北九州には台風の影響もそれほどなく、ひとまずは安心。東北・北海道の方は引き続き台風にご注意ください。こんにちわI権禰宜です。
さて今回は1ヶ月ぶりの三条卿のお話です。
江戸幕府を倒し、名実ともに日本を代表する政権となった明治新政府でしたが、目の前にある問題は正に山積状態でした。そんな諸問題の中でも一際重要な問題だったのが、幕末期に幕府が締結してしまった(せざるえなかった)欧米諸国との不平等条約の改正と、日本の近代化(欧米化)でした。
そこで明治新政府はこの最重要課題の解決を目標とした使節団を諸外国に派遣する事にしました。所謂『岩倉使節団』です。この岩倉使節団は、大使の岩倉具視をはじめ、副使の大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳。その他書記官・随行員・留学生に福地源一郎(桜痴)・久米邦武・田中光顕・東久世通禧・山田顕義・中江兆民・金子堅太郎・團琢磨・津田梅子・山川捨松等そうそうたる面々で、まさに『日本政府の半分』が外遊を行うといっても過言ではありませんでした。
一方、使節団不在の間の政治を担ったメンバーを、文字通り『留守政府』と呼びます。主な構成員としては三条実美卿をはじめとして、西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助江藤新平等です。実美卿は政府の最高官たる太政大臣としてこの『留守政府』の筆頭という重責を担う事になりました。
岩倉使節団メンバーは使節団の留守中に「大規模な改革」を行わないという事を定め海外へ出発しましたが、仮にも一国の政府、それも成立して間もない明治政府が数年に渡って大規模改革を行わないという事がまずもって不可能な話で、留守政府は廃藩置県・学校制度(学制)・徴兵制度(徴兵令)・土地改革(地租改正)・暦制定(太陽暦)・宗教改革(キリスト教弾圧の停止)など次々と新改革を断行していきます。
この留守政府で主導的な役割を果たしたのが西郷隆盛です。名目的には実美卿が留守政府の首席でしたが、実力・人望共に西郷に勝る人材は留守政府内に存在せず、またこれらの改革も西郷の名望をもってして成し遂げられた部分も多分にありました。以上の様に事実上の政府首席は西郷であり、いわば留守政府は『西郷政権』の様相を呈していました。
このように留守政府は様々な改革を成し遂げ、初期の明治日本を主導していきますが、やがて朝鮮をめぐる問題で明治政府内は混乱に陥ることになるのでした。~つづく~
I権禰宜