今日も・・・寒い!
こんにちわ。I権禰宜です。
さてさて。本日はだいぶ御無沙汰気味・・・の三条実美卿のお話。
明治6年8月。悪化する日朝問題を打開するべく、留守政府内の閣議において西郷大将の朝鮮派遣が決定されました。但し、正式な決定は岩倉右大臣達の帰国を待ってからという事は前回述べたとおりです。
さて、その1ヶ月後に欧州より帰国した岩倉右大臣をはじめ、大久保利通、木戸孝允達は朝鮮使節派遣計画に驚愕し、これの反対および中止(延期)を主張します。
岩倉・大久保等の主張によると
①日朝関係が悪化している時期に西郷が朝鮮へ赴けば、その命を奪われる可能性が高いこと
②また西郷が殺された場合、日朝間で戦端が開かれてしまうこと
③日朝開戦となれば、朝鮮の宗主国である清王朝、さらには南下の野心を持つロシア帝国などの世界大国の介入を受ける可能性があること
④朝鮮開国問題よりも、日本と欧米との間における不平等条約の改正など先にやるべき問題があること
⑤そもそも重要問題は岩倉使節団の留守の間は決めないと言う決まりだったはずということ
・・・等々です。
これら岩倉・大久保等の主張と、西郷の主張は真っ向から対立。太政大臣たる実美卿は、閣議においてこの二つの意見に挟まれてしまう事となりました。
閣議は紛糾し、ついには西郷大将が、「一度決定している事を覆すとなると、私はもうこの職にとどまる必要は無い」と自らの辞職を仄めかすと、これに仰天した実美卿は朝鮮派遣を決定し、ここに正式に朝鮮派遣は閣議決定されたのでした。
しかし度重なる心労によって実美卿は病に倒れてしまいます。このため岩倉右大臣が太政大臣を代行。岩倉はその立場を利用し朝鮮派遣を延期させ、大逆転で朝鮮派遣は取り止めとなったのでした。
これに憤慨し、また落胆した西郷大将はついに参議職を辞し、鹿児島へ帰郷。これを慕う鹿児島県出身者の政府役人達も大量に鹿児島へ帰郷してしまったのでした。
こうして悪化する朝鮮問題は明治政府と不平士族との対立となり、やがて日本最後の内戦、西南の役へと繋がっていくのでした。~つづく~
I権禰宜