西南戦争は、首魁・西郷隆盛以下幹部の死によって明治政府の勝利に終わりました。

この間、事実上の政府のトップにあったのが・・・

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内務卿・大久保利通です。

大久保卿は薩摩出身。西郷の幼馴染で莫逆の友という間柄でもありました。

彼が明治維新に果たした役割は大きく、現在、西郷・木戸孝允に並んで『維新の三傑』と讃えられています。

しかし「三傑」と讃えられるわりに、人気は西郷は勿論、木戸にも及ばず、寡黙・冷徹・酷薄・現実主義という面ばかりが強調されがちで、だいぶ損をしている人物です。当時も現在も。

西郷が親しみやすい面を持っているのと対照的に、大久保のそれは威厳。

その一面がよくわかるエピソードを御紹介すると・・・

大久保の同郷で後に西南戦争で西郷軍の副司令官的存在となる陸軍少将・桐野利秋は、大久保の威厳を非常に畏れたと言います。桐野少将といえば、幕末期は中村半次郎の名前で勇名を馳せた典型的な「薩摩っぽ」です。

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↑桐野少将

そんな桐野少将がある日、大久保の気迫に押されないため、飲酒をしてから意見をしようと試みましたが、大久保卿の一睨みで慌てて引き下がったと言われます。

人斬り半次郎」の異名を持つ(実際に暗殺は一件だけらしいですが)桐野少将を一瞥で退散させるとは・・・一体どれだけの威厳を持っていたのでしょうね。

またある時、大久保が内務省へ登庁した際、それまでざわついていた省内が大久保の足音を聞くやいなや一気に静まり返って緊張感に包まれたと言います。

これなども、突然とぼけた事を言って、それまでピリピリしていた役所内の雰囲気を和らげたといわれる西郷とは対照的な性格をしているのが良く分かりますよね。

そして大久保の様な人物は、尊敬されても、好かれる事はまずありません・・・

事実、維新後の大久保は特に不平士族から非常に嫌われていました

彼ら不平士族の目には、尊大な大久保が、維新に大功のあった士族を蔑にして、自らの独裁政権を作り上げている・・・というふうに見えたのでしょう。

その風潮は西南戦争終結後にいよいよ顕著になります。

「大久保はついに盟友・西郷すら葬り、独裁政治を完成させた!」

各地の不平士族達は大久保に対して益々憎しみを募らせていったのでした。

ただ、当の大久保はそのような風潮は意に介す事無く、愈々政治に取り組んでいきました。

明治11年5月14日

その日大久保卿は朝から福島県令・山吉盛典の訪問を受けており、その際に山吉県令に次の様な事を述べたと言います。

「維新回天より今日までの10年はまさに創業の10年間であった。そしてこれからの10年間は、内政を整え産業を興す建設の10年間である。吾輩はこの間を全力で政務に取り掛かりたい。そしてその後の10年は後進の賢人に道を譲り、守成の10年間を見届けようと思う」

その後自邸から宮城(皇居)へ向かう途中、紀尾井の清水谷において暴漢の襲撃を受け遭難。その命を落とします。享年49歳

暴漢達は石川県の士族・島田朝勇長連豪らで、本懐を遂げるとその足で自首。数ヵ月後処刑されました。

英国の新聞、『ロンドンタイムス』は大久保の遭難についてこう述べています。

「卿の死は日本全体の不幸である」

大久保の死後、その資産が公開されましたが、それは人々の想像よりもはるかに少なく、それどころかおよそ2億円以上の借金がある事が判明しました。

この借金はほとんど国の借金を自分で肩代わりしたもので、私財を蓄えるようなものではなかったと言います。冷徹ではありますが私欲に走らない大久保の素顔が垣間見えます。

かの大隈重信は大久保を評して「維新時代唯一の大政事家」としています。

このように政治家の鏡のような人物である大久保利通でしたが、最初に述べた如く人気は頗る低く、特に郷里・鹿児島では西南戦争の影響で著しかったといえます。

例えば・・・大久保の遺骨が鹿児島に戻れたのは100年以上経ってから。それまでは西郷を死に追いやった人物として忌避されていたといわれます。

また現在では鹿児島市内に西郷・大久保両雄の銅像が建っていますが、西郷像が昭和の初年に作られたのに対し、大久保像は50年程遅れて建てられました。

これは真実かどうかは定かでは無いですが、県外の人から

「西郷像があるのだから大久保像も作った方が良い」

と言われ、渋々作ったとかなんとか・・・。

嘘であってほしいですが・・・。

ちなみに大久保利通を祀る神社としては、なぜか福島県郡山市に「大久保神社」があります。参拝したことが無いので詳細が分からないのが残念です。

大久保の死によって「維新の三傑」は死に絶え、明治政府は転換期を迎えます。

相次いで世を去った西郷・大久保に代わって建設の10年間の主役となるのが、伊藤博文であり山県有朋黒田清隆などの三傑の後輩達でした。

この間に日本は内閣制度を整え、憲法を制定し近代国家として成立。大久保がどのような建設を考えていたかは分かりませんが、なにはともあれ建設の10年間を乗り越えました。

そして守成・発展の10年の始まりである明治20年代。

それまで目立つことの少なくなってきたこのお話の主人公・三条実美が、俄かに政治の矢面に立つことになりますが、それは次回の最終回に・・・。

I権禰宜

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