八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

三条実美⑬

2011年08月26日 15時41分28秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日も夕方は雨が降っております。

最近多いですよね。こんにちは。I権禰宜です。

さて。

忘れた頃に三条実美卿・・・というより明治維新のお話。

半年ぶりの更新ですが・・・今回で最終回です。

前回(http://blog.goo.ne.jp/okadaguu/d/20110215

明治10年に勃発した西南の役は維新最大の功臣・西郷大将の自刃でその幕を閉じましたが、それからわずかの後、新政府の事実上の最高指導者であった大久保卿も凶刃に斃れ、明治政府は成立10年にして最大の実力者2人を相次いで失ってしまいます。

この西郷・大久保の死後に台頭してきたのが

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伊藤博文です。

伊藤は日本の近代国家への道に必要不可欠な憲法制定など数々の制作に指導的役割を振い、明治18年には内閣制度を整えついには初代の内閣総理大臣に就任するに至りました。

この伊藤の首相就任と共にひっそりと政治の表舞台から去った人物がいます。

それが誰あろう

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このお話の主役・三条実美卿でした。

内閣制度の発足と共に太政大臣の役職は廃止となったため、実美卿は新たに創設された「内大臣」というポストに就任します。

内大臣という役職は、後に強力な発言力を有するポストになるものの、新設されたてのこの時期はハッキリ言ってしまえば「実美の為の名誉職」でした。

維新回天以来、(名目上とはいえ)長く政府の最高官を務めてきた実美卿に対してのこの仕打ちに、左右の者は断固政府に抗議すべしと声を荒げましたが、実美卿は静かに「これは国家の為の事である。私の事では無い」と諭し、粛々と内大臣の職に就いたのでした。

こうして政界の第一線から退いた実美卿でしたが、実はまだ・・・もう一度だけ政治の表舞台に帰って来る事となります。

それが明治22年、時の首相・黒田清隆の辞任を受け首相の座が空席になった際、実美が内閣総理大臣を兼任する事となったのです。

あくまでも暫定的(日本の歴代内閣には含めない場合が多い)な、そして2ヶ月間という短期間での首相在職ではありましたが、このときの実美卿は間違いなく大日本帝国の内閣総理大臣であり、「三条首相」と呼ばれる存在でした。

この2ヶ月間を以て三条実美の政治の表舞台での活動は終了します。

明治24年、死の床に就いている最中、特別の思し召しによって正一位を与えられました。

生前に正一位を与えられたのは日本史上わずか6名(他に藤原宮子・橘諸兄・恵美押勝・藤原永手・源方子)この三条実美が生前授与の最後の人物となります。

正一位を与えられた同日、実美は55歳の生涯を閉じ、国葬の礼をもって送られました。

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やがて京都御所の傍に鎮座する別格官幣社・梨木神社に祀られ(祭神は三条実美とその父・実万)、現在でも京都御所傍で鎮まられています。

さてさて。

長々と・・・延び延びと語ってきた三条実美のお話もようやく終わりました。

「名前は知っているけど・・・いまいち何をした人かわからない・・・」

世間での三条実美の印象はそのようなものが(恐らく)多いかもしれませんね。

しかし人の一生は多分にドラマティックです。

興味がある方はあまり知られてない人物の生涯を調べてみるのも楽しいかもしれませんよ!

・・・よかった・・・

完結できた(笑)

I権禰宜


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